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行人・夏目漱石

13

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十六

朝起きてぜんに向った時見ると、四人よつたりはことごとく寝足らない顔をしていた。そうして四人ともその寝足らない雲を膳の上に打ちひろげてわざと会話を陰気にしているらしかった。自分も変に窮屈だった。昨夕ゆうべ食ったたい焙烙蒸ほうろくむしにあてられたらしい」と云って、自分は不味まずそうな顔をして席を立った。手摺てすりの所へ来て、隣に見える東洋第一エレヴェーターと云う看板を眺めていた。この昇降器は普通のように、家の下層から上層に通じているのとは違って、地面から岩山のいただきまで物数奇ものずきな人間を引き上げる仕掛であった。所にも似ず無風流ぶふうりゅうな装置には違ないが、浅草にもまだない新しさが、昨日きのうから自分の注意をいていた。はたして早起の客が二人三人ぽつぽつもう乗り始めた。早く食事を終えた兄はいつの間にか、自分のうしろへ来て、小楊枝こようじを使いながら、のぼったりりたりする鉄の箱を自分と同じように眺めていた。「二郎、今朝けさちょっとあの昇降器へ乗って見ようじゃないか」と兄が突然云った。自分は兄にしてはちと子供らしい事を云うと思って、ひょっとうしろかえりみた。「何だか面白そうじゃないか」と兄はがらにもない稚気ちきを言葉に現した。自分は昇降器へ乗るのは好いが、ある目的地へ行けるかどうかそれがあやしかった。「どこへ行けるんでしょう」「どこだって構わない。さあ行こう」自分は母とあによめも無論いっしょに連れて行くつもりで、「さあさあ」と大きな声で呼び掛けた。すると兄は急に自分を留めた。「二人で行こう。二人ぎりで」と云った。そこへ母と嫂が「どこへ行くの」と云って顔を出した。「何ちょっとあのエレヴェーターへ乗って見るんです。二郎といっしょに。女には剣呑けんのんだから、御母さんやなおは止した方が好いでしょう。僕らがまあ乗って、ためして見ますから」母は虚空こくうに昇って行く鉄の箱を見ながら気味の悪そうな顔をした。「直お前どうするい」母がこう聞いた時、嫂は例の通りさむしいえくぼを寄せて、わたくしはどうでも構いません」と答えた。それがおとなしいとも取れるし、また聴きようでは、冷淡とも無愛想とも取れた。それを自分は兄に対して気の毒と思い嫂に対しては損だと考えた。二人は浴衣ゆかたがけで宿を出ると、すぐ昇降器へ乗った。箱は一間四方くらいのもので、中に五六人這入はいると戸を閉めて、すぐ引き上げられた。兄と自分は顔さえ出す事のできない鉄の棒の間から外を見た。そうして非常に欝陶うっとうしい感じを起した。「牢屋見たいだな」と兄が低い声で私語ささやいた。「そうですね」と自分が答えた。「人間もこの通りだ」兄は時々こんな哲学者めいた事をいう癖があった。自分はただ「そうですな」と答えただけであった。けれども兄の言葉は単にその輪廓りんかくぐらいしか自分には呑み込めなかった。牢屋に似た箱ののぼりつめた頂点は、小さい石山の天辺てっぺんであった。そのところどころに背の低い松がかじりつくように青味を添えて、単調を破るのが、夏の眼にうれしく映った。そうしてわずかな平地ひらちに掛茶屋があって、猿が一匹飼ってあった。兄と自分は猿に芋をやったり、調戯からかったりして、物の十分もその茶屋で費やした。「どこか二人だけで話す所はないかな」兄はこう云って四方あたりを見渡した。その眼は本当に二人だけで話のできる静かな場所を見つけているらしかった。

