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行人・夏目漱石

15

朗読者: VOICEVOX Nemo / ノーマル選択中朗読を再生できる

二十七

自分は自分を信じ切り、また愛し切っているとばかり考えていた母の表情を見てたちまち臆した。「では止します。元々僕の発案ほつあんで姉さんを誘い出すんじゃない。兄さんが二人で行って来いと云うから行くだけの事です。御母さんが御不承知ならいつでもやめます。その代り御母さんから兄さんに談判して行かないで好いようにして下さい。僕は兄さんに約束があるんだから」自分はこう答えて、何だかきまりが悪そうに母の前に立っていた。実は母の前を去る勇気が出なかったのである。母は少し途方に暮れた様子であった。しかししまいに思い切ったと見えて、「じゃ兄さんにはわたしから話をするから、その代り御前はここに待ってておくれ、三階へ一緒に来るとまた事が面倒になるかも知れないから」と云った。自分は母の後影を見送りながら、事がこんな風に引絡ひっからまった日には、とてもあによめを連れて和歌山などへ行く気になれない、行ったところで肝心かんじんの用は弁じない、どうか母の思い通りに事が変じてくれれば好いがと思った。そうして気の落ちつかない胸を抱いて、広い座敷を右左に目的もなく往ったり来たりした。やがて三階から兄が下りて来た。自分はその顔をちらりと見た時、これはどうしても行かなければ済まないなとすぐ読んだ。「二郎、今になって違約して貰っちゃおれが困る。貴様だって男だろう」自分は時々兄から貴様と呼ばれる事があった。そうしてこの貴様が彼の口から出たときはきっと用心して後難を避けた。「いえ行くんです。行くんですがお母さんが止せとおっしゃるから」自分がこう云ってるうちに、母がまた心配そうに三階から下りて来た。そうしてすぐ自分のそばへ寄って、「二郎お母さんは先刻さっきああ云ったけれども、よく一郎に聞いて見ると、何だか紀三井寺きみいでらで約束した事があるとか云う話だから、残念だが仕方ない。やっぱりその約束通りになさい」と云った。「ええ」自分はこう答えて、あとは何にも云わない事にした。やがて母と兄は下に待っているくるまに乗って、楼前から右の方へ鉄輪かなわの音を鳴らして去った。「じゃ僕らもそろそろ出かけましょうかね」と嫂を顧みた時、自分は実際好い心持ではなかった。「どうです出かける勇気がありますか」と聞いた。「あなたは」むこうも聞いた。「僕はあります」「あなたにあれば、あたしにだってあるわ」自分は立って着物を着換え始めた。あによめは上着を引掛けてくれながら、「あなた何だか今日は勇気がないようね」調戯からかい半分に云った。自分は全く勇気がなかった。二人は電車の出る所まで歩いて行った。あいにく近路ちかみちを取ったので、嫂の薄い下駄げた白足袋しろたび一足ひとあしごとに砂の中にもぐった。「歩きにくいでしょう」「ええ」と云って彼女かのじょかさを手に持ったまま、うしろを向いて自分の後足あとあしを顧みた。自分は赤い靴を砂の中にうずめながら、今日の使命をどこでどう果したものだろうと考えた。考えながら歩くせいか会話は少しもはずまない心持がした。「あなた今日は珍らしく黙っていらっしゃるのね」とついに嫂から注意された。

