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行人・夏目漱石

23

朗読者: VOICEVOX Nemo / ノーマル選択中朗読を再生できる

十九

「女はそんな事で満足したんですか」と兄が聞いた。自分から見ると、兄のこの問にはおかすべからざる強味がこもっていた。それが一種の念力ねんりきのように自分には響いた。父は気がついたのか、気がつかなかったのか、平気でこんな答をした。はじめは満足しかねた様子だった。もちろんこっちの云う事がそらそれほど根のある訳でもないんだからね。本当を云えば、先刻さっきお前達に話した通り男の方はまるで坊ちゃんなんで、前後の分別も何もないんだから、真面目まじめ挨拶あいさつはとてもできないのさ。けれどもそいつがいったん女と関係した後で止せば好かったと後悔したのは、どうも事実に違なかろうよ」兄は苦々しい顔をして父を見ていた。父は何という意味か、両手で長い頬を二度ほどでた。「この席でこんな御話をするのは少しはばかりがあるが」と兄が云った。自分はどんな議論が彼の口から出るか、次第によっては途中からその鉾先ほこさきを、一座の迷惑にならない方角へ向易むけかえようと思って聞いていた。すると彼はこう続けた。「男は情慾を満足させるまでは、女よりもはげしい愛を相手にささげるが、いったん事が成就じょうじゅするとその愛がだんだん下り坂になるに反して、女の方は関係がつくとそれからその男をますますしたうようになる。これが進化論から見ても、世間の事実から見ても、実際じゃなかろうかと思うのです。それでその男もこの原則に支配されて後から女に気がなくなった結果結婚を断ったんじゃないでしょうか」「妙な御話ね。あたし女だからそんなむずかしい理窟りくつは知らないけれども、始めて伺ったわ。ずいぶん面白い事があるのね」あによめがこう云った時、自分は客に見せたくないようないやな表情を兄の顔に見出したので、すぐそれをごまかすため何か云って見ようとした。すると父が自分より早く口を開いた。「そりゃ学理から云えばいろいろ解釈がつくかも知れないけれども、まあ何だね、実際はその女が厭になったに相違ないとしたところで、当人面喰めんくらったんだね、まず第一に。その上小胆しょうたんで無分別で正直と来ているから、それほど厭でなくっても断りかねないのさ」父はそう云ったなり洒然しゃぜんとしていた。とこの前に謡本を置いていた一人の客が、その時父の方を向いてこう云った。「しかし女というものはとにかく執念深しゅうねんぶかいものですね。二十何年もその事を胸の中に畳込んでおくんですからね。全くのところあなたは好い功徳くどくをなすった。そう云って安心させてやればその眼の見えない女のためにどのくらいうれしかったか解りゃしません」「そこがすべての懸合事かけあいごとの気転ですな。万事そうやれば双方のためにどのくらい都合が好いか知れんです」他の客が続いてこう云った時、父は「いやどうも」と頭をいて「実は今云った通り最初はね、そのくらいな事じゃなかなかうたぐりが解けないんで、私も少々弱らせられました。それをいろいろに光沢つやをつけたり、出鱈目でたらめこしらえたりして、とうとう女を納得させちまったんですが、ずいぶん骨が折れましたよ」と少し得意気であった。やがて客は謡本を風呂敷に包んでつゆれた門をくぐって出た。みんあとで世間話をしているなかに、兄だけはむずかしい顔をして一人書斎に入った。自分は例のごとくひややかに重い音をさせる上草履スリッパーの音を一つずつ聞いて、最後にどんと締まるドアの響に耳を傾けた。

