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行人・夏目漱石

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三十四

芳江が「叔父さんちょっといらっしゃい」と次の間から小さな手を出して自分を招いた。「何だい」と立って行くと彼女はどこからか、大きな信玄袋しんげんぶくろを引摺ひきずり出して、「これお貞さんのよ、見せたげましょうか」と自慢らしく自分を見た。彼女は信玄袋の中から天鵞絨びろうどで張った四角な箱を出した。自分はその中にある真珠の指環を手に取って、ふんと云いながら眺めた。芳江は「これもよ」と云って、今度は海老茶色えびちゃいろのを出したが、これは自分が洗濯その他たの世話になった礼に買ってやった宝石なしの単純な金の指環であった。彼女はまた「これもよ」と云って、繻珍しゅちんの紙入を出した。その紙入には模様風に描いた菊の花が金で一面に織り出されていた。彼女はその次に比較的大きくて細長い桐きりの箱を出した。これは金と赤銅しゃくどうと銀とで、蔦つたの葉を綴つづった金具の付いている帯留おびどめであった。最後に彼女は櫛くしと笄こうがいを示して、「これ卵甲らんこうよ。本当の鼈甲べっこうじゃないんだって。本当の鼈甲は高過ぎるからおやめにしたんですって」と説明した。自分には卵甲という言葉が解らなかった。芳江には無論解らなかった。けれども女の子だけあって、「これ一番安いのよ。四方張しほうばりよか安いのよ。玉子の白味で貼はり付けるんだから」と云った。「玉子の白味でどこをどう貼り付けるんだい」と聞くと、彼女は、「そんな事知らないわ」と取り済ました口の利きき方かたをして、さっさと信玄袋を引き摺ずって次の間へ行ってしまった。自分は母からお貞さんの当日着る着物を見せて貰った。薄紫がかった御納戸おなんどの縮緬ちりめんで、紋もんは蔦、裾すその模様は竹であった。「これじゃあまり閑静かんせい過ぎやしませんか、年に合わして」と自分は母に聞いて見た。母は「でもねあんまり高くなるから」と答えた。そうして「これでも御前二十五円かかったんだよ」とつけ加えて、無知識な自分を驚かした。地じは去年の春京都の織屋が背負しょって来た時、白のまま三反ばかり用意に買っておいて、この間まで箪笥たんすの抽出ひきだしにしまったなり放ほうってあったのだそうである。お貞さんは一座の席へ先刻さっきから少しも顔を出さなかった。自分はおおかたきまりが悪いのだろうと想像して、そのきまりの悪いところを、ここで一目見たいと思った。「お貞さんはどこにいるんです」と母に聞いた。すると兄が「ああ忘れた。行く前にちょっとお貞さんに話があるんだった」と云った。みんな変な顔をしたうちに、嫂あによめの唇くちびるには著るしい冷笑の影が閃ひらめいた。兄は誰にも取合う気色けしきもなく、「ちょっと失敬」と岡田に挨拶あいさつして、二階へ上がった。その足音が消えると間もなく、お貞さんは自分達のいる室へやの敷居際しきいぎわまで来て、岡田に叮嚀ていねいな挨拶をした。彼女は「さあどうぞ」と会釈えしゃくする岡田に、「今ちょっと御書斎まで参らなければなりませんから、いずれのちほど」と答えて立ち上がった。彼女の上気したようにほっと赤くなった顔を見た一座のものは、気の毒なためか何だか、強しいて引きとめようともしなかった。兄の二階へ上がる足音はそれほど強くはなかったが、いつでも上履スリッパーを引掛けているため、ぴしゃぴしゃする響が、下からよく聞こえた。お貞さんのは素足の上に、女のつつましやかな気性きしょうをあらわすせいか、まるで聴きき取れなかった。戸を開けて戸を閉じる音さえ、自分の耳には全く這入はいらなかった。彼ら二人はそこで約三十分ばかり何か話していた。その間嫂は平生の冷淡さに引き換えて、尋常なみのものより機嫌きげんよく話したり笑ったりした。けれどもその裏に不機嫌を蔵かくそうとする不自然の努力が強く潜在している事が自分によく解った。岡田は平気でいた。自分は彼女が兄と会見を終って、自分達の室へやの横を通る時、その足音を聞きつけて、用あり気に不意と廊下へ出た。ばったり出逢であった彼女の顔は依然として恥ずかしそうに赤く染そまっていた。彼女は眼を俯ふせて、自分の傍そばを擦すり抜けた。その時自分は彼女の瞼まぶたに涙の宿った痕迹こんせきをたしかに認めたような気がした。けれども書斎に入いった彼女が兄と差向いでどんな談話をしたか、それはいまだに知る事を得ない。自分だけではない、その委細を知っているものは、彼ら二人より以外に、おそらく天下に一人もあるまいと思う。