十七

そこは高い地勢のお蔭で四方ともよく見晴らされた。ことに有名な紀三井寺きみいでら蓊欝こんもりした木立こだちの中に遠く望む事ができた。そのふもとに入江らしく穏かに光る水がまた海浜かいひんとは思われない沢辺さわべの景色を、複雑な色に描き出していた。自分はそばにいる人から浄瑠璃じょうるりにあるさがまつというのを教えて貰った。その松はなるほど懸崖けんがいを伝うようにさかに枝をしていた。兄は茶店の女に、ここいらでしずかな話をするに都合の好い場所はないかと尋ねていたが、茶店の女は兄の問が解らないのか、何を云っても少しも要領を得なかった。そうして地方訛ちほうなまりのの﹅し﹅とかいう語尾をしきりに繰返した。しまいに兄は「じゃその権現様ごんげんさまへでも行くかな」と云い出した。「権現様も名所の一つだから好いでしょう」二人はすぐ山を下りた。くるまにも乗らず、かさも差さず、麦藁帽子むぎわらぼうしだけかぶって暑い砂道を歩いた。こうして兄といっしょに昇降器へ乗ったり、権現へ行ったりするのが、その日は自分に取って、何だか不安に感ぜられた。平生でも兄と差向いになると多少気不精きぶっせいには違なかったけれども、その日ほど落ちつかない事もまた珍らしかった。自分は兄から「おい二郎二人で行こう、二人ぎりで」と云われた時からすでに変な心持がした。二人は額から油汗をじりじりかした。その上に自分は実際昨夕ゆうべ食ったたい焙烙蒸ほうろくむしに少しあてられていた。そこへだんだん高くなる太陽が容赦なく具合の悪い頭を照らしたので、自分は仕方なしに黙って歩いていた。兄も無言のまま体を運ばした。宿で借りた粗末な下駄げたがさくさく砂に喰い込む音が耳についた。「二郎どうかしたか」兄の声は全くやぶから棒が急に出たように自分を驚かした。「少し心持が変です」二人はまた無言で歩き出した。ようやく権現の下へ来た時、細い急な石段を仰ぎ見た自分は、その高いのに辟易へきえきするだけで、容易に登る勇気は出し得なかった。兄はその下に並べてある藁草履わらぞうりを突掛けて十段ばかり一人でのぼって行ったが、あとから続かない自分に気がついて、「おい来ないか」けわしく呼んだ。自分も仕方なしに婆さんから草履を一足借りて、骨を折って石段を上り始めた。それでも中途ぐらいから一歩ごとにひざの上に両手を置いて、身体からだの重みを託さなければならなかった。兄を下から見上げるとさも焦熱じれったそうに頂上の山門の角に立っていた。「まるで酔っ払いのようじゃないか、段々を筋違すじかいに練って歩くざまは」自分は何と評されても構わない気で、早速帽子をの上に投げると同時に、肌を抜いだ。扇を持たないので、手にした手帛ハンケチでしきりに胸の辺りを払った。自分はうしろから「おい二郎」ときっと何か云われるだろうと思って、内心穏かでなかったせいか、汗にれた手帛をむやみに振り動かした。そうして「暑い暑い」と続けさまに云った。兄はやがて自分のそばへ来てそこにあった石に腰をおろした。その石の後は篠竹しのだけが一面に生えてはるかの下まで石垣のふちを隠すように茂っていた。その中から大きな椿つばきが所々に白茶けた幹を現すのがことに目立って見えた。「なるほどここはしずかだ。ここならゆっくり話ができそうだ」と兄は四方あたりを見廻した。

