四
それは夕方の比較的長く続く夏の日の事であった。二人の歩いている岡の上はことさら明るく見えた。けれども、遠くにある立樹の色が空に包まれてだんだん黒ずんで行くにつれて、空の色も時を移さず変って行った。自分は名残の光で岡田の顔を見た。「君東京にいた時よりよほど快豁になったようですね。血色も大変好い。結構だ」岡田は「ええまあお蔭さまで」と云ったような瞹眛な挨拶をしたが、その挨拶のうちには一種嬉しそうな調子もあった。もう晩飯の用意もできたから帰ろうじゃないかと云って、二人帰路についた時、自分は突然岡田に、「君とお兼さんとは大変仲が好いようですね」といった。自分は真面目なつもりだったけれども、岡田にはそれが冷笑のように聞えたと見えて、彼はただ笑うだけで何の答えもしなかった。けれども別に否みもしなかった。しばらくしてから彼は今までの快豁な調子を急に失った。そうして何か秘密でも打ち明けるような具合に声を落した。それでいて、あたかも独言をいう時のように足元を見つめながら、「これであいつといっしょになってから、かれこれもう五六年近くになるんだが、どうも子供ができないんでね、どういうものか。それが気がかりで……」と云った。自分は何とも答えなかった。自分は子供を生ますために女房を貰う人は、天下に一人もあるはずがないと、かねてから思っていた。しかし女房を貰ってから後で、子供が欲しくなるものかどうか、そこになると自分にも判断がつかなかった。「結婚すると子供が欲しくなるものですかね」と聞いて見た。「なに子供が可愛いかどうかまだ僕にも分りませんが、何しろ妻たるものが子供を生まなくっちゃ、まるで一人前の資格がないような気がして……」岡田は単にわが女房を世間並にするために子供を欲するのであった。結婚はしたいが子供ができるのが怖いから、まあもう少し先へ延そうという苦しい世の中ですよと自分は彼に云ってやりたかった。すると岡田が「それに二人ぎりじゃ淋しくってね」とまたつけ加えた。「二人ぎりだから仲が好いんでしょう」「子供ができると夫婦の愛は減るもんでしょうか」岡田と自分は実際二人の経験以外にあることをさも心得たように話し合った。宅では食卓の上に刺身だの吸物だのが綺麗に並んで二人を待っていた。お兼さんは薄化粧をして二人のお酌をした。時々は団扇を持って自分を扇いでくれた。自分はその風が横顔に当るたびに、お兼さんの白粉の匂を微かに感じた。そうしてそれが麦酒や山葵の香よりも人間らしい好い匂のように思われた。「岡田君はいつもこうやって晩酌をやるんですか」と自分はお兼さんに聞いた。お兼さんは微笑しながら、「どうも後引上戸で困ります」と答えてわざと夫の方を見やった。夫は、「なに後が引けるほど飲ませやしないやね」と云って、傍にある団扇を取って、急に胸のあたりをはたはたいわせた。自分はまた急にこっちで会うべきはずの友達の事に思い及んだ。「奥さん、三沢という男から僕に宛てて、郵便か電報か何か来ませんでしたか。今散歩に出た後で」「来やしないよ。大丈夫だよ、君。僕の妻はそう云う事はちゃんと心得てるんだから。ねえお兼。――好いじゃありませんか、三沢の一人や二人来たって来なくたって。二郎さん、そんなに僕の宅が気に入らないんですか。第一あなたはあの一件からして片づけてしまわなくっちゃならない義務があるでしょう」岡田はこう云って、自分の洋盃へ麦酒をゴボゴボと注いだ。もうよほど酔っていた。
五
その晩はとうとう岡田の家へ泊った。六畳の二階で一人寝かされた自分は、蚊帳の中の暑苦しさに堪えかねて、なるべく夫婦に知れないように、そっと雨戸を開け放った。窓際を枕に寝ていたので、空は蚊帳越にも見えた。試に赤い裾から、頭だけ出して眺めると星がきらきらと光った。自分はこんな事をする間にも、下にいる岡田夫婦の今昔は忘れなかった。結婚してからああ親しくできたらさぞ幸福だろうと羨ましい気もした。三沢から何の音信のないのも気がかりであった。しかしこうして幸福な家庭の客となって、彼の消息を待つために四五日ぐずぐずしているのも悪くはないと考えた。一番どうでも好かったのは岡田のいわゆる「例の一件」であった。翌日眼が覚めると、窓の下の狭苦しい庭で、岡田の声がした。「おいお兼とうとう絞りのが咲き出したぜ。ちょいと来て御覧」自分は時計を見て、腹這になった。そうして燐寸を擦って敷島へ火を点けながら、暗にお兼さんの返事を待ち構えた。けれどもお兼さんの声はまるで聞えなかった。岡田は「おい」「おいお兼」をまた二三度繰返した。やがて、「せわしない方ね、あなたは。今朝顔どころじゃないわ、台所が忙しくって」という言葉が手に取るように聞こえた。