二十八

自分は嫂と並んで電車に腰を掛けた。けれども大事の用を前に控えているという気が胸にあるので、どうしても機嫌きげんよく話はできなかった。「なぜそんなに黙っていらっしゃるの」と彼女が聞いた。自分は宿を出てからこう云う意味の質問を彼女からすでに二度まで受けた。それを裏から見ると、二人でもっと面白く話そうじゃありませんかと云う意味も映っていた。「あなた兄さんにそんな事を云ったことがありますか」自分の顔はやや真面目まじめであった。嫂はちょっとそれを見て、すぐ窓の外を眺めた。そうして「好い景色ね」と云った。なるほどその時電車の走っていた所は、悪い景色ではなかったけれども、彼女のことさらにそれを眺めた事はあきらかであった。自分はわざと嫂を呼んで再び前の質問を繰返した。「なぜそんなつまらない事を聞くのよ」と云った彼女は、ほとんど一顧いっこあたいしない風をした。電車はまた走った。自分は次の停留所へ来る前また執拗しゅうねく同じ問をかけて見た。「うるさい方ね」と彼女がついに云った。「そんな事聞いて何になさるの。そりゃ夫婦ですもの、そのくらいな事云ったおぼえはあるでしょうよ。それがどうしたの」「どうもしやしません。兄さんにもそういう親しい言葉を始終かけて上げて下さいと云うだけです」彼女は蒼白あおじろい頬へ少し血を寄せた。その量が乏しいせいか、頬の奥の方にともしびけたのが遠くから皮膚をほてらしているようであった。しかし自分はその意味を深くも考えなかった。和歌山へ着いた時、二人は電車を降りた。降りて始めて自分は和歌山へ始めて来た事をさとった。実はこの地を見物する口実のもとに、あによめを連れて来たのだから、形式にもどこか見なければならなかった。「あらあなたまだ和歌山を知らないの。それでいてあたしを連れて来るなんて、ずいぶん呑気のんきね」嫂は心細そうに四方あたりを見廻した。自分も何分かきまりが悪かった。くるまへでも乗って車夫に好い加減な所へ連れて行って貰いましょうか。それともぶらぶら御城の方へでも歩いて行きますか」「そうね」嫂は遠くの空を眺めて、近い自分には眼を注がなかった。空はここも海辺かいへんと同じように曇っていた。不規則に濃淡を乱した雲が幾重いくえにも二人の頭の上をおおって、日を直下じかに受けるよりは蒸し熱かった。その上いつ驟雨しゅううが来るか解らないほどに、空の一部分がすでに黒ずんでいた。その黒ずんだえんの四方がぼかされたように輝いて、ちょうど今我々が見捨みすてて来た和歌の浦の見当に、すさまじい空の一角を描き出していた。嫂は今その気味の悪い所をまゆを寄せて眺めているらしかった。「降るでしょうか」自分はもとより降るに違ないと思っていた。それでとにかく俥を雇って、見るだけの所をけ抜けた方が得策だと考えた。自分はただちに俥を命じて、どこでも構わないからなるべく早く見物のできるようにいて廻れと命じた。車夫は要領を得たごとくまた得ないごとく、むやみに駆けた。狭い町へ出たり、例のはすの咲いているほりへ出たりまた狭い町へ出たりしたが、いっこうこれぞという所はなかった。最後に自分は俥の上で、こう駆けてばかりいては肝心かんじんの話ができないと気がついて、車夫にどこかゆっくりすわって話のできる所へ連れて行けと差図さしずした。