三十五

自分は親戚の片割かたわれとして、お貞さんの結婚式に列席するよう、父母から命ぜられていた。その日はちょうど雨がしょぼしょぼ降って、婚礼には似合しからぬ佗わびしい天気であった。いつもより早く起きて番町へ行って見ると、お貞さんの衣裳いしょうが八畳の間に取り散らしてあった。便所へ行った帰りに風呂場の口を覗のぞいて見たら、硝子戸ガラスどが半分開あいて、その中にお貞さんのお化粧をしている姿がちらりと見えた。それから「あらそこへ障さわっちゃ厭いやですよ」という彼女の声が聞こえた。芳江は面白半分何か悪戯いたずらをすると見えた。自分も芳江の真似まねをやろうと思ったが、場合が場合なのでつい遠慮して茶の間へ戻った。しばらくしてから、また八畳へ出て見ると、みんながお召換めしかえをやっていた。芳江が「あのお貞さんは手へも白粉おしろいを塗つけたのよ」と大勢に吹聴ふいちょうしていた。実を云うと、お貞さんは顔よりも手足の方が赤黒かったのである。「大変真白になったな。亭主を欺瞞だますんだから善よくない」と父が調戯からかっていた。「あしたになったら旦那様だんなさまがさぞ驚くでしょう」と母が笑った。お貞さんも下を向いて苦笑した。彼女は初めて島田に結った。それが予期できなかった斬新ざんしんの感じを自分に与えた。「この髷まげでそんな重いものを差したらさぞ苦しいでしょうね」と自分が聞くと、母は「いくら重くっても、生涯しょうがいに一度はね……」と云って、己おのれの黒紋付くろもんつきと白襟しろえりとの合い具合をしきりに気にしていた。お貞さんの帯は嫂あによめが後へ廻って、ぐっと締めてやった。兄は例の臭くさい巻煙草まきたばこを吹かしながら広い縁側えんがわをあちらこちらと逍遥しょうようしていた。彼はこの結婚に、まるで興味をもたないような、また彼一流の批評を心の中に加えているような、判断のでき悪にくい態度をあらわして、時々我々のいる座敷を覗のぞいた。けれどもちょっと敷居際しきいぎわにとまるだけでけっして中へは這入はいらなかった。「仕度したくはまだか」とも催促しなかった。彼はフロックに絹帽シルクハットを被かぶっていた。いよいよ出る時に、父は一番綺麗な俥くるまを択よって、お貞さんを乗せてやった。十一時に式があるはずのところを少し時間が後おくれたため岡田は太神宮の式台へ出て、わざわざ我々を待っていた。皆みんながどやどやと一度に控所に這入ると、そこにはお婿むこさんがただ一人質に取られた置物のように椅子いすへ腰をかけていた。やがて立ち上がって、一人一人に挨拶あいさつをするうちに、自分は控所にある洋卓テーブルやら、絨氈じゅうたんやら、白木しらきの格天井ごうてんじょうやらを眺めた。突き当りには御簾みすが下りていて、中には何か在あるらしい気色けしきだけれども、奥の全く暗いため何物をも髣髴ほうふつする事ができなかった。その前には鶴と浪なみを一面に描いためでたい一双の金屏風きんびょうぶが立て廻してあった。縁女えんじょと仲人なこうどの奥さんが先、それから婿と仲人の夫、その次へ親類がつづくという順を、袴はかま羽織はおりの男が出て来て教えてくれたが、肝腎かんじんの仲人たるべき岡田はお兼さんを連れて来なかったので、「じゃはなはだ御迷惑だけど、一郎さんとお直なおさんに引き受けていただきましょうか、この場限かぎり」と岡田が父に相談した。父は簡単に「好かろうよ」と答えた。嫂あによめは例のごとく「どうでも」と云った。兄も「どうでも」と云ったが、後あとから、「しかし僕らのような夫婦が媒妁人ばいしゃくにんになっちゃ、少し御両人のために悪いだろう」と付け足した。「悪いなんて――僕がするより名誉でさあね。ねえ二郎さん」と岡田が例のごとく軽い調子で云った。兄は何やらその理由を述べたいらしい気色けしきを見せたが、すぐ考え直したと見えて、「じゃ生れて初めての大役を引き受けて見るかな。しかし何にも知らないんだから」と云うと、「何向うで何もかも教えてくれるから世話はない。お前達は何もしないで済むようにちゃんと拵こしらえてあるんだ」と父が説明した。

