十九
「女はそんな事で満足したんですか」と兄が聞いた。自分から見ると、兄のこの問には冒すべからざる強味が籠っていた。それが一種の念力のように自分には響いた。父は気がついたのか、気がつかなかったのか、平気でこんな答をした。「始は満足しかねた様子だった。もちろんこっちの云う事がそらそれほど根のある訳でもないんだからね。本当を云えば、先刻お前達に話した通り男の方はまるで坊ちゃんなんで、前後の分別も何もないんだから、真面目な挨拶はとてもできないのさ。けれどもそいつがいったん女と関係した後で止せば好かったと後悔したのは、どうも事実に違なかろうよ」兄は苦々しい顔をして父を見ていた。父は何という意味か、両手で長い頬を二度ほど撫でた。「この席でこんな御話をするのは少し憚りがあるが」と兄が云った。自分はどんな議論が彼の口から出るか、次第によっては途中からその鉾先を、一座の迷惑にならない方角へ向易えようと思って聞いていた。すると彼はこう続けた。「男は情慾を満足させるまでは、女よりも烈しい愛を相手に捧げるが、いったん事が成就するとその愛がだんだん下り坂になるに反して、女の方は関係がつくとそれからその男をますます慕うようになる。これが進化論から見ても、世間の事実から見ても、実際じゃなかろうかと思うのです。それでその男もこの原則に支配されて後から女に気がなくなった結果結婚を断ったんじゃないでしょうか」「妙な御話ね。妾女だからそんなむずかしい理窟は知らないけれども、始めて伺ったわ。ずいぶん面白い事があるのね」嫂がこう云った時、自分は客に見せたくないような厭な表情を兄の顔に見出したので、すぐそれをごまかすため何か云って見ようとした。すると父が自分より早く口を開いた。「そりゃ学理から云えばいろいろ解釈がつくかも知れないけれども、まあ何だね、実際はその女が厭になったに相違ないとしたところで、当人面喰らったんだね、まず第一に。その上小胆で無分別で正直と来ているから、それほど厭でなくっても断りかねないのさ」父はそう云ったなり洒然としていた。床の前に謡本を置いていた一人の客が、その時父の方を向いてこう云った。「しかし女というものはとにかく執念深いものですね。二十何年もその事を胸の中に畳込んでおくんですからね。全くのところあなたは好い功徳をなすった。そう云って安心させてやればその眼の見えない女のためにどのくらい嬉しかったか解りゃしません」「そこがすべての懸合事の気転ですな。万事そうやれば双方のためにどのくらい都合が好いか知れんです」他の客が続いてこう云った時、父は「いやどうも」と頭を掻いて「実は今云った通り最初はね、そのくらいな事じゃなかなか疑りが解けないんで、私も少々弱らせられました。それをいろいろに光沢をつけたり、出鱈目を拵えたりして、とうとう女を納得させちまったんですが、ずいぶん骨が折れましたよ」と少し得意気であった。やがて客は謡本を風呂敷に包んで露に濡れた門を潜って出た。皆な後で世間話をしているなかに、兄だけはむずかしい顔をして一人書斎に入った。自分は例のごとく冷かに重い音をさせる上草履の音を一つずつ聞いて、最後にどんと締まる扉の響に耳を傾けた。
二十
二三週間はそれなり過ぎた。そのうち秋がだんだん深くなった。葉鶏頭の濃い色が庭を覗くたびに自分の眼に映った。兄は俥で学校へ出た。学校から帰るとたいていは書斎へ這入って何かしていた。家族のものでも滅多に顔を合わす機会はなかった。用があるとこっちから二階に上って、わざわざ扉を開けるのが常になっていた。兄はいつでも大きな書物の上に眼を向けていた。それでなければ何か万年筆で細かい字を書いていた。一番我々の眼についたのは、彼の茫然として洋机の上に頬杖を突いている時であった。彼は一心に何か考えているらしかった。彼は学者でかつ思索家であるから、黙って考えるのは当然の事のようにも思われたが、扉を開けてその様子を見た者は、いかにも寒い気がすると云って、用を済ますのを待ち兼ねて外へ出た。最も関係の深い母ですら、書斎へ行くのをあまりありがたいとは思っていなかったらしい。「二郎、学者ってものは皆なあんな偏屈なものかね」この問を聞いた時、自分は学者でないのを不思議な幸福のように感じた。それでただえへへと笑っていた。