四十一
母が暴風雨に怖気がついて、早く立とうと云うのを機に、みんなここを切上げて一刻も早く帰る事にした。「いかな名所でも一日二日は好いが、長くなるとつまらないですね」と兄は母に同意していた。母は自分を小蔭へ呼んで、「二郎お前どうするつもりだい」と聞いた。自分は自分の留守中に兄が万事を母に打ち明けたのかと思った。しかし兄の平生から察すると、そんな行き抜けの人となりでもなさそうであった。「兄さんは昨夕僕らが帰らないんで、機嫌でも悪くしているんですか」自分がこう質問をかけた時、母は少しの間黙っていた。「昨夕はね、知っての通りの浪や風だから、そんな話をする閑も無かったけれども……」母はどうしてもそこまでしか云わなかった。「お母さんは何だか僕と嫂さんの仲を疑ぐっていらっしゃるようだが……」と云いかけると、今まで自分の眼をじっと見ていた母は急に手を振って自分を遮った。「そんな事があるものかねお前、お母さんに限って」母の言葉は実際判然した言葉に違なかった。顔つきも眼つきもきびきびしていた。けれども彼女の腹の中はとても読めなかった。自分は親身の子として、時たま本当の父や母に向いながら嘘と知りつつ真顔で何か云い聞かされる事を覚えて以来、世の中で本式の本当を云い続けに云うものは一人もないと諦めていた。「兄さんには僕から万事話す事になっています。そう云う約束になってるんだから、お母さんが心配なさる必要はありません。安心していらっしゃい」「じゃなるべく早く片づけた方が好いよ二郎」自分達はその明くる宵の急行で東京へ帰る事にきめていた。実はまだ大阪を中心として、見物かたがた歩くべき場所はたくさんあったけれども、母の気が進まず、兄の興味が乗らず、大阪で中継をする時間さえ惜んで、すぐ東京まで寝台で通そうと云うのが母と兄の主張であった。自分達は是非共翌日の朝の汽車で和歌山から大阪へ向けて立たなければならなかった。自分は母の命令で岡田の宅まで電報を打った。「佐野さんへはかける必要もないでしょう」と云いながら自分は母と兄の顔を眺めた。「あるまい」と兄が答えた。「岡田へさえ打っておけば、佐野さんはうっちゃっておいてもきっと送りに来てくれるよ」自分は電報紙を持ちながら、是非共お貞さんを貰いたいという佐野のお凸額とその金縁眼鏡を思い出した。「ではあのお凸額さんは止めておこう」自分はこう云って、みんなを笑わせた。自分がとうから佐野の御凸額を気にしていたごとく、ほかのものも同じ人の同じ特色を注意していたらしかった。「写真で見たより御凸額ね」と嫂は真面目な顔で云った。自分は冗談のうちに自分を紛しつつ、どんな折を利用して嫂の事を兄に復命したものだろうかと考えていた。それで時々偸むようにまた先方の気のつかないように兄の様子を見た。ところが兄は自分の予期に反して、全くそれには無頓着のように思われた。
四十二
自分が兄から別室に呼出されたのはそれが済んでしばらくしてであった。その時兄は常に変らない様子をして、(嫂に評させると常に変らない様子を装って、)「二郎ちょっと話がある。あっちの室へ来てくれ」と穏かに云った。自分はおとなしく「はい」と答えて立った。しかしどうした機か立つときに嫂の顔をちょっと見た。その時は何の気もつかなかったが、この平凡な所作がその後自分の胸には絶えず驕慢の発現として響いた。嫂は自分と顔を合せた時、いつもの通り片靨を見せて笑った。自分と嫂の眼を他から見たら、どこかに得意の光を帯びていたのではあるまいか。自分は立ちながら、次の室で浴衣を畳んでいた母の方をちょっと顧て、思わず立竦んだ。母の眼つきは先刻からたった一人でそっと我々を観察していたとしか見えなかった。自分は母から疑惑の矢を胸に射つけられたような気分で兄のいる室へ這入った。その頃はちょうど旧暦の盆で、いわゆる盆波の荒いためか、泊り客は無論、日返りの遊び客さえいつもほどは影を見せなかった。広い三階建てはしたがって空いている室の方が多かった。少しの間融通しようと思えば、いつでも自分の自由になった。