二十七
自分は自分を信じ切り、また愛し切っているとばかり考えていた母の表情を見てたちまち臆した。「では止します。元々僕の発案で姉さんを誘い出すんじゃない。兄さんが二人で行って来いと云うから行くだけの事です。御母さんが御不承知ならいつでもやめます。その代り御母さんから兄さんに談判して行かないで好いようにして下さい。僕は兄さんに約束があるんだから」自分はこう答えて、何だかきまりが悪そうに母の前に立っていた。実は母の前を去る勇気が出なかったのである。母は少し途方に暮れた様子であった。しかししまいに思い切ったと見えて、「じゃ兄さんには妾から話をするから、その代り御前はここに待ってておくれ、三階へ一緒に来るとまた事が面倒になるかも知れないから」と云った。自分は母の後影を見送りながら、事がこんな風に引絡まった日には、とても嫂を連れて和歌山などへ行く気になれない、行ったところで肝心の用は弁じない、どうか母の思い通りに事が変じてくれれば好いがと思った。そうして気の落ちつかない胸を抱いて、広い座敷を右左に目的もなく往ったり来たりした。やがて三階から兄が下りて来た。自分はその顔をちらりと見た時、これはどうしても行かなければ済まないなとすぐ読んだ。「二郎、今になって違約して貰っちゃおれが困る。貴様だって男だろう」自分は時々兄から貴様と呼ばれる事があった。そうしてこの貴様が彼の口から出たときはきっと用心して後難を避けた。「いえ行くんです。行くんですがお母さんが止せとおっしゃるから」自分がこう云ってるうちに、母がまた心配そうに三階から下りて来た。そうしてすぐ自分の傍へ寄って、「二郎お母さんは先刻ああ云ったけれども、よく一郎に聞いて見ると、何だか紀三井寺で約束した事があるとか云う話だから、残念だが仕方ない。やっぱりその約束通りになさい」と云った。「ええ」自分はこう答えて、あとは何にも云わない事にした。やがて母と兄は下に待っている俥に乗って、楼前から右の方へ鉄輪の音を鳴らして去った。「じゃ僕らもそろそろ出かけましょうかね」と嫂を顧みた時、自分は実際好い心持ではなかった。「どうです出かける勇気がありますか」と聞いた。「あなたは」と向も聞いた。「僕はあります」「あなたにあれば、妾にだってあるわ」自分は立って着物を着換え始めた。嫂は上着を引掛けてくれながら、「あなた何だか今日は勇気がないようね」と調戯い半分に云った。自分は全く勇気がなかった。二人は電車の出る所まで歩いて行った。あいにく近路を取ったので、嫂の薄い下駄と白足袋が一足ごとに砂の中に潜った。「歩き悪いでしょう」「ええ」と云って彼女は傘を手に持ったまま、後を向いて自分の後足を顧みた。自分は赤い靴を砂の中に埋めながら、今日の使命をどこでどう果したものだろうと考えた。考えながら歩くせいか会話は少しも機まない心持がした。「あなた今日は珍らしく黙っていらっしゃるのね」とついに嫂から注意された。
二十八
自分は嫂と並んで電車に腰を掛けた。けれども大事の用を前に控えているという気が胸にあるので、どうしても機嫌よく話はできなかった。「なぜそんなに黙っていらっしゃるの」と彼女が聞いた。自分は宿を出てからこう云う意味の質問を彼女からすでに二度まで受けた。それを裏から見ると、二人でもっと面白く話そうじゃありませんかと云う意味も映っていた。「あなた兄さんにそんな事を云ったことがありますか」自分の顔はやや真面目であった。嫂はちょっとそれを見て、すぐ窓の外を眺めた。そうして「好い景色ね」と云った。なるほどその時電車の走っていた所は、悪い景色ではなかったけれども、彼女のことさらにそれを眺めた事は明かであった。自分はわざと嫂を呼んで再び前の質問を繰返した。「なぜそんなつまらない事を聞くのよ」と云った彼女は、ほとんど一顧に価しない風をした。電車はまた走った。