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行人・夏目漱石

17

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三十七

自分は先刻さっきから少しも寝なかった。小用こように立って、一本の紙巻を吹かす間にもいろいろな事を考えた。それが取りとめもなく雑然と一度に来るので、自分にも何が主要の問題だか捕えられなかった。自分は燐寸を擦って煙草を呑んでいる事さえ時々忘れた。しかもそこに気がついて、再び吸口をくちびるくわえる時の煙の無味まずさはまた特別であった。自分の頭の中には、今見て来た正体しょうたいの解らない黒い空が、すさまじく一様に動いていた。それから母や兄のいる三階の宿が波を幾度となくかぶって、くるりくるりと廻り出していた。それが片づかないうちに、この部屋の中に寝ている嫂の事がまた気になり出した。天災とは云え二人でここへ泊った言訳をどうしたものだろうと考えた。弁解してからあと兄の機嫌きげんをどうして取り直したものだろうとも考えた。同時に今日嫂といっしょに出て、滅多めったにないこんな冒険を共にしたうれしさがどこからかいて出た。その嬉しさが出た時、自分は風も雨も海嘯つなみも母も兄もことごとく忘れた。するとその嬉しさがまた俄然がぜんとして一種の恐ろしさに変化した。恐ろしさと云うよりも、むしろ恐ろしさの前触まえぶれであった。どこかに潜伏しているように思われる不安の徴候であった。そうしてその時は外面そとを狂い廻る暴風雨あらしが、木を根こぎにしたり、へいを倒したり、屋根瓦をくったりするのみならず、今薄暗い行灯あんどんもとで味のない煙草たばこを吸っているこの自分を、粉微塵こみじんに破壊する予告のごとく思われた。自分がこんな事をぐるぐる考えているうちに、蚊帳かやの中に死人のごとくおとなしくしていたあによめが、急に寝返ねがえりをした。そうして自分に聞えるように長い欠伸あくびをした。「姉さんまだ寝ないんですか」と自分は煙草の煙の間から嫂に聞いた。「ええ、だってこの吹き降りじゃ寝ようにも寝られないじゃありませんか」「僕もあの風の音が耳についてどうする事もできない。電灯の消えたのは、何でもここいら近所にある柱が一本とか二本とか倒れたためだってね」「そうよ、そんな事を先刻さっき下女が云ったわね」「御母さんと兄さんはどうしたでしょう」あたしも先刻からその事ばかり考えているの。しかしまさかなみ這入はいらないでしょう。這入ったって、あの土手の松の近所にある怪しい藁屋わらやぐらいなものよ。持ってかれるのは。もし本当の海嘯が来てあすこ界隈かいわいをすっかりさらって行くんなら、妾本当に惜しい事をしたと思うわ」「なぜ」「なぜって、妾そんな物凄ものすごいところが見たいんですもの」「冗談じゃない」と自分は嫂の言葉をぶった切るつもりで云った。すると嫂は真面目に答えた。「あら本当よ二郎さん。妾死ぬなら首をくくったり咽喉のどを突いたり、そんな小刀細工をするのはきらいよ。大水に攫われるとか、雷火に打たれるとか、猛烈で一息な死に方がしたいんですもの」自分は小説などをそれほど愛読しない嫂から、始めてこんなロマンチックな言葉を聞いた。そうして心のうちでこれは全く神経の昂奮こうふんから来たに違いないと判じた。「何かの本にでも出て来そうな死方ですね」「本に出るか芝居でやるか知らないが、妾ゃ真剣にそう考えてるのよ。うそだと思うならこれから二人で和歌の浦へ行って浪でも海嘯でも構わない、いっしょに飛び込んで御目にかけましょうか」「あなた今夜は昂奮している」と自分は慰撫なだめるごとく云った。「妾の方があなたよりどのくらい落ちついているか知れやしない。たいていの男は意気地なしね、いざとなると」と彼女は床の中で答えた。