十八

「二郎少し御前に話があるがね」と兄が云った。「何です」兄はしばらく逡巡しゅんじゅんして口を開かなかった。自分はまたそれを聞くのがいやさに、催促もしなかった。「ここは涼しいですね」と云った。「ああ涼しい」と兄も答えた。実際そこは日影に遠いせいか涼しい風の通う高みであった。自分は三四分手帛を動かしたのち急に肌を入れた。山門の裏には物寂ものさびた小さい拝殿があった。よほど古い建物と見えて、軒に彫つけた獅子の頭などは絵の具が半分げかかっていた。自分は立って山門をくぐって拝殿の方へ行った。「兄さんこっちの方がまだ涼しい。こっちへいらっしゃい」兄は答えもしなかった。自分はそれをしおに拝殿の前面を左右に逍遥しょうようした。そうして暑い日をさえぎる高い常磐木ときわぎを見ていた。ところへ兄が不平な顔をして自分に近づいて来た。「おい少し話しがあるんだと云ったじゃないか」自分は仕方なしに拝殿の段々に腰をかけた。兄も自分に並んで腰をかけた。「何ですか」「実はなおの事だがね」と兄ははなはだ云いにくいところをやっと云い切ったという風に見えた。自分は「直」という言葉を聞くや否やひやりとした。兄夫婦の間柄は母が自分に訴えた通り、自分にもたいていはみ込めていた。そうして母に約束したごとく、自分はいつか折を見て、あによめに腹の中をとっくり聴糺ききただした上、こっちからその知識をもって、積極的に兄にむかおうと思っていた。それを自分がやらないうちに、もし兄からせんを越されでもすると困るので、自分はひそかにそこを心配していた。実を云うと、今朝けさ兄から「二郎、二人で行こう、二人ぎりで」と云われた時、自分はあるいはこの問題が出るのではあるまいかと掛念けねんしておのずいやになったのである。ねえさんがどうかしたんですか」と自分はやむを得ず兄に聞き返した。「直は御前にれてるんじゃないか」兄の言葉は突然であった。かつ普通兄のもっている品格にあたいしなかった。「どうして」「どうしてと聞かれると困る。それから失礼だと怒られてはなお困る。何もふみを拾ったとか、接吻せっぷんしたところを見たとか云う実証から来た話ではないんだから。本当いうと表向おもてむきこんな愚劣な問を、いやしくも夫たるおれが、他人に向ってかけられた訳のものではない。ないが相手が御前だからおれもおれの体面を構わずに、聞き悪いところを我慢して聞くんだ。だから云ってくれ」「だって嫂さんですぜ相手は。夫のある婦人、ことに現在の嫂ですぜ」自分はこう答えた。そうしてこう答えるよりほかに何と云う言葉も出なかった。「それは表面の形式から云えば誰もそう答えなければならない。御前も普通の人間だからそう答えるのが至当だろう。おれもその一言いちごんを聞けばただ恥じ入るよりほかに仕方がない。けれども二郎御前は幸いに正直な御父さんの遺伝を受けている。それに近頃の、何事も隠さないという主義を最高のものとして信じているから聞くのだ。形式上の答えはおれにも聞かない先から解っているが、ただ聞きたいのは、もっと奥の奥の底にある御前の感じだ。その本当のところをどうぞ聞かしてくれ」

十九

「そんな腹の奥の奥底にある感じなんて僕に有るはずがないじゃありませんか」こう答えた時、自分は兄の顔を見ないで、山門の屋根を眺めていた。兄の言葉はしばらく自分の耳に聞こえなかった。するとそれが一種の癇高かんだかい、さも昂奮こうふんおさえたような調子になって響いて来た。「おい二郎何だってそんな軽薄な挨拶あいさつをする。おれと御前は兄弟じゃないか」自分は驚いて兄の顔を見た。兄の顔は常磐木ときわぎの影で見るせいかやや蒼味あおみを帯びていた。「兄弟ですとも。僕はあなたの本当のおととです。だから本当の事を御答えしたつもりです。今云ったのはけっして空々しい挨拶でも何でもありません。真底そうだからそういうのです」兄の神経の鋭敏なごとく自分は熱しやすい性急せっかちであった。平生の自分ならあるいはこんな返事は出なかったかも知れない。兄はその時簡単な一句を射た。「きっと」「ええきっと」「だって御前の顔は赤いじゃないか」実際その時の自分の顔は赤かったかも知れない。兄の面色めんしょくあおいのに反して、自分は我知らず、両方の頬のほてるのを強く感じた。その上自分は何と返事をして好いか分らなかった。すると兄は何と思ったかたちまち階段から腰を起した。そうして腕組をしながら、自分の席を取っている前を右左に歩き出した。自分は不安な眼をして、彼の姿を見守った。彼は始めから眼を地面の上に落していた。二三度自分の前を横切ったけれどもけっして一遍もその眼を上げて自分を見なかった。三度目に彼は突如として、自分の前に来て立ち留った。「二郎」「はい」「おれは御前の兄だったね。誠に子供らしい事を云って済まなかった」兄の眼の中には涙がいっぱいたまっていた。「なぜです」「おれはこれでも御前より学問も余計したつもりだ。見識も普通の人間より持っているとばかり今日こんにちまで考えていた。ところがあんな子供らしい事をつい口にしてしまった。まことに面目めんぼくない。どうぞ兄を軽蔑けいべつしてくれるな」「なぜです」自分は簡単なこの問を再び繰返した。「なぜですとそう真面目まじめに聞いてくれるな。ああおれは馬鹿だ」兄はこう云って手を出した。自分はすぐその手を握った。兄の手は冷たかった。自分の手も冷たかった。「ただ御前の顔が少しばかり赤くなったからと云って、御前の言葉を疑ぐるなんて、まことに御前の人格に対して済まない事だ。どうぞ堪忍かんにんしてくれ」自分は兄の気質が女に似て陰晴常なき天候のごとく変るのをよく承知していた。しかし見識けんしきある彼の特長として、自分にはそれが天真爛漫てんしんらんまんの子供らしく見えたり、または玉のように玲瓏れいろうな詩人らしく見えたりした。自分は彼を尊敬しつつも、どこか馬鹿にしやすいところのある男のように考えない訳に行かなかった。自分は彼の手を握ったまま「兄さん、今日は頭がどうかしているんですよ。そんな下らない事はもうこれぎりにしてそろそろ帰ろうじゃありませんか」と云った。