すると母は真面目な顔をして、「二郎、御前がいなくなると、宅は淋しい上にも淋しくなるが、早く好い御嫁さんでも貰って別になる工面を御為よ」と云った。自分には母の言葉の裏に、自分さえ新しい家庭を作って独立すれば、兄の機嫌が少しはよくなるだろうという意味が明らさまに読まれた。自分は今でも兄がそんな妙な事を考えているのだろうかと疑っても見た。しかし自分もすでに一家を成してしかるべき年輩だし、また小さい一軒の竈ぐらいは、現在の収入でどうかこうか維持して行かれる地位なのだから、かねてから、そういう考えはちらちらと無頓着な自分の頭をさえ横切ったのである。自分は母に対して、「ええ外へ出る事なんか訳はありません。明日からでも出ろとおっしゃれば出ます。しかし嫁の方はそうち﹅ん﹅こ﹅ろ﹅のように、何でも構わないから、ただ路に落ちてさえいれば拾って来るというような遣口じゃ僕には不向ですから」と云った。その時母は、「そりゃ無論……」と答えようとするのを自分はわざと遮った。「御母さんの前ですが、兄さんと姉さんの間ですね。あれにはいろいろ複雑な事情もあり、また僕が固から少し姉さんと知り合だったので、御母さんにも御心配をかけてすまないようですけれども、大根をいうとね。兄さんが学問以外の事に時間を費すのが惜いんで、万事人任せにしておいて、何事にも手を出さずに華族然と澄ましていたのが悪いんですよ。いくら研究の時間が大切だって、学校の講義が大事だって、一生同じ所で同じ生活をしなくっちゃならない吾が妻じゃありませんか。兄さんに云わしたらまた学者相応の意見もありましょうけれども学者以下の我々にはとてもあんな真似はできませんからね」自分がこんな下らない理窟を云い募っているうちに、母の眼にはいつの間にか涙らしい光の影が、だんだん溜って来たので、自分は驚いてやめてしまった。自分は面の皮が厚いというのか、遠慮がなさ過ぎると云うのか、それほど宅のものが気兼をして、云わば敬して遠ざけているような兄の書斎の扉を他よりもしばしば叩いて話をした。中へ這入った当分の感じは、さすがの自分にも少し応えた。けれども十分ぐらい経つと彼はまるで別人のように快活になった。自分は苦い兄の心機をこう一転させる自分の手際に重きをおいて、あたかも己れの虚栄心を満足させるための手段らしい態度をもって、わざわざ彼の書斎へ出入した事さえあった。自白すると、突然兄から捕まって危く死地に陥れられそうになったのも、実はこういう得意の瞬間であった。
二十一
その折自分は何を話ていたか今たしかに覚えていない。何でも兄から玉突の歴史を聞いた上、ルイ十四世頃の銅版の玉突台をわざわざ見せられたような気がする。兄の室へ這入っては、こんな問題を種に、彼の新しく得た知識を、はいはい聞いているのが一番安全であった。もっとも自分も御饒舌だから、兄と違った方面で、ルネサンスとかゴシックとかいう言葉を心得顔にふり廻す事も多かった。しかしたいていは世間離れのしたこう云う談話だけで書斎を出るのが例であったが、その折は何かの拍子で兄の得意とする遺伝とか進化とかについての学説が、銅版の後で出て来た。自分は多分云う事がないため、黙って聞いていたものと見える。その時兄が「二郎お前はお父さんの子だね」と突然云った。自分はそれがどうしたと云わぬばかりの顔をして、「そうです」と答えた。「おれはお前だから話すが、実はうちのお父さんには、一種妙にお﹅っ﹅ち﹅ょ﹅こ﹅ち﹅ょ﹅い﹅のところがあるじゃないか」兄から父を評すれば正にそうであるという事を自分は以前から呑込んでいた。けれども兄に対してこの場合何と挨拶すべきものか自分には解らなかった。「そりゃあなたのいう遺伝とか性質とかいうものじゃおそらくないでしょう。今の日本の社会があれでなくっちゃ、通させないから、やむをえないのじゃないですか。世の中にゃお父さんどころかまだまだたまらないお﹅っ﹅ち﹅ょ﹅こ﹅がありますよ。兄さんは書斎と学校で高尚に日を暮しているから解らないかも知れないけれども」「そりゃおれも知ってる。お前の云う通りだ。今の日本の社会は――ことによったら西洋もそうかも知れないけれども――皆な上滑りの御上手ものだけが存在し得るように出来上がっているんだから仕方がない」兄はこう云ってしばらく沈黙の裡に頭を埋めていた。