三十二
自分は経験のある或る年長者から女の涙に金剛石はほとんどない、たいていは皆ギヤマン細工だとかつて教わった事がある。その時自分はなるほどそんなものかと思って感心して聞いていた。けれどもそれは単に言葉の上の智識に過ぎなかった。若輩な自分は嫂の涙を眼の前に見て、何となく可憐に堪えないような気がした。ほかの場合なら彼女の手を取って共に泣いてやりたかった。「そりゃ兄さんの気むずかしい事は誰にでも解ってます。あなたの辛抱も並大抵じゃないでしょう。けれども兄さんはあれで潔白すぎるほど潔白で正直すぎるほど正直な高尚な男です。敬愛すべき人物です……」「二郎さんに何もそんな事を伺わないでも兄さんの性質ぐらい妾だって承知しているつもりです。妻ですもの」嫂はこう云ってまたしゃくり上げた。自分はますます可哀そうになった。見ると彼女の眼を拭っていた小形の手帛が、皺だらけになって濡れていた。自分は乾いている自分ので彼女の眼や頬を撫でてやるために、彼女の顔に手を出したくてたまらなかった。けれども、何とも知れない力がまたその手をぐっと抑えて動けないように締めつけている感じが強く働いた。「正直なところ姉さんは兄さんが好きなんですか、また嫌なんですか」自分はこう云ってしまった後で、この言葉は手を出して嫂の頬を、拭いてやれない代りに自然口の方から出たのだと気がついた。嫂は手帛と涙の間から、自分の顔を覗くように見た。「二郎さん」「ええ」この簡単な答は、あたかも磁石に吸われた鉄の屑のように、自分の口から少しの抵抗もなく、何らの自覚もなく釣り出された。「あなた何の必要があってそんな事を聞くの。兄さんが好きか嫌いかなんて。妾が兄さん以外に好いてる男でもあると思っていらっしゃるの」「そういう訳じゃけっしてないんですが」「だから先刻から云ってるじゃありませんか。私が冷淡に見えるのは、全く私が腑抜のせいだって」「そう腑抜をことさらに振り舞わされちゃ困るね。誰も宅のものでそんな悪口を云うものは一人もないんですから」「云わなくっても腑抜よ。よく知ってるわ、自分だって。けど、これでも時々は他から親切だって賞められる事もあってよ。そう馬鹿にしたものでもないわ」自分はかつて大きなクッションに蜻蛉だの草花だのをいろいろの糸で、嫂に縫いつけて貰った御礼に、あなたは親切だと感謝した事があった。「あれ、まだ有るでしょう綺麗ね」と彼女が云った。「ええ。大事にして持っています」と自分は答えた。自分は事実だからこう答えざるを得なかった。こう答える以上、彼女が自分に親切であったという事実を裏から認識しない訳に行かなかった。ふと耳を欹てると向うの二階で弾いていた三味線はいつの間にかやんでいた。残り客らしい人の酔った声が時々風を横切って聞こえた。もうそれほど遅くなったのかと思って、時計を捜し出しにかかったところへ女中が飛石伝に縁側から首を出した。自分らはこの女中を通じて、和歌の浦が今暴風雨に包まれているという事を知った。電話が切れて話が通じないという事を知った。往来の松が倒れて電車が通じないという事も知った。
三十三
自分はその時急に母や兄の事を思い出した。眉を焦す火のごとく思い出した。狂う風と渦巻く浪に弄ばれつつある彼らの宿が想像の眼にありありと浮んだ。「姉さん大変な事になりましたね」と自分は嫂を顧みた。嫂はそれほど驚いた様子もなかった。けれども気のせいか、常から蒼い頬が一層蒼いように感ぜられた。その蒼い頬の一部と眼の縁に先刻泣いた痕跡がまだ残っていた。嫂はそれを下女に悟られるのが厭なんだろう、電灯に疎い不自然な方角へ顔を向けて、わざと入口の方を見なかった。「和歌の浦へはどうしても帰られないんでしょうか」と云った。見当違いの方から出たこの問は、自分に云うのか、または下女に聞くのか、ちょっと解らなかった。「俥でも駄目だろうね」と自分が同じような問を下女に取次いだ。