お兼さんは勝手から出て来て座敷の縁側に立っているらしい。「それでも綺麗ね。咲いて見ると。――金魚はどうして」「金魚は泳いでいるがね。どうもこのほうはむずかしいらしい」自分はお兼さんが、死にかかった金魚の運命について、何かセンチメンタルな事でもいうかと思って、煙草を吹かしながら聴いていた。けれどもいくら待っていても、お兼さんは何とも云わなかった。岡田の声も聞こえなかった。自分は煙草を捨てて立ち上った。そうしてかなり急な階子段を一段ずつ音を立てて下へ降りて行った。三人で飯を済ました後、岡田は会社へ出勤しなければならないので、緩り案内をする時間がないのを残念がった。自分はここへ来る前から、そんな事を全く予期していなかったと云って、白い詰襟姿の彼を坐ったまま眺めていた。「お兼、お前暇があるなら二郎さんを案内して上げるが好い」と岡田は急に思いついたような顔つきで云った。お兼さんはいつもの様子に似ず、この時だけは夫にも自分にも何とも答えなかった。自分はすぐ、「なに構わない。君といっしょに君の会社のある方角まで行って、そこいらを逍遥いて見よう」と云いながら立った。お兼さんは玄関で自分の洋傘を取って、自分に手渡ししてくれた。それからただ一口「お早く」と云った。自分は二度電車に乗せられて、二度下ろされた。そうして岡田の通っている石造の会社の周囲を好い加減に歩き廻った。同じ流れか、違う流れか、水の面が二三度目に入った。そのうち暑さに堪えられなくなって、また好い加減に岡田の家へ帰って来た。二階へ上って、――自分は昨夜からこの六畳の二階を、自分の室と心得るようになった。――休息していると、下から階子段を踏む音がして、お兼さんが上って来た。自分は驚いて脱いだ肌を入れた。昨日廂に束ねてあったお兼さんの髪は、いつの間にか大きな丸髷に変っていた。そうして桃色の手絡が髷の間から覗いていた。
六
お兼さんは黒い盆の上に載せた平野水と洋盃を自分の前に置いて、「いかがでございますか」と聞いた。自分は「ありがとう」と答えて、盆を引き寄せようとした。お兼さんは「いえ私が」と云って急に罎を取り上げた。自分はこの時黙ってお兼さんの白い手ばかり見ていた。その手には昨夕気がつかなかった指環が一つ光っていた。自分が洋盃を取上げて咽喉を潤した時、お兼さんは帯の間から一枚の葉書を取り出した。「先ほどお出かけになった後で」と云いかけて、にやにや笑っている。自分はその表面に三沢の二字を認めた。「とうとう参りましたね。御待かねの……」自分は微笑しながら、すぐ裏を返して見た。「一両日後れるかも知れぬ」葉書に大きく書いた文字はただこれだけであった。「まるで電報のようでございますね」「それであなた笑ってたんですか」「そう云う訳でもございませんけれども、何だかあんまり……」お兼さんはそこで黙ってしまった。自分はお兼さんをもっと笑わせたかった。「あんまり、どうしました」「あんまりもったいないようですから」お兼さんのお父さんというのは大変緻密な人で、お兼さんの所へ手紙を寄こすにも、たいていは葉書で用を弁じている代りに蠅の頭のような字を十五行も並べて来るという話しを、お兼さんは面白そうにした。自分は三沢の事を全く忘れて、ただ前にいるお兼さんを的に、さまざまの事を尋ねたり聞いたりした。「奥さん、子供が欲しかありませんか。こうやって、一人で留守をしていると退屈するでしょう」「そうでもございませんわ。私兄弟の多い家に生れて大変苦労して育ったせいか、子供ほど親を意地見るものはないと思っておりますから」「だって一人や二人はいいでしょう。岡田君は子供がないと淋しくっていけないって云ってましたよ」お兼さんは何にも答えずに窓の外の方を眺めていた。顔を元へ戻しても、自分を見ずに、畳の上にある平野水の罎を見ていた。自分は何にも気がつかなかった。それでまた「奥さんはなぜ子供ができないんでしょう」と聞いた。するとお兼さんは急に赤い顔をした。自分はただ心やすだてで云ったことが、はなはだ面白くない結果を引き起したのを後悔した。けれどもどうする訳にも行かなかった。その時はただお兼さんに気の毒をしたという心だけで、お兼さんの赤くなった意味を知ろうなどとは夢にも思わなかった。自分はこの居苦しくまた立苦しくなったように見える若い細君を、どうともして救わなければならなかった。それには是非共話頭を転ずる必要があった。自分はかねてからさほど重きを置いていなかった岡田のいわゆる「例の一件」をとうとう持ち出した。お兼さんはすぐ元の態度を回復した。けれども夫に責任の過半を譲るつもりか、けっして多くを語らなかった。自分もそう根掘り葉掘り聞きもしなかった。