それから怠そうな眼を上げた。「しかし二郎、お父さんのは、お気の毒だけれども、持って生れた性質なんだよ。どんな社会に生きていても、ああよりほかに存在の仕方はお父さんに取ってむずかしいんだね」自分はこの学問をして、高尚になり、かつ迂濶になり過ぎた兄が、家中から変人扱いにされるのみならず、親身の親からさえも、日に日に離れて行くのを眼前に見て、思わず顔を下げて自分の膝頭を見つめた。「二郎お前もやっぱりお父さん流だよ。少しも摯実の気質がない」と兄が云った。自分は癇癪の不意に起る野蛮な気質を兄と同様に持っていたが、この場合兄の言葉を聞いたとき、毫も憤怒の念が萌さなかった。「そりゃひどい。僕はとにかく、お父さんまで世間の軽薄ものといっしょに見做すのは。兄さんは独りぼっちで書斎にばかり籠っているから、それでそういう僻んだ観察ばかりなさるんですよ」「じゃ例を挙げて見せようか」兄の眼は急に光を放った。自分は思わず口を閉じた。「この間謡の客のあった時に、盲女の話をお父さんがしたろう。あのときお父さんは何とかいう人を立派に代表して行きながら、その女が二十何年も解らずに煩悶していた事を、ただ一口にごまかしている。おれはあの時、その女のために腹の中で泣いた。女は知らない女だからそれほど同情は起らなかったけれども、実をいうとお父さんの軽薄なのに泣いたのだ。本当に情ないと思った。」「そう女みたように解釈すれば、何だって軽薄に見えるでしょうけれども……」「そんな事を云うところが、つまりお父さんの悪いところを受け継いでいる証拠になるだけさ。おれは直の事をお前に頼んで、その報告をいつまでも待っていた。ところがお前はいつまでも言葉を左右に託して、空恍けている……」
二十二
「空恍けてると云われちゃちっと可哀そうですね。話す機会もなし、また話す必要がないんですもの」「機会は毎日ある。必要はお前になくてもおれの方にあるから、わざわざ頼んだのだ」自分はその時ぐっと行きつまった。実はあの事件以後、嫂について兄の前へ一人出て、真面目に彼女を論ずるのがいかにも苦痛だったのである。自分は話頭を無理に横へ向けようとした。「兄さんはすでにお父さんを信用なさらず。僕もそのお父さんの子だという訳で、信用なさらないようだが、和歌の浦でおっしゃった事とはまるで矛盾していますね」「何が」と兄は少し怒気を帯びて反問した。「何がって、あの時、あなたはおっしゃったじゃありませんか。お前は正直なお父さんの血を受けているから、信用ができる、だからこんな事を打ち明けて頼むんだって」自分がこう云うと、今度は兄の方がぐっと行きつまったような形迹を見せた。自分はここだと思って、わざと普通以上の力を、言葉の裡へ籠めながらこう云った。「そりゃ御約束した事ですから、嫂さんについて、あの時の一部始終を今ここで御話してもいっこう差支えありません。固より僕はあまり下らない事だから、機会が来なければ口を開く考えもなし、また口を開いたって、ただ一言で済んでしまう事だから、兄さんが気にかけない以上、何も云う必要を認めないので、今日まで控えていたんですから。――しかし是非何とか報告をしろと、官命で出張した属官流に逼られれば、仕方がない。今即刻でも僕の見た通りをお話します。けれどもあらかじめ断っておきますが、僕の報告から、あなたの予期しているような変な幻はけっして出て来ませんよ。元々あなたの頭にある幻なんで、客観的にはどこにも存在していないんだから」兄は自分の言葉を聞いた時、平生と違って、顔の筋肉をほとんど一つも動かさなかった。ただ洋卓の前に肱を突いたなり、じっとしていた。眼さえ伏せていたから、自分には彼の表情がちっとも解らなかった。兄は理に明らかなようで、またその理にころりと抛げられる癖があった。自分はただ彼の顔色が少し蒼くなったのを見て、これは必竟彼が自分の強い言語に叩かれたのだと判断した。自分はそこにあった巻莨入から煙草を一本取り出して燐寸の火を擦った。そうして自分の鼻から出る青い煙と兄の顔とを等分に眺めていた。「二郎」と兄がようやく云った。その声には力も張もなかった。「何です」と自分は答えた。自分の声はむしろ驕っていた。「もうおれはお前に直の事について何も聞かないよ」「そうですか。