自分は次の停留所へ来る前また執拗く同じ問をかけて見た。「うるさい方ね」と彼女がついに云った。「そんな事聞いて何になさるの。そりゃ夫婦ですもの、そのくらいな事云った覚はあるでしょうよ。それがどうしたの」「どうもしやしません。兄さんにもそういう親しい言葉を始終かけて上げて下さいと云うだけです」彼女は蒼白い頬へ少し血を寄せた。その量が乏しいせいか、頬の奥の方に灯を点けたのが遠くから皮膚をほてらしているようであった。しかし自分はその意味を深くも考えなかった。和歌山へ着いた時、二人は電車を降りた。降りて始めて自分は和歌山へ始めて来た事を覚った。実はこの地を見物する口実の下に、嫂を連れて来たのだから、形式にもどこか見なければならなかった。「あらあなたまだ和歌山を知らないの。それでいて妾を連れて来るなんて、ずいぶん呑気ね」嫂は心細そうに四方を見廻した。自分も何分かきまりが悪かった。「俥へでも乗って車夫に好い加減な所へ連れて行って貰いましょうか。それともぶらぶら御城の方へでも歩いて行きますか」「そうね」嫂は遠くの空を眺めて、近い自分には眼を注がなかった。空はここも海辺と同じように曇っていた。不規則に濃淡を乱した雲が幾重にも二人の頭の上を蔽って、日を直下に受けるよりは蒸し熱かった。その上いつ驟雨が来るか解らないほどに、空の一部分がすでに黒ずんでいた。その黒ずんだ円の四方が暈されたように輝いて、ちょうど今我々が見捨てて来た和歌の浦の見当に、凄じい空の一角を描き出していた。嫂は今その気味の悪い所を眉を寄せて眺めているらしかった。「降るでしょうか」自分は固より降るに違ないと思っていた。それでとにかく俥を雇って、見るだけの所を馳け抜けた方が得策だと考えた。自分は直に俥を命じて、どこでも構わないからなるべく早く見物のできるように挽いて廻れと命じた。車夫は要領を得たごとくまた得ないごとく、むやみに駆けた。狭い町へ出たり、例の蓮の咲いている濠へ出たりまた狭い町へ出たりしたが、いっこうこれぞという所はなかった。最後に自分は俥の上で、こう駆けてばかりいては肝心の話ができないと気がついて、車夫にどこかゆっくり坐って話のできる所へ連れて行けと差図した。
二十九
車夫は心得て駆け出した。今までと違って威勢があまり好過ぎると思ううちに、二人の俥は狭い横町を曲って、突然大きな門を潜った。自分があわてて、車夫を呼び留めようとした時、梶棒はすでに玄関に横付になっていた。二人はどうする事もできなかった。その上若い着飾った下女が案内に出たので、二人はついに上るべく余儀なくされた。「こんな所へ来るはずじゃなかったんですが」と自分はつい言訳らしい事を云った。「なぜ。だって立派な御茶屋じゃありませんか。結構だわ」と嫂が答えた。その答えぶりから推すと、彼女は最初からこういう料理屋めいた所へでも来るのを予期していたらしかった。実際嫂のいった通りその座敷は物綺麗にかつ堅牢に出来上っていた。「東京辺の安料理屋よりかえって好いくらいですね」と自分は柱の木口や床の軸などを見廻した。嫂は手摺の所へ出て、中庭を眺めていた。古い梅の株の下に蘭の茂りが蒼黒い影を深く見せていた。梅の幹にも硬くて細長い苔らしいものがところどころに喰ついていた。下女が浴衣を持って風呂の案内に来た。自分は風呂に這入る時間が惜しかった。そうして日が暮れはしまいかと心配した。できるならば一刻も早く用を片づけて、約束通り明るい路を浜辺まで帰りたいと念じた。「どうします姉さん、風呂は」と聞いて見た。嫂も明るいうちには帰るように兄から兼ねて云いつけられていたので、そこはよく承知していた。彼女は帯の間から時計を出して見た。「まだ早いのよ、二郎さん。お湯へ這入っても大丈夫だわ」彼女は時間の遅く見えるのを全く天気のせいにした。もっとも濁った雲が幾重にも空を鎖しているので、時計の時間よりは世の中が暗く見えたのはたしかに違いなかった。