塵労
一
陰刻な冬が彼岸の風に吹き払われた時自分は寒い窖から顔を出した人のように明るい世界を眺めた。自分の心のどこかにはこの明るい世界もまた今やり過ごした冬と同様に平凡だという感じがあった。けれども呼息をするたびに春の匂が脈の中に流れ込む快よさを忘れるほど自分は老いていなかった。自分は天気の好い折々室の障子を明け放って往来を眺めた。また廂の先に横わる蒼空を下から透すように望んだ。そうしてどこか遠くへ行きたいと願った。学校にいた時分ならもう春休みを利用して旅へ出る支度をするはずなのだけれども、事務所へ通うようになった今の自分には、そんな自由はとても望めなかった。偶の日曜ですら寝起の悪い顔を一日下宿に持ち扱って、散歩にさえ出ない事があった。自分は半ば春を迎えながら半ば春を呪う気になっていた。下宿へ帰って夕飯を済ますと、火鉢の前へ坐って煙草を吹かしながら茫然自分の未来を想像したりした。その未来を織る糸のうちには、自分に媚びる花やかな色が、新しく活けた佐倉炭の焔と共にちらちらと燃え上るのが常であったけれども、時には一面に変色してどこまで行っても灰のように光沢を失っていた。自分はこういう想像の夢から突然何かの拍子で現在の我に立ち返る事があった。そうしてこの現在の自分と未来の自分とを運命がどういう手段で結びつけて行くだろうと考えた。自分が不意に下宿の下女から驚かされたのは、ちょうどこんな風に現実と空想の間に迷ってじっと火鉢に手を翳していた、ある宵の口の出来事であった。自分は自分の注意を己れ一人に集めていたというものか、実際下女の廊下を踏んで来る足音に気がつかなかった。彼女が思いがけなくすうと襖を開けた時自分は始めて偶然のように眼を上げて彼女と顔を見合せた。「風呂かい」自分はすぐこう聞いた。これよりほかに下女が今頃自分の室の襖を開けるはずがないと思ったからである。すると下女は立ちながら「いいえ」と答えたなり黙っていた。自分は下女の眼元に一種の笑いを見た。その笑いの中には相手を翻弄し得た瞬間の愉快を女性的に貪りつつある妙な閃があった。自分は鋭く下女に向って、「何だい、突立ったまま」と云った。下女はすぐ敷居際に膝を突いた。そうして「御客様です」とやや真面目に答えた。「三沢だろう」と自分が云った。自分はある事で三沢の訪問を予期していたのである。「いいえ女の方です」「女の人?」自分は不審の眉を寄せて下女に見せた。下女はかえって澄ましていた。「こちらへ御通し申しますか」「何という人だい」「知りません」「知りませんって、名前を聞かないでむやみに人の室へ客を案内する奴があるかい」「だって聞いてもおっしゃらないんですもの」下女はこう云って、また先刻のような意地の悪い笑を目元で笑った。自分はいきなり火鉢から手を放して立ち上った。敷居際に膝を突いている下女を追い退けるようにして上り口まで出た。そうして土間の片隅にコートを着たまま寒そうに立っていた嫂の姿を見出した。
二
その日は朝から曇っていた。しかも打ち続いた好天気を一度に追い払うように寒い風が吹いた。自分は事務所から帰りがけに、外套の襟を立てて歩きながら道々雨になるのを気遣った。その雨が先刻夕飯の膳に向う時分からしとしとと降り出した。「好くこんな寒い晩に御出かけでした」嫂は軽く「ええ」と答えたぎりであった。自分は今まで坐っていた蒲団の裏を返して、それを三尺の床の前に直して、「さあこっちへいらっしゃい」と勧めた。彼女はコートの片袖をするすると脱ぎながら「そうお客扱いにしちゃ厭よ」と云った。自分は茶器を洒がせるために電鈴を押した手を放して、彼女の顔を見た。寒い戸外の空気に冷えたその頬はいつもより蒼白く自分の眸子を射た。不断から淋しい片靨さえ平生とは違った意味の淋しさを消える瞬間にちらちらと動かした。「まあ好いからそこへ坐って下さい」彼女は自分の云う通りに蒲団の上に坐った。そうして白い指を火鉢の上に翳した。彼女はその姿から想像される通り手爪先の尋常な女であった。彼女の持って生れた道具のうちで、初から自分の注意を惹いたものは、華奢に出来上ったその手と足とであった。「二郎さん、あなたも手を出して御あたりなさいな」自分はなぜか躊躇して手を出しかねた。その時雨の音が窓の外で蕭々とした。