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行人・夏目漱石

20

朗読者: VOICEVOX Nemo / ノーマル選択中朗読を再生できる

兄の顔には孤独のさみしみが広い額を伝わってけた頬にみなぎっていた。「二郎おれは昔から自然が好きだが、つまり人間と合わないので、やむをえず自然の方に心を移す訳になるんだろうかな」自分は兄が気の毒になった。「そんな事はないでしょう」と一口に打ち消して見た。けれどもそれで兄の満足を買う訳には行かなかった。自分はすかさずまたこう云った。「やっぱりうちの血統にそう云う傾きがあるんですよ。御父さんは無論、僕でも兄さんの知っていらっしゃる通りですし、それにね、あのお重がまた不思議と、花や木が好きで、今じゃ山水画などを見ると感にえたような顔をして時々眺めている事がありますよ」自分はなるべく兄を慰めようとして、いろいろな話をしていた。そこへお貞さんが下から夕食の報知しらせに来た。自分は彼女に、「お貞さんは近頃うれしいと見えて妙ににこにこしていますね」と云った。自分が大阪から帰るや否や、お貞さんは暑い下女室げじょべやすみに引込んで容易に顔を出さなかった。それが大阪から出したみんなの合併がっぺい絵葉書えはがきうちへ、自分がお貞さんあてに「おめでとう」と書いた五字から起ったのだと知れて家内中大笑いをした。そのためか一つ家にいながらお貞さんは変に自分を回避した。したがって顔を合わせると自分はことさらに何か云いたくなった。「お貞さん何がうれしいんですか」と自分は面白半分追窮するように聞いた。お貞さんは手を突いたなり耳まで赤くなった。兄は籐椅子といすの上からお貞さんを見て、「お貞さん、結婚の話で顔を赤くするうちが女の花だよ。行って見るとね、結婚は顔を赤くするほど嬉しいものでもなければ、恥ずかしいものでもないよ。それどころか、結婚をして一人の人間が二人になると、一人でいた時よりも人間の品格が堕落する場合が多い。恐ろしい目に会う事さえある。まあ用心が肝心かんじんだ」と云った。お貞さんには兄の意味が全く通じなかったらしい。何と答えて好いか解らないので、むしろ途方とほうに暮れた顔をしながら涙を眼にいっぱいめていた。兄はそれを見て、「お貞さん余計な事を話して御気の毒だったね。今のは冗談だよ。二郎のような向う見ずに云って聞かせる事を、ついお貞さん見たいなやさしい娘さんに云っちまったんだ。全くの間違だ。勘弁かんべんしてくれたまえ。今夜は御馳走ごちそうがあるかね。二郎それじゃ御膳ごぜんを食べに行こう」と云った。お貞さんは兄が籐椅子から立ち上るのを見るや否や、すぐ腰を立てて一足先へ階子段はしごだんをとんとんと下りて行った。自分は兄と肩をならべてへやを出にかかった。その時兄は自分を顧みて「二郎、この間の問題もそれぎりになっていたね。つい書物や講義の事がいそがしいものだから、聞こう聞こうと思いながら、ついそのままにしておいてすまない。そのうちゆっくりくつもりだから、どうか話してくれ」と云った。自分は「この間の問題とは何ですか」空惚そらとぼけたかった。けれどもそんな勇気はこの際出る余裕がなかったから、まず体裁の好い挨拶あいさつだけをしておいた。「こう時間がつと、何だか気の抜けた麦酒ビール見たようで、僕には話しにくくなってしまいましたよ。しかしせっかくのお約束だからくとおっしゃればやらん事もありませんがね。しかし兄さんのいわゆる生き甲斐がいのある秋にもなったものだから、そんなつまらない事より、まず第一に遠足でもしようじゃありませんか」「うん遠足も好かろうが……」二人はこんな話を交換しながら、食卓のえてある下のへやに入った。そうしてそこに芳江をそばに引きつけているあによめを見出した。

