LIB READ READER

行人・夏目漱石

22

朗読未選択 / 朗読停止中朗読未選択 / 朗読停止中

十五

「それだけで済めばまあただの逸話さ。けれども運命というものは恐しいもので……」と父がまた語り続けた。自分は父が何を云い出すかと思って、彼の顔から自分の眼を離し得なかった。父の物語りの概要をつまんで見ると、ざっとこうであった。その男がその女をまるで忘れた二十何年ののち二人が偶然運命の手引で不意に会った。会ったのは東京の真中であった。しかも有楽座で名人会とか美音会びおんかいとかのあった薄ら寒いよいの事だそうである。その時男は細君と女の子を連れて、土間どまの何列目か知らないが、かねて注文しておいた席に並んでいた。すると彼らが入場して五分つか立たないのに、今云った女が他の若い女に手を引かれながら這入はいって来た。彼らも電話か何かで席を予約しておいたと見えて、男の隣にあるエンゲージドと紙札を張った所へ案内されたままおとなしく腰をかけた。二人はこういう奇妙な所で、奇妙に隣合わせに坐った。なおさら奇妙に思われたのは、女の方が昔と違った表情のない盲目めくらになってしまって、ほかにどんな人がいるか全く知らずに、ただ舞台から出る音楽の響にばかり耳を傾けているという、男に取ってはまるで想像すらし得なかった事実であった。男は始め自分のそばに坐る女の顔を見て過去二十年の記憶をさかさに振られたごとく驚ろいた。次に黒いひとみをじっとえて自分を見た昔の面影おもかげが、いつの間にか消えていた女の面影に気がついて、また愕然がくぜんとして心細い感に打たれた。十時過まで一つの席にほとんど身動きもせずに坐っていた男は、舞台で何をやろうが、ほとんど耳へは這入らなかった。ただ女に別れてから今日こんにちに至る運命の暗い糸を、いろいろに想像するだけであった。女はまたわが隣にいる昔の人を、見もせず、知りもせず、全く意識にのぼいとまもなく、ただ自然に凋落ちょうらくしかかった過去の音楽に、やっとの思いで若い昔をしの気色けしきを濃いまゆの間に示すに過ぎなかった。二人は突然として邂逅かいこうし、突然として別れた。男は別れたのちもしばしば女の事を思い出した。ことに彼女の盲目が気にかかった。それでどうかして女のいる所を突きとめようとした。「馬鹿正直なだけに熱心な男だもんだから、とうとう成功した。その筋道も聞くには聞いたが、くだくだしくって忘れちまったよ。何でも彼がその次に有楽座へ行った時、案内者をつらまえて、何とかかんとかした上に、だいぶ込み入った手数てかずをかけたんだそうだ」「どこにいたんですその女は」と自分は是非確めたくなった。「それは秘密だ。名前や所はいっさい云われない事になっている。約束だからね。それは好いが、そいつがわたしにその盲目の女のいる所を訪問してくれと頼むんだね。何という主意か解らないが、つまりは無沙汰見舞ぶさたみまいのようなものさ。当人に云わせると、学問しただけに、鹿爪しかつめらしい理窟りくつなんじょうも並べるけれども。つまり過去と現在の中間を結びつけて安心したいのさ。それにどうして盲目になったか、それが大変当人の神経を悩ましていたと見えてね。と云っていまさらその女と新しい関係をつける気はなし、かつは女房子にょうぼこの手前もあるから、自分はわざわざ出かけたくないのさ。のみならず彼がまた昔その女と別れる時余計な事を饒舌しゃべっているんです。僕は少し学問するつもりだから三十五六にならなければ妻帯しない。でやむをえずこの間の約束は取消にして貰うんだってね。ところがやつ学校を出るとすぐ結婚しているんだから良心の方から云っちゃあまり心持はよくないのだろう。それでとうとうわたしが行く事になった」「まあ馬鹿らしい」あによめが云った。「馬鹿らしかったけれどもとうとう行ったよ」と父が答えた。客も自分も興味ありげに笑い出した。