昼間吹募った西北の風は雨と共にぱったりと落ちたため世間は案外静かになっていた。ただ時を区切って樋を叩く雨滴の音だけがぽたりぽたりと響いた。嫂は平生の通り落ちついた態度で、室の中を見廻しながら「なるほど好い御室ね、そうして静だ事」と云った。「夜だから好く見えるんです。昼間来て御覧なさい、ずいぶん汚ならしい室ですよ」自分はしばらく嫂と応対していた。けれども今自白すると腹の中は話の調子で示されるほど穏かなものではけっしてなかった。自分は嫂がこの下宿へ訪ねて来ようとはその時までけっして予期していなかったのである。空想にすら描いていなかったのである。彼女の姿を上り口の土間に見出した時自分ははっと驚いた。そうしてその驚きは喜びの驚きよりもむしろ不安の驚きであった。「何で来たのだろう。何でこの寒いのにわざわざ来たのだろう。何でわざわざ晩になって灯が点いてから来たのだろう」これが彼女を見た瞬間の疑惑であった。この疑惑に初手からこだわった自分の胸には、火鉢を隔てて彼女と相対している日常の態度の中に絶えざる圧迫があった。それが自分の談話や調子に不愉快なそらぞらしさを与えた。自分はそれを明かに自覚した。それからその空々しさがよく相手の頭に映っているという事も自覚した。けれどもどうする訳にも行かなかった。自分は嫂に「冴え返って寒くなりましたね」と云った。「雨の降るのに好く御出かけですね」と云った。「どうして今頃御出かけです」と聞いた。対話がそこまで行っても自分の胸に少しの光明を投げなかった時、自分は硬くなった、そうしてジョコンダに似た怪しい微笑の前に立ち竦まざるを得なかった。「二郎さんはしばらく会わないうちに、急に改まっちまったのね」と嫂が云い出した。「そんな事はありません」と自分は答えた。「いいえそうよ」と彼女が押し返した。
三
自分はつと立って嫂の後へ廻った。彼女は半間の床を背にして坐っていた。室が狭いので彼女の帯のあたりはほとんど杉の床柱とすれすれであった。自分がその間へ一足割り込んだ時、彼女は窮屈そうに体躯を前の方へ屈めて「何をなさるの」と聞いた。自分は片足を宙に浮かしたまま、床の奥から黒塗の重箱を取り出して、それを彼女の前へ置いた。「一つどうです」こう云いながら蓋を取ろうとすると、彼女は微かに苦笑を洩らした。重箱の中には白砂糖をふりかけた牡丹餅が行儀よく並べてあった。昨日が彼岸の中日である事を自分はこの牡丹餅によって始めて知ったのである。自分は嫂の顔を見て真面目に「食べませんか」と尋ねた。彼女はたちまち吹き出した。「あなたもずいぶんね、その御萩は昨日宅から持たせて上げたんじゃありませんか」自分はやむをえず苦笑しながら一つ頬張った。彼女は自分のために湯呑へ茶を注いでくれた。自分はこの牡丹餅から彼女が今日墓詣りのため里へ行ってその帰りがけにここへ寄ったのだと云う事をようやく確めた。「大変御無沙汰をしていますが、あちらでも別にお変りはありませんか」「ええありがとう、別に……」言葉寡な彼女はただ簡単にこう答えただけであったが、その後へ、「御無沙汰って云えば、あなた番町へもずいぶん御無沙汰ね」と付け加えて、ことさらに自分の顔を見た。自分は全く番町へは遠ざかっていた。始めは宅の事が苦になって一週に一度か二度行かないと気が済まないくらいだったが、いつか中心を離れてよそからそっと眺める癖を養い出した。そうしてその眺めている間少くとも事が起らずに済んだという自覚が、無沙汰を無事の原因のように思わせていた。「なぜ元のようにちょくちょくいらっしゃらないの」「少し仕事の方が忙しいもんですから」「そう?本当に?そうじゃないでしょう」自分は嫂からこう追窮されるのに堪えなかった。その上自分には彼女の心理が解らなかった。他の人はどうあろうとも、嫂だけはこの点において自分を追窮する勇気のないものと今まで固く信じていたからである。自分は思い切って「あなたは大胆過ぎる」と云おうかと思った。けれども疾に相手から小胆と見縊られている自分はついに卑怯であった。「本当に忙がしいのです。実はこの間から少し勉強しようと思って、そろそろその準備に取りかかったもんですから、つい近頃はどこへも出る気にならないんです。