三十八

自分はこの時始めて女というものをまだ研究していない事に気がついた。あによめはどこからどう押しても押しようのない女であった。こっちが積極的に進むとまるで暖簾のれんのように抵抗たわいがなかった。仕方なしにこっちが引き込むと、突然変なところへ強い力を見せた。その力のうちにはとても寄りつけそうにない恐ろしいものもあった。またはこれなら相手にできるから進もうかと思って、まだ進みかねている中に、ふっと消えてしまうのもあった。自分は彼女と話している間始終しじゅう彼女から翻弄ほんろうされつつあるような心持がした。不思議な事に、その翻弄される心持が、自分に取って不愉快であるべきはずだのに、かえって愉快でならなかった。彼女は最後に物凄ものすごい決心を語った。海嘯つなみさらわれて行きたいとか、雷火に打たれて死にたいとか、何しろ平凡以上に壮烈な最後を望んでいた。自分は平生から(ことに二人でこの和歌山に来てから)体力や筋力においてはるかに優勢な位地に立ちつつも、嫂に対してはどことなく無気味な感じがあった。そうしてその無気味さがはなはだれやすい感じと妙に相伴っていた。自分は詩や小説にそれほど親しみのない嫂のくせに、何に昂奮こうふんして海嘯に攫われて死にたいなどと云うのか、そこをもっと突きとめて見たかった。「姉さんが死ぬなんて事を云い出したのは今夜始めてですね」「ええ口へ出したのは今夜が始めてかも知れなくってよ。けれども死ぬ事は、死ぬ事だけはどうしたって心の中で忘れた日はありゃしないわ。だからうそだと思うなら、和歌の浦までれて行ってちょうだい。きっと浪の中へ飛込んで死んで見せるから」薄暗い行灯あんどんもとで、暴風雨あらしの音の間にこの言葉を聞いた自分は、実際物凄かった。彼女は平生から落ちついた女であった。歇私的里風ヒステリふうなところはほとんどなかった。けれども寡言かげんな彼女の頬は常にあおかった。そうしてどこかの調子で眼の中に意味の強い解すべからざる光が出た。「姉さんは今夜よっぽどどうかしている。何か昂奮している事でもあるんですか」自分は彼女の涙を見る事はできなかった。また彼女の泣き声を聞く事もできなかった。けれども今にもそこに至りそうな気がするので、暗い行灯あんどんの光を便たよりに、蚊帳かやの中をのぞいて見た。彼女は赤い蒲団ふとんを二枚重ねてその上にふちを取った白麻しろあさの掛蒲団を胸の所まで行儀よく掛けていた。自分が暗いでその姿をのぞき込んだ時、彼女は枕を動かして自分の方を見た。「あなた昂奮昂奮って、よくおっしゃるけれどもあたしゃあなたよりいくら落ちついてるか解りゃしないわ。いつでも覚悟ができてるんですもの」自分は何と答うべき言葉も持たなかった。黙って二本目の敷島しきしまを暗い灯影ほかげで吸い出した。自分はわが鼻と口から濛々もうもうと出る煙ばかりを眺めていた。自分はその間に気味のわるい眼を転じて、時々蚊帳の中をうかがった。嫂の姿は死んだように静であった。あるいはすでに寝ついたのではないかとも思われた。すると突然仰向あおむけになった顔の中から、「二郎さん」と云う声が聞こえた。「何ですか」と自分は答えた。「あなたそこで何をしていらっしゃるの」「煙草をんでるんです。寝られないから」「早く御休みなさいよ。寝られないと毒だから」「ええ」自分は蚊帳のすそくって、自分の床の中に這入はいった。

三十九

翌日よくじつ昨日きのうと打って変って美しい空を朝まだきから仰ぐ事を得た。「好い天気になりましたね」と自分はあによめに向って云った。本当ほんとね」と彼女も答えた。二人はよく寝なかったから、夢からめたという心持はしなかった。ただ床を離れるや否や魔から覚めたという感じがしたほど、空はあおく染められていた。自分は朝飯あさめしぜんに向いながら、ひさしれる明らかな光を見て、急に気分の変化に心づいた。したがって向い合っている嫂の姿が昨夕ゆうべの嫂とは全く異なるような心持もした。今朝けさ見ると彼女の眼にどこといって浪漫的ロマンてきな光は射していなかった。ただ寝の足りないまぶちが急にさわやかな光に照らされて、それに抵抗するのがいかにもものういと云ったような一種の倦怠けたるさが見えた。頬の蒼白あおじろいのも常に変らなかった。我々はできるだけ早く朝飯を済まして宿を立った。電車はまだ通じないだろうという宿のものの注意を信用してくるまを雇った。車夫は土間から表に出た我々を一目見て、すぐ夫婦ものと鑑定したらしかった。俥に乗るや否や自分の梶棒かじぼうを先へ上げた。自分はそれをとめるように、あとから後から」と云った。車夫は心得て「奥さんの方が先だ」と相図した。嫂の俥が自分のそばり抜ける時、彼女は例の片靨かたえくぼを見せて「御先へ」挨拶あいさつした。自分は「さあどうぞ」と云ったようなものの、腹の中では車夫の口にした奥さんという言葉が大いに気になった。嫂はそんな景色けしきもなく、自分を乗り越すや否や、琥珀こはく刺繍ぬいのある日傘ひがさかざした。彼女の後姿はいかにも涼しそうに見えた。奥さんと云われても云われないでも全く無関係の態度で、俥の上に澄まして乗っているとしか思われなかった。自分は嫂の後姿を見つめながら、また彼女の人となりに思い及んだ。自分は平生こそ嫂の性質を幾分かしっかり手に握っているつもりであったが、いざ本式に彼女の口から本当のところを聞いて見ようとすると、まるで八幡やわた藪知やぶしらずへ這入はいったように、すべてが解らなくなった。すべての女は、男から観察しようとすると、みんな正体の知れない嫂のごときものに帰着するのではあるまいか。経験に乏しい自分はこうも考えて見た。またその正体の知れないところがすなわち他の婦人に見出しがたいあによめだけの特色であるようにも考えて見た。とにかく嫂の正体は全く解らないうちに、空が蒼々あおあおと晴れてしまった。自分は気の抜けた麦酒ビールのような心持を抱いて、先へ行く彼女の後姿を絶えず眺めていた。突然自分は宿へ帰ってから嫂について兄に報告をする義務がまだ残っている事に気がついた。自分は何と報告して好いかよく解らなかった。云うべき言葉はたくさんあったけれども、それを一々兄の前に並べるのはとうてい自分の勇気ではできなかった。よし並べたって最後の一句は正体が知れないという簡単な事実に帰するだけであった。あるいは兄自身も自分と同じく、この正体を見届ようと煩悶はんもんし抜いた結果、こんな事になったのではなかろうか。自分は自分がもし兄と同じ運命に遭遇したら、あるいは兄以上に神経を悩ましはしまいかと思って、始めて恐ろしい心持がした。くるまが宿へ着いたとき、三階の縁側えんがわには母の影も兄の姿も見えなかった。

