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行人・夏目漱石

12

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十一

停車場ステーションを出るとすぐそこに電車が待っていた。兄と自分は手提鞄てさげかばんを持ったまま婦人を扶たすけて急いでそれに乗り込んだ。電車は自分達四人が一度に這入はいっただけで、なかなか動き出さなかった。「閑静な電車ですね」と自分が侮あなどるように云った。「これなら妾達わたしたちの荷物を乗っけてもよさそうだね」と母は停車場の方を顧かえりみた。ところへ書物を持った書生体しょせいていの男だの、扇を使う商人風の男だのが二三人前後して車台に上のぼってばらばらに腰をかけ始めたので、運転手はついに把手ハンドルを動かし出した。自分達は何だか市の外廓がいかくらしい淋さむしい土塀どべいつづきの狭い町を曲って、二三度停留所を通り越した後のち、高い石垣の下にある濠ほりを見た。濠の中には蓮はすが一面に青い葉を浮べていた。その青い葉の中に、点々と咲く紅くれないの花が、落ちつかない自分達の眼をちらちらさせた。「へえーこれが昔のお城かね」と母は感心していた。母の叔母というのが、昔し紀州家の奥に勤めていたとか云うので、母は一層感慨の念が深かったのだろう。自分も子供の時、折々耳にした紀州様、紀州様という封建時代の言葉をふと思い出した。和歌山市を通り越して少し田舎道いなかみちを走ると、電車はじき和歌の浦へ着いた。抜目ぬけめのない岡田はかねてから注意して土地で一流の宿屋へ室へやの注文をしたのだが、あいにく避暑の客が込み合って、眺ながめの好い座敷が塞ふさがっているとかで、自分達は直ただちに俥くるまを命じて浜手の角を曲った。そうして海を真前まんまえに控えた高い三階の上層の一室に入った。そこは南と西の開あいた広い座敷だったが、普請ふしんは気の利きいた東京の下宿屋ぐらいなもので、品位からいうと大阪の旅館とはてんで比べ物にならなかった。時々大一座おおいちざでもあった時に使う二階はぶっ通しの大広間で、伽藍堂がらんどうのような真中まんなかに立って、波を打った安畳を眺ながめると、何となく殺風景な感が起った。兄はその大広間に仮の仕切として立ててあった六枚折の屏風びょうぶを黙って見ていた。彼はこういうものに対して、父の薫陶くんとうから来た一種の鑑賞力をもっていた。その屏風には妙にべろべろした葉の竹が巧たくみに描えがかれていた。兄は突然後うしろを向いて「おい二郎」と云った。その時兄と自分は下の風呂に行くつもりで二人ながら手拭てぬぐいをさげていた。そうして自分は彼の二間ばかり後うしろに立って、屏風の竹を眺める彼をまた眺めていた。自分は兄がこの屏風の画えについて、何かまた批評を加えるに違いないと思った。「何です」と答えた。「先刻さっき汽車の中で話しが出た、あの三沢の事だね。お前はどう思う」兄の質問は実際自分に取って意外であった。彼はなぜその話しを今まで自分に聞かせなかったと汽車の中で問われた時、すでに苦にがい顔をして必要がないからだと答えたばかりであった。「例の接吻キッスの話ですか」と自分は聞き返した。「いえ接吻じゃない。その女が三沢の出る後あとを慕って、早く帰って来てちょうだいと必ず云ったという方の話さ」「僕には両方共面白いが、接吻の方が何だかより多く純粋でかつ美しい気がしますね」この時自分達は二階の梯子段はしごだんを半分ほど降りていた。兄はその中途でぴたりと留とまった。「そりゃ詩的に云うのだろう。詩を見る眼で云ったら、両方共等しく面白いだろう。けれどもおれの云うのはそうじゃない。もっと実際問題にしての話だ」

