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行人・夏目漱石

29

朗読者: VOICEVOX Nemo / ノーマルこの朗読者の公開朗読はまだない / 朗読停止中

座敷に這入はいった時、母は自分の顔を見て、「おや珍らしいね」と云っただけであった。自分はほとんど権柄けんぺいずくでここへ引っ張られて来ながらも、途々みちみち父のなさけをありがたく感じていた。そうして暗に家に帰ってから母に会う瞬間の光景を予想していた。その予想がこの一言いちごんで打ちくずされたのは案外であった。父は家内の誰にも打ち合せをせずに、全く自分一人の考えで、この不心得な息子に親切を尽してくれたのである。お重は逃げた飼犬を見るような眼つきで自分を見た。「そら迷子まいごが帰って来た」と云った。あによめはただ「いらっしゃい」と平生の通り言葉寡ことばずくなな挨拶をした。この間の晩一人で尋ねて来た事は、まるで忘れてしまったという風に見えた。自分も人前をはばかって一口もそれに触れなかった。比較的陽気なのは父であった。彼は多少の諧謔かいぎゃくと誇張とを交ぜて、今日どうして自分をおびき出したかを得意らしく母やお重に話した。おびき出すという彼の言葉が自分には仰山ぎょうさんでかつ滑稽こっけいに聞えた。「春になったから、みんなもちっと陽気にしなくっちゃいけない。この頃のように黙ってばかりいちゃ、まるで幽霊屋敷のようで、くさくさするだけだあね。桐畠きりばたけでさえ立派なうちが建つ時節じゃないか」桐畠というのは家のつい近所にある角地面かどじめんの名であった。そこへ住まうと何かたたりがあるという昔からの言い伝えで、この間まで空地あきちになっていたのを、この頃になってようやく或る人が買い取って、大きな普請ふしんを始めたのである。父は自分の家が第二の桐畠になるのを恐れでもするように、活々いきいきそばのものに話し掛けた。平生彼の居馴染いなじんだへやは、奥の二間ふたま続きで、何か用があると、母でも兄でも、そこへ呼び出されるのが例になっていたが、その日はいつもと違って、彼は初めから居間へは這入らなかった。ただはかまと羽織をてたなり、そこへすわったまま、長く自分達を相手に喋舌しゃべっていた。久しく住みれた自分の家も、こうしてたまに来て見ると、多少忘れ物でも思い出すようなおもむきがあった。出る時はまだ寒かった。座敷の硝子戸ガラスどはたいてい二重にとざされて、庭のこけを残酷に地面から引きはがしもが一面に降っていた。今はその外側の仕切しきりがことごとく戸袋のうちおさめられてしまった。内側も左右に開かれていた。許す限り家の中と大空と続くようにしてあった。こけも石も自然から直接に眼の中へ飛び込んで来た。すべてが出る時と趣をことにしていた。すべてが下宿とも趣を異にしていた。自分はこういう過去の記念のなかに坐って、久しぶりに父母ふぼや妹や嫂といっしょに話をした。家族のうちでそこにいないものはただ兄だけであった。その兄の名は先刻さっきからまだ一度も誰の会話にものぼらなかった。自分はその日彼がKさんの披露会に呼ばれたという事を聞いた。自分は彼がその招待に応じたか、上野へ出かけたか、はたして留守であるかさえ知らなかった。自分は自分の前にいるあによめを見て、彼女が披露の席に臨まないという事だけを確めた。自分は兄の名が話頭に上らないのを苦にした。同時に彼の名が出て来るのをはばかった。そうした心持でみんなの顔を見ると、無邪気な顔は一つもないように思えた。自分はしばらくしてお重に「お重お前のへやをちょっと御見せ。綺麗きれいになったって威張ってたから見てやろう」と云った。彼女は「当り前よ、威張るだけの事はあるんだから行って御覧なさい」と答えた。自分は下宿をするまで朝夕ちょうせき寝起きをした、家中うちじゅうで一番馴染なじみの深い、もとのわが室をのぞきに立った。お重は果してあとからいて来た。