兄は兼てから下女に命じておいたものと見えて、室には麻の蒲団が差し向いに二枚、華奢な煙草盆を間に、団扇さえ添えて据えられてあった。自分は兄の前に坐った。けれども何と云い出して然るべきだか、その手加減がちょっと解らないので、ただ黙っていた。兄も容易に口を開かなかった。しかしこんな場合になると性質上きっと兄の方から積極的に出るに違いないと踏んだ自分は、わざと巻莨を吹かしつづけた。自分はこの時の自分の心理状態を解剖して、今から顧みると、兄に調戯うというほどでもないが、多少彼を焦らす気味でいたのはたしかであると自白せざるを得ない。もっとも自分がなぜそれほど兄に対して大胆になり得たかは、我ながら解らない。恐らく嫂の態度が知らぬ間に自分に乗り移っていたものだろう。自分は今になって、取り返す事も償う事もできないこの態度を深く懺悔したいと思う。自分が巻莨を吹かして黙っていると兄ははたして「二郎」と呼びかけた。「お前直の性質が解ったかい」「解りません」自分は兄の問の余りに厳格なため、ついこう簡単に答えてしまった。そうしてそのあまりに形式的なのに後から気がついて、悪かったと思い返したが、もう及ばなかった。兄はその後一口も聞きもせず、また答えもしなかった。二人こうして黙っている間が、自分には非常な苦痛であった。今考えると兄には、なおさらの苦痛であったに違ない。「二郎、おれはお前の兄として、ただ解りませんという冷淡な挨拶を受けようとは思わなかった」兄はこう云った。そうしてその声は低くかつ顫えていた。彼は母の手前、宿の手前、また自分の手前と問題の手前とを兼ねて、高くなるべきはずの咽喉を、やっとの思いで抑えているように見えた。「お前そんな冷淡な挨拶を一口したぎりで済むものと、高を括ってるのか、子供じゃあるまいし」「いえけっしてそんなわけじゃありません」これだけの返事をした時の自分は真に純良なる弟であった。
四十三
「そう云うつもりでなければ、つもりでないようにもっと詳く話したら好いじゃないか」兄は苦り切って団扇の絵を見つめていた。自分は兄に顔を見られないのを幸いに、暗に彼の様子を窺った。自分からこういうと兄を軽蔑するようではなはだすまないが、彼の表情のどこかには、というよりも、彼の態度のどこかには、少し大人気を欠いた稚気さえ現われていた。今の自分はこの純粋な一本調子に対して、相応の尊敬を払う見地を具えているつもりである。けれども人格のできていなかった当時の自分には、ただ向の隙を見て事をするのが賢いのだという利害の念が、こんな問題にまでつけ纏わっていた。自分はしばらく兄の様子を見ていた。そうしてこれは与しやすいという心が起った。彼は癇癪を起している。彼は焦れ切っている。彼はわざとそれを抑えようとしている。全く余裕のないほど緊張している。しかし風船球のように軽く緊張している。もう少し待っていれば自分の力で破裂するか、または自分の力でどこかへ飛んで行くに相違ない。――自分はこう観察した。嫂が兄の手に合わないのも全くここに根ざしているのだと自分はこの時ようやく勘づいた。また嫂として存在するには、彼女の遣口が一番巧妙なんだろうとも考えた。自分は今日までただ兄の正面ばかり見て、遠慮したり気兼したり、時によっては恐れ入ったりしていた。しかし昨日一日一晩嫂と暮した経験は図らずもこの苦々しい兄を裏から甘く見る結果になって眼前に現われて来た。自分はいつ嫂から兄をこう見ろと教わった覚はなかった。けれども兄の前へ出て、これほど度胸の据った事もまたなかった。自分は比較的すまして、団扇を見つめている兄の額のあたりをこっちでも見つめていた。すると兄が急に首を上げた。「二郎何とか云わないか」と励しい言葉を自分の鼓膜に射込んだ。自分はその声でまたはっと平生の自分に返った。「今云おうと思ってるところです。しかし事が複雑なだけに、何から話して好いか解らないんでちょっと困ってるんです。兄さんもほかの事たあ違うんだから、もう少し打ち解けてゆっくり聞いて下さらなくっちゃ。そう裁判所みたように生真面目に叱りつけられちゃ、せっかく咽喉まで出かかったものも、辟易して引込んじまいますから」自分がこう云うと、兄はさすがに一見識ある人だけあって、「ああそうかおれが悪かった。