十二

自分には兄の意味がよく解らなかった。黙って梯子段の下まで降りた。兄も仕方なしに自分の後あとに跟ついて来た。風呂場の入口で立ち留った自分は、ふり返って兄に聞いた。「実際問題と云うと、どういう事になるんですか。ちょっと僕には解らないんですが」兄は焦急じれったそうに説明した。「つまりその女がさ、三沢の想像する通り本当にあの男を思っていたか、または先の夫に対して云いたかった事を、我慢して云わずにいたので、精神病の結果ふらふらと口にし始めたのか、どっちだと思うと云うんだ」自分もこの問題は始めその話を聞いた時、少し考えて見た。けれどもどっちがどうだかとうてい分るべきはずの者でないと諦あきらめて、それなり放ってしまった。それで自分は兄の質問に対してこれというほどの意見も持っていなかった。「僕には解らんです」「そうか」兄はこう云いながら、やっぱり風呂に這入はいろうともせず、そのまま立っていた。自分も仕方なしに裸になるのを控えていた。風呂は思ったより小さくかつ多少古びていた。自分はまず薄暗い風呂を覗のぞき込んで、また兄に向った。「兄さんには何か意見が有るんですか」「おれはどうしてもその女が三沢に気があったのだとしか思われんがね」「なぜですか」「なぜでもおれはそう解釈するんだ」二人はその話の結末をつけずに湯に入った。湯から上って婦人連れんと入代った時、室へやには西日がいっぱい射さして、海の上は溶けた鉄のように熱く輝いた。二人は日を避けて次の室に這入った。そうしてそこで相対して坐った時、先刻さっきの問題がまた兄の口から話頭に上のぼった。「おれはどうしてもこう思うんだがね……」「ええ」と自分はただおとなしく聞いていた。「人間は普通の場合には世間の手前とか義理とかで、いくら云いたくっても云えない事がたくさんあるだろう」「それはたくさんあります」「けれどもそれが精神病になると――云うとすべての精神病を含めて云うようで、医者から笑われるかも知れないが、――しかし精神病になったら、大変気が楽らくになるだろうじゃないか」「そう云う種類の患者もあるでしょう」「ところでさ、もしその女がはたしてそういう種類の精神病患者だとすると、すべて世間並せけんなみの責任はその女の頭の中から消えて無くなってしまうに違なかろう。消えて無くなれば、胸に浮かんだ事なら何でも構わず露骨に云えるだろう。そうすると、その女の三沢に云った言葉は、普通我々が口にする好い加減な挨拶あいさつよりも遥はるかに誠の籠こもった純粋のものじゃなかろうか」自分は兄の解釈にひどく感服してしまった。「それは面白い」と思わず手を拍うった。すると兄は案外不機嫌ふきげんな顔をした。「面白いとか面白くないとか云う浮いた話じゃない。二郎、実際今の解釈が正確だと思うか」と問いつめるように聞いた。「そうですね」自分は何となく躊躇ちゅうちょしなければならなかった。「噫々ああああ女も気狂きちがいにして見なくっちゃ、本体はとうてい解らないのかな」兄はこう云って苦しい溜息ためいきを洩もらした。

十三

宿の下にはかなり大きな掘割ほりわりがあった。それがどうして海へつづいているかちょっと解らなかったが、夕方には漁船が一二艘そうどこからか漕こぎ寄せて来て、緩ゆるやかに楼の前を通り過ぎた。自分達はその掘割に沿うて一二丁右の方へ歩いた後あと、また左へ切れて田圃路たんぼみちを横切り始めた。向うを見ると、田の果はてがだらだら坂の上のぼりになって、それを上り尽した土手の縁ふちには、松が左右に長く続いていた。自分達の耳には大きな波の石に砕ける音がどどんどどんと聞えた。三階から見るとその砕けた波が忽然こつぜん白い煙となって空くうに打上げられる様が、明かに見えた。自分達はついにその土手の上へ出た。波は土手のもう一つ先にある厚く築き上げられた石垣に当って、みごとに粉微塵こみじんとなった末、煮え返るような色を起して空くうを吹くのが常であったが、たまには崩くずれたなり石垣の上を流れ越えて、ざっと内側へ落ち込んだりする大きいのもあった。自分達はしばらくその壮観に見惚みとれていたが、やがて強い浪なみの響を耳にしながら歩き出した。その時母と自分は、これが片男波かたおなみだろうと好い加減な想像を話の種に二人並んで歩いた。兄夫婦は自分達より少し先へ行った。二人とも浴衣ゆかたがけで、兄は細い洋杖ステッキを突いていた。嫂あによめはまた幅の狭い御殿模様か何かの麻あさの帯を締めていた。彼らは自分達よりほとんど二十間ばかり先へ出ていた。そうして二人とも並んで足を運ばして行った。けれども彼らの間にはかれこれ一間の距離があった。母はそれを気にするような、また気にしないような眼遣めづかいで、時々見た。その見方がまた余りに神経的なので、母の心はこの二人について何事かを考えながら歩いているとしか思えなかった。けれども自分は話しの面倒になるのを恐れたから、素知そしらぬ顔をしてわざと緩々ゆるゆる歩いた。そうしてなるべく呑のん気きそうに見せるつもりで母を笑わせるような剽軽ひょうきんな事ばかり饒舌しゃべった。母はいつもの通り「二郎、御前見たいに暮して行けたら、世間に苦はあるまいね」と云ったりした。しまいに彼女はとうとう堪こらえ切れなくなったと見えて、「二郎あれを御覧」と云い出した。「何ですか」と自分は聞き返した。「あれだから本当に困るよ」と母が云った。その時母の眼は先へ行く二人の後姿をじっと見つめていた。自分は少くとも彼女の困ると云った意味を表向おもてむき承認しない訳に行かなかった。「また何か兄さんの気に障さわる事でもできたんですか」「そりゃあの人の事だから何とも云えないがね。けれども夫婦となった以上は、お前、いくら旦那だんなが素そっ気けなくしていたって、こっちは女だもの。直なおの方から少しは機嫌きげんの直るように仕向けてくれなくっちゃ困るじゃないか。あれを御覧な、あれじゃまるであかの他人が同おんなじ方角へ歩いて行くのと違やしないやね。なんぼ一郎だって直に傍へ寄ってくれるなと頼みやしまいし」母は無言のまま離れて歩いている夫婦のうちで、ただ嫂あによめの方にばかり罪を着せたがった。これには多少自分にも同感なところもあった。そうしてこの同感は平生から兄夫婦の関係を傍はたで見ているものの胸にはきっと起る自然のものであった。「兄さんはまた何か考え込んでいるんですよ。それで姉さんも遠慮してわざと口を利きかずにいるんでしょう」自分は母のためにわざとこんな気休きやすめを云ってごまかそうとした。