十一

彼女の室は自慢するほど綺麗にはなっていなかったけれども、自分の住み荒した昔に比べると、どこかになまめいたにおいが漂よっていた。自分は机の前に敷いてある派出はでな模様の座蒲団ざぶとんの上に胡坐あぐらをかいて、「なるほど」と云いながらそこいらを見廻した。机の上には和製のマジョリカ皿があった。薔薇ばらの造り花がセゼッション式の一輪瓶いちりんざししてあった。白い大きな百合ゆり刺繍ぬいにした壁飾りが横手にかけてあった。「ハイカラじゃないか」「ハイカラよ」お重の澄ました顔には得意の色が見えた。自分はしばらくそこでお重に調戯からかっていた。五六分してから彼女に「近頃兄さんはどうだい」とさも偶然らしく問いかけて見た。すると彼女は急に声をひそめて、「そりゃ変なのよ」と答えた。彼女の性質は嫂とは全く反対なので、こう云う場合には大変都合が好かった。いったん緒口いとぐちさえ見出せば、あとはこっちで水を向ける必要も何もなかった。隠す事を知らない彼女は腹にある事をことごとく話した。黙って聞いていた自分にもしまいには蒼蠅うるさいほどであった。「つまり兄さんがうちのものとあんまり口をかないと云うんだろう」「ええそうよ」「じゃ僕の家を出た時と同じ事じゃないか」「まあそうよ」自分は失望した。考えながら、煙草たばこの灰をマジョリカ皿の中へ遠慮なくはたき落した。お重はいやな顔をした。「それペン皿よ。灰皿じゃないわよ」自分はあによめほどに頭のできていないお重から、何も得るところのないのをさとって、また父や母のいる座敷へ帰ろうとした時、突然妙な話を彼女から聞いた。その話によると、兄はこの頃テレパシーか何かを真面目まじめに研究しているらしかった。彼はお重を書斎の外に立たしておいて、自分で自分の腕をつねったあと「お重、今兄さんはここを抓ったが、お前の腕もそこが痛かったろう」と尋ねたり、またはへやの中で茶碗の茶を自分一人で飲んでおきながら、「お重お前の咽喉のどは今何か飲む時のようにぐびぐび鳴りやしないか」と聞いたりしたそうである。あたし説明を聞くまでは、きっと気が変になったんだと思って吃驚びっくりしたわ。兄さんは後で仏蘭西フランスの何とかいう人のやった実験だって教えてくれたのよ。そうしてお前は感受性が鈍いからかからないんだって云うのよ。あたしうれしかったわ」「なぜ」「だってそんなものに罹るのはコレラに罹るより厭だわ妾」「そんなに厭かい」「きまってるじゃありませんか。だけど、気味が悪いわね、いくら学問だってそんな事をしちゃ」自分もおかしいうちに何だか気味の悪い心持がした。座敷へ帰って来ると、嫂の姿はもうそこに見えなかった。父と母は差し向いになって小さな声で何か話し合っていた。その様子が今しがた自分一人で家中を陽気にしたにぎやかな人の様子とも見えなかった。「ああ育てるつもりじゃなかったんだがね」という声が聞えた。「あれじゃ困りますよ」という声も聞えた。