下女は駄目という言葉こそ繰返さなかったが、危険な意味を反覆説明して、聞かせた上、是非今夜だけは和歌山へ泊れと忠告した。彼女の顔はむしろわれわれ二人の利害を標的にして物を云ってるらしく真面目に見えた。自分は下女の言葉を信ずれば信ずるほど母の事が気になった。防波堤と母の宿との間にはかれこれ五六町の道程があった。波が高くて少し土手を越すくらいなら、容易に三階の座敷まで来る気遣いはなかろうとも考えた。しかしもし海嘯が一度に寄せて来るとすると、……「おい海嘯であすこいらの宿屋がすっかり波に攫われる事があるかい」自分は本当に心配の余り下女にこう聞いた。下女はそんな事はないと断言した。しかし波が防波堤を越えて土手下へ落ちてくるため、中が湖水のようにいっぱいになる事は二三度あったと告げた。「それにしたって、水に浸った家は大変だろう」と自分はまた聞いた。下女は、高々水の中で家がぐるぐる回るくらいなもので、海まで持って行かれる心配はまずあるまいと答えた。この呑気な答えが心配の中にも自分を失笑せしめた。「ぐるぐる回りゃそれでたくさんだ。その上海まで持ってかれた日にゃ好い災難じゃないか」下女は何とも云わずに笑っていた。嫂も暗い方から電灯をまともに見始めた。「姉さんどうします」「どうしますって、妾女だからどうして好いか解らないわ。もしあなたが帰るとおっしゃれば、どんな危険があったって、妾いっしょに行くわ」「行くのは構わないが、――困ったな。じゃ今夜は仕方がないからここへ泊るとしますか」「あなたが御泊りになれば妾も泊るよりほかに仕方がないわ。女一人でこの暗いのにとても和歌の浦まで行く訳には行かないから」下女は今まで勘違をしていたと云わぬばかりの眼遣をして二人を見較べた。「おい電話はどうしても通じないんだね」と自分はまた念のため聞いて見た。「通じません」自分は電話口へ出て直接に試みて見る勇気もなかった。「じゃしようがない泊ることにきめましょう」と今度は嫂に向った。「ええ」彼女の返事はいつもの通り簡単でそうして落ちついていた。「町の中なら俥が通うんだね」と自分はまた下女に向った。
三十四
二人はこれから料理屋で周旋してくれた宿屋まで行かなければならなかった。仕度をして玄関を下りた時、そこに輝く電灯と、車夫の提灯とが、雨の音と風の叫びに冴えて、あたかも闇に狂う物凄さを照らす道具のように思われた。嫂はまず色の眼につくあでやかな姿を黒い幌の中へ隠した。自分もつづいて窮屈な深い桐油の中に身体を入れた。幌の中に包まれた自分はほとんど往来の凄じさを見る遑がなかった。自分の頭はまだ経験した事のない海嘯というものに絶えず支配された。でなければ、意地の悪い天候のお蔭で、自分が兄の前で一徹に退けた事を、どうしても実行しなければならなくなった運命をつらく観じた。自分の頭は落ちついて想像したり観じたりするほどの余裕を無論もたなかった。ただ乱雑な火事場のように取留めもなくくるくる廻転した。そのうち俥の梶棒が一軒の宿屋のような構の門口へ横づけになった。自分は何だか暖簾を潜って土間へ這入ったような気がしたがたしかには覚えていない。土間は幅の割に竪からいってだいぶ長かった。帳場も見えず番頭もいず、ただ一人の下女が取次に出ただけで、宵の口としては至って淋しい光景であった。自分達は黙ってそこに突立っていた。自分はなぜだか嫂に話したくなかった。彼女も澄まして絹張の傘の先を斜に土間に突いたなりで立っていた。下女の案内で二人の通された部屋は、縁側を前に御簾のような簀垂を軒に懸けた古めかしい座敷であった。柱は時代で黒く光っていた。天井にも煤の色が一面に見えた。嫂は例の傘を次の間の衣桁に懸けて、「ここは向うが高い棟で、こっちが厚い練塀らしいから風の音がそんなに聞えないけれど、先刻俥へ乗った時は大変ね。幌の上でひゅひゅいうのが気味が悪かったぐらいよ。