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行人・夏目漱石

21

朗読者: VOICEVOX Nemo / ノーマル選択中朗読を再生できる

お重は明らかにあによめを嫌っていた。これは学究的に孤独な兄に同情が強いためと誰にもうなずかれた。「御母さんでもいなくなったらどうなさるでしょう。本当に御気の毒ね」すべてを隠す事を知らない彼女はかつて自分にこう云った。これはもとよりほっぺたを真白にして自分が彼女と喧嘩けんかをしない遠い前の事であった。自分はその時彼女を相手にしなかった。ただ「兄さん見たいに訳の解った人が、家庭間の関係で、御前などに心配して貰う必要が出て来るものか、黙って見ていらっしゃい。御父さんも御母さんもついていらっしゃるんだから」と訓戒でも与えるように云って聞かせた。自分はその時分からお重と嫂とは火と水のような個性の差異から、とうてい円熟に同棲どうせいする事は困難だろうとすでに観察していた。「御母さんお重も早く片づけてしまわないといけませんね」と自分は母に忠告がましい差出口をいた事さえあった。その折母はなぜとも何とも聞き返さなかったが、さも自分の意味を呑み込んだらしい眼つきをして、「お前が云ってくれないでも、御父さんだってわたしだって心配し抜いているところだよ。お重ばかりじゃないやね。御前のお嫁だって、蔭じゃどのくらいみんなに手数てかずをかけて探して貰ってるか分りゃしない。けれどもこればかりは縁だからね……」と云って自分の顔をしけじけと見た。自分は母の意味も何も解らずに、ただ「はあ」と子供らしく引き下がった。お重は何でもじきむ﹅き﹅になる代りに裏表のない正直な美質を持っていたので、母よりはむしろ父に愛されていた。兄には無論可愛がられていた。お貞さんの結婚談が出た時にも「まずお重から片づけるのが順だろう」と云うのが父の意見であった。兄も多少はそれに同意であった。けれどもせっかく名ざしで申し込まれたお貞さんのために、沢山たんとない機会を逃すのはつまり両損になるという母の意見が実際上にもっともなので、理に明るい兄はすぐ折れてしまった。兄の見地けんちに多少譲歩している父も無事に納得した。けれども黙っていたお重には、それがはなはだしい不愉快を与えたらしかった。しかし彼女が今度の結婚問題について万事快くお貞さんの相談に乗るのを見ても、彼女が機先を制せられたお貞さんに悪感情を抱いていないのはたしかな事実であった。彼女はただ嫂のそばにいるのがいやらしく見えた。いくら父母のいる家であっても、いくら思い通りの子供らしさを精一杯に振り舞わす事ができても、この冷かな嫂からふんという顔つきで眺められるのが何よりつらかったらしい。こういう気分に神経をいらつかせている時、彼女はふと女の雑誌か何かを借りるために嫂のへや這入はいった。そうしてそこで嫂がお貞さんのために縫っていた嫁入仕度よめいりじたくの着物を見た。「お重さんこれお貞さんのよ。好いでしょう。あなたも早く佐野さんみたような方の所へいらっしゃいよ」と嫂は縫っていた着物を裏表引繰返ひっくりかえして見せた。その態度がお重には見せびらかしの面当つらあてのように聞えた。早く嫁に行く先をきめて、こんなものでも縫う覚悟でもしろというなぞにも取れた。いつまで小姑こじゅうとの地位を利用して人を苛虐いじめるんだという諷刺ふうしとも解釈された。最後に佐野さんのような人の所へ嫁に行けと云われたのがもっとも神経にさわった。彼女は泣きながら父のへやに訴えに行った。父は面倒だと思ったのだろう、あによめには一言いちごん聞糺ききたださずに、翌日お重を連れて三越へ出かけた。