自分はまた今にも降り出しそうな雨を恐れた。降るならひとしきりざっと来た後で、帰った方がかえって楽だろうと考えた。「じゃちょっと汗を流して行きましょうか」二人はとうとう風呂に入った。風呂から出ると膳が運ばれた。時間からいうと飯には早過ぎた。酒は遠慮したかった。かつ飲める口でもなかった。自分はやむをえず、吸物を吸ったり、刺身を突ついたりした。下女が邪魔になるので、用があれば呼ぶからと云って下げた。嫂には改まって云い出したものだろうか、またはそれとなく話のついでにそこへ持って行ったものだろうかと思案した。思案し出すとどっちもいいようでまたどっちも悪いようであった。自分は吸物椀を手にしたままぼんやり庭の方を眺めていた。「何を考えていらっしゃるの」と嫂が聞いた。「何、降りゃしまいかと思ってね」と自分はいい加減な答をした。「そう。そんなに御天気が怖いの。あなたにも似合わないのね」「怖かないけど、もし強雨にでもなっちゃ大変ですからね」自分がこう云っている内に、雨はぽつりぽつりと落ちて来た。よほど早くからの宴会でもあるのか、向うに見える二階の広間に、二三人紋付羽織の人影が見えた。その見当で芸者が三味線の調子を合わせている音が聞え出した。宿を出るときすでにざわついていた自分の心は、この時一層落ちつきを失いかけて来た。自分は腹の中で、今日はとてもしんみりした話をする気になれないと恐れた。なぜまたその今日に限って、こんな変な事を引受けたのだろうと後悔もした。
三十
嫂はそんな事に気のつくはずがなかった。自分が雨を気にするのを見て、彼女はかえって不思議そうに詰った。「何でそんなに雨が気になるの。降れば後が涼しくなって好いじゃありませんか」「だっていつやむか解らないから困るんです」「困りゃしないわ。いくら約束があったって、御天気のせいなら仕方がないんだから」「しかし兄さんに対して僕の責任がありますよ」「じゃすぐ帰りましょう」嫂はこう云って、すぐ立ち上った。その様子には一種の決断があらわれていた。向の座敷では客の頭が揃ったのか、三味線の音が雨を隔てて爽かに聞え出した。電灯もすでに輝いた。自分も半ば嫂の決心に促されて、腰を立てかけたが、考えると受合って来た話はまだ一言も口へ出していなかった。後れて帰るのが母や兄にすまないごとく、少しも嫂に肝心の用談を打ち明けないのがまた自分の心にすまなかった。「姉さんこの雨は容易にやみそうもありませんよ。それに僕は姉さんに少し用談があって来たんだから」自分は半分空を眺めてまた嫂をふり返った。自分は固よりの事、立ち上った彼女も、まだ帰る仕度は始めなかった。彼女は立ち上ったには、立ち上ったが、自分の様子しだいでその以後の態度を一定しようと、五分の隙間なく身構えているらしく見えた。自分はまた軒端へ首を出して上の方を望んだ。室の位置が中庭を隔てて向うに大きな二階建の広間を控えているため、空はいつものように広くは限界に落ちなかった。したがって雲の往来や雨の降り按排も、一般的にはよく分らなかった。けれども凄まじさが先刻よりは一層はなはだしく庭木を痛振っているのは事実であった。自分は雨よりも空よりも、まずこの風に辟易した。「あなたも妙な方ね。帰るというからそのつもりで仕度をすれば、また坐ってしまって」「仕度ってほどの仕度もしないじゃありませんか。ただ立ったぎりでさあ」自分がこう云った時、嫂はにっこりと笑った。そうして故意と己れの袖や裾のあたりをなるほどといったようなまた意外だと驚いたような眼つきで見廻した。それから微笑を含んでその様子を見ていた自分の前に再びぺたりと坐った。「何よ用談があるって。妾にそんなむずかしい事が分りゃしないわ。それよりか向うの御座敷の三味線でも聞いてた方が増しよ」雨は軒に響くというよりもむしろ風に乗せられて、気ままな場所へ叩きつけられて行くような音を起した。