その方が兄さんのためにも嫂さんのためにも、また御父さんのためにも好いでしょう。善良な夫になって御上げなさい。そうすれば嫂さんだって善良な夫人でさあ」と自分は嫂を弁護するように、また兄を戒めるように云った。「この馬鹿野郎」と兄は突然大きな声を出した。その声はおそらく下まで聞えたろうが、すぐ傍に坐っている自分には、ほとんど予想外の驚きを心臓に打ち込んだ。「お前はお父さんの子だけあって、世渡りはおれより旨いかも知れないが、士人の交わりはできない男だ。なんで今になって直の事をお前の口などから聞こうとするものか。軽薄児め」自分の腰は思わず坐っている椅子からふらりと離れた。自分はそのまま扉の方へ歩いて行った。「お父さんのような虚偽な自白を聞いた後、何で貴様の報告なんか宛にするものか」自分はこういう烈しい言葉を背中に受けつつ扉を閉めて、暗い階段の上に出た。
二十三
自分はそれから約一週間ほどというもの、夕食以外には兄と顔を合した事がなかった。平生食卓を賑やかにする義務をもっているとまで、皆なから思われていた自分が、急に黙ってしまったので、テーブルは変に淋しくなった。どこかで鳴く蛼の音さえ、併んでいる人の耳に肌寒の象徴のごとく響いた。こういう寂寞たる団欒の中に、お貞さんは日ごとに近づいて来る我結婚の日限を考えるよりほかに、何の天地もないごとくに、盆を膝の上へ載せて御給仕をしていた。陽気な父は周囲に頓着なく、己れに特有な勝手な話ばかりした。しかしその反響はいつものようにどこからも起らなかった。父の方でもまるでそれを予期する気色は見えなかった。時々席に列ったものが、一度に声を出して笑う種になったのはただ芳江ばかりであった。母などは話が途切れておのずと不安になるたびに、「芳江お前は……」とか何とか無理に問題を拵えて、一時を糊塗するのを例にした。するとそのわざとらしさが、すぐ兄の神経に触った。自分は食卓を退いて自分の室に帰るたびに、ほっと一息吐くように煙草を呑んだ。「つまらない。一面識のないものが寄って会食するよりなおつまらない。他の家庭もみんなこんな不愉快なものかしら」自分は時々こう考えて、早く家を出てしまおうと決心した事もあった。あまり食卓の空気が冷やかな折は、お重が自分の後を恋って、追いかけるように、自分の室へ這入って来た。彼女は何にも云わずにそこで泣き出したりした。ある時はなぜ兄さんに早く詫まらないのだと詰問するように自分を悪らしそうに睨めたりした。自分は宅にいるのがいよいよ厭になった。元来性急のくせに決断に乏しい自分だけれども、今度こそは下宿なり間借りなりして、当分気を抜こうと思い定めた。自分は三沢の所へ相談に行った。その時自分は彼に、「君が大阪などで、ああ長く煩うから悪いんだ」と云った。彼は「君がお直さんなどの傍に長くくっついているから悪いんだ」と答えた。自分は上方から帰って以来、彼に会う機会は何度となくあったが、嫂については、いまだかつて一言も彼に告げた例がなかった。彼もまた自分の嫂に関しては、いっさい口を閉じて何事をも云わなかった。自分は始めて彼の咽喉を洩れる嫂の名を聞いた。またその嫂と自分との間に横わる、深くも浅くも取れる相互関係をあらわした彼の言葉を聞いた。そうして驚きと疑の眼を三沢の上に注いだ。その中に怒を含んでいると解釈した彼は、「怒るなよ」と云った。その後で「気狂になった女に、しかも死んだ女に惚れられたと思って、己惚れているおれの方が、まあ安全だろう。その代り心細いには違ない。しかし面倒は起らないから、いくら惚れても、惚れられてもいっこう差支えない」と云った。自分は黙っていた。彼は笑いながら「どうだ」と自分の肩を捕まえて小突いた。自分には彼の態度が真面目なのか、また冗談なのか、少しも解らなかった。真面目にせよ、冗談にせよ、自分は彼に向って何事をも説明したり、弁明したりする気は起らなかった。自分はそれでも三沢に適当な宿を一二軒教わって、帰りがけに、自分の室まで見て帰った。家へ戻るや否や誰より先に、まずお重を呼んで、「兄さんもお前の忠告してくれた通り、いよいよ家を出る事にした」と告げた。お重は案外なようなまた予期していたような表情を眉間にあつめて、じっと自分の顔を眺めた。