十一

それから二三日して、父の所へ二人ほど客が来た。父は生来せいらい交際好こうさいずきの上に、職業上の必要から、だいぶ手広く諸方へ出入していた。おおやけつとめを退いた今日こんにちでもその惰性だか影響だかで、知合間しりあいかん往来おうらいは絶える間もなかった。もっとも始終しじゅう顔を出す人に、それほど有名な人も勢力家も見えなかった。その時の客は貴族院の議員が一人と、ある会社の監査役が一人とであった。父はこの二人とうたいの方の仲善なかよしと見えて、彼らが来るたびに謡をうたってたのしんだ。お重は父の命令で、少しの間つづみ稽古けいこをしたおぼえがあるので、そう云う時にはよく客の前へ呼び出されて鼓を打った。自分はその高慢ちきな顔をまだ忘れずにいる。「お重お前の鼓は好いが、お前の顔はすこぶる不味まずいね。悪い事は云わないから、嫁に行った当座はけっして鼓を御打ちでないよ。いくら御亭主が謡気狂うたいきちがいでもああ澄まされた日にゃ、愛想を尽かされるだけだから」とわざわざののしった事がある。するとそばに聞いていたお貞さんが眼を丸くして、「まあひどい事をおっしゃる事、ずいぶんね」と云ったので、自分も少し言い過ぎたかと思った。けれどもはげしいお重は平生に似ず全く自分の言葉を気にかけないらしかった。「兄さんあれでも顔の方はまだ上等なのよ。鼓と来たらそれこそ大変なの。あたし謡の御客があるほどいやな事はないわ」とわざわざ自分に説明して聞かせた。お重の顔ばかりに注意していた自分は、彼女の鼓がそれほど不味いとはそれまで気がつかなかった。その日も客が来てから一時間半ほどすると予定の通り謡が始まった。自分はやがてまたお重が呼び出される事と思って、調戯からかい半分茶の間の方に出て行った。お重は一生懸命に会席膳かいせきぜんを拭いていた。「今日はポンポン鳴らさないのか」と自分がことさらに聞くと、お重は妙にとぼけた顔をして、立っている自分を見上げた。「だって今御膳が出るんですもの。忙しいからって、断ったのよ」自分は台所や茶の間のごたごたした中で、ふざけ過ぎて母に叱られるのも面白くないと思って、またへやへ取って返した。夕食後ちょっと散歩に出て帰って来ると、まだ自分のへや這入はいらない先から母につらまった。「二郎ちょうど好いところへ帰って来ておくれだ。奥へ行って御父さんのうたいを聞いていらっしゃい」自分は父の謡を聞き慣れているので、一番ぐらい聴くのはさほど厭とも思わなかった。「何をやるんです」と母に質問した。母は自分とは正反対に謡がまた大嫌だいきらいだった。「何だか知らないがね。早くいらっしゃいよ。皆さんが待っていらっしゃるんだから」と云った。自分は委細承知して奥へ通ろうとした。すると暗い縁側えんがわの所にお重がそっと立っていた。自分は思わず「おい……」と大きな声を出しかけた。お重は急に手を振って相図のように自分の口をふさいでしまった。「なぜそんな暗い所に一人で立っているんだい」と自分は彼女の耳へ口を付けて聞いた。彼女はすぐ「なぜでも」と答えた。しかし自分がその返事に満足しないでやはり元の所に立っているのを見て、先刻さっきから、何遍も出て来い出て来いって催促するのよ。だから御母さんに断って、少し加減が悪い事にしてあるのよ」「なぜまた今日に限って、そんなに遠慮するんだい」「だってあたしつづみなんか打つのはもういやになっちまったんですもの、馬鹿らしくって。それにこれからやるのなんかむずかしくってとてもできないんですもの」「感心にお前みたような女でも謙遜けんそんの道は少々心得ているから偉いね」と云い放ったまま、自分は奥へ通った。