二十

二三週間はそれなり過ぎた。そのうち秋がだんだん深くなった。葉鶏頭はげいとうの濃い色が庭をのぞくたびに自分の眼に映った。兄はくるまで学校へ出た。学校から帰るとたいていは書斎へ這入はいって何かしていた。家族のものでも滅多めったに顔を合わす機会はなかった。用があるとこっちから二階にのぼって、わざわざ扉を開けるのが常になっていた。兄はいつでも大きな書物の上に眼を向けていた。それでなければ何か万年筆で細かい字を書いていた。一番我々の眼についたのは、彼の茫然ぼうぜんとして洋机テーブルの上に頬杖ほおづえを突いている時であった。彼は一心に何か考えているらしかった。彼は学者でかつ思索家であるから、黙って考えるのは当然の事のようにも思われたが、扉を開けてその様子を見た者は、いかにも寒い気がすると云って、用を済ますのを待ち兼ねて外へ出た。最も関係の深い母ですら、書斎へ行くのをあまりありがたいとは思っていなかったらしい。「二郎、学者ってものはみんなあんな偏屈へんくつなものかね」この問を聞いた時、自分は学者でないのを不思議な幸福のように感じた。それでただえへへと笑っていた。すると母は真面目まじめな顔をして、「二郎、御前がいなくなると、うちさむしい上にも淋しくなるが、早く好い御嫁さんでも貰って別になる工面くめん御為おしよ」と云った。自分には母の言葉の裏に、自分さえ新しい家庭を作って独立すれば、兄の機嫌きげんが少しはよくなるだろうという意味が明らさまに読まれた。自分は今でも兄がそんな妙な事を考えているのだろうかとうたぐっても見た。しかし自分もすでに一家を成してしかるべき年輩だし、また小さい一軒のかまどぐらいは、現在の収入でどうかこうか維持して行かれる地位なのだから、かねてから、そういう考えはちらちらと無頓着むとんじゃくな自分の頭をさえ横切ったのである。自分は母に対して、「ええ外へ出る事なんか訳はありません。明日あしたからでも出ろとおっしゃれば出ます。しかし嫁の方はそうち﹅ん﹅こ﹅ろ﹅のように、何でも構わないから、ただ路に落ちてさえいれば拾って来るというような遣口やりくちじゃ僕には不向ふむきですから」と云った。その時母は、「そりゃ無論……」と答えようとするのを自分はわざとさえぎった。「御母さんの前ですが、兄さんと姉さんの間ですね。あれにはいろいろ複雑な事情もあり、また僕がもとから少し姉さんと知り合だったので、御母さんにも御心配をかけてすまないようですけれども、大根おおねをいうとね。兄さんが学問以外の事に時間をついやすのがおしいんで、万事人任ひとまかせにしておいて、何事にも手を出さずに華族然と澄ましていたのが悪いんですよ。いくら研究の時間が大切だって、学校の講義が大事だって、一生同じ所で同じ生活をしなくっちゃならないが妻じゃありませんか。兄さんに云わしたらまた学者相応の意見もありましょうけれども学者以下の我々にはとてもあんな真似はできませんからね」自分がこんな下らない理窟りくつを云いつのっているうちに、母の眼にはいつの間にか涙らしい光の影が、だんだんたまって来たので、自分は驚いてやめてしまった。自分はつらの皮が厚いというのか、遠慮がなさ過ぎると云うのか、それほどうちのものが気兼きがねをして、云わば敬して遠ざけているような兄の書斎のドアひとよりもしばしばたたいて話をした。中へ這入はいった当分の感じは、さすがの自分にも少しこたえた。けれども十分ぐらいつと彼はまるで別人のように快活になった。自分はにがい兄の心機をこう一転させる自分の手際てぎわに重きをおいて、あたかもおのれの虚栄心を満足させるための手段らしい態度をもって、わざわざ彼の書斎へ出入でいりした事さえあった。自白すると、突然兄からつらまって危く死地におとしいれられそうになったのも、実はこういう得意の瞬間であった。