お前が性急の上へ持って来て、おれが癇癪持と来ているから、つい変にもなるんだろう。二郎、それじゃいつゆっくり話される。ゆっくり聞く事なら今でもおれにはできるつもりだが」と云った。「まあ東京へ帰るまで待って下さい。東京へ帰るたって、あすの晩の急行だから、もう直です。その上で落ちついて僕の考えも申し上げたいと思ってますから」「それでも好い」兄は落ちついて答えた。今までの彼の癇癪を自分の信用で吹き払い得たごとくに。「ではどうか、そう願います」と云って自分が立ちかけた時、兄は「ああ」と肯ずいて見せたが、自分が敷居を跨ぐ拍子に「おい二郎」とまた呼び戻した。「詳い事は追って東京で聞くとして、ただ一言だけ要領を聞いておこうか」「姉さんについて……」「無論」「姉さんの人格について、御疑いになるところはまるでありません」自分がこう云った時、兄は急に色を変えた。けれども何にも云わなかった。自分はそれぎり席を立ってしまった。
四十四
自分はその時場合によれば、兄から拳骨を食うか、または後から熱罵を浴せかけられる事と予期していた。色を変えた彼を後に見捨てて、自分の席を立ったくらいだから、自分は普通よりよほど彼を見縊っていたに違なかった。その上自分はいざとなれば腕力に訴えてでも嫂を弁護する気概を十分具えていた。これは嫂が潔白だからというよりも嫂に新たなる同情が加わったからと云う方が適切かも知れなかった。云い換えると、自分は兄をそれだけ軽蔑し始めたのである。席を立つ時などは多少彼に対する敵愾心さえ起った。自分が室へ帰って来た時、母はもう浴衣を畳んではいなかった。けれども小さい行李の始末に余念なく手を動かしていた。それでも心は手許になかったと見えて、自分の足音を聞くや否や、すぐこっちを向いた。「兄さんは」「今来るでしょう」「もう話は済んだの」「済むの済まないのって、始めからそんな大した話じゃないんです」自分は母の気を休めるため、わざと蒼蠅そうにこう云った。母はまた行李の中へ、こまごましたものを出したり入れたりし始めた。自分は今度は彼の女に恥じて、けっして傍に手伝っている嫂の顔をあえて見なかった。それでも彼女の若くて淋しい唇には冷かな笑の影が、自分の眼を掠めるように過ぎた。「今から荷造りですか。ちっと早過ぎるな」と自分はわざと年を取った母を嘲けるごとく注意した。「だって立つとなれば、なるたけ早く用意しておいた方が都合が好いからね」「そうですとも」嫂のこの返事は、自分が何か云おうとする先を越して声に応ずる響のごとく出た。「じゃ縄でも絡げましょう。男の役だから」自分は兄と反対に車夫や職人のするような荒仕事に妙を得ていた。ことに行李を括るのは得意であった。自分が縄を十文字に掛け始めると、嫂はすぐ立って兄のいる室の方に行った。自分は思わずその後姿を見送った。「二郎兄さんの機嫌はどうだったい」と母がわざわざ小さな声で自分に聞いた。「別にこれと云う事もありません。なあに心配なさる事があるもんですか。大丈夫です」と自分はことさらに荒っぽく云って、右足で行李の蓋をぎいぎい締めた。「実はお前にも話したい事があるんだが。東京へでも帰ったらいずれまたゆっくりね」「ええゆっくり伺いましょう」自分はこう無造作に答えながら、腹の中では母のいわゆる話なるものの内容を朧気ながら髣髴した。しばらくすると、兄と嫂が別席から出て来た。自分は平気を粧いながら母と話している間にも、両人の会見とその会見の結果について多少気がかりなところがあった。母は二人の並んで来る様子を見て、やっと安心した風を見せた。自分にもどこかにそんなところがあった。自分は行李を絡げる努力で、顔やら背中やらから汗がたくさん出た。腕捲りをした上、浴衣の袖で汗を容赦なく拭いた。「おい暑そうだ。少し扇いでやるが好い」兄はこう云って嫂を顧みた。嫂は静に立って自分を扇いでくれた。「何よござんす。もう直ですから」自分がこう断っているうちに、やがて明日の荷造りは出来上った。

