LIB READ READER

行人・夏目漱石

14

朗読未選択 / 朗読停止中朗読未選択 / 朗読停止中

二十一

兄の顔には苦悶くもんの表情がありありと見えた。いろいろな点において兄を尊敬する事を忘れなかった自分は、この時胸の奥でほとんど恐怖に近い不安を感ぜずにはいられなかった。「兄さん」と自分はわざと落ちつき払って云った。「何だ」自分はこの答を聞くと同時に立った。そうして、ことさらに兄の腰をかけている前を、先刻さっき兄がやったと同じように、しかし全く別の意味で、右左へと二三度横切った。兄は自分にはまるで無頓着むとんじゃくに見えた。両手の指を、少し長くなった髪の間に、くしの歯のように深く差し込んで下を向いていた。彼は大変色沢いろつやの好い髪の所有者であった。自分は彼の前を横切るたびに、その漆黒しっこくの髪とその間から見える関節の細い、華奢きゃしゃな指に眼をかれた。その指は平生から自分の眼には彼の神経質を代表するごとく優しくかつ骨張って映った。「兄さん」と自分が再び呼びかけた時、彼はようやく重そうに頭を上げた。「兄さんに対して僕がこんな事をいうとはなはだ失礼かも知れませんがね。ひとの心なんて、いくら学問をしたって、研究をしたって、解りっこないだろうと僕は思うんです。兄さんは僕よりも偉い学者だからもとよりそこに気がついていらっしゃるでしょうけれども、いくら親しい親子だって兄弟だって、心と心はただ通じているような気持がするだけで、実際向うとこっちとは身体からだが離れている通り心も離れているんだからしようがないじゃありませんか」「他の心は外から研究はできる。けれどもその心になって見る事はできない。そのくらいの事ならおれだって心得ているつもりだ」兄は吐き出すように、またものうそうにこう云った。自分はすぐそのあといた。「それを超越するのが宗教なんじゃありますまいか。僕なんぞは馬鹿だから仕方がないが、兄さんは何でもよく考える性質たちだから……」「考えるだけで誰が宗教心に近づける。宗教は考えるものじゃない、信じるものだ」兄はさも忌々いまいましそうにこう云い放った。そうしておいて、「ああおれはどうしても信じられない。どうしても信じられない。ただ考えて、考えて、考えるだけだ。二郎、どうかおれを信じられるようにしてくれ」と云った。兄の言葉は立派な教育を受けた人の言葉であった。しかし彼の態度はほとんど十八九の子供に近かった。自分はかかる兄を自分の前に見るのが悲しかった。その時の彼はほとんど砂の中で狂う泥鰌どじょうのようであった。いずれの点においても自分より立ち勝った兄が、こんな態度を自分に示したのはこの時が始めてであった。自分はそれを悲しく思うと同時に、この傾向で彼がだんだん進んで行ったならあるいは遠からず彼の精神に異状を呈するようになりはしまいかと懸念けねんして、それが急に恐ろしくなった。「兄さん、この事については僕も実はとうから考えていたんです……」「いや御前の考えなんか聞こうと思っていやしない。今日御前をここへ連れて来たのは少し御前に頼みがあるからだ。どうぞ聞いてくれ」「何ですか」事はだんだん面倒になって来そうであった。けれども兄は容易にその頼みというのを打ち明けなかった。ところへ我々と同じ遊覧人めいた男女なんにょが三四人石段の下に現れた。彼らはてんでに下駄げた草履ぞうりと脱ぎえて、高い石段をこっちへ登って来た。兄はその人影を見るや否や急に立上がった。「二郎帰ろう」と云いながら石段をくだりかけた。自分もすぐその後にしたがった。

