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行人・夏目漱石

16

朗読者: VOICEVOX Nemo / ノーマル選択中朗読を再生できる

三十二

自分は経験のある或る年長者から女の涙に金剛石ダイヤはほとんどない、たいていは皆ギヤマン細工ざいくだとかつて教わった事がある。その時自分はなるほどそんなものかと思って感心して聞いていた。けれどもそれは単に言葉の上の智識に過ぎなかった。若輩じゃくはいな自分は嫂の涙を眼の前に見て、何となく可憐かれんえないような気がした。ほかの場合なら彼女の手を取って共に泣いてやりたかった。「そりゃ兄さんの気むずかしい事は誰にでも解ってます。あなたの辛抱も並大抵なみたいていじゃないでしょう。けれども兄さんはあれで潔白すぎるほど潔白で正直すぎるほど正直な高尚な男です。敬愛すべき人物です……」「二郎さんに何もそんな事を伺わないでも兄さんの性質ぐらい妾だって承知しているつもりです。さいですもの」嫂はこう云ってまたしゃくり上げた。自分はますます可哀かわいそうになった。見ると彼女の眼をぬぐっていた小形の手帛ハンケチが、しわだらけになってれていた。自分は乾いている自分ので彼女の眼や頬をでてやるために、彼女の顔に手を出したくてたまらなかった。けれども、何とも知れない力がまたその手をぐっと抑えて動けないように締めつけている感じが強く働いた。「正直なところ姉さんは兄さんが好きなんですか、またきらいなんですか」自分はこう云ってしまったあとで、この言葉は手を出して嫂の頬を、拭いてやれない代りに自然口の方から出たのだと気がついた。嫂は手帛と涙の間から、自分の顔をのぞくように見た。「二郎さん」「ええ」この簡単な答は、あたかも磁石じしゃくに吸われた鉄のくずのように、自分の口から少しの抵抗もなく、何らの自覚もなく釣り出された。「あなた何の必要があってそんな事を聞くの。兄さんが好きか嫌いかなんて。あたしが兄さん以外に好いてる男でもあると思っていらっしゃるの」「そういう訳じゃけっしてないんですが」「だから先刻さっきから云ってるじゃありませんか。私が冷淡に見えるのは、全く私が腑抜ふぬけのせいだって」「そう腑抜をことさらに振り舞わされちゃ困るね。誰もうちのものでそんな悪口を云うものは一人もないんですから」「云わなくっても腑抜よ。よく知ってるわ、自分だって。けど、これでも時々はひとから親切だってめられる事もあってよ。そう馬鹿にしたものでもないわ」自分はかつて大きなクッションに蜻蛉とんぼだの草花だのをいろいろの糸で、あによめに縫いつけて貰った御礼に、あなたは親切だと感謝した事があった。「あれ、まだ有るでしょう綺麗きれいね」と彼女が云った。「ええ。大事にして持っています」と自分は答えた。自分は事実だからこう答えざるを得なかった。こう答える以上、彼女が自分に親切であったという事実を裏から認識しない訳に行かなかった。ふと耳をそばだてると向うの二階でいていた三味線はいつの間にかやんでいた。残り客らしい人の酔った声が時々風を横切って聞こえた。もうそれほど遅くなったのかと思って、時計をさがし出しにかかったところへ女中が飛石伝とびいしづたい縁側えんがわから首を出した。自分らはこの女中を通じて、和歌の浦が今暴風雨に包まれているという事を知った。電話が切れて話が通じないという事を知った。往来の松が倒れて電車が通じないという事も知った。