十二

奥には例の客が二人とこの前にすわっていた。二人とも品の好い容貌ようぼうの人で、その薄く禿げかかった頭がうしろにかかっている探幽たんゆう三幅対さんぷくついとよく調和した。彼らは二人ともはかまのまま、羽織を脱ぎ放しにしていた。三人のうちで袴を着けていなかったのは父ばかりであったが、その父でさえ羽織だけは遠慮していた。自分は見知り合だから正面の客に挨拶あいさつかたがた、「どうか拝聴を……」と頭を下げた。客はちょっと恐縮のていよそおって、「いやどうも……」と頭をく真似をした。父は自分にまたお重の事を尋ねたので、先刻さっきから少し頭痛がするそうで、御挨拶ごあいさつに出られないのを残念がっていました」と答えた。父は客の方を見ながら、「お重が心持が悪いなんて、まるで鬼の霍乱かくらんだな」と云って、今度は自分に、「先刻つな(母の名)の話では腹が痛いように聞いたがそうじゃない頭痛なのかい」と聞き直した。自分はしまったと思ったが「多分両方なんでしょう。胃腸の熱で頭が痛む事もあるようだから。しかし心配するほどの病気じゃないようです。じきなおるでしょう」と答えた。客は蒼蠅うるさいほどお重に同情の言葉を注射したあと「じゃ残念だが始めましょうか」と云い出した。聴手ききてには、自分より前に兄夫婦が横向になって、行儀よくならんですわっていたので、自分は鹿爪しかつめらしくあによめの次に席を取った。「何をやるんです」と坐りながら聞いたら、この道について何の素養も趣味もない嫂は、「何でも景清かげきよだそうです」と答えて、それぎり何とも云わなかった。客のうちで赭顔あからがお恰腹かっぷくの好い男が仕手してをやる事になって、その隣の貴族院議員がわき父は主人役で「娘」と「男」端役はやくだと云う訳か二つ引き受けた。多少謡を聞分ける耳を持っていた自分は、最初からどんな景清ができるかと心配した。兄は何を考えているのか、はなはだ要領を得ない顔をして、凋落ちょうらくしかかった前世紀の肉声を夢のように聞いていた。嫂の鼓膜こまくには肝腎かんじんの「松門しょうもんさえ人間としてよりもむしろ獣類のうなりとして不快に響いたらしい。自分はかねてからこの「景清」といううたいに興味を持っていた。何だか勇ましいようないたましいような一種の気分が、盲目もうもくの景清の強い言葉遣ことばづかいから、また遥々はるばる父を尋ねに日向ひゅうがまでくだる娘の態度から、涙に化して自分の眼を輝かせた場合が、一二度あった。しかしそれは歴乎れっきとした謡手が本気に各自の役を引き受けた場合で、今聞かせられているような胡麻節ごまぶし辿たどってようやく出来上る景清に対してはほとんど同情が起らなかった。やがて景清の戦物語いくさものがたりも済んで一番の謡もとどこおりなく結末まで来た。自分はその成蹟せいせきを何と評して好いか解らないので、少し不安になった。嫂は平生の寡言かごんにも似ず「勇しいものですね」と云った。自分も「そうですね」と答えておいた。すると多分一口も開くまいと思った兄が、急に赭顔の客に向って、「さすがに我も平家なり物語り申してとか、始めてとかいう句がありましたが、あのさすがに我も平家なりという言葉が大変面白うございました」と云った。兄は元来正直な男で、かつおのれの教育上うそかないのを、品性の一部分と心得ているくらいの男だから、この批評に疑う余地は少しもなかった。けれども不幸にして彼の批評は謡の上手下手でなくって、文章の巧拙に属する話だから、相手にはほとんど手応てごたえがなかった。こう云う場合にれた父は「いやあすこは非常に面白く拝聴した」と客のうたいぶりを一応めたあとで、「実はあれについて思い出したが、大変興味のある話がある。ちょうどあの文句を世話にくずして、景清を女にしたようなものだから、謡よりはよほどえんである。しかも事実でね」と云い出した。

十三

父は交際家だけあって、こういう妙な話をたくさん頭の中にしまっていた。そうして客でもあると、献酬けんしゅうの間によくそれを臨機応変に運用した。多年父のそば寝起ねおきしている自分にもこの女景清おんなかげきよの逸話は始めてであった。自分は思わず耳を傾けて父の顔を見た。「ついこの間の事で、また実際あった事なんだから御話をするが、その発端ほったんはずっと古い。古いたって何も源平時代から説き出すんじゃないからそこは御安心だが、何しろ今から二十五六年前、ちょうど私の腰弁時代とでも云いましょうかね……」父はこういう前置をしてみんなを笑わせたあとで本題に這入はいった。それは彼の友達と云うよりもむしろずっと後輩に当る男の艶聞えんぶん見たようなものであった。もっとも彼は遠慮して名前を云わなかった。自分はうち出入ではいる人の数々について、たいていは名前も顔も覚えていたが、この逸話をもった男だけはいくら考えてもどんな想像も浮かばなかった。自分は心のうちで父は今表向おもてむき多分この人と交際しているのではなかろうと疑ぐった。何しろ事はその人の二十はたち前後に起ったので、その時当人は高等学校へ這入り立てだとか、這入ってから二年目になるとか、父ははなはだ瞹眛あいまいな説明をしていたが、それはどっちにしたって、我々の気にかかるところではなかった。「その人は好い人間だ。好い人間にもいろいろあるが、まあ好い人間だ。今でもそうだから、廿歳はたちぐらいの時分は定めて可愛らしい坊ちゃんだったろう」父はその男をこう荒っぽく叙述じょじゅつしておいて、その男とその家の召使とがある関係に陥入おちいった因果いんがをごく単簡たんかんに物語った。「元来そいつはね本当の坊ちゃんだから、情事なんて洒落しゃれた経験はまるでそれまで知らなかったのだそうだ。当人もまた婦人にしたわれるなんて粋事いきごとは自分のようなものにとうてい有り得べからざる奇蹟きせきと思っていたのだそうだ。ところがその奇蹟が突然天から降って来たので大変驚ろいたんですね」話しかけられた客はむしろ真面目まじめな顔をして、「なるほど」と受けていたが、自分はおかしくてたまらなかった。さみしそうな兄のほおにも笑のうずただよった。「しかもそれが男の方が消極的で、女の方が積極的なんだからいよいよ妙ですよ。私がそいつに、その女が君に覚召おぼしめしがあると悟ったのはどういうはずみだと聞いたらね。真面目まじめな顔をして、いろいろ云いましたが、そのうちで一番面白いと思ったせいか、いまだに覚えているのは、そいつが瓦煎餅かわらせんべいか何か食ってるところへ女が来て、私にもその御煎餅おせんべをちょうだいなと云うや否や、そいつの食い欠いた残りの半分を手繰たくって口へ入れたという時なんです」父の話方は無論滑稽こっけいを主にして、大事の真面目な方を背景に引き込ましてしまうので、聞いている客を始め我々三人もただ笑うだけ笑えばそれであとには何も残らないような気がした。その上客は笑う術をどこかで練修れんしゅうして来たようにうまく笑った。一座のうちで比較的真面目だったのはただ兄一人であった。「とにかくその結果はどうなりました。めでたく結婚したんですか」と冗談とも思われない調子で聞いていた。「いやそこをこれから話そうというのだ。先刻さっきも云った通り『景清』おもむきの出てくるところはこれからさ。今言ってるところはほんの冒頭まえおきだて」と父は得意らしく答えた。