十六

父には人に見られない一種剽軽ひょうきんなところがあった。ある者はちょくかただとも云い、ある者は気のおけない男だとも評した。親爺おやじは全くあれで自分の地位をこしらえ上げたんだね。実際のところそれが世の中なんだろう。本式に学問をしたり真面目に考えをまとめたりしたって、社会ではちっとも重宝がらない。ただ軽蔑けいべつされるだけだ」兄はこんな愚痴とも厭味いやみとも、また諷刺ふうしとも事実とも、片のつかない感慨を、かげながらかつて自分にらした事があった。自分は性質から云うと兄よりもむしろ父に似ていた。その上年が若いので、彼のいう意味が今ほど明瞭めいりょうに解らなかった。何しろ父がその男に頼まれて、快よく訪問を引受けたのも、多分持って生れた物数奇ものずきから来たのだろうと自分は解釈している。父はやがてその盲目めくらの家を音信おとずれた。行く時に男は土産みやげのしるしだと云って、百円札を一枚紙に包んで水引をかけたのに、大きな菓子折を一つ添えて父に渡した。父はそれを受取って、くるまをその女の家にった。女の家は狭かったけれども小綺麗こぎれいにかつ住心地よくできていた。縁のすみに丸く彫り抜いた御影みかげ手水鉢ちょうずばちえてあって、手拭掛てぬぐいかけには小新らしい三越の手拭さえゆらめいていた。家内も小人数らしく寂然ひっそりとして音もしなかった。父はこの日当りの好いしかし茶がかった小座敷で、初めてその盲人もうじんに会った時、ちょっと何と云って好いか分らなかったそうである。「おれのようなものが言句に窮するなんて馬鹿げた恥を話すようだが実際困ったね。何しろ相手が盲目なんだからね」父はわざとこう云ってみんなをきょうがらせた。彼はその場でとうとう男の名を打ち明けて、例の土産ものを取り出しつつ女の前に置いた。女は眼が悪いので菓子折をでたりさすったりして見た上、「どうも御親切に……」うやうやしく礼を述べたが、その上にある紙包を手で取上げるや否や、少し変な顔をして「これは?」と念を押すように聞いた。父は例の気性きしょうだから、呵々からからと笑いながら、「それも御土産おみやげの一部分です、どうか一緒に受取っておいて下さい」と云った。すると女が水引の結び目を持ったまま、「もしや金子きんすではございませんか」と問い返した。「いえ何はなはだ軽少で、――しかし○○さんの寸志ですからどうぞ御納め下さい」父がこう云った時、女はぱたりとこの紙包を畳の上に落した。そうして閉じたひとみをきっと父の方へ向けて、「私は今寡婦やもめでございますが、この間まで歴乎れっきとした夫がございました。子供は今でも丈夫でございます。たといどんな関係があったにせよ、他人さまから金子を頂いては、らく今日こんにちを過すようにしておいてくれた夫の位牌いはいに対してすみませんから御返し致します」判切はっきり云って涙を落した。「これには実に閉口したね」と父はみんなの顔を一順いちじゅん見渡したが、その時に限って、誰も笑うものはなかった。自分も腹の中で、いかな父でもさすがに弱ったろうと思った。「その時わしは閉口しながらも、ああ景清かげきよを女にしたらやっぱりこんなものじゃなかろうかと思ってね。本当は感心しましたよ。どういう訳で景清を思い出したかと云うとね。ただ双方とも盲目めくらだからと云うばかりじゃない。どうもその女の態度がね……」父は考えていた。父の筋向うにすわっていた赭顔あからがおの客が、「全く気込きごみが似ているからですね」とさもむずかしいなぞでも解くように云った。「全く気込です」と父はすぐ承服した。自分はこれで父の話が結末に来たのかと思って、「なるほどそれは面白い御話です」と全体を批評するような調子で云った。すると父は「まだあとがあるんだ。後の方がまだ面白い。ことに二郎のような若い者が聞くと」とつけ加えた。