十四

「たとい何か考えているにしてもだね。直なおの方がああ無頓着むとんじゃくじゃ片っ方でも口の利きようがないよ。まるでわざわざ離れて歩いているようだもの」兄に同情の多い母から見ると、嫂の後姿うしろすがたは、いかにも冷淡らしく思われたのだろう。が自分はそれに対して何とも答えなかった。ただ歩きながら嫂の性格をもっと一般的に考えるようになった。自分は母の批評が満更まんざら当っていないとも思わなかった。けれども我肉身の子を可愛かわいがり過ぎるせいで、少し彼女の欠点を苛酷かこくに見ていはしまいかと疑った。自分の見た彼女はけっして温あたたかい女ではなかった。けれども相手から熱を与えると、温め得る女であった。持って生れた天然の愛嬌あいきょうのない代りには、こっちの手加減でずいぶん愛嬌を搾しぼり出す事のできる女であった。自分は腹の立つほどの冷淡さを嫁入後よめいりごの彼女に見出した事が時々あった。けれども矯ためがたい不親切や残酷心はまさかにあるまいと信じていた。不幸にして兄は今自分が嫂について云ったような気質を多量に具えていた。したがって同じ型に出来上ったこの夫婦は、己おのれの要するものを、要する事のできないお互に対して、初手しょてから求め合っていて、いまだにしっくり反そりが合わずにいるのではあるまいか。時々兄の機嫌きげんの好い時だけ、嫂も愉快そうに見えるのは、兄の方が熱しやすい性たちだけに、女に働きかける温か味の功力くりきと見るのが当然だろう。そうでない時は、母が嫂を冷淡過ぎると評するように、嫂もまた兄を冷淡過ぎると腹のうちで評しているかも知れない。自分は母と並んで歩きながら先へ行く二人をこんなに考えた。けれども母に対してはそんなむずかしい理窟りくつを云う気にはなれなかった。すると「どうも不思議だよ」と母が云い出した。「いったい直は愛嬌のある質たちじゃないが、御父さんや妾わたしにはいつだって同おんなじ調子だがね。二郎、御前にだってそうだろう」これは全く母の云う通りであった。自分は元来性急せっかちな性分で、よく大きな声を出したり、怒鳴どなりつけたりするが、不思議にまだ嫂あによめと喧嘩けんかをした例ためしはなかったのみならず、場合によると、兄よりもかえって心おきなく話をした。「僕にもそうですがね。なるほどそう云われれば少々変には違ない」「だからさ妾わたしには直が一郎に対してだけ、わざわざ、あんな風をつらあてがましくやっているように思われて仕方がないんだよ」「まさか」自白すると自分はこの問題を母ほど細こまかく考えていなかった。したがってそんな疑いを挟さしはさむ余地がなかった。あってもその原因が第一不審であった。「だって宅中うちじゅうで兄さんが一番大事な人じゃありませんか、姉さんにとって」「だからさ。御母さんには訳が解らないと云うのさ」自分にはせっかくこんな景色の好い所へ来ながら、際限もなく母を相手に、嫂を陰で評しているのが馬鹿らしく感ぜられてきた。「そのうち機会おりがあったら、姉さんにまたよく腹の中を僕から聞いて見ましょう。何心配するほどの事はありませんよ」と云い切って、向むこうの石垣まで突き出している掛茶屋から防波堤ぼうはていの上に馳かけ上った。そうして、精一杯の声を揚あげて、「おーいおーい」と呼んだ。兄夫婦は驚いてふり向いた。その時石の堤に当って砕けた波が、吹き上げる泡あわと脚あしを洗う流れとで、自分を濡鼠ぬれねずみのごとくにした。自分は母に叱られながら、ぽたぽた雫しずくを垂らして、三人と共に宿に帰った。どどんどどんという波の音が、帰り道中じゅう自分の鼓膜こまくに響いた。