三十三

自分はその時急に母や兄の事を思い出した。まゆこがす火のごとく思い出した。くるう風と渦巻うずまなみもてあそばれつつある彼らの宿が想像の眼にありありと浮んだ。「姉さん大変な事になりましたね」と自分は嫂を顧みた。嫂はそれほど驚いた様子もなかった。けれども気のせいか、常からあおい頬が一層蒼いように感ぜられた。その蒼い頬の一部と眼のふち先刻さっき泣いた痕跡こんせきがまだ残っていた。嫂はそれを下女に悟られるのがいやなんだろう、電灯にうとい不自然な方角へ顔を向けて、わざと入口の方を見なかった。「和歌の浦へはどうしても帰られないんでしょうか」と云った。見当違いの方から出たこの問は、自分に云うのか、または下女に聞くのか、ちょっと解らなかった。くるまでも駄目だめだろうね」と自分が同じような問を下女に取次いだ。下女は駄目という言葉こそ繰返さなかったが、危険な意味を反覆説明して、聞かせた上、是非今夜だけは和歌山ここへ泊れと忠告した。彼女の顔はむしろわれわれ二人の利害を標的まとにして物を云ってるらしく真面目まじめに見えた。自分は下女の言葉を信ずれば信ずるほど母の事が気になった。防波堤と母の宿との間にはかれこれ五六町の道程みちのりがあった。波が高くて少し土手を越すくらいなら、容易に三階の座敷まで来る気遣きづかいはなかろうとも考えた。しかしもし海嘯つなみが一度に寄せて来るとすると、……「おい海嘯であすこいらの宿屋がすっかり波にさらわれる事があるかい」自分は本当に心配の余り下女にこう聞いた。下女はそんな事はないと断言した。しかし波が防波堤を越えて土手下へ落ちてくるため、中が湖水みずうみのようにいっぱいになる事は二三度あったと告げた。「それにしたって、水につかったうちは大変だろう」と自分はまた聞いた。下女は、高々水の中で家がぐるぐるまわるくらいなもので、海まで持って行かれる心配はまずあるまいと答えた。この呑気のんきな答えが心配の中にも自分を失笑せしめた。「ぐるぐる回りゃそれでたくさんだ。その上海まで持ってかれた日にゃ好い災難じゃないか」下女は何とも云わずに笑っていた。あによめも暗い方から電灯をまともに見始めた。「姉さんどうします」「どうしますって、あたし女だからどうして好いか解らないわ。もしあなたが帰るとおっしゃれば、どんな危険があったって、妾いっしょに行くわ」「行くのは構わないが、――困ったな。じゃ今夜は仕方がないからここへ泊るとしますか」「あなたが御泊りになれば妾も泊るよりほかに仕方がないわ。女一人でこの暗いのにとても和歌の浦まで行く訳には行かないから」下女は今まで勘違かんちがいをしていたと云わぬばかりの眼遣めづかいをして二人を見較べた。「おい電話はどうしても通じないんだね」と自分はまた念のため聞いて見た。「通じません」自分は電話口へ出て直接に試みて見る勇気もなかった。「じゃしようがない泊ることにきめましょう」と今度は嫂に向った。「ええ」彼女の返事はいつもの通り簡単でそうして落ちついていた。「町の中ならくるまが通うんだね」と自分はまた下女に向った。

三十四

二人はこれから料理屋で周旋してくれた宿屋まで行かなければならなかった。仕度したくをして玄関を下りた時、そこに輝く電灯と、車夫の提灯ちょうちんとが、雨の音と風の叫びにえて、あたかもやみに狂う物凄ものすごさを照らす道具のように思われた。あによめはまず色の眼につくあでやかな姿を黒いほろの中へ隠した。自分もつづいて窮屈な深い桐油とうゆの中に身体からだを入れた。幌の中に包まれた自分はほとんど往来のすさまじさを見るいとまがなかった。自分の頭はまだ経験した事のない海嘯つなみというものに絶えず支配された。でなければ、意地の悪い天候のお蔭で、自分が兄の前で一徹に退しりぞけた事を、どうしても実行しなければならなくなった運命をつらくかんじた。自分の頭は落ちついて想像したり観じたりするほどの余裕を無論もたなかった。ただ乱雑な火事場のように取留めもなくくるくる廻転した。そのうちくるま梶棒かじぼうが一軒の宿屋のようなかまえの門口へ横づけになった。自分は何だか暖簾のれんくぐって土間へ這入はいったような気がしたがたしかには覚えていない。土間は幅の割にたてからいってだいぶ長かった。帳場も見えず番頭もいず、ただ一人の下女が取次に出ただけで、よいの口としては至ってさみしい光景であった。自分達は黙ってそこに突立っていた。自分はなぜだか嫂に話したくなかった。彼女も澄まして絹張のかさの先をななめに土間に突いたなりで立っていた。下女の案内で二人の通された部屋は、縁側えんがわを前に御簾みすのような簀垂すだれを軒に懸けた古めかしい座敷であった。柱は時代で黒く光っていた。天井てんじょうにもすすの色が一面に見えた。嫂は例の傘を次の衣桁いこうに懸けて、「ここは向うが高いむねで、こっちが厚い練塀ねりべいらしいから風の音がそんなに聞えないけれど、先刻さっき俥へ乗った時は大変ね。ほろの上でひゅひゅいうのが気味が悪かったぐらいよ。あなた風の重みが俥の幌にしかかって来るのが乗ってて分ったでしょう。あたしもう少しで俥が繰返くりかえるかも知れないと思ったわ」と云った。自分は少し逆上していたので、そんな事はよく注意していられなかった。けれどもその通りを真直まっすぐに答えるほどの勇気もなかった。「ええずいぶんな風でしたね」とごまかした。「ここでこのくらいじゃ、和歌の浦はさぞ大変でしょうね」と嫂が始めて和歌の浦の事を云い出した。自分は胸がまたわくわくし出した。ねえさんここの電話も切れてるのかね」と云って、答えも待たずに風呂場に近い電話口まで行った。そこで帳面を引っ繰返しながら、号鈴ベルをしきりに鳴らして、母と兄の泊っている和歌の浦の宿へかけて見た。すると不思議に向うで二言三言何か云ったような気がするので、これはありがたいと思いつつなお暴風雨あらしの模様を聞こうとすると、またさっぱり通じなくなった。それから何遍もしもしと呼んでもいくら号鈴を鳴らしても、甲斐がいも鳴らし甲斐も全く無くなったので、ついにを折ってわが部屋へ引き戻して来た。嫂は蒲団ふとんの上にすわって茶をすすっていたが、自分の足音を聴きつつふり返って、「電話はどうして?通じて?」と聞いた。自分は電話について今の一部始終いちぶしじゅうを説明した。「おおかたそんな事だろうと思った。とても駄目よ今夜は。いくらかけたって、風で電話線を吹き切っちまったんだから。あの音を聞いたって解るじゃありませんか」風はどこからか二筋にれて来たのが、急に擦違すれちがいになってうなるような怪しい音を立てて、また虚空遥こくうはるかのぼるごとくに見えた。