十七

父は意外な女の見識に、話の腰を折られて、やむをえず席を立とうとした。すると女は始めて女らしい表情をおもてたたえて、すがりつくように父をとめた。そうしていつ何日いつかどこで○○が自分を見たのかと聞いた。父は例の有楽座の事を包みかくさず盲人もうじんに話して聞かせた。「ちょうどあなたの隣に腰をかけていたんだそうです。あなたの方ではまるで知らなかったでしょうが、○○は最初から気がついていたのです。しかし細君や娘の手前、口をく事もできにくかったんでしょう。それなりうちへ帰ったと云っていました」父はその時始めて盲目めくら涙腺るいせんから流れ出る涙を見た。「失礼ながら眼を御煩おわずらいになったのはよほど以前の事なんですか」と聞いた。「こういう不自由な身体からだになってから、もう六年ほどにもなりましょうか。夫がくなって一年つか経たないうちの事でございます。うまれつきの盲目と違って、当座は大変不自由を致しました」父は慰めようもなかった。彼女のいわゆる夫というのは何でも、請負師うけおいしか何かで、存生中ぞんしょうちゅうにだいぶ金を使った代りに、相応の資産も残して行ったらしかった。彼女はその御蔭おかげで眼を煩った今日こんにちでも、立派に独立して暮して行けるのだろうと父は説明した。彼女は人に誇ってしかるべきせがれと娘を持っていた。その倅には高等の教育こそ施してないようだったけれども、何でも銀座辺のある商会へ這入はいって独立し得るだけの収入を得ているらしかった。娘の方は下町風の育て方で、うたや三味線の稽古けいこを専一と心得させるように見えた。すべてを通じて○○とは遠い過去に焼きつけられた一点の記憶以外に何ものをも共通にもっているとは思えなかった。父が有楽座の話をした時に、女は両方の眼をうるませて、「本当に盲目ほど気の毒なものはございませんね」と云ったのが、痛く父の胸にはこたえたそうである。「○○さんは今何をしておいででございますか」と女はまた空中に何物をか想像するがごとき眼遣めづかいをして父に聞いた。父は残りなく○○が学校を出てから以後の経歴を話して聞かせた後、「今じゃなかなか偉くなっていますよ。私見たいな老朽とは違ってね」と答えた。女は父の返事には耳も借さずに、「定めてお立派な奥さんをお貰いになったでございましょうね」とおとなしやかに聞いた。「ええもう子供が四人よつたりあります」「一番お上のはいくつにお成りで」「さようさもう十二三にも成りましょうか。可愛かわいらしい女の子ですよ」女は黙ったなりしきりに指を折って何か勘定かんじょうし始めた。その指を眺めていた父は、急に恐ろしくなった。そうして腹の中で余計な事を云って、もう取り返しがつかないと思った。女はしばらく間をおいて、ただ「結構でございます」と一口云って後はさびしく笑った。しかしその笑い方が、父には泣かれるよりも怒られるよりも変な感じを与えたと云った。父は○○の宿所を明らさまに告げて、「ちと暇な時に遊びがてら御嬢さんでも連れて行って御覧なさい。ちょっと好いうちですよ。○○も夜ならたいてい御目にかかれると云っていましたから」と云った。すると女はたちまちまゆを曇らして、「そんな立派な御屋敷へ我々風情ふぜいがとても御出入おでいりはできませんが」と云ったまましばらく考えていたが、たちまち抑え切れないように真剣な声を出して、「御出入は致しません。先様さきさまで来いとおっしゃってもこっちで御遠慮しなければなりません。しかしただ一つ一生の御願に伺っておきたい事がございます。こうして御目にかかれるのももう二度とない御縁だろうと思いますから、どうぞそれだけ聞かして頂いた上心持よく御別れが致したいと存じます」と云った。

