十五
「それだけで済めばまあただの逸話さ。けれども運命というものは恐しいもので……」と父がまた語り続けた。自分は父が何を云い出すかと思って、彼の顔から自分の眼を離し得なかった。父の物語りの概要を摘んで見ると、ざっとこうであった。その男がその女をまるで忘れた二十何年の後、二人が偶然運命の手引で不意に会った。会ったのは東京の真中であった。しかも有楽座で名人会とか美音会とかのあった薄ら寒い宵の事だそうである。その時男は細君と女の子を連れて、土間の何列目か知らないが、かねて注文しておいた席に並んでいた。すると彼らが入場して五分経つか立たないのに、今云った女が他の若い女に手を引かれながら這入って来た。彼らも電話か何かで席を予約しておいたと見えて、男の隣にあるエンゲージドと紙札を張った所へ案内されたままおとなしく腰をかけた。二人はこういう奇妙な所で、奇妙に隣合わせに坐った。なおさら奇妙に思われたのは、女の方が昔と違った表情のない盲目になってしまって、ほかにどんな人がいるか全く知らずに、ただ舞台から出る音楽の響にばかり耳を傾けているという、男に取ってはまるで想像すらし得なかった事実であった。男は始め自分の傍に坐る女の顔を見て過去二十年の記憶を逆さに振られたごとく驚ろいた。次に黒い眸をじっと据えて自分を見た昔の面影が、いつの間にか消えていた女の面影に気がついて、また愕然として心細い感に打たれた。十時過まで一つの席にほとんど身動きもせずに坐っていた男は、舞台で何をやろうが、ほとんど耳へは這入らなかった。ただ女に別れてから今日に至る運命の暗い糸を、いろいろに想像するだけであった。女はまたわが隣にいる昔の人を、見もせず、知りもせず、全く意識に上す暇もなく、ただ自然に凋落しかかった過去の音楽に、やっとの思いで若い昔を偲ぶ気色を濃い眉の間に示すに過ぎなかった。二人は突然として邂逅し、突然として別れた。男は別れた後もしばしば女の事を思い出した。ことに彼女の盲目が気にかかった。それでどうかして女のいる所を突きとめようとした。「馬鹿正直なだけに熱心な男だもんだから、とうとう成功した。その筋道も聞くには聞いたが、くだくだしくって忘れちまったよ。何でも彼がその次に有楽座へ行った時、案内者を捕まえて、何とかかんとかした上に、だいぶ込み入った手数をかけたんだそうだ」「どこにいたんですその女は」と自分は是非確めたくなった。「それは秘密だ。名前や所はいっさい云われない事になっている。約束だからね。それは好いが、そいつが私にその盲目の女のいる所を訪問してくれと頼むんだね。何という主意か解らないが、つまりは無沙汰見舞のようなものさ。当人に云わせると、学問しただけに、鹿爪らしい理窟を何が条も並べるけれども。つまり過去と現在の中間を結びつけて安心したいのさ。それにどうして盲目になったか、それが大変当人の神経を悩ましていたと見えてね。と云っていまさらその女と新しい関係をつける気はなし、かつは女房子の手前もあるから、自分はわざわざ出かけたくないのさ。のみならず彼がまた昔その女と別れる時余計な事を饒舌っているんです。僕は少し学問するつもりだから三十五六にならなければ妻帯しない。でやむをえずこの間の約束は取消にして貰うんだってね。ところが奴学校を出るとすぐ結婚しているんだから良心の方から云っちゃあまり心持はよくないのだろう。それでとうとう私が行く事になった」「まあ馬鹿らしい」と嫂が云った。「馬鹿らしかったけれどもとうとう行ったよ」と父が答えた。客も自分も興味ありげに笑い出した。
十六
父には人に見られない一種剽軽なところがあった。ある者は直な方だとも云い、ある者は気のおけない男だとも評した。「親爺は全くあれで自分の地位を拵え上げたんだね。実際のところそれが世の中なんだろう。本式に学問をしたり真面目に考えを纏めたりしたって、社会ではちっとも重宝がらない。ただ軽蔑されるだけだ」兄はこんな愚痴とも厭味とも、また諷刺とも事実とも、片のつかない感慨を、蔭ながらかつて自分に洩らした事があった。自分は性質から云うと兄よりもむしろ父に似ていた。その上年が若いので、彼のいう意味が今ほど明瞭に解らなかった。何しろ父がその男に頼まれて、快よく訪問を引受けたのも、多分持って生れた物数奇から来たのだろうと自分は解釈している。父はやがてその盲目の家を音信れた。行く時に男は土産のしるしだと云って、百円札を一枚紙に包んで水引をかけたのに、大きな菓子折を一つ添えて父に渡した。父はそれを受取って、俥をその女の家に駆った。女の家は狭かったけれども小綺麗にかつ住心地よくできていた。縁の隅に丸く彫り抜いた御影の手水鉢が据えてあって、手拭掛には小新らしい三越の手拭さえ揺めいていた。