十二

自分はその席で父と母から兄に関する近況の一般を聞いた。彼らのげた事実は、お重を通して得た自分の知識に裏書をする以外、別に新しい何物をも付け加えなかったけれども、その様子といい言葉といい、いかにも兄の存在をにしているらしく見えて、はなはだ痛々しかった。彼ら(ことに母)は兄一人のために宅中うちじゅうの空気が湿しめっぽくなるのをつらいと云った。尋常の父母以上にわが子を愛して来たという自信が、彼らの不平を一層濃く染めつけた。彼らはわが子からこれほど不愉快にされる因縁いんねんがないと暗に主張しているらしく思われた。したがって自分が彼らの前にすわっている間、彼らは兄を云々するほか、何人なんびとの上にも非難を加えなかった。平生から兄に対する嫂の仕打にき足らない顔を見せていた母でさえ、この時は彼女についてついに一口も訴えがましい言葉をらさなかった。彼らの不平のうちには、同情から出る心配も多量にこもっていた。彼らは兄の健康について少からぬ掛念けねんをもっていた。その健康に多少支配されなければならない彼の精神状態にも冷淡ではあり得なかった。要するに兄の未来は彼らにとって、恐ろしいX《エッキス》であった。「どうしたものだろう」これが相談の時必ず繰り返されべき言葉であった。実を云えば、一人一人離れている折ですら、胸のうちでぼんやり繰り返して見るべき二人の言葉であった。変人へんじんなんだから、今までもよくこんな事があったには有ったんだが、変人だけにすぐなおったもんだがね。不思議だよ今度こんだは」兄の機嫌買きげんかいを子供のうちから知り抜いている彼らにも、近頃の兄は不思議だったのである。陰欝いんうつな彼の調子は、自分が下宿する前後から今日こんにちまで少しの晴間なく続いたのである。そうしてそれがだんだん険悪の一方に向って真直まっすぐに進んで行くのである。「本当に困っちまうよわたしだって。腹も立つが気の毒でもあるしね」母は訴えるように自分を見た。自分は父や母と相談のあげく、兄に旅行でも勧めて見る事にした。彼らが自分達の手際てぎわではとても駄目だからというので、自分は兄と一番親密なHさんにそれを頼むが好かろうと発議ほつぎして二人の賛成を得た。しかしその頼み役には是非共自分が立たなければ済まなかった。春休みにはまだ一週間あった。けれども学校の講義はもうそろそろしまいになる日取であった。頼んで見るとすれば、早くしなければ都合が悪かった。「じゃ二三日にさんちうちに三沢の所へ行って三沢からでも話して貰うかまた様子によったら僕がじかに行って話すか、どっちかにしましょう」Hさんとそれほど懇意でない自分は、どうしても途中に三沢を置く必要があった。三沢は在学中Hさんを保証人にしていた。学校を出てからもほとんど家族の一人のごとく始終しじゅうそこへ出入していた。帰りがけに挨拶あいさつをしようと思って、ちょっとあによめへやのぞいたら、嫂は芳江を前に置いて裸人形に美しい着物を着せてやっていた。「芳江大変大きくなったね」自分は芳江の頭へ立ちながら手をかけた。芳江はしばらく顔を見なかった叔父に突然あやされたので、少しはにかんだようにくちびるを曲げて笑っていた。門を出る時はかれこれ五時に近かったが、兄はまだ上野から帰らなかった。父は久しぶりだからめしでも食って彼に会って行けと云ったが、自分はとうとうそれまで腰をえていられなかった。

十三

翌日あくるひ自分は事務所の帰りがけに三沢を尋ねた。ちょうど髪を刈りに今しがた出かけたところだというので、自分は遠慮なく上り込んで彼を待つ事にした。「この両三日りょうさんにちはめっきりお暖かになりました。もうそろそろ花も咲くでございましょう」主人の帰る間座敷へ出た彼の母は、いつもの通り丁寧ていねいな言葉で自分に話し掛けた。彼のへやは例のごとく絵だのスケッチだので鼻を突きそうであった。中には額縁がくぶちにもない裸のままを、ピンで壁の上へじかにり付けたのもあった。「何だか存じませんが、すきだものでございますから、むやみと貼散らかしまして」と彼の母は弁解がましく云った。自分は横手の本棚ほんだなの上に、丸いつぼと並べて置いてあった一枚の油絵に眼を着けた。それには女の首がいてあった。その女は黒い大きな眼をもっていた。そうしてその黒い眼のやわらかに湿うるおったぼんやりしさ加減が、夢のようなにおいを画幅全体に漂わしていた。自分はじっとそれを眺めていた。彼の母は苦笑して自分を顧みた。「あれもこの間いたずらに描きましたので」三沢はの上手な男であった。職業柄自分も画の具を使う道ぐらいは心得ていたが、芸術的の素質をゆたかにもっている点において、自分はとうてい彼の敵ではなかった。自分はこの画を見ると共に可憐なオフィリヤを連想した。「面白いです」と云った。「写真を台にして描いたんだから気分がよく出ない、いっそ生きてるうちに描かしてもらえば好かったなんて申しておりました。不幸な方で、二三年前に亡くなりました。せっかく御世話をして上げた御嫁入先も不縁でね、あなた」油絵のモデルは三沢のいわゆる出戻でもどりの御嬢さんであった。彼の母は自分の聞かない先きに、彼女についていろいろと語った。けれども女と三沢との関係は一言ひとことも口にしなかった。女の精神病にかかった事にもまるで触れなかった。自分もそれを聞く気は起らなかった。かえって話頭をこっちで切り上げるようにした。問題は彼女を離れるとすぐ三沢の結婚談に移って行った。彼の母はうれしそうであった。「あれもいろいろ御心配をかけましたが、今度ようやくきまりまして……」この間三沢から受取った手紙に、少し一身上いっしんじょうの事について、君に話があるからそのうち是非行くと書いてあったのが、この話でやっと悟れた。自分は彼の母に対して、ただ人並の祝意を表しておいたが、心のうちではその嫁になる人は、はたしてこの油絵に描いてある女のように、黒い大きなしたたるほどにうるおった眼をもっているだろうか、それが何より先に確めて見たかった。三沢は思ったほど早く帰らなかった。彼の母はおおかた帰りがけに湯にでも行ったのだろうと云って、何なら見せにやろうかと聞いたが、自分はそれを断った。しかし彼女に対する自分の話は、気の毒なほどが入らなかった。三沢にどうだろうと云った自分のいもとのお重は、まだどこへ行くともきまらずにぐずぐずしている。そういう自分もお重と同じ事である。せっかく身の堅まった兄とあによめは折り合わずにいる。――こんな事を対照して考えると、自分はどうしても快活になれなかった。