食卓の上で父と母は偶然またお貞さんの結婚問題を話頭にのぼせた。母はかね白縮緬しろちりめんを織屋から買っておいたから、それを紋付もんつきに染めようと思っているなどと云った。お貞さんはその時みんなのうしろすわって給仕をしていたが、急に黒塗の盆をおは﹅ち﹅の上へ置いたなり席を立ってしまった。自分は彼女の後姿うしろすがたを見て笑い出した。兄は反対ににがい顔をした。「二郎お前がむやみに調戯からかうからいけない。ああ云う乙女おぼこにはもう少しデリカシーのこもった言葉を使ってやらなくっては」「二郎はまるで堂摺連どうするれんと同じ事だ」と父が笑うようなまたたしなめるような句調で云った。母だけは一人不思議な顔をしていた。「なに二郎がね。お貞さんの顔さえ見ればおめでとうだの嬉しい事がありそうだのって、いろいろの事を云うから、向うでも恥かしがるんです。今も二階で顔を赤くさせたばかりのところだもんだから、すぐ逃げ出したんです。お貞さんは生れつきからしてなおとはまるで違ってるんだから、こっちでもそのつもりで注意して取り扱ってやらないといけません……」兄の説明を聞いた母は始めてなるほどと云ったように苦笑した。もう食事を済ましていた嫂は、わざと自分の顔を見て変な眼遣めづかいをした。それが自分には一種の相図のごとく見えた。自分は父から評された通りだいぶ堂摺連の傾きを持っていたが、この時は父や母にはばかって、嫂の相図を返す気はごうも起らなかった。嫂は無言のまますっと立った、へやの出口でちょっと振り返って芳江を手招きした。芳江もすぐ立った。「おや今日はお菓子を頂かないで行くの」とお重が聞いた。芳江はそこに立ったまま、どうしたものだろうかと思案する様子に見えた。嫂は「おや芳江さん来ないの」とさもおとなしやかに云って廊下の外へ出た。今まで躊躇ちゅうちょしていた芳江は、嫂の姿が見えなくなるや否や急に意を決したもののごとく、ばたばたとそのあと追駈おいかけた。お重は彼女の後姿うしろすがたをさも忌々いまいましそうに見送った。父と母は厳格な顔をしておのれの皿の中を見つめていた。お重は兄を筋違すじかいに見た。けれども兄は遠くの方をぼんやり眺めていた。もっとも彼の眉根まゆねには薄く八の字が描かれていた。「兄さん、そのプッジングをあたしにちょうだい。ね、好いでしょう」とお重が兄に云った。兄は無言のまま皿をお重の方におしやった。お重も無言のままそれをスプーンつっついたが、自分から見ると、食べたくない物を業腹ごうはらで食べているとしか思われなかった。兄が席を立って書斎にったのはそれからしてしばらくのちの事であった。自分は耳をそばだてて彼の上靴スリッパしずかに階段をのぼって行く音を聞いた。やがて上の方で書斎のドアがどたんと閉まる声がして、後は静になった。東京へ帰ってから自分はこんな光景をしばしば目撃した。父もそこには気がついているらしかった。けれども一番心配そうなのは母であった。彼女はあによめの態度を見破って、かつ容赦の色を見せないお重を、一日も早く片づけて若い女同士の葛藤かっとうを避けたい気色けしきを色にも顔にも挙動にも現した。次にはなるべく早く嫁を持たして、兄夫婦の間から自分という厄介やっかいものを抜き去りたかった。けれども複雑な世の中は、そう母の思うようにうまく回転してくれなかった。自分は相変らず、のらくらしていた。お重はますます嫂をかたきのように振舞った。不思議に彼女は芳江を愛した。けれどもそれは嫂のいない留守に限られていた。芳江も嫂のいない時ばかりお重にすがりついた。兄の額には学者らしいしわがだんだん深くきざまれて来た。彼はますます書物と思索の中に沈んで行った。

こんな訳で、母の一番軽く見ていたお貞さんの結婚が最初にきまったのは、彼女の思わくとはまるで反対であった。けれども早晩いつか片づけなければならないお貞さんの運命に一段落をつけるのも、やはり父や母の義務なんだから、彼らは岡田の好意を喜びこそすれ、けっしてそれを悪く思うはずはなかった。彼女の結婚が家中うちじゅうの問題になったのもつまりはそのためであった。お重はこの問題についてよくお貞さんをつらまえて離さなかった。お貞さんはまたお重には赤い顔も見せずに、いろいろの相談をしたりおのれの将来をも語り合ったらしい。ある日自分が外から帰って来て、風呂から上ったところへ、お重が、「兄さん佐野さんていったいどんな人なの」と例の前後を顧慮しない調子で聞いた。これは自分が大阪から帰ってから、もう二度目もしくは三度目の質問であった。「何だそんなやぶから棒に。御前はいったい軽卒でいけないよ」怒りやすいお重は黙って自分の顔を見ていた。自分は胡坐あぐらをかきながら、三沢へやる端書はがきを書いていたが、この様子を見て、ちょっと筆を留めた。「お重また怒ったな。――佐野さんはね、この間云った通り金縁眼鏡きんぶちめがねをかけたお凸額でこさんだよ。それで好いじゃないか。何遍聞いたっておんなじ事だ」「お凸額でこや眼鏡は写真で充分だわ。何も兄さんから聞かないだってあたし知っててよ。眼があるじゃありませんか」彼女はまだ打ち解けそうな口のき方をしなかった。自分は静かに端書はがきと筆を机の上へ置いた。「全体何を聞こうと云うのだい」「全体あなたは何を研究していらしったんです。佐野さんについて」お重という女は議論でもやり出すとまるで自分を同輩のように見る、くせだか、親しみだか、猛烈な気性きしょうだか、稚気ちきだかがあった。「佐野さんについてって……」と自分は聞いた。「佐野さんのひととなりについてです」自分はもとよりお重を馬鹿にしていたが、こういう真面目まじめな質問になると、腹の中でどっしりした何物も貯えていなかった。自分はすまして巻煙草まきたばこを吹かし出した。お重は口惜くやしそうな顔をした。「だってあんまりじゃありませんか、お貞さんがあんなに心配しているのに」「だって岡田がたしかだって保証するんだから、好いじゃないか」「兄さんは岡田さんをどのくらい信用していらっしゃるんです。岡田さんはたかが将棋の駒じゃありませんか」「顔は将棋の駒だって何だって……」「顔じゃありません。心が浮いてるんです」自分は面倒と癇癪かんしゃくでお重を相手にするのがいやになった。「お重御前そんなにお貞さんの事を心配するより、自分が早く嫁にでも行く工夫をした方がよっぽど利口だよ。お父さんやお母さんは、お前が片づいてくれる方をお貞さんの結婚よりどのくらい助かると思っているか解りゃしない。お貞さんの事なんかどうでもいいから、早く自分の身体からだの落ちつくようにして、少し親孝行でも心がけるが好い」お重ははたして泣き出した。自分はお重と喧嘩けんかをするたびに向うが泣いてくれないと手応てごたえがないようで、何だか物足らなかった。自分は平気でたばこを吹かした。「じゃ兄さんも早くお嫁をもらって独立したら好いでしょう。その方が妾が結婚するよりいくら親孝行になるか知れやしない。厭にねえさんの肩ばかり持って……」「お前は嫂さんに抵抗し過ぎるよ」当前あたりまえですわ。大兄おおにいさんの妹ですもの」