家内も小人数らしく寂然として音もしなかった。父はこの日当りの好いしかし茶がかった小座敷で、初めてその盲人に会った時、ちょっと何と云って好いか分らなかったそうである。「おれのようなものが言句に窮するなんて馬鹿げた恥を話すようだが実際困ったね。何しろ相手が盲目なんだからね」父はわざとこう云って皆なを興がらせた。彼はその場でとうとう男の名を打ち明けて、例の土産ものを取り出しつつ女の前に置いた。女は眼が悪いので菓子折を撫でたり擦ったりして見た上、「どうも御親切に……」と恭しく礼を述べたが、その上にある紙包を手で取上げるや否や、少し変な顔をして「これは?」と念を押すように聞いた。父は例の気性だから、呵々と笑いながら、「それも御土産の一部分です、どうか一緒に受取っておいて下さい」と云った。すると女が水引の結び目を持ったまま、「もしや金子ではございませんか」と問い返した。「いえ何はなはだ軽少で、――しかし○○さんの寸志ですからどうぞ御納め下さい」父がこう云った時、女はぱたりとこの紙包を畳の上に落した。そうして閉じた眸をきっと父の方へ向けて、「私は今寡婦でございますが、この間まで歴乎とした夫がございました。子供は今でも丈夫でございます。たといどんな関係があったにせよ、他人さまから金子を頂いては、楽に今日を過すようにしておいてくれた夫の位牌に対してすみませんから御返し致します」と判切云って涙を落した。「これには実に閉口したね」と父は皆なの顔を一順見渡したが、その時に限って、誰も笑うものはなかった。自分も腹の中で、いかな父でもさすがに弱ったろうと思った。「その時わしは閉口しながらも、ああ景清を女にしたらやっぱりこんなものじゃなかろうかと思ってね。本当は感心しましたよ。どういう訳で景清を思い出したかと云うとね。ただ双方とも盲目だからと云うばかりじゃない。どうもその女の態度がね……」父は考えていた。父の筋向うに坐っていた赭顔の客が、「全く気込が似ているからですね」とさもむずかしい謎でも解くように云った。「全く気込です」と父はすぐ承服した。自分はこれで父の話が結末に来たのかと思って、「なるほどそれは面白い御話です」と全体を批評するような調子で云った。すると父は「まだ後があるんだ。後の方がまだ面白い。ことに二郎のような若い者が聞くと」とつけ加えた。
十七
父は意外な女の見識に、話の腰を折られて、やむをえず席を立とうとした。すると女は始めて女らしい表情を面に湛えて、縋りつくように父をとめた。そうしていつ何日どこで○○が自分を見たのかと聞いた。父は例の有楽座の事を包み蔵さず盲人に話して聞かせた。「ちょうどあなたの隣に腰をかけていたんだそうです。あなたの方ではまるで知らなかったでしょうが、○○は最初から気がついていたのです。しかし細君や娘の手前、口を利く事もでき悪かったんでしょう。それなり宅へ帰ったと云っていました」父はその時始めて盲目の涙腺から流れ出る涙を見た。「失礼ながら眼を御煩いになったのはよほど以前の事なんですか」と聞いた。「こういう不自由な身体になってから、もう六年ほどにもなりましょうか。夫が亡くなって一年経つか経たないうちの事でございます。生れつきの盲目と違って、当座は大変不自由を致しました」父は慰めようもなかった。彼女のいわゆる夫というのは何でも、請負師か何かで、存生中にだいぶ金を使った代りに、相応の資産も残して行ったらしかった。彼女はその御蔭で眼を煩った今日でも、立派に独立して暮して行けるのだろうと父は説明した。彼女は人に誇ってしかるべき倅と娘を持っていた。その倅には高等の教育こそ施してないようだったけれども、何でも銀座辺のある商会へ這入って独立し得るだけの収入を得ているらしかった。娘の方は下町風の育て方で、唄や三味線の稽古を専一と心得させるように見えた。すべてを通じて○○とは遠い過去に焼きつけられた一点の記憶以外に何ものをも共通にもっているとは思えなかった。父が有楽座の話をした時に、女は両方の眼をうるませて、「本当に盲目ほど気の毒なものはございませんね」と云ったのが、痛く父の胸には応えたそうである。「○○さんは今何をしておいででございますか」と女はまた空中に何物をか想像するがごとき眼遣をして父に聞いた。父は残りなく○○が学校を出てから以後の経歴を話して聞かせた後、「今じゃなかなか偉くなっていますよ。私見たいな老朽とは違ってね」と答えた。女は父の返事には耳も借さずに、「定めてお立派な奥さんをお貰いになったでございましょうね」とおとなしやかに聞いた。「ええもう子供が四人あります」「一番お上のはいくつにお成りで」「さようさもう十二三にも成りましょうか。