三十六

反橋そりはしを渡る所で、先の人が何かに支つかえて一同ちょっととまった機会を利用して、自分はそっと岡田のフロックの尻を引張った。「岡田さんは実に呑気のんきだね」と云った。「なぜです」彼は自ら媒妁人ばいしゃくにんをもって任じながら、その細君を連れて来ない不注意に少しも気がついていないらしかった。自分から呑気の訳を聞いた時、彼は苦笑して頭を掻かきながら、「実は伴つれて来きようと思ったんですがね、まあどうかなるだろうと思って……」と答えた。反橋を降りて奥へ這入はいろうという入口の所で、花嫁は一面に張り詰められた鏡の前へ坐すわって、黒塗の盥たらいの中で手を洗っていた。自分は後うしろから背延せいのびをして、お貞さんの姿を見た時、なるほどこれで列が後おくれるんだなと思うと同時に吹き出したくなった。せっかく丹精して塗り立てた彼女の手も、この神聖な一杓ひとしゃくの水で、無残むざんに元のごとく赤黒くされてしまったのである。神殿の左右には別室があった。その右の方へ兄が佐野さんを伴れて這入った。その左の方へ嫂あによめがお貞さんを伴れて這入った。それが左右から出て来て着座するのを見ると、兄夫婦は真面目な顔をして向い合せに坐っていた。花嫁花婿も無論の事、謹つつしんだ姿で相対していた。式壇を正面に、後うしろの方にずらりと並んだ父だの母だの自分達は、この二様の意味をもった夫婦と、絵の具で塗り潰つぶした綺麗きれいな太鼓と、何物を中に蔵かくしているか分らない、御簾みすを静粛に眺めた。兄は腹のなかで何を考えているか、よそ目から見ると、尋常と変るところは少しもなかった。嫂あによめは元より取とり繕つくろった様子もなく、自然そのままに取り済ましていた。彼らはすでに過去何年かの間に、夫婦という社会的に大切な経験を彼らなりに甞なめて来た、古い夫婦であった。そうして彼らの甞めた経験は、人生の歴史の一部分として、彼らに取っては再びしがたい貴たっといものであったかも知れない。けれどもどっちから云っても、蜜みつに似た甘いものではなかったらしい。この苦にがい経験を有する古夫婦が、己おのれ達のあまり幸福でなかった運命の割前を、若い男と若い女の頭の上に割りつけて、また新しい不仕合な夫婦を作るつもりなのかしらん。兄は学者であった。かつ感情家であった。その蒼白あおじろい額の中にあるいはこのくらいな事を考えていたかも知れない。あるいはそれ以上に深い事を考えていたかも知れない。あるいはすべての結婚なるものを自みずから呪詛じゅそしながら、新郎と新婦の手を握らせなければならない仲人なこうどの喜劇と悲劇とを同時に感じつつ坐すわっていたかも知れない。とにかく兄は真面目まじめに坐っていた。嫂も、佐野さんも、お貞さんも、真面目に坐っていた。そのうち式が始まった。巫女みこの一人が、途中から腹痛で引き返したというので介添かいぞえがその代りを勤めた。自分の隣に坐っていたお重が「大兄さんの時より淋しいのね」と私語ささやいた。その時は簫しょうや太鼓を入れて、巫女の左右に入れ交かう姿も蝶ちょうのように翩々ひらひらと華麗はなやかに見えた。「御前の嫁に行く時は、あの時ぐらい賑にぎやかにしてやるよ」と自分はお重に云った。お重は笑っていた。式が済んでみんなが控所へ帰った時、お貞さんは我々が立っているのに、わざわざ絨氈じゅうたんの上に手を突いて、今まで厄介になった礼を丁寧ていねいに述べた。彼女の眼には淋さびしそうな涙がいっぱい溜たまっていた。新夫婦と岡田は昼の汽車で、すぐ大阪へ向けて立った。自分は雨のプラットフォームの上で、二三日箱根あたりで逗留とうりゅうするはずのお貞さんを見送った後あと、父や兄に別れて独ひとり自分の下宿へ帰った。そうして途々みちみち自分にも当然番の廻ってくるべき結婚問題を人生における不幸の謎なぞのごとく考えた。