二十九

車夫は心得て駆け出した。今までと違って威勢があまり好過よすぎると思ううちに、二人の俥は狭い横町を曲って、突然大きな門をくぐった。自分があわてて、車夫を呼び留めようとした時、梶棒かじぼうはすでに玄関に横付よこづけになっていた。二人はどうする事もできなかった。その上若い着飾った下女が案内に出たので、二人はついにあがるべく余儀なくされた。「こんな所へ来るはずじゃなかったんですが」と自分はつい言訳らしい事を云った。「なぜ。だって立派な御茶屋じゃありませんか。結構だわ」と嫂が答えた。その答えぶりからすと、彼女は最初からこういう料理屋めいた所へでも来るのを予期していたらしかった。実際嫂のいった通りその座敷は物綺麗ものぎれいにかつ堅牢に出来上っていた。「東京辺の安料理屋よりかえって好いくらいですね」と自分は柱の木口きぐちとこの軸などを見廻した。嫂は手摺てすりの所へ出て、中庭を眺めていた。古い梅の株の下にらんの茂りが蒼黒あおぐろい影を深く見せていた。梅の幹にもかたくて細長いこけらしいものがところどころにくっついていた。下女が浴衣ゆかたを持って風呂の案内に来た。自分は風呂に這入はいる時間が惜しかった。そうして日が暮れはしまいかと心配した。できるならば一刻も早く用を片づけて、約束通り明るい路を浜辺はまべまで帰りたいと念じた。「どうします姉さん、風呂は」と聞いて見た。あによめも明るいうちには帰るように兄から兼ねて云いつけられていたので、そこはよく承知していた。彼女は帯の間から時計を出して見た。「まだ早いのよ、二郎さん。お湯へ這入っても大丈夫だわ」彼女は時間の遅く見えるのを全く天気のせいにした。もっとも濁った雲が幾重いくえにも空をとざしているので、時計の時間よりは世の中が暗く見えたのはたしかに違いなかった。自分はまた今にも降り出しそうな雨を恐れた。降るならひとしきりざっと来たあとで、帰った方がかえって楽だろうと考えた。「じゃちょっと汗を流して行きましょうか」二人はとうとう風呂にった。風呂から出るとぜんが運ばれた。時間からいうと飯には早過ぎた。酒は遠慮したかった。かつ飲める口でもなかった。自分はやむをえず、吸物を吸ったり、刺身をつっついたりした。下女が邪魔になるので、用があれば呼ぶからと云って下げた。嫂には改まって云い出したものだろうか、またはそれとなく話のついでにそこへ持って行ったものだろうかと思案した。思案し出すとどっちもいいようでまたどっちも悪いようであった。自分は吸物わんを手にしたままぼんやり庭の方を眺めていた。「何を考えていらっしゃるの」と嫂が聞いた。「何、降りゃしまいかと思ってね」と自分はいい加減な答をした。「そう。そんなに御天気がこわいの。あなたにも似合わないのね」「怖かないけど、もし強雨ごううにでもなっちゃ大変ですからね」自分がこう云っている内に、雨はぽつりぽつりと落ちて来た。よほど早くからの宴会でもあるのか、向うに見える二階の広間に、二三人紋付もんつき羽織はおりの人影が見えた。その見当で芸者が三味線の調子を合わせている音が聞え出した。宿を出るときすでにざわついていた自分の心は、この時一層落ちつきを失いかけて来た。自分は腹の中で、今日はとてもしんみりした話をする気になれないと恐れた。なぜまたその今日に限って、こんな変な事を引受けたのだろうと後悔もした。

三十

嫂はそんな事に気のつくはずがなかった。自分が雨を気にするのを見て、彼女はかえって不思議そうになじった。「何でそんなに雨が気になるの。降れば後が涼しくなって好いじゃありませんか」「だっていつやむか解らないから困るんです」「困りゃしないわ。いくら約束があったって、御天気のせいなら仕方がないんだから」「しかし兄さんに対して僕の責任がありますよ」「じゃすぐ帰りましょう」あによめはこう云って、すぐ立ち上った。その様子には一種の決断があらわれていた。むこうの座敷では客の頭がそろったのか、三味線のが雨を隔ててさわやかに聞え出した。電灯もすでに輝いた。自分もなかば嫂の決心にうながされて、腰を立てかけたが、考えると受合って来た話はまだ一言ひとことも口へ出していなかった。おくれて帰るのが母や兄にすまないごとく、少しも嫂に肝心かんじんの用談を打ち明けないのがまた自分の心にすまなかった。「姉さんこの雨は容易にやみそうもありませんよ。それに僕は姉さんに少し用談があって来たんだから」自分は半分空を眺めてまた嫂をふり返った。自分はもとよりの事、立ち上った彼女も、まだ帰る仕度したくは始めなかった。彼女は立ち上ったには、立ち上ったが、自分の様子しだいでその以後の態度を一定しようと、五分の隙間すきまなく身構えているらしく見えた。自分はまた軒端のきばへ首を出して上の方を望んだ。へやの位置が中庭を隔てて向うに大きな二階建の広間を控えているため、空はいつものように広くは限界に落ちなかった。したがって雲の往来ゆききや雨の降り按排あんばいも、一般的にはよく分らなかった。けれどもすさまじさが先刻さっきよりは一層はなはだしく庭木を痛振いたぶっているのは事実であった。自分は雨よりも空よりも、まずこの風に辟易へきえきした。「あなたも妙な方ね。帰るというからそのつもりで仕度をすれば、またすわってしまって」「仕度ってほどの仕度もしないじゃありませんか。ただ立ったぎりでさあ」自分がこう云った時、嫂はにっこりと笑った。そうして故意わざおのれのそですそのあたりをなるほどといったようなまた意外だと驚いたような眼つきで見廻した。それから微笑を含んでその様子を見ていた自分の前に再びぺたりと坐った。「何よ用談があるって。あたしにそんなむずかしい事が分りゃしないわ。それよりか向うの御座敷の三味線でも聞いてた方が増しよ」雨は軒に響くというよりもむしろ風に乗せられて、気ままな場所へたたきつけられて行くような音を起した。その間に三味線の音が気紛きまぐれものらしく時々二人の耳をかすめ去った。「用があるなら早くおっしゃいな」と彼女は催促した。「催促されたってちょっと云える事じゃありません」自分は実際彼女から促された時、何と切り出して好いか分らなかった。すると彼女はにやにやと笑った。「あなた取っていくつなの」「そんなに冷かしちゃいけません。本当に真面目まじめな事なんだから」「だから早くおっしゃいな」自分はいよいよ改まって忠告がましい事を云うのがいやになった。そうして彼女の前へ出た今の自分が何だか彼女から一段低く見縊みくびられているような気がしてならなかった。それだのにそこに一種の親しみを感じずにはまたいられなかった。