あなた風の重みが俥の幌に乗しかかって来るのが乗ってて分ったでしょう。妾もう少しで俥が引っ繰返るかも知れないと思ったわ」と云った。自分は少し逆上していたので、そんな事はよく注意していられなかった。けれどもその通りを真直に答えるほどの勇気もなかった。「ええずいぶんな風でしたね」とごまかした。「ここでこのくらいじゃ、和歌の浦はさぞ大変でしょうね」と嫂が始めて和歌の浦の事を云い出した。自分は胸がまたわくわくし出した。「姐さんここの電話も切れてるのかね」と云って、答えも待たずに風呂場に近い電話口まで行った。そこで帳面を引っ繰返しながら、号鈴をしきりに鳴らして、母と兄の泊っている和歌の浦の宿へかけて見た。すると不思議に向うで二言三言何か云ったような気がするので、これはありがたいと思いつつなお暴風雨の模様を聞こうとすると、またさっぱり通じなくなった。それから何遍もしもしと呼んでもいくら号鈴を鳴らしても、呼び甲斐も鳴らし甲斐も全く無くなったので、ついに我を折ってわが部屋へ引き戻して来た。嫂は蒲団の上に坐って茶を啜っていたが、自分の足音を聴きつつふり返って、「電話はどうして?通じて?」と聞いた。自分は電話について今の一部始終を説明した。「おおかたそんな事だろうと思った。とても駄目よ今夜は。いくらかけたって、風で電話線を吹き切っちまったんだから。あの音を聞いたって解るじゃありませんか」風はどこからか二筋に綯れて来たのが、急に擦違になって唸るような怪しい音を立てて、また虚空遥に騰るごとくに見えた。
三十五
二人が風に耳を峙だてていると、下女が風呂の案内に来た。それから晩食を食うかと聞いた。自分は晩食などを欲しいと思う気になれなかった。「どうします」と嫂に相談して見た。「そうね。どうでもいいけども。せっかく泊ったもんだから、御膳だけでも見た方がいいでしょう」と彼女は答えた。下女が心得て立って行ったかと思うと、宅中の電灯がぱたりと消えた。黒い柱と煤けた天井でたださえ陰気な部屋が、今度は真暗になった。自分は鼻の先に坐っている嫂を嗅げば嗅がれるような気がした。「姉さん怖かありませんか」「怖いわ」という声が想像した通りの見当で聞こえた。けれどもその声のうちには怖らしい何物をも含んでいなかった。またわざと怖がって見せる若々しい蓮葉の態度もなかった。二人は暗黒のうちに坐っていた。動かずにまた物を云わずに、黙って坐っていた。眼に色を見ないせいか、外の暴風雨は今までよりは余計耳についた。雨は風に散らされるのでそれほど恐ろしい音も伝えなかったが、風は屋根も塀も電柱も、見境なく吹き捲って悲鳴を上げさせた。自分達の室は地面の上の穴倉みたような所で、四方共頑丈な建物だの厚い塗壁だのに包まれて、縁の前の小さい中庭さえ比較的安全に見えたけれども、周囲一面から出る一種凄じい音響は、暗闇に伴って起る人間の抵抗しがたい不可思議な威嚇であった。「姉さんもう少しだから我慢なさい。今に女中が灯を持って来るでしょうから」自分はこう云って、例の見当から嫂の声が自分の鼓膜に響いてくるのを暗に予期していた。すると彼女は何事をも答えなかった。それが漆に似た暗闇の威力で、細い女の声さえ通らないように思われるのが、自分には多少無気味であった。しまいに自分の傍にたしかに坐っているべきはずの嫂の存在が気にかかり出した。「姉さん」嫂はまだ黙っていた。自分は電気灯の消えない前、自分の向うに坐っていた嫂の姿を、想像で適当の距離に描き出した。そうしてそれを便りにまた「姉さん」と呼んだ。「何よ」彼女の答は何だか蒼蠅そうであった。「いるんですか」「いるわあなた。人間ですもの。嘘だと思うならここへ来て手で障って御覧なさい」自分は手捜りに捜り寄って見たい気がした。けれどもそれほどの度胸がなかった。そのうち彼女の坐っている見当で女帯の擦れる音がした。