その間に三味線の音が気紛れものらしく時々二人の耳を掠め去った。「用があるなら早くおっしゃいな」と彼女は催促した。「催促されたってちょっと云える事じゃありません」自分は実際彼女から促された時、何と切り出して好いか分らなかった。すると彼女はにやにやと笑った。「あなた取っていくつなの」「そんなに冷かしちゃいけません。本当に真面目な事なんだから」「だから早くおっしゃいな」自分はいよいよ改まって忠告がましい事を云うのが厭になった。そうして彼女の前へ出た今の自分が何だか彼女から一段低く見縊られているような気がしてならなかった。それだのにそこに一種の親しみを感じずにはまたいられなかった。
三十一
「姉さんはいくつでしたっけね」と自分はついに即かぬ事を聞き出した。「これでもまだ若いのよ。あなたよりよっぽど下のつもりですわ」自分は始めから彼女の年と自分の年を比較する気はなかった。「兄さんとこへ来てからもう何年になりますかね」と聞いた。嫂はただ澄まして「そうね」と云った。「妾そんな事みんな忘れちまったわ。だいち自分の年さえ忘れるくらいですもの」嫂のこの恍け方はいかにも嫂らしく響いた。そうして自分にはかえって嬌態とも見えるこの不自然が、真面目な兄にはなはだしい不愉快を与えるのではなかろうかと考えた。「姉さんは自分の年にさえ冷淡なんですね」自分はこんな皮肉を何となく云った。しかし云ったときの浮気な心にすぐ気がつくと急に兄にすまない恐ろしさに襲われた。「自分の年なんかに、いくら冷淡でも構わないから、兄さんにだけはもう少し気をつけて親切にして上げて下さい」「妾そんなに兄さんに不親切に見えて。これでもできるだけの事は兄さんにして上げてるつもりよ。兄さんばかりじゃないわ。あなたにだってそうでしょう。ねえ二郎さん」自分は、自分にもっと不親切にして構わないから、兄の方には最少し優しくしてくれろと、頼むつもりで嫂の眼を見た時、また急に自分の甘いのに気がついた。嫂の前へ出て、こう差し向いに坐ったが最後、とうてい真底から誠実に兄のために計る事はできないのだとまで思った。自分は言葉には少しも窮しなかった。どんな言語でも兄のために使おうとすれば使われた。けれどもそれを使う自分の心は、兄のためでなくってかえって自分のために使うのと同じ結果になりやすかった。自分はけっしてこんな役割を引き受けべき人格でなかった。自分は今更のように後悔した。「あなた急に黙っちまったのね」とその時嫂が云った。あたかも自分の急所を突くように。「兄さんのために、僕が先刻からあなたに頼んでいる事を、姉さんは真面目に聞いて下さらないから」自分は恥ずかしい心を抑えてわざとこう云った。すると嫂は変に淋しい笑い方をした。「だってそりゃ無理よ二郎さん。妾馬鹿で気がつかないから、みんなから冷淡と思われているかも知れないけれど、これで全くできるだけの事を兄さんに対してしている気なんですもの。――妾ゃ本当に腑抜なのよ。ことに近頃は魂の抜殻になっちまったんだから」「そう気を腐らせないで、もう少し積極的にしたらどうです」「積極的ってどうするの。御世辞を使うの。妾御世辞は大嫌いよ。兄さんも御嫌いよ」「御世辞なんか嬉しがるものもないでしょうけれども、もう少しどうかしたら兄さんも幸福でしょうし、姉さんも仕合せだろうから……」「よござんす。もう伺わないでも」と云った嫂は、その言葉の終らないうちに涙をぽろぽろと落した。「妾のような魂の抜殻はさぞ兄さんには御気に入らないでしょう。しかし私はこれで満足です。これでたくさんです。兄さんについて今まで何の不足を誰にも云った事はないつもりです。そのくらいの事は二郎さんもたいてい見ていて解りそうなもんだのに……」泣きながら云う嫂の言葉は途切れ途切れにしか聞こえなかった。しかしその途切れ途切れの言葉が鋭い力をもって自分の頭に応えた。