二十二

兄と自分はまた元の路へ引返した。朝来た時も腹や頭の具合が変であったが、帰りは日盛ひざかりになったせいかなお苦しかった。あいにく二人共時計を忘れたので何時なんじだかちょっと分り兼ねた。「もう何時だろう」と兄が聞いた。「そうですね」と自分はぎらぎらする太陽を仰ぎ見た。「まだひるにはならないでしょう」二人は元の路を逆に歩いているつもりであったが、どう間違えたものか、変に磯臭いそくさ浜辺はまべへ出た。そこには漁師りょうしの家が雑貨店とまじって貧しい町をかたち作っていた。古い旗を屋根の上に立てた汽船会社の待合所も見えた。「何だかみちが違ったようじゃありませんか」兄は相変らず下を向いて考えながら歩いていた。下には貝殻がそこここに散っていた。それを踏み砕く二人の足音が時々単調な歩行ほこうに一種田舎いなかびた変化を与えた。兄はちょっと立ち留って左右を見た。「ここはいきに通らなかったかな」「ええ通りゃしません」「そうか」二人はまた歩き出した。兄は依然として下を向き勝であった。自分は路を迷ったため、存外宿へ帰るのが遅くなりはしまいかと心配した。「何せまい所だ。どこをどう間違えたって、帰れるのはおんなじ事だ」兄はこう云ってすたすた行った。自分は彼の歩き方をうしろから見て、足に任せてというふるい言葉を思い出した。そうして彼より五六間おくれた事をこの場合何よりもありがたく感じた。自分は二人の帰り道に、兄から例の依頼というのをきっと打ち明けられるに違いないと思ってあんにその覚悟をしていた。ところが事実は反対で、彼はできるだけ口数をつつしんで、さっさと歩く方針に出た。それが少しは無気味でもあったがまただいぶうれしくもあった。宿では母とあによめ欄干らんかん縞絽しまろだか明石あかしだかよそゆきの着物を掛けて二人とも浴衣ゆかたのまま差向いで坐っていた。自分達の姿を見た母は、「まあどこまで行ったの」と驚いた顔をした。「あなた方はどこへも行かなかったんですか」欄干に干してある着物を見ながら、自分がこう聞いた時、嫂は「ええ行ったわ」と答えた。「どこへ」「あてて御覧なさい」今の自分は兄のいる前で嫂からこう気易きやすく話しかけられるのが、兄に対して何とも申し訳がないようであった。のみならず、兄の眼から見れば、彼女が故意ことさらに自分にだけ親しみを表わしているとしか解釈ができまいと考えて誰にも打ち明けられない苦痛を感じた。嫂はいっこう平気であった。自分にはそれが冷淡から出るのか、無頓着むとんじゃくから来るのか、または常識を無視しているのか、少し解り兼ねた。彼らの見物して来た所は紀三井寺きみいでらであった。玉津島明神たまつしまみょうじんの前を通りへ出て、そこから電車に乗るとすぐ寺の前へ出るのだと母は兄に説明していた。「高い石段でね。こうして見上げるだけでも眼がいそうなんだよ、お母さんには。これじゃとてものぼれっこないと思って、わたしゃどうしようか知らと考えたけれども、直に手を引っ張ってもらって、ようやくお参りだけは済ませたが、その代り汗で着物がぐっしょりさ……」兄は「はあ、そうですかそうですか」と時々気のない返事をした。