二十一

その折自分は何を話ていたか今たしかに覚えていない。何でも兄から玉突たまつきの歴史を聞いた上、ルイ十四世頃の銅版の玉突台をわざわざ見せられたような気がする。兄のへやへ這入っては、こんな問題を種に、彼の新しく得た知識を、はいはい聞いているのが一番安全であった。もっとも自分も御饒舌おしゃべりだから、兄と違った方面で、ルネサンスとかゴシックとかいう言葉を心得顔にふり廻す事も多かった。しかしたいていは世間離れのしたこう云う談話だけで書斎を出るのが例であったが、その折は何かの拍子ひょうしで兄の得意とする遺伝とか進化とかについての学説が、銅版の後で出て来た。自分は多分云う事がないため、黙って聞いていたものと見える。その時兄が「二郎お前はお父さんの子だね」と突然云った。自分はそれがどうしたと云わぬばかりの顔をして、「そうです」と答えた。「おれはお前だから話すが、実はうちのお父さんには、一種妙にお﹅っ﹅ち﹅ょ﹅こ﹅ち﹅ょ﹅い﹅のところがあるじゃないか」兄から父を評すれば正にそうであるという事を自分は以前から呑込のみこんでいた。けれども兄に対してこの場合何と挨拶あいさつすべきものか自分には解らなかった。「そりゃあなたのいう遺伝とか性質とかいうものじゃおそらくないでしょう。今の日本の社会があれでなくっちゃ、通させないから、やむをえないのじゃないですか。世の中にゃお父さんどころかまだまだたまらないお﹅っ﹅ち﹅ょ﹅こ﹅がありますよ。兄さんは書斎と学校で高尚に日を暮しているから解らないかも知れないけれども」「そりゃおれも知ってる。お前の云う通りだ。今の日本の社会は――ことによったら西洋もそうかも知れないけれども――みん上滑うわすべりの御上手ものだけが存在し得るように出来上がっているんだから仕方がない」兄はこう云ってしばらく沈黙のうちに頭をうずめていた。それからだるそうな眼を上げた。「しかし二郎、お父さんのは、お気の毒だけれども、持って生れた性質なんだよ。どんな社会に生きていても、ああよりほかに存在の仕方はお父さんに取ってむずかしいんだね」自分はこの学問をして、高尚になり、かつ迂濶うかつになり過ぎた兄が、家中うちじゅうから変人扱いにされるのみならず、親身の親からさえも、日に日に離れて行くのを眼前に見て、思わず顔を下げて自分の膝頭ひざがしらを見つめた。「二郎お前もやっぱりお父さん流だよ。少しも摯実しじつの気質がない」と兄が云った。自分は癇癪かんしゃくの不意に起る野蛮な気質を兄と同様に持っていたが、この場合兄の言葉を聞いたとき、ごうも憤怒の念がきざさなかった。「そりゃひどい。僕はとにかく、お父さんまで世間の軽薄ものといっしょに見做みなすのは。兄さんはひとりぼっちで書斎にばかりこもっているから、それでそういうひがんだ観察ばかりなさるんですよ」「じゃ例をげて見せようか」兄の眼は急に光を放った。自分は思わず口を閉じた。「この間うたいの客のあった時に、盲女めくらおんなの話をお父さんがしたろう。あのときお父さんは何とかいう人を立派に代表して行きながら、その女が二十何年も解らずに煩悶はんもんしていた事を、ただ一口にごまかしている。おれはあの時、その女のために腹の中で泣いた。女は知らない女だからそれほど同情は起らなかったけれども、実をいうとお父さんの軽薄なのに泣いたのだ。本当に情ないと思った。「そう女みたように解釈すれば、何だって軽薄に見えるでしょうけれども……」「そんな事を云うところが、つまりお父さんの悪いところを受けいでいる証拠しょうこになるだけさ。おれはなおの事をお前に頼んで、その報告をいつまでも待っていた。ところがお前はいつまでも言葉を左右に託して、空恍そらとぼけている……」

二十二

「空恍けてると云われちゃちっと可哀かわいそうですね。話す機会もなし、また話す必要がないんですもの」「機会は毎日ある。必要はお前になくてもおれの方にあるから、わざわざ頼んだのだ」自分はその時ぐっと行きつまった。実はあの事件以後、あによめについて兄の前へ一人出て、真面目に彼女を論ずるのがいかにも苦痛だったのである。自分は話頭を無理に横へ向けようとした。「兄さんはすでにお父さんを信用なさらず。僕もそのお父さんの子だという訳で、信用なさらないようだが、和歌の浦でおっしゃった事とはまるで矛盾していますね」「何が」と兄は少し怒気を帯びて反問した。「何がって、あの時、あなたはおっしゃったじゃありませんか。お前は正直なお父さんの血を受けているから、信用ができる、だからこんな事を打ち明けて頼むんだって」自分がこう云うと、今度は兄の方がぐっと行きつまったような形迹けいせきを見せた。自分はここだと思って、わざと普通以上の力を、言葉のうちめながらこう云った。「そりゃ御約束した事ですから、ねえさんについて、あの時の一部始終いちぶしじゅうを今ここで御話してもいっこう差支さしつかえありません。もとより僕はあまり下らない事だから、機会が来なければ口を開く考えもなし、また口を開いたって、ただ一言いちごんで済んでしまう事だから、兄さんが気にかけない以上、何も云う必要を認めないので、今日こんにちまで控えていたんですから。――しかし是非何とか報告をしろと、官命で出張した属官流にせまられれば、仕方がない。即刻すぐでも僕の見た通りをお話します。けれどもあらかじめ断っておきますが、僕の報告から、あなたの予期しているような変なまぼろしはけっして出て来ませんよ。元々あなたの頭にある幻なんで、客観的にはどこにも存在していないんだから」兄は自分の言葉を聞いた時、平生と違って、顔の筋肉をほとんど一つも動かさなかった。ただ洋卓テーブルの前にひじを突いたなり、じっとしていた。眼さえ伏せていたから、自分には彼の表情がちっとも解らなかった。兄は理に明らかなようで、またその理にころりとげられる癖があった。自分はただ彼の顔色が少しあおくなったのを見て、これは必竟ひっきょう彼が自分の強い言語にたたかれたのだと判断した。自分はそこにあった巻莨入まきたばこいれから煙草たばこを一本取り出して燐寸マッチの火をった。そうして自分の鼻から出る青い煙と兄の顔とを等分に眺めていた。「二郎」と兄がようやく云った。その声には力もはりもなかった。「何です」と自分は答えた。自分の声はむしろおごっていた。「もうおれはお前になおの事について何も聞かないよ」「そうですか。その方が兄さんのためにも嫂さんのためにも、また御父さんのためにも好いでしょう。善良な夫になって御上げなさい。そうすれば嫂さんだって善良な夫人でさあ」と自分はあによめを弁護するように、また兄を戒めるように云った。「この馬鹿野郎」と兄は突然大きな声を出した。その声はおそらく下まで聞えたろうが、すぐそばに坐っている自分には、ほとんど予想外の驚きを心臓に打ち込んだ。「お前はお父さんの子だけあって、世渡りはおれよりうまいかも知れないが、士人の交わりはできない男だ。なんで今になって直の事をお前の口などから聞こうとするものか。軽薄児けいはくじめ」自分の腰は思わず坐っている椅子いすからふらりと離れた。自分はそのままドアの方へ歩いて行った。「お父さんのような虚偽な自白を聞いたあと何で貴様の報告なんかあてにするものか」自分はこういうはげしい言葉を背中に受けつつドアを閉めて、暗い階段の上に出た。