僕はいつまでこんな事をしてぐずぐずしていたってつまらないから、今のうち少し本でも読んでおいて、もう少ししたら外国へでも行って見たいと思ってるんだから」この答えの後半は本当に自分の希望であった。自分は何でもいいからただ遠くへ行きたい行きたいと願っていた。「外国って、洋行?」と嫂が聞いた。「まあそうです」「結構ね。御父さんに願って早くやって御頂きなさい。妾話して上げましょうか」自分も無駄と知りながらそんな事を幻のように考えていたのだが、彼女の言葉を聞いた時急に、「お父さんは駄目ですよ」と首を振って見せた。彼女はしばらく黙っていた。やがて物憂そうな調子で「男は気楽なものね」と云った。「ちっとも気楽じゃありません」「だって厭になればどこへでも勝手に飛んで歩けるじゃありませんか」
四
自分はいつか手を出して火鉢へあたっていた。その火鉢は幾分か背を高くかつ分厚に拵えたものであったけれども、大きさから云うと、普通の箱火鉢と同じ事なので二人向い合せに手を翳すと、顔と顔との距離があまり近過ぎるくらいの位地にあった。嫂は席に着いた初から寒いといって、猫背の人のように、心持胸から上を前の方に屈めて坐っていた。彼女のこの姿勢のうちには女らしいという以外に何の非難も加えようがなかった。けれどもその結果として自分は勢い後へ反り返る気味で座を構えなければならなくなった。それですら自分は彼女の富士額をこれほど近くかつ長く見つめた事はなかった。自分は彼女の蒼白い頬の色を燄のごとく眩しく思った。自分はこういう比較的窮屈な態度の下に、彼女から突如として彼女と兄の関係が、自分が宅を出た後もただ好くない一方に進んで行くだけであるという厭な事実を聞かされた。彼女はこれまでこちらから問いかけなければ、けっして兄の事について口を開かない主義を取っていた。たといこちらから問いかけても「相変らずですわ」とか、「何心配するほどの事じゃなくってよ」とか答えてただ微笑するのが常であった。それをまるで逆さまにして、自分の最も心苦しく思っている問題の真相を、向うから積極的にこちらへ吐きかけたのだから、卑怯な自分は不意に硫酸を浴せられたようにひりひりとした。しかしいったん緒を見出した時、自分はできるだけ根掘り葉掘り聞こうとした。けれども言葉の浪費を忌む彼女は、そうこちらの思い通りにはさせなかった。彼女の口にするところは重に彼ら夫婦間に横たわる気不味さの閃電に過ぎなかった。そうして気不味さの近因についてはついに一言も口にしなかった。それを聞くと、彼女はただ「なぜだか分らないのよ」というだけであった。実際彼女にはそれが分らないのかも知れなかった。また分っている癖にわざと話さないのかも知れなかった。「どうせ妾がこんな馬鹿に生れたんだから仕方がないわ。いくらどうしたってなるようになるよりほかに道はないんだから。そう思って諦らめていればそれまでよ」彼女は初めから運命なら畏れないという宗教心を、自分一人で持って生れた女らしかった。その代り他の運命も畏れないという性質にも見えた。「男は厭になりさえすれば二郎さん見たいにどこへでも飛んで行けるけれども、女はそうは行きませんから。妾なんかちょうど親の手で植付けられた鉢植のようなもので一遍植えられたが最後、誰か来て動かしてくれない以上、とても動けやしません。じっとしているだけです。立枯になるまでじっとしているよりほかに仕方がないんですもの」自分は気の毒そうに見えるこの訴えの裏面に、測るべからざる女性の強さを電気のように感じた。そうしてこの強さが兄に対してどう働くかに思い及んだ時、思わずひやりとした。「兄さんはただ機嫌が悪いだけなんでしょうね。ほかにどこも変ったところはありませんか」「そうね。そりゃ何とも云えないわ。人間だからいつどんな病気に罹らないとも限らないから」彼女はやがて帯の間から小さい女持の時計を出してそれを眺めた。室が静かなのでその蓋を締める音が意外に強く耳に鳴った。あたかも穏かな皮膚の面に鋭い針の先が触れたようであった。「もう帰りましょう。――二郎さん御迷惑でしたろうこんな厭な話を聞かせて。妾今まで誰にもした事はないのよ、こんな事。今日自分の宅へ行ってさえ黙ってるくらいですもの」上り口に待っていた車夫の提灯には彼女の里方の定紋が付いていた。