二十三

その日は何事も起らずに済んだ。夕方は四人よつたりでトランプをした。みんなが四枚ずつのカードを持って、その一枚を順送りに次の者へ伏せ渡しにするうちに数のそろったのを出してしまうと、どこかにスペードの一が残る。それを握ったものが負になるという温泉場などでよく流行はや至極しごく簡単なものであった。母と自分はよくスペードを握っては妙な顔をしてすぐかんづかれた。兄も時々苦笑した。一番冷淡なのはあによめであった。スペードを握ろうが握るまいがわれにはいっこう関係がないという風をしていた。これは風というよりもむしろ彼女かのじょの性質であった。自分はそれでも兄が先刻さっきの会談のあと、よくこれほどに昂奮こうふんした神経を治められたものだと思ってひそかに感心した。晩は寝られなかった。昨夕ゆうべよりもなお寝られなかった。自分はどどんどどんと響くなみの音の間に、兄夫婦の寝ているへやに耳を澄ました。けれども彼らの室は依然として昨夜のごとくしずかであった。自分は母に見咎みとがめられるのを恐れて、そのはあえて縁側えんがわへ出なかった。朝になって自分は母と嫂を例の東洋第一エレヴェーターへ案内した。そうして昨日きのうのように山の上の猿にいもをやった。今度は猿に馴染なじみのある宿の女中がいっしょにいて来たので、猿を抱いたり鳴かしたり前の日よりはだいぶにぎやかだった。母は茶店の床几しょうぎに腰をかけて、新和歌しんわかうらとかいう禿げて茶色になった山をして何だろうと聞いていた。嫂はしきりに遠眼鏡とおめがねはないか遠眼鏡はないかと騒いだ。「姉さん、芝の愛宕様あたごさまじゃありませんよ」と自分は云ってやった。「だって遠眼鏡ぐらいあったって好いじゃありませんか」と嫂はまだ不足を並べていた。夕方になって自分はとうとう兄に引っ張られて紀三井寺きみいでらへ行った。これは婦人れんが昨日すでに参詣さんけいしたというのを口実に、我々二人だけが行く事にしたのであるが、その実兄の依頼を聞くために自分が彼から誘い出されたのである。自分達は母の見ただけで恐れたという高い石段を一直線にのぼった。その上はひらたい山の中腹で眺望ちょうぼうの好い所にベンチが一つえてあった。本堂はそばに五重の塔を控えて、普通ありふれた仏閣よりもさびがあった。ひさし最中まんなかからさがっている白いひもなどはいかにも閑静に見えた。自分達は何物も眼をさえぎらないベンチの上に腰をおろして並び合った。「好い景色ですね」眼の下にははるかの海がいわしの腹のように輝いた。そこへ名残なごりの太陽が一面に射して、まばゆさが赤く頬を染めるごとくに感じた。さわらしい不規則な水の形もまた海より近くに、平たい面を鏡のようにべていた。兄は例の洋杖ステッキあごの下に支えて黙っていたが、やがて思い切ったという風に自分の方を向いた。「二郎じつは頼みがあるんだが」「ええ、それを伺うつもりでわざわざ来たんだからゆっくり話して下さい。できる事なら何でもしますから」「二郎実は少し云いにくい事なんだがな」「云い悪い事でも僕だから好いでしょう」「うんおれは御前を信用しているから話すよ。しかし驚いてくれるな」自分は兄からこう云われた時に、話を聞かないさきにまず驚いた。そうしてどんな注文が兄の口から出るかを恐れた。兄の気分は前云った通り変りやすかった。けれどもいったん何か云い出すと、意地にもそれを通さなければ承知しなかった。