三十五

二人が風に耳をそばだてていると、下女が風呂の案内に来た。それから晩食ばんめしを食うかと聞いた。自分は晩食などを欲しいと思う気になれなかった。「どうします」あによめに相談して見た。「そうね。どうでもいいけども。せっかく泊ったもんだから、御膳おぜんだけでも見た方がいいでしょう」と彼女は答えた。下女が心得て立って行ったかと思うと、宅中うちじゅうの電灯がぱたりと消えた。黒い柱とすすけた天井でたださえ陰気な部屋が、今度は真暗まっくらになった。自分は鼻の先にすわっている嫂をげば嗅がれるような気がした。「姉さんこわかありませんか」「怖いわ」という声が想像した通りの見当で聞こえた。けれどもその声のうちには怖らしい何物をも含んでいなかった。またわざと怖がって見せる若々しい蓮葉はすはの態度もなかった。二人は暗黒のうちに坐っていた。動かずにまた物を云わずに、黙って坐っていた。眼に色を見ないせいか、外の暴風雨あらしは今までよりは余計耳についた。雨は風に散らされるのでそれほど恐ろしい音も伝えなかったが、風は屋根もへいも電柱も、見境みさかいなく吹きめくって悲鳴を上げさせた。自分達のへやは地面の上の穴倉みたような所で、四方共頑丈がんじょうな建物だの厚い塗壁だのにかこまれて、縁の前の小さい中庭さえ比較的安全に見えたけれども、周囲一面から出る一種すさまじい音響は、暗闇くらやみに伴って起る人間の抵抗しがたい不可思議な威嚇いかくであった。「姉さんもう少しだから我慢なさい。今に女中がを持って来るでしょうから」自分はこう云って、例の見当から嫂の声が自分の鼓膜こまくに響いてくるのを暗に予期していた。すると彼女は何事をも答えなかった。それがうるしに似た暗闇の威力で、細い女の声さえ通らないように思われるのが、自分には多少無気味であった。しまいに自分のそばにたしかに坐っているべきはずの嫂の存在が気にかかり出した。「姉さん」嫂はまだ黙っていた。自分は電気灯の消えない前、自分の向うに坐っていた嫂の姿を、想像で適当の距離に描き出した。そうしてそれを便りにまた「姉さん」と呼んだ。「何よ」彼女の答は何だか蒼蠅うるさそうであった。「いるんですか」「いるわあなた。人間ですもの。うそだと思うならここへ来て手でさわって御覧なさい」自分は手捜てさぐりに捜り寄って見たい気がした。けれどもそれほどの度胸がなかった。そのうち彼女の坐っている見当で女帯のれる音がした。「姉さん何かしているんですか」と聞いた。「ええ」「何をしているんですか」と再び聞いた。先刻さっき下女が浴衣ゆかたを持って来たから、着換えようと思って、今帯を解いているところです」あによめが答えた。自分が暗闇くらやみで帯の音を聞いているうちに、下女は古風な蝋燭ろうそくけて縁側伝えんがわづたいに持って来た。そうしてそれを座敷のとこの横にある机の上に立てた。蝋燭のほのおがちらちら右左へ揺れるので、黒い柱やすすけた天井はもちろん、の勢の及ぶ限りは、穏かならぬ薄暗い光にどよめいて、自分の心をさびしく焦立いただたせた。ことさら床に掛けた軸と、その前に活けてある花とが、気味の悪いほど目立って蝋燭の灯の影響を受けた。自分は手拭てぬぐいを持って、また汗を流しに風呂へ行った。風呂は怪しげなカンテラで照らされていた。