三十七

お貞さんが攫さらわれて行くように消えてしまった後の宅うちは、相変らずの空気で包まれていた。自分の見たところでは、お貞さんが宅中うちじゅうで一番の呑気のんきものらしかった。彼女は永年世話になった自分の家に、朝夕あさゆう箒ほうきを執とったり、洗あらい洒そそぎをしたりして、下女だか仲働だか分らない地位に甘んじた十年の後あと、別に不平な顔もせず佐野といっしょに雨の汽車で東京を離れてしまった。彼女の腹の中も日常彼女の繰り返しつつ慣れ抜いた仕事のごとく明瞭めいりょうでかつ器械的なものであったらしい。一家団欒だんらんの時季とも見るべき例の晩餐ばんさんの食卓が、一時重苦しい灰色の空気で鎖とざされた折でさえ、お貞さんだけはその中に坐って、平生と何の変りもなく、給仕の盆を膝ひざの上に載せたまま平気で控えていた。結婚当日の少し前、兄から書斎へ呼ばれて出て来た時、彼女の顔を染めた色と、彼女の瞼まぶたに充みちた涙が、彼女の未来のために、何を語っていたか知らないが、彼女の気質から云えば、それがために長い影響を受けようとも思えなかった。お貞さんが去ると共に冬も去った。去ったと云うよりも、まず大した事件も起らずに済んだと評する方が適当かも知れない。斑まだらな雪、枯枝を揺ゆさぶる風、手水鉢ちょうずばちを鎖とざす氷、いずれも例年の面影おもかげを規則正しく自分の眼に映した後、消えては去り消えては去った。自然の寒い課程がこう繰返されている間、番町の家はじっとして動かずにいた。その家の中にいる人と人との関係もどうかこうか今まで通り持ち応こたえた。自分の地位にも無論変化はなかった。ただお重が遊び半分時々苦情を訴えに来た。彼女は来るたびに「お貞さんはどうしているでしょうね」と聞いた。「どうしているでしょうって、――お前の所へ何とも云って来ないのか」「来る事は来るわ」聞いて見ると、結婚後のお貞さんについて、彼女は自分より遥はるかに豊富な知識をもっていた。自分はまた彼女が来るたびに、兄の事を聞くのを忘れなかった。「兄さんはどうだい」「どうだいって、あなたこそ悪いわ。家うちへ来ても兄さんに逢あわずに帰るんだから」「わざわざ避けるんじゃない。行ってもいつでも留守なんだから仕方がない」「嘘うそをおっしゃい。この間来た時も書斎へ這入はいらずに逃げた癖に」お重は自分より正直なだけに真赤まっかになった。自分はあの事件以後どうかして兄と故もとの通り親しい関係になりたいと心では希望していたが、実際はそれと反対で、何だか近寄り悪にくい気がするので、全くお重の云うごとく、宅うちへ行って彼に挨拶あいさつする機会があっても、なるべく会わずに帰る事が多かった。お重にやり込められると、自分は無言の降意を表するごとくにあははと笑ったり、わざと短い口髭くちひげを撫なでたり、時によると例の通り煙草に火を点つけて瞹眛あいまいな煙を吐いたりした。そうかと思うとかえってお重の方から突然「大兄さんもずいぶん変人ね。あたし今になって全くあなたが喧嘩けんかして出たのも無理はないと思うわ」などと云った。お重から藪やぶから棒にこう驚かされると、自分は腹の底で自分の味方が一人殖ふえたような気がして嬉うれしかった。けれども表向彼女の意見に相槌あいづちを打つほどの稚気ちきもなかった。叱りつけるほどの衒気げんきもなかった。ただ彼女が帰った後で、たちまち今までの考えが逆さかさまになって、兄の精神状態が周囲に及ぼす影響などがしきりに苦になった。だんだん生物から孤立して、書物の中に引き摺ずり込まれて行くように見える彼を平生よりも一倍気の毒に思う事もあった。