二十四

「二郎驚いちゃいけないぜ」と兄が繰返した。そうして現に驚いている自分をあざけるごとく見た。自分は今の兄と権現社頭ごんげんしゃとうの兄とを比較してまるで別人のかんをなした。今の兄はひるがえしがたい堅い決心をもって自分に向っているとしか自分には見えなかった。「二郎おれは御前を信用している。御前の潔白な事はすでに御前の言語が証明している。それに間違はないだろう」「ありません」「それでは打ち明けるが、実はなお節操せっそうを御前にためしてもらいたいのだ」自分は「節操を試す」という言葉を聞いた時、本当に驚いた。当人から驚くなという注意が二遍あったにかかわらず、非常に驚いた。ただあっけに取られて、呆然ぼうぜんとしていた。「なぜ今になってそんな顔をするんだ」と兄が云った。自分は兄の眼に映じた自分の顔をいかにもなさけなく感ぜざるを得なかった。まるでこの間の会見とは兄弟地を換えて立ったとしか思えなかった。それで急に気を取り直した。「姉さんの節操を試すなんて、――そんな事はした方が好いでしょう」「なぜ」「なぜって、あんまり馬鹿らしいじゃありませんか」「何が馬鹿らしい」「馬鹿らしかないかも知れないが、必要がないじゃありませんか」「必要があるから頼むんだ」自分はしばらく黙っていた。広い境内けいだいには参詣人さんけいにんの影も見えないので、四辺あたりは存外しずかであった。自分はそこいらを見廻して、最後に我々二人のさびしい姿をその一隅に見出した時、薄気味の悪い心持がした。「試すって、どうすれば試されるんです」「御前と直が二人で和歌山へ行って一晩泊ってくれれば好いんだ」「下らない」と自分は一口に退しりぞけた。すると今度は兄が黙った。自分はもとより無言であった。海にりつける落日らくじつの光がしだいに薄くなりつつなお名残なごりの熱を薄赤く遠い彼方あなた棚引たなびかしていた。いやかい」と兄が聞いた。「ええ、ほかの事ならですが、それだけは御免ごめんです」と自分は判切はっきり云い切った。「じゃ頼むまい。その代りおれは生涯しょうがい御前を疑ぐるよ」「そりゃ困る」「困るならおれの頼む通りやってくれ」自分はただ俯向うつむいていた。いつもの兄ならもうとくに手を出している時分であった。自分は俯向うつむきながら、今に兄のこぶしが帽子の上へ飛んで来るか、または彼の平手ひらてが頬のあたりでピシャリと鳴るかと思って、じっと癇癪玉かんしゃくだまの破裂するのを期待していた。そうしてその破裂ののちに多く生ずる反動を機会として、兄の心を落ちつけようとした。自分は人より一倍強い程度で、この反動にかかやすい兄の気質をよくみ込んでいた。自分はだいぶ辛抱しんぼうして兄の鉄拳てっけんの飛んで来るのを待っていた。けれども自分の期待は全く徒労であった。兄は死んだ人のごとく静であった。ついには自分の方から狐のように変な眼遣めづかいをして、兄の顔をぬすみ見なければならなかった。兄はあおい顔をしていた。けれどもけっして衝動的に動いて来る気色けしきには見えなかった。

二十五

ややあって兄は昂奮こうふんした調子でこう云った。「二郎おれはお前を信用している。けれどもなおを疑ぐっている。しかもその疑ぐられた当人の相手は不幸にしてお前だ。ただし不幸と云うのは、お前に取って不幸というので、おれにはかえってさいわいになるかも知れない。と云うのは、おれは今明言した通り、お前の云う事なら何でも信じられるしまた何でも打明けられるから、それでおれには幸いなのだ。だから頼むのだ。おれの云う事に満更まんざら論理のない事もあるまい」自分はその時兄の言葉の奥に、何か深い意味がこもっているのではなかろうかと疑い出した。兄は腹の中で、自分とあによめの間に肉体上の関係を認めたと信じて、わざとこういう難題を持ちかけるのではあるまいか。自分は「兄さん」と呼んだ。兄の耳にはとにかく、自分はよほど力強い声を出したつもりであった。「兄さん、ほかの事とは違ってこれは倫理上の大問題ですよ……」「当り前さ」自分は兄の答えのことのほか冷淡なのを意外に感じた。同時に先の疑いがますます深くなって来た。「兄さん、いくら兄弟の仲だって僕はそんな残酷な事はしたくないです」「いや向うの方がおれに対して残酷なんだ」自分は兄に向ってあによめがなぜ残酷であるかの意味を聞こうともしなかった。「そりゃ改めてまた伺いますが、何しろ今の御依頼だけは御免蒙ごめんこうむります。僕には僕の名誉がありますから。いくら兄さんのためだって、名誉まで犠牲にはできません」「名誉?」「無論名誉です。人から頼まれてひとを試験するなんて、――ほかの事だっていやでさあ。ましてそんな……探偵じゃあるまいし……」「二郎、おれはそんな下等な行為をお前から向うへ仕かけてくれと頼んでいるのじゃない。単に嫂としまた弟として一つ所へ行って一つ宿へ泊ってくれというのだ。不名誉でも何でもないじゃないか」「兄さんは僕を疑ぐっていらっしゃるんでしょう。そんな無理をおっしゃるのは」「いや信じているから頼むのだ」「口で信じていて、腹では疑ぐっていらっしゃる」「馬鹿な」兄と自分はこんな会話を何遍も繰返した。そうして繰返すたびに双方共激して来た。するとちょっとした言葉から熱が急に引いたように二人共治まった。その激したある時に自分は兄を真正の精神病患者だと断定した瞬間さえあった。しかしその発作ほっさが風のように過ぎたあとではまた通例の人間のようにも感じた。しまいに自分はこう云った。「実はこの間から僕もその事については少々考えがあって、機会があったら姉さんにとくと腹の中を聞いて見る気でいたんですから、それだけなら受合いましょう。もうじき東京へ帰るでしょうから」「じゃそれを明日あしたやってくれ。あした昼いっしょに和歌山へ行って、昼のうちに返って来れば差支さしつかえないだろう」自分はなぜかそれがいやだった。東京へ帰ってゆっくり折を見ての事にしたいと思ったが、片方を断った今更一方もいやとは云いかねて、とうとう和歌山見物だけは引き受ける事にした。