十八

父は年の割に度胸の悪い男なので、女からこう云われた時は、どんなすさまじい文句を並べられるかと思って、少からず心配したそうである。「幸い相手の眼が見えないので、自分の周章あわてさ加減をさとられずにすんだ」と彼はことさらにつけ加えた。その時女はこう云ったそうである。「私は御覧の通り眼をわずらって以来、色という色は皆目かいもく見えません。世の中で一番明るい御天道様おてんとさまさえもう拝む事はできなくなりました。ちょっと表へ出るにも娘の厄介やっかいにならなければ用事は足せません。いくら年を取っても一人で不自由なく歩く事のできる人間が幾人いくたりあるかと思うと、何の因果いんがでこんな業病ごうびょうかかったのかと、つくづく辛い心持が致します。けれどもこの眼はつぶれてもさほど苦しいとは存じません。ただ両方の眼が満足に開いている癖に、ひと料簡方りょうけんがたが解らないのが一番苦しゅうございます」父は「なるほど」と答えた。「ごもっとも」とも答えた。けれども女のいう意味はいっこう通じなかった。彼にはそういう経験がまるでなかったと彼は明言した。女は瞹眛あいまいな父の言葉を聞いて、「ねえあなたそうではございませんか」と念を押した。「そりゃそんな場合は無論有るでしょう」と父が云った。「有るでしょうでは、あなたもわざわざ○○さんに御頼まれになって、ここまでいらしって下すった甲斐かいがないではございませんか」と女が云った。父はますます窮した。自分はこの時偶然兄の顔を見た。そうして彼の神経的に緊張した眼の色と、少し冷笑をらしているようなあによめくちびるとの対照を比較して、突然彼らの間にこの間からわだかまっている妙な関係に気がついた。その蟠まりの中に、自分も引きずり込まれているという、一種いとうべき空気のにおいも容赦なく自分の鼻をいた。自分は父がなぜ座興とは云いながら、りに択って、こんな話をするのだろうと、ようやく不安の念が起った。けれども万事はすでに遅かった。父は知らぬ顔をして勝手次第に話頭を進めて行った。「おれはそれでも解らないから、淡泊たんぱくにその女に聞いて見た。せっかく○○に頼まれてわざわざここまで来て、肝心かんじんな要領を伺わないで引き取っては、あなたに対してはもちろん○○から云っても定めし不本意だろうから、どうかあなたの胸を存分私に打明けて下さいませんか。それでないと私も帰ってから○○に話がしにくいからって」その時女は始めて思い切った決断の色をおもてに見せて、「では申し上げます。あなたも○○さんの代理にわざわざ尋ねて来て下さるくらいでいらっしゃるから、定めし関係の深い御方には違いございませんでしょう」という冒頭まえおきをおいて、彼女の腹を父に打明けた。○○が結婚の約束をしながら一週間つか経たないのに、それを取り消す気になったのは、周囲の事情から圧迫を受けてやむをえず断ったのか、あるいは別に何か気に入らないところでもできて、その気に入らないところを、結婚の約束後急に見つけたため断ったのか、その有体ありていの本当が聞きたいのだと云うのが、女の何より知りたいところであった。女は二十年以上○○の胸の底に隠れているこの秘密を掘り出したくってたまらなかったのである。彼女には天下の人がことごとく持っている二つの眼を失って、ほとんどひとから片輪かたわ扱いにされるよりも、いったんちぎった人の心を確実に手に握れない方がはるかに苦痛なのであった。「御父さんはどういう返事をしておやりでしたか」とその時兄が突然聞いた。その顔には普通の興味というよりも、異状の同情がこもっているらしかった。「おれも仕方がないから、そりゃ大丈夫、僕が受け合う。本人に軽薄なところはちっともないと答えた」と父は好い加減な答えをかえって自慢らしく兄に話した。

EPISODE COMMENTS

この話の感想

感想 0

22話感想一覧

感想一覧を読み込み中...