三十八

母も一二遍来た。最初来た時は大変機嫌きげんが好かった。隣の座敷にいる法学士はどこへ出て何を勤めているのだなどと、自分にも判然はっきり解らないような事を、さも大事らしく聞いたりした。その時彼女は宅うちの近況について何にも語らずに、「この頃は方々で風邪かぜが流行はやるから気をおつけ。お父さんも二三日にさんち前から咽喉のどが痛いって、湿布しっぷをしてお出でだよ」と注意して去った。自分は彼女の去った後あと、兄夫婦の事を思い出す暇さえなかった。彼らの存在を忘れた自分は、快よい風呂に入って、旨うまい夕飯ゆうめしを食った。次に訪たずねてくれた時の母の調子は、前に較くらべると少し変っていた。彼女は大阪以後、ことに自分が下宿して以後、自分の前でわざと嫂あによめの批評を回避するような風を見せた。自分も母の前では気が咎とがめるというのか、必要のない限り、嫂の名を憚はばかって、なるべく口へ出さなかった。ところがこの注意深い母がその折卒然そつぜんと自分に向って、「二郎、ここだけの話だが、いったいお直なおの気立は好いのかね悪いのかね」と聞いた。はたして何か始まったのだと心得た自分は冷りとした。下宿後の自分は、兄についても嫂についても不謹慎な言葉を無責任に放つ勇気は全くなかったので、母は自分から何一つ満足な材料を得ずして去った。自分の方でも、なぜ彼女がこの気味の悪い質問を自分に突然とかけたかついに要領を得ずに母を逸した。「何かまた心配になるような事でもできたのですか」と聞いても、彼女は「なに別にこれと云って変った事はないんだがね……」と答えるだけで、後は自分の顔を打守るに過ぎなかった。自分は彼女が帰った後あと、しきりにこの質問に拘泥こうでいし始めた。けれども前後の事情だの母の態度だのを綜合そうごうして考えて見て、どうしても新しい事件が、わが家庭のうちに起ったとは受取れないと判断した。母もあまり心配し過ぎて、とうとう嫂あねが解らなくなったのだ。自分は最後にこう解釈して、恐ろしい夢に捉とらえられたような気持を抱いた。お重も来き、母も来る中に、嫂だけは、ついに一度も自分の室へやの火鉢ひばちに手を翳かざさなかった。彼女がわざと遠慮して自分を尋ねない主意は、自分にも好く呑のみ込めていた。自分が番町へ行ったとき、彼女は「二郎さんの下宿は高等下宿なんですってね。お室に立派な床とこがあって、庭に好い梅が植えてあるって云う話じゃありませんか」と聞いた。しかし「今度拝見に行きますよ」とは云わなかった。自分も「見にいらっしゃい」とは云いかねた。もっとも彼女の口に上った梅は、どこかの畠はたけから引っこ抜いて来て、そのままそこへ植えたとしか思われない無意味なものであった。嫂が来ないのとは異様の意味で、また同様の意味で、兄の顔はけっして自分の室の裡うちに見出されなかった。父も来なかった。三沢は時々来た。自分はある機会を利用して、それとなく彼にお重を貰う意があるかないかを探って見た。「そうだね。あのお嬢さんももう年頃だから、そろそろどこかへ片づける必要が逼せまって来るだろうね。早く好い所を見つけて嬉うれしがらせてやりたまえ」彼はただこう云っただけで、取り合う気色けしきもなかった。自分はそれぎり断念してしまった。永いようで短い冬は、事の起りそうで事の起らない自分の前に、時雨しぐれ、霜解しもどけ、空からっ風かぜ……と既定の日程を平凡に繰り返して、かように去ったのである。

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