二十六

その明くる朝は起きた時からあいにく空にが見えた。しかも風さえ高く吹いて例の防波堤ぼうはていくだける波の音がすさまじく聞え出した。欄干らんかんって眺めると、白い煙が濛々もうもうと岸一面を立てめた。午前は四人とも海岸に出る気がしなかった。ひる過ぎになって、空模様は少し穏かになった。雲の重なる間から日脚ひあしさえちょいちょい光を出した。それでも漁船が四五そういつもより早く楼前ろうぜん掘割ほりわりぎ入れて来た。「気味が悪いね。何だか暴風雨あらしでもありそうじゃないか」母はいつもと違う空を仰いで、こう云いながらまた元の座敷へ引返ひっかえして来た。兄はすぐ立ってまた欄干へ出た。「何大丈夫だよ。大した事はないにきまっている。御母さん僕が受け合いますから出かけようじゃありませんか。くるまもすでにあつらえてありますから」母は何とも云わずに自分の顔を見た。「そりゃ行っても好いけれど、行くならみんなでいっしょに行こうじゃないか」自分はその方がはるからくであった。でき得るならどうか母の御供をして、和歌山行をやめたいと考えた。「じゃ僕達もいっしょにその切り開いた山道の方へ行って見ましょうか」と云いながら立ちかけた。するとけわしい兄の眼がすぐ自分の上に落ちた。自分はとうていこれでは約束を履行りこうするよりほかに道がなかろうとまた思い返した。「そうそう姉さんと約束があったっけ」自分は兄に対して、つい空惚そらとぼけた挨拶あいさつをしなければすまなくなった。すると母が今度はにがい顔をした。「和歌山はやめにおしよ」自分は母と兄の顔を見比べてどうしたものだろうと躊躇ちゅうちょした。あによめはいつものように冷然としていた。自分が母と兄の間に迷っている間、彼女はほとんど一言いちごんも口にしなかった。なお御前二郎に和歌山へ連れて行って貰うはずだったね」と兄が云った時、嫂はただ「ええ」と答えただけであった。母が「今日はおしよ」めた時、嫂はまた「ええ」と答えただけであった。自分が「姉さんどうします」かえりみた時は、また「どうでも好いわ」と答えた。自分はちょっと用事に下へ降りた。すると母がまたあとから降りて来た。彼女の様子は何だかそわそわしていた。「御前本当に直と二人で和歌山へ行く気かい」「ええ、だって兄さんが承知なんですもの」「いくら承知でも御母さんが困るから御止およしよ」母の顔のどこかには不安の色が見えた。自分はその不安の出所でどころが兄にあるのか、または嫂と自分にあるか、ちょっと判断に苦しんだ。「なぜです」と聞いた。「なぜですって、御前と直と行くのはいけないよ」「兄さんに悪いと云うんですか」自分は露骨にこう聞いて見た。「兄さんに悪いばかりじゃないが……」「じゃ姉さんだの僕だのに悪いと云うんですか」自分の問は前よりなお露骨であった。母は黙ってそこにたたずんでいた。自分は母の表情に珍らしく猜疑さいぎの影を見た。

EPISODE COMMENTS

この話の感想

感想 0

14話感想一覧

感想一覧を読み込み中...