二十

兄は突然自分の手を放した。けれどもけっしてそこを動こうとしなかった。元の通り立ったまま何も云わずに自分を見下した。「御前ひとの心が解るかい」と突然聞いた。今度は自分の方が何も云わずに兄を見上げなければならなかった。「僕の心が兄さんには分らないんですか」とやや間を置いて云った。自分の答には兄の言葉より一種の根強さがこもっていた。「御前の心はおれによく解っている」と兄はすぐ答えた。「じゃそれで好いじゃありませんか」と自分は云った。「いや御前の心じゃない。女の心の事を云ってるんだ」兄の言語のうち、あと一句には火の付いたような鋭さがあった。その鋭さが自分の耳に一種異様の響を伝えた。「女の心だって男の心だって」と云いかけた自分を彼は急にさえぎった。「御前は幸福な男だ。おそらくそんな事をまだ研究する必要が出て来なかったんだろう」「そりゃ兄さんのような学者じゃないから……」「馬鹿云え」と兄は叱りつけるように叫んだ。「書物の研究とか心理学の説明とか、そんな廻り遠い研究を指すのじゃない。現在自分の眼前にいて、最も親しかるべきはずの人、その人の心を研究しなければ、いても立ってもいられないというような必要に出逢であった事があるかと聞いてるんだ」最も親しかるべきはずの人と云った兄の意味は自分にすぐ解った。「兄さんはあんまり考え過ぎるんじゃありませんか、学問をした結果。もう少し馬鹿になったら好いでしょう」「向うでわざと考えさせるように仕向けて来るんだ。おれの考え慣れた頭を逆に利用して。どうしても馬鹿にさせてくれないんだ」自分はここにいたって、ほとんど慰藉いしゃに窮した。自分より幾倍立派な頭をもっているか分らない兄が、こんな妙な問題に対して自分より幾倍頭を悩めているかを考えると、はなはだ気の毒でならなかった。兄が自分より神経質な事は、兄も自分もよく承知していた。けれども今まで兄からこう歇私的里的ヒステリてきに出られた事がないので、自分も実は途方に暮れてしまった。「御前メレジスという人を知ってるか」と兄が聞いた。「名前だけは聞いています」「あの人の書翰集しょかんしゅうを読んだ事があるか」「読むどころか表紙を見た事もありません」「そうか」彼はこう云って再び自分のそばへ腰をかけた。自分はこの時始めて懐中に敷島しきしまの袋と燐寸マッチのある事に気がついた。それを取り出して、自分からまず火をけて兄に渡した。兄は器械的にそれを吸った。「その人の書翰しょかんの一つのうちに彼はこんな事を云っている。――自分は女の容貌ようぼうに満足する人を見るとうらやましい。女の肉に満足する人を見ても羨ましい。自分はどうあっても女のれいというかたましいというか、いわゆるスピリットをつかまなければ満足ができない。それだからどうしても自分には恋愛事件が起らない」「メレジスって男は生涯しょうがい独身で暮したんですかね」「そんな事は知らない。またそんな事はどうでも構わないじゃないか。しかし二郎、おれが霊も魂もいわゆるスピリットも攫まない女と結婚している事だけはたしかだ」

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