「姉さん何かしているんですか」と聞いた。「ええ」「何をしているんですか」と再び聞いた。「先刻下女が浴衣を持って来たから、着換えようと思って、今帯を解いているところです」と嫂が答えた。自分が暗闇で帯の音を聞いているうちに、下女は古風な蝋燭を点けて縁側伝いに持って来た。そうしてそれを座敷の床の横にある机の上に立てた。蝋燭の焔がちらちら右左へ揺れるので、黒い柱や煤けた天井はもちろん、灯の勢の及ぶ限りは、穏かならぬ薄暗い光にどよめいて、自分の心を淋しく焦立たせた。ことさら床に掛けた軸と、その前に活けてある花とが、気味の悪いほど目立って蝋燭の灯の影響を受けた。自分は手拭を持って、また汗を流しに風呂へ行った。風呂は怪しげなカンテラで照らされていた。
三十六
自分は佗びしい光でやっと見分のつく小桶を使ってざあざあ背中を流した。出がけにまた念のためだから電話をちりんちりん鳴らして見たがさらに通じる気色がないのでやめた。嫂は自分と入れ代りに風呂へ入ったかと思うとすぐ出て来た。「何だか暗くって気味が悪いのね。それに桶や湯槽が古いんでゆっくり洗う気にもなれないわ」その時自分は畏まった下女を前に置いて蝋燭の灯を便に宿帳をつけべく余儀なくされていた。「姉さん宿帳はどうつけたら好いでしょう」「どうでも。好い加減に願います」嫂はこう云って小さい袋から櫛やなにか這入っている更紗の畳紙を出し始めた。彼女は後向になって蝋燭を一つ占領して鏡台に向いつつ何かやっていた。自分は仕方なしに東京の番地と嫂の名を書いて、わざと傍に一郎妻と認めた。同様の意味で自分の側にも一郎弟とわざわざ断った。飯の出る前に、何の拍子か、先に暗くなった電灯がまた一時に明るくなった。その時台所の方でわあと喜びの鬨の声を挙げたものがあった。暴風雨で魚がないと下女が言訳を云ったにかかわらず、われわれの膳の上は明かであった。「まるで生返ったようね」と嫂が云った。すると電灯がまたぱっと消えた。自分は急に箸を消えたところに留めたぎり、しばらく動かさなかった。「おやおや」下女は大きな声をして朋輩の名を呼びながら灯火を求めた。自分は電気灯がぱっと明るくなった瞬間に嫂が、いつの間にか薄く化粧を施したという艶かしい事実を見て取った。電灯の消えた今、その顔だけが真闇なうちにもとの通り残っているような気がしてならなかった。「姉さんいつ御粧したんです」「あら厭だ真闇になってから、そんな事を云いだして。あなたいつ見たの」下女は暗闇で笑い出した。そうして自分の眼ざとい事を賞めた。「こんな時に白粉まで持って来るのは実に細かいですね、姉さんは」と自分はまた暗闇の中で嫂に云った。「白粉なんか持って来やしないわ。持って来たのはクリームよ、あなた」と彼女はまた暗闇の中で弁解した。自分は暗がりの中で、しかも下女のいる前で、こんな冗談を云うのが常よりは面白かった。そこへ彼女の朋輩がまた別の蝋燭を二本ばかり点けて来た。室の中は裸蝋燭の灯で渦を巻くように動揺した。自分も嫂も眉を顰めて燃える焔の先を見つめていた。そうして落ちつきのない淋しさとでも形容すべき心持を味わった。ほどなく自分達は寝た。便所に立った時、自分は窓の間から空を仰ぐように覗いて見た。今まで多少静まっていた暴風雨が、この時は夜更と共に募ったものか、真黒な空が真黒いなりに活動して、瞬間も休まないように感ぜられた。自分は恐ろしい空の中で、黒い電光が擦れ合って、互に黒い針に似たものを隙間なく出しながら、この暗さを大きな音の中に維持しているのだと想像し、かつその想像の前に畏縮した。蚊帳の外には蝋燭の代りに下女が床を延べた時、行灯を置いて行った。その行灯がまた古風な陰気なもので、いっそ吹き消して闇がりにした方が、微かな光に照らされる無気味さよりはかえって心持が好いくらいだった。自分は燐寸を擦って、薄暗い所で煙草を呑み始めた。