自分は三沢へ端書はがきを書いたあとで、風呂から出立でたての頬に髪剃かみそりをあてようと思っていた。お重を相手にぐずぐずいうのが面倒になったのを好い幸いに、「お重気の毒だが風呂場から熱い湯をうがい茶碗にいっぱい持って来てくれないか」と頼んだ。お重は嗽茶碗うがいぢゃわんどころの騒ぎではないらしかった。それよりまだ十倍も厳粛な人生問題を考えているもののごとく澄ましてふくれていた。自分はお重に構わず、手を鳴らして下女から必要な湯を貰った。それから机の上へ旅行用の鏡を立てて、象牙ぞうげのついた髪剃かみそりを並べて、熱湯でらした頬をわざと滑稽こっけいふくらませた。自分が物新しそうにシェーヴィング・ブラッシを振り廻して、石鹸シャボンの泡で顔中を真白にしていると、先刻さっきからそばに坐ってこの様子を見ていたお重は、ワッと云う悲劇的な声をふり上げて泣き出した。自分はお重の性質として、早晩ここに来るだろうと思って、あんにこの悲鳴を予期していたのである。そこでますますほっぺたに空気をいっぱい入れて、白い石鹸をすうすうと髪剃の刃で心持よさそうに落し始めた。お重はそれを見て業腹ごうはらだか何だかますます騒々しい声を立てた。しまいに「兄さん」と鋭どく自分を呼んだ。自分はお重を馬鹿にしていたには違ないが、この鋭い声には少し驚かされた。「何だ」「何だって、そんなに人を馬鹿にするんです。これでも私はあなたの妹です。ねえさんはいくらあなたが贔屓ひいきにしたって、もともと他人じゃありませんか」自分は髪剃を下へ置いて、石鹸だらけの頬をお重の方に向けた。「お重お前はのぼせているよ。お前がおれの妹で、嫂さんが他家よそから嫁に来た女だぐらいは、お前に教わらないでも知ってるさ」「だから私に早く嫁に行けなんて余計な事を云わないで、あなたこそ早くあなたの好きな嫂さんみたようなかたをおもらいなすったら好いじゃありませんか」自分は平手ひらてでお重の頭を一つ張りつけてやりたかった。けれども家中騒ぎ廻られるのがこわいんで、容易に手は出せなかった。「じゃお前も早く兄さんみたような学者をさがして嫁に行ったら好かろう」お重はこの言葉を聞くや否や、急につかみかかりかねまじきすさまじい勢いを示した。そうして涙の途切とぎれ目途切れ目に、彼女の結婚がお貞さんよりおくれたので、それでこんなに愚弄ぐろうされるのだと言明した末、自分を兄妹に同情のない野蛮人だと評した。自分ももとより彼女の相手になり得るほどの悪口家わるくちやであった。けれども最後にとうとう根気負こんきまけがして黙ってしまった。それでも彼女は自分のそばを去らなかった。そうして事実は無論の事、事実が生んだ飛んでもない想像まで縦横に喋舌しゃべり廻してやまなかった。そのうちで彼女の最も得意とする主題は、何でもかでも自分とあによめとを結びつけて当てこするという悪い意地であった。自分はそれが何よりいやであった。自分はその時心のうちで、どんなお多福でも構わないから、お重より早く結婚して、この夫婦関係がどうだの、男女なんにょの愛がどうだのとさえずる女を、たった一人あとに取り残してやりたい気がした。それからその方がまた実際母の心配する通り、兄夫婦にも都合が好かろうと真面目まじめに考えても見た。自分は今でも雨にたたかれたようなお重の仏頂面ぶっちょうづらを覚えている。お重はまた石鹸を溶いた金盥かなだらいの中に顔を突込んだとしか思われない自分のな顔を、どうしても忘れ得ないそうである。

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