十五

その晩自分は母といっしょに真白な蚊帳かやの中に寝た。普通の麻よりは遥はるかに薄くできているので、風が来て綺麗きれいなレースを弄もてあそぶ様さまが涼しそうに見えた。「好い蚊帳ですね。宅うちでも一つこんなのを買おうじゃありませんか」と母に勧めた。「こりゃ見てくれだけは綺麗だが、それほど高いものじゃないよ。かえって宅にあるあの白麻の方が上等なんだよ。ただこっちのほうが軽くって、継つぎ目めがないだけに華奢きゃしゃに見えるのさ」母は昔ものだけあって宅うちにある岩国いわくにかどこかでできる麻の蚊帳の方を賞ほめていた。「だいち寝冷ねびえをしないだけでもあっちの方が得じゃないか」と云った。下女が来て障子しょうじを締め切ってから、蚊帳は少しも動かなくなった。「急に暑苦しくなりましたね」と自分は嘆息するように云った。「そうさね」と答えた母の言葉は、まるで暑さが苦にならないほど落ちついていた。それでも団扇遣うちわづかいの音だけは微かすかに聞こえた。母はそれからふっつり口を利きかなくなった。自分も眼を眠ねむった。襖ふすま一つ隔てた隣座敷には兄夫婦が寝ていた。これは先刻さっきから静しずかであった。自分の話相手がなくなってこっちの室へやが急にひっそりして見ると、兄の室はなお森閑と自分の耳を澄ました。自分は眼を閉じたままじっとしていた。しかしいつまで経たっても寝つかれなかった。しまいには静さに祟たたられたようなこの暑い苦しみを痛切に感じ出した。それで母の眠ねむりを妨さまたげないようにそっと蒲団ふとんの上に起き直った。それから蚊帳かやの裾すそを捲まくって縁側えんがわへ出る気で、なるべく音のしないように障子しょうじをすうと開あけにかかった。すると今まで寝入っていたとばかり思った母が突然「二郎どこへ行くんだい」と聞いた。「あんまり寝苦しいから、縁側へ出て少し涼もうと思います」「そうかい」母の声は明晰めいせきで落ちついていた。自分はその調子で、彼女がまんじりともせずに今まで起きていた事を知った。「御母さんも、まだ御休みにならないんですか」「ええ寝床の変ったせいか何だか勝手が違ってね」自分は貸浴衣かしゆかたの腰に三尺帯を一重ひとえ廻しただけで、懐ふところへ敷島しきしまの袋と燐寸マッチを入れて縁側へ出た。縁側には白いカヴァーのかかった椅子が二脚ほど出ていた。自分はその一脚を引き寄せて腰をかけた。「あまりがたがた云わして、兄さんの邪魔になるといけないよ」母からこう注意された自分は、煙草たばこを吹かしながら黙って、夢のような眼前めのまえの景色を眺めていた。景色は夜と共に無論ぼんやりしていた。月のない晩なので、ことさら暗いものが蔓はびこり過ぎた。そのうちに昼間見た土手の松並木だけが一際ひときわ黒ずんで左右に長い帯を引き渡していた。その下に浪なみの砕けた白い泡が夜の中に絶間なく動揺するのが、比較的刺戟強しげきづよく見えた。「もう好い加減に御這入おはいりよ。風邪かぜでも引くといけないから」母は障子しょうじの内からこう云って注意した。自分は椅子に倚よりながら、母に夜の景色を見せようと思ってちょっと勧めたが、彼女は応じなかった。自分は素直にまた蚊帳の中に這入って、枕の上に頭を着けた。自分が蚊帳を出たり這入ったりした間、兄夫婦の室は森しんとして元のごとく静かであった。自分が再び床に着いた後あとも依然として同じ沈黙に鎖とざされていた。ただ防波堤に当って砕ける波の音のみが、どどんどどんといつまでも響いた。

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