二十三

自分はそれから約一週間ほどというもの、夕食以外には兄と顔を合した事がなかった。平生食卓をにぎやかにする義務をもっているとまで、みんなから思われていた自分が、急に黙ってしまったので、テーブルは変にさみしくなった。どこかで鳴くこおろぎさえ、ならんでいる人の耳に肌寒はださむ象徴シンボルのごとく響いた。こういう寂寞せきばくたる団欒だんらんの中に、お貞さんは日ごとに近づいて来る我結婚の日限にちげんを考えるよりほかに、何の天地もないごとくに、盆をひざの上へせて御給仕をしていた。陽気な父は周囲に頓着とんじゃくなく、おのれに特有な勝手な話ばかりした。しかしその反響はいつものようにどこからも起らなかった。父の方でもまるでそれを予期する気色けしきは見えなかった。時々席につらなったものが、一度に声を出して笑う種になったのはただ芳江ばかりであった。母などは話が途切とぎれておのずと不安になるたびに、「芳江お前は……」とか何とか無理に問題をこしらえて、一時を糊塗ことするのを例にした。するとそのわざとらしさが、すぐ兄の神経に触った。自分は食卓を退しりぞいて自分のへやに帰るたびに、ほっと一息吐ひといきつくように煙草たばこを呑んだ。「つまらない。一面識いちめんしきのないものが寄って会食するよりなおつまらない。ひとの家庭もみんなこんな不愉快なものかしら」自分は時々こう考えて、早くうちを出てしまおうと決心した事もあった。あまり食卓の空気が冷やかな折は、お重が自分の後をしたって、追いかけるように、自分の室へ這入はいって来た。彼女は何にも云わずにそこで泣き出したりした。ある時はなぜ兄さんに早くあやまらないのだと詰問するように自分をにくらしそうににらめたりした。自分はうちにいるのがいよいよいやになった。元来性急せっかちのくせに決断に乏しい自分だけれども、今度こそは下宿なり間借りなりして、当分気を抜こうと思いさだめた。自分は三沢の所へ相談に行った。その時自分は彼に、「君が大阪などで、ああ長くわずらうから悪いんだ」と云った。彼は「君がおなおさんなどのそばに長くくっついているから悪いんだ」と答えた。自分は上方かみがたから帰って以来、彼に会う機会は何度となくあったが、あによめについては、いまだかつて一言も彼に告げたためしがなかった。彼もまた自分の嫂に関しては、いっさい口を閉じて何事をも云わなかった。自分は始めて彼の咽喉のどれる嫂の名を聞いた。またその嫂と自分との間によこたわる、深くも浅くも取れる相互関係をあらわした彼の言葉を聞いた。そうして驚きとうたがいの眼を三沢の上にそそいだ。その中にいかりを含んでいると解釈した彼は、おこるなよ」と云った。そのあとで「気狂きちがいになった女に、しかも死んだ女にれられたと思って、己惚おのぼれているおれの方が、まあ安全だろう。その代り心細いには違ない。しかし面倒は起らないから、いくら惚れても、惚れられてもいっこう差支さしつかえない」と云った。自分は黙っていた。彼は笑いながら「どうだ」と自分の肩をつかまえて小突いた。自分には彼の態度が真面目まじめなのか、また冗談なのか、少しも解らなかった。真面目にせよ、冗談にせよ、自分は彼に向って何事をも説明したり、弁明したりする気は起らなかった。自分はそれでも三沢に適当な宿を一二軒教わって、帰りがけに、自分のへやまで見て帰った。うちへ戻るや否や誰より先に、まずお重を呼んで、「兄さんもお前の忠告してくれた通り、いよいよ家を出る事にした」と告げた。お重は案外なようなまた予期していたような表情を眉間みけんにあつめて、じっと自分の顔を眺めた。

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