十四

父の話すところによると、その男とその女の関係は、夏の夜の夢のようにはかないものであった。しかしちぎりを結んだ時、男は女を未来の細君にすると言明したそうである。もっともこれは女から申し出した条件でも何でもなかったので、ただ男の口から勢いにられて、おのずとほとばしった、誠ではあるが実行しにくい感情的の言葉に過ぎなかったと父はわざわざ説明した。「と云うのはね、両方共おない年でしょう。しかも一方は親のすねかじってる前途遼遠ぜんとりょうえんの書生だし、一方は下女奉公でもして暮そうという貧しい召使いなんだから、どんな堅い約束をしたって、その約束の実行ができる長い年月の間には、どんな故障が起らないとも限らない。で、女が聞いたそうですよ。あなたが学校を卒業なさると、二十五六に御成おなんなさる。すると私も同じぐらいにけてしまう。それでも御承知ですかってね」父はそこへ来て、急に話を途切とぎらして、膝の下にあった銀煙管ぎんぎせる煙草たばこを詰めた。彼が薄青い煙を一時に鼻の穴から出した時、自分はもどかしさの余り「その人は何て答えました」と聞いた。父は吸殻すいがらを手ではたきながら「二郎がきっと何とか聞くだろうと思った。二郎面白いだろう。世間にはずいぶんいろいろな人があるもんだよ」と云って自分を見た。自分はただ「へえ」と答えた。「実はわしも聞いて見た、その男に。君何て答えたかって。すると坊ちゃんだね、こう云うんだ。僕は自分の年も先の年も知っていた。けれども僕が卒業したら女がいくつになるか、そこまでは考えていられなかった。いわんや僕が五十になれば先も五十になるなんて遠い未来は全く頭の中に浮かんで来なかったって」「無邪気なものですね」と兄はむしろ賛嘆さんたんくちぶりを見せた。今まで黙っていた客が急に兄に賛成して、「全くのところ無邪気だ」とか「なるほど若いものになるといかにも一図いちずですな」とか云った。「ところが一週間つか経たないうちにそいつが後悔し始めてね、なに女は平気なんだが、そいつが自分で恐縮してしまったのさ。坊ちゃんだけに意気地のない事ったら。しかし正直ものだからとうとう女に対してまともに結婚破約を申し込んで、しかもきまりの悪そうな顔をして、御免ごめんよとか何とか云って謝罪あやまったんだってね。そこへ行くとおない年だって先は女だもの、『御免よ』なんて子供らしい言葉を聞けば可愛かわいくもなるだろうが、また馬鹿馬鹿しくもなるだろうよ」父は大きな声を出して笑った。御客もその反響のごとくに笑った。兄だけはおかしいのだか、苦々にがにがしいのだか変な顔をしていた。彼の心にはすべてこう云う物語が厳粛な人生問題として映るらしかった。彼の人生観から云ったら父の話しぶりさえあるいは軽薄に響いたかもしれない。父の語るところを聞くと、その女はしばらくしてすぐ暇を貰ってそこを出てしまったぎり再び顔を見せなかったけれども、その男はそれ以来二三カ月の間何か考え込んだなり魂が一つ所にこびりついたように動かなかったそうである。一遍その女が近所へ来たと云って寄った時などでも、ほかの人の手前だか何だかほとんど一口も物を云わなかった。しかもその時はちょうど午飯ひるめしの時で、その女が昔の通り御給仕をしたのだが、男はまるで初対面の者にでもったように口数くちかずかなかった。女もそれ以来けっして男の家の敷居をまたがなかった。男はまるでその女の存在を忘れてしまったように、学校を出て家庭を作って、二十何年というつい近頃まで女とは何らの交渉もなく打過ぎた。

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