十四

そのうち三沢が帰って来た。近頃は身体からだの具合が好いと見えて、髪を刈って湯に入った後の彼の血色は、ことにつやつやしかった。健康と幸福、自分の前に胡坐あぐらをかいた彼の顔はたしかにこの二つのものを物語っていた。彼の言語態度もまたそれに匹敵ひってきして陽気であった。自分の持って来た不愉快な話を、突然と切り出すには余りに快活すぎた。「君どうかしたか」彼の母が席を立って二人差向いになった時、彼はこう問いかけた。自分は渋りながら、兄の近況を彼に訴えなければならなかった。その兄を勧めて旅行させるように、彼からHさんに頼んでくれと云わなければならなかった。「父や母が心配するのをただ黙って見ているのも気の毒だから」この最後の言葉を聞くまで、彼はもっともらしく腕組をして自分の膝頭ひざがしらを眺めていた。「じゃ君といっしょに行こうじゃないか。いっしょの方が僕一人より好かろう、くわしい話ができて」三沢にそれだけの好意があれば、自分に取っても、それに越した都合はなかった。彼は着物を着換ると云ってすぐ座をったが、しばらくするとまたふすまかげから顔を出して、「君、母が久しぶりだから君に飯を食わせたいって今支度したくをしているところなんだがね」と云った。自分は落ちついて馳走ちそうを受ける気分をもっていなかった。しかしそれを断ったにしたところで、飯はどこかで食わなければならなかった。自分は瞹眛あいまいな返事をして、早く立ちたいような気のする尻を元の席にえていた。そうして本棚ほんだなの上に載せてある女の首をちょいちょい眺めた。「どうも何にもございませんのに、御引留め申しましてさぞ御迷惑でございましたろう。ほんの有合せで」三沢の母は召使にぜんを運ばせながらまた座敷へ顔を出した。膳のはしには古そうに見える九谷焼の猪口ちょくが載せてあった。それでも三沢といっしょに出たのは思ったより早かった。電車を降りて五六丁るいて、Hさんの応接間に通った時、時計を見たらまだ八時であった。Hさんは銘仙めいせんの着物に白い縮緬ちりめん兵児帯へこおびをぐるぐる巻きつけたまま、椅子いすの上に胡坐をかいて、「珍らしいお客さんを連れて来たね」と三沢に云った。丸い顔と丸い五分刈ごぶがりの頭をもった彼は、支那人のようにでくでくふとっていた。話しぶりも支那人が慣れない日本語をあやつる時のように、のろかった。そうして口を開くたびに、肉の多い頬が動くので、始終しじゅうにこにこしているように見えた。彼の性質は彼の態度の示す通り鷹揚おうようなものであった。彼は比較的堅固でない椅子の上に、わざわざ両足を載せて胡坐をかいたなり、はたから見るとさも窮屈そうな姿勢のもとに、夷然いぜんとして落ちついていた。兄とはほとんど正反対なこの様子なり気風なりが、かえって兄と彼とを結びつける一種の力になっていた。何にもさからわない彼の前には、兄も逆らう気が出なかったのだろう。自分はHさんの悪口を云う兄の言葉を、今までついぞ一度も聞いた事がなかった。「兄さんは相変らず勉強ですか。ああ勉強してはいけないね」悠長ゆうちょうな彼はこう云って自分の吐いた煙草たばこの煙を眺めていた。

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