四十

兄は三階の日に遠いへやで例の黒い光沢つやのある頭をまくらに着けて仰向あおむきになっていた。けれども眠ってはいなかった。むしろ充血した眼を見張るように緊張して天井てんじょうを見つめていた。彼は自分達の足音を聞くや否や、いきなりその血走った眼を自分と嫂に注いだ。自分はかねてからその眼つきを予想し得なかったほど兄を知らない訳でもなかった。けれども室の入口で嫂と相並んで立ちながら、昨夕ゆうべまんじりともしなかったと自白しているような彼の赤くて鋭い眼つきを見た時は、少し驚かされた。自分はこういう場合の緩和剤かんわざいとしていつもの通り母を求めた。その母は座敷の中にも縁側にもどこにも見当らなかった。自分が彼女をさがしているうちに嫂は兄の枕元に坐って挨拶あいさつをした。「ただいま」兄は何とも答えなかった。嫂はまた坐ったなりそこを動かなかった。自分は勢いとして口を開くべく余儀なくされた。「昨夕こっちは大変な暴風雨あらしでしたってね」「うんずいぶんひどい風だった」「波があの石の土手を越して松並木から下へ流れ込んだの」これは嫂の言葉であった。兄はしばらく彼女の顔を眺めていた。それからおもむろに答えた。「いやそうでもない。家に故障はなかったはずだ」「じゃ。無理に帰れば帰れたのね」嫂はこう云って自分を顧みた。自分は彼女よりもむしろ兄の方に向いた。「いやとても帰れなかったんです。電車がだいち通じないんですもの」「そうかも知れない。昨日きのうは夕方あたりからあの波が非常に高く見えたから」夜中よなかうちが揺れやしなくって」これもあによめの兄に聞いた問であった。今度は兄がすぐ答えた。「揺れた。お母さんは危険だからと云って下へ降りて行かれたくらい揺れた」自分は兄の眼色の険悪な割合に、それほど殺気を帯びていない彼の言語動作をようよう確め得た時やっと安心した。彼は自分の性急せっかちに比べると約五倍がたの癇癪持かんしゃくもちであった。けれども一種天賦てんぷの能力があって、時にその癇癪をたくみに殺す事ができた。その内に明神様みょうじんさまへ御参りに行った母が帰って来た。彼女は自分の顔を見てようやく安心したというような色をしてくれた。「よく早く帰れて好かったね。――まあ昨夕ゆうべの恐ろしさったら、そりゃ御話にも何にもならないんだよ、二郎。この柱がぎいぎいって鳴るたんびに、座敷が右左にいごくんだろう。そこへ持って来て、あのなみの音がね。――わたしゃ今聞いても本当にぞっとするよ……」母は昨夕の暴風雨あらしをひどくこわがった。ことにその聯想れんそうから出る、防波堤ぼうはていを砕きにかかる浪の音をきらった。「もうもう和歌の浦も御免ごめん海も御免。慾も得も要らないから、早く東京へ帰りたいよ」母はこう云ってまゆをひそめた。兄は肉のない頬へしわを寄せて苦笑した。「二郎達は昨夕どこへ泊ったんだい」と聞いた。自分は和歌山の宿の名を挙げて答えた。「好い宿かい」「何だかかんだか、ただ暗くって陰気なだけです。ねえ姉さん」その時兄は走るような眼を嫂に転じた。嫂はただ自分の顔を見て「まるでおばけでも出そうなうちね」と云った。日の夕暮に自分は嫂と階段の下で出逢であった。その時自分は彼女に「どうです、兄さんは怒ってるんでしょうか」と聞いて見た。嫂は「どうだか腹の中はちょっと解らないわ」さびしく笑いながら上へ昇って行った。

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