三十一

「姉さんはいくつでしたっけね」と自分はついにかぬ事を聞き出した。「これでもまだ若いのよ。あなたよりよっぽど下のつもりですわ」自分は始めから彼女の年と自分の年を比較する気はなかった。「兄さんとこへ来てからもう何年になりますかね」と聞いた。あによめはただ澄まして「そうね」と云った。あたしそんな事みんな忘れちまったわ。だいち自分の年さえ忘れるくらいですもの」嫂のこのとぼかたはいかにも嫂らしく響いた。そうして自分にはかえって嬌態きょうたいとも見えるこの不自然が、真面目まじめな兄にはなはだしい不愉快を与えるのではなかろうかと考えた。「姉さんは自分の年にさえ冷淡なんですね」自分はこんな皮肉を何となく云った。しかし云ったときの浮気うわきな心にすぐ気がつくと急に兄にすまない恐ろしさに襲われた。「自分の年なんかに、いくら冷淡でも構わないから、兄さんにだけはもう少し気をつけて親切にして上げて下さい」「妾そんなに兄さんに不親切に見えて。これでもできるだけの事は兄さんにして上げてるつもりよ。兄さんばかりじゃないわ。あなたにだってそうでしょう。ねえ二郎さん」自分は、自分にもっと不親切にして構わないから、兄の方にはもう少し優しくしてくれろと、頼むつもりで嫂の眼を見た時、また急に自分のあまいのに気がついた。嫂の前へ出て、こう差し向いにすわったが最後、とうてい真底から誠実に兄のために計る事はできないのだとまで思った。自分は言葉には少しも窮しなかった。どんな言語でも兄のために使おうとすれば使われた。けれどもそれを使う自分の心は、兄のためでなくってかえって自分のために使うのと同じ結果になりやすかった。自分はけっしてこんな役割を引き受けべき人格でなかった。自分は今更のように後悔した。「あなた急に黙っちまったのね」とその時嫂が云った。あたかも自分の急所を突くように。「兄さんのために、僕が先刻さっきからあなたに頼んでいる事を、姉さんは真面目に聞いて下さらないから」自分は恥ずかしい心をおさえてわざとこう云った。すると嫂は変にさみしい笑い方をした。「だってそりゃ無理よ二郎さん。妾馬鹿で気がつかないから、みんなから冷淡と思われているかも知れないけれど、これで全くできるだけの事を兄さんに対してしている気なんですもの。――妾ゃ本当に腑抜ふぬけなのよ。ことに近頃はたましい抜殻ぬけがらになっちまったんだから」「そう気をくさらせないで、もう少し積極的にしたらどうです」「積極的ってどうするの。御世辞おせじを使うの。妾御世辞は大嫌だいきらいよ。兄さんも御嫌いよ」「御世辞なんかうれしがるものもないでしょうけれども、もう少しどうかしたら兄さんも幸福でしょうし、姉さんも仕合せだろうから……」「よござんす。もう伺わないでも」と云ったあねは、その言葉の終らないうちに涙をぽろぽろと落した。あたしのようなたましい抜殻ぬけがらはさぞ兄さんには御気に入らないでしょう。しかし私はこれで満足です。これでたくさんです。兄さんについて今まで何の不足を誰にも云った事はないつもりです。そのくらいの事は二郎さんもたいてい見ていて解りそうなもんだのに……」泣きながら云うあによめの言葉は途切とぎれ途切れにしか聞こえなかった。しかしその途切れ途切れの言葉が鋭い力をもって自分の頭にこたえた。

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