可愛らしい女の子ですよ」女は黙ったなりしきりに指を折って何か勘定し始めた。その指を眺めていた父は、急に恐ろしくなった。そうして腹の中で余計な事を云って、もう取り返しがつかないと思った。女はしばらく間をおいて、ただ「結構でございます」と一口云って後は淋しく笑った。しかしその笑い方が、父には泣かれるよりも怒られるよりも変な感じを与えたと云った。父は○○の宿所を明らさまに告げて、「ちと暇な時に遊びがてら御嬢さんでも連れて行って御覧なさい。ちょっと好い家ですよ。○○も夜ならたいてい御目にかかれると云っていましたから」と云った。すると女はたちまち眉を曇らして、「そんな立派な御屋敷へ我々風情がとても御出入はできませんが」と云ったまましばらく考えていたが、たちまち抑え切れないように真剣な声を出して、「御出入は致しません。先様で来いとおっしゃってもこっちで御遠慮しなければなりません。しかしただ一つ一生の御願に伺っておきたい事がございます。こうして御目にかかれるのももう二度とない御縁だろうと思いますから、どうぞそれだけ聞かして頂いた上心持よく御別れが致したいと存じます」と云った。
十八
父は年の割に度胸の悪い男なので、女からこう云われた時は、どんな凄まじい文句を並べられるかと思って、少からず心配したそうである。「幸い相手の眼が見えないので、自分の周章さ加減を覚られずにすんだ」と彼はことさらにつけ加えた。その時女はこう云ったそうである。「私は御覧の通り眼を煩って以来、色という色は皆目見えません。世の中で一番明るい御天道様さえもう拝む事はできなくなりました。ちょっと表へ出るにも娘の厄介にならなければ用事は足せません。いくら年を取っても一人で不自由なく歩く事のできる人間が幾人あるかと思うと、何の因果でこんな業病に罹ったのかと、つくづく辛い心持が致します。けれどもこの眼は潰れてもさほど苦しいとは存じません。ただ両方の眼が満足に開いている癖に、他の料簡方が解らないのが一番苦しゅうございます」父は「なるほど」と答えた。「ごもっとも」とも答えた。けれども女のいう意味はいっこう通じなかった。彼にはそういう経験がまるでなかったと彼は明言した。女は瞹眛な父の言葉を聞いて、「ねえあなたそうではございませんか」と念を押した。「そりゃそんな場合は無論有るでしょう」と父が云った。「有るでしょうでは、あなたもわざわざ○○さんに御頼まれになって、ここまでいらしって下すった甲斐がないではございませんか」と女が云った。父はますます窮した。自分はこの時偶然兄の顔を見た。そうして彼の神経的に緊張した眼の色と、少し冷笑を洩らしているような嫂の唇との対照を比較して、突然彼らの間にこの間から蟠まっている妙な関係に気がついた。その蟠まりの中に、自分も引きずり込まれているという、一種厭うべき空気の匂いも容赦なく自分の鼻を衝いた。自分は父がなぜ座興とは云いながら、択りに択って、こんな話をするのだろうと、ようやく不安の念が起った。けれども万事はすでに遅かった。父は知らぬ顔をして勝手次第に話頭を進めて行った。「おれはそれでも解らないから、淡泊にその女に聞いて見た。せっかく○○に頼まれてわざわざここまで来て、肝心な要領を伺わないで引き取っては、あなたに対してはもちろん○○から云っても定めし不本意だろうから、どうかあなたの胸を存分私に打明けて下さいませんか。それでないと私も帰ってから○○に話がし悪いからって」その時女は始めて思い切った決断の色を面に見せて、「では申し上げます。あなたも○○さんの代理にわざわざ尋ねて来て下さるくらいでいらっしゃるから、定めし関係の深い御方には違いございませんでしょう」という冒頭をおいて、彼女の腹を父に打明けた。○○が結婚の約束をしながら一週間経つか経たないのに、それを取り消す気になったのは、周囲の事情から圧迫を受けてやむをえず断ったのか、あるいは別に何か気に入らないところでもできて、その気に入らないところを、結婚の約束後急に見つけたため断ったのか、その有体の本当が聞きたいのだと云うのが、女の何より知りたいところであった。女は二十年以上○○の胸の底に隠れているこの秘密を掘り出したくってたまらなかったのである。彼女には天下の人がことごとく持っている二つの眼を失って、ほとんど他から片輪扱いにされるよりも、いったん契った人の心を確実に手に握れない方が遥かに苦痛なのであった。「御父さんはどういう返事をしておやりでしたか」とその時兄が突然聞いた。その顔には普通の興味というよりも、異状の同情が籠っているらしかった。「おれも仕方がないから、そりゃ大丈夫、僕が受け合う。本人に軽薄なところはちっともないと答えた」と父は好い加減な答えをかえって自慢らしく兄に話した。