三十六

自分はびしい光でやっと見分みわけのつく小桶こおけを使ってざあざあ背中を流した。出がけにまた念のためだから電話をちりんちりん鳴らして見たがさらに通じる気色けしきがないのでやめた。嫂は自分と入れ代りに風呂へ入ったかと思うとすぐ出て来た。「何だか暗くって気味が悪いのね。それにおけ湯槽ゆぶねが古いんでゆっくり洗う気にもなれないわ」その時自分はかしこまった下女を前に置いて蝋燭の灯を便たよりに宿帳をつけべく余儀なくされていた。「姉さん宿帳はどうつけたら好いでしょう」「どうでも。好い加減に願います」嫂はこう云って小さい袋からくしやなにか這入はいっている更紗さらさ畳紙たとうを出し始めた。彼女は後向うしろむきになって蝋燭を一つ占領して鏡台に向いつつ何かやっていた。自分は仕方なしに東京の番地と嫂の名を書いて、わざとそばに一郎さいしたためた。同様の意味で自分のわきにも一郎おとととわざわざ断った。飯の出る前に、何の拍子ひょうしか、先に暗くなった電灯がまた一時に明るくなった。その時台所の方でわあと喜びのときの声を挙げたものがあった。暴風雨しけで魚がないと下女が言訳を云ったにかかわらず、われわれのぜんの上は明かであった。「まるで生返ったようね」と嫂が云った。すると電灯がまたぱっと消えた。自分は急にはしを消えたところに留めたぎり、しばらく動かさなかった。「おやおや」下女は大きな声をして朋輩ほうばいの名を呼びながら灯火あかりを求めた。自分は電気灯がぱっと明るくなった瞬間にあによめが、いつの間にか薄く化粧けしょうを施したというなまめかしい事実を見て取った。電灯の消えた今、その顔だけが真闇まっくらなうちにもとの通り残っているような気がしてならなかった。「姉さんいつ御粧おつくりしたんです」「あらいやだ真闇になってから、そんな事を云いだして。あなたいつ見たの」下女は暗闇くらやみで笑い出した。そうして自分の眼ざとい事をめた。「こんな時に白粉おしろいまで持って来るのは実に細かいですね、姉さんは」と自分はまた暗闇の中で嫂に云った。「白粉なんか持って来やしないわ。持って来たのはクリームよ、あなた」と彼女はまた暗闇の中で弁解した。自分は暗がりの中で、しかも下女のいる前で、こんな冗談を云うのが常よりは面白かった。そこへ彼女の朋輩がまた別の蝋燭ろうそくを二本ばかりけて来た。へやの中は裸蝋燭のうずを巻くように動揺した。自分も嫂もまゆひそめて燃えるほのおの先を見つめていた。そうして落ちつきのないさびしさとでも形容すべき心持を味わった。ほどなく自分達は寝た。便所に立った時、自分は窓の間から空を仰ぐようにのぞいて見た。今まで多少静まっていた暴風雨あらしが、この時は夜更よふけと共につのったものか、真黒な空が真黒いなりに活動して、瞬間も休まないように感ぜられた。自分は恐ろしい空の中で、黒い電光がれ合って、互に黒い針に似たものを隙間すきまなく出しながら、この暗さを大きな音のうちに維持しているのだと想像し、かつその想像の前に畏縮いしゅくした。蚊帳かやの外には蝋燭の代りに下女が床を延べた時、行灯あんどんを置いて行った。その行灯がまた古風こふうな陰気なもので、いっそ吹き消してくらがりにした方が、かすかな光に照らされる無気味さよりはかえって心持が好いくらいだった。自分は燐寸マッチって、薄暗い所で煙草たばこみ始めた。

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