LIB READ READER

行人・夏目漱石

30

朗読者: VOICEVOX Nemo / ノーマルこの朗読者の公開朗読はまだない / 朗読停止中

十五

やがて用事が三沢の口から切り出された。自分はすぐそのあといて主要な点を説明した。Hさんは首をひねった。「そりゃ少し妙ですね、そんなはずはなさそうだがね」彼の不審はけっしていつわりとは見えなかった。彼は昨日きのうKの結婚披露に兄と精養軒で会った。そこを出る時にもいっしょに出た。話が途切とぎれないので、浮か浮かと二人連立って歩いた。しまいに兄が疲れたといった。Hさんは自分の家に兄を引張って行った。「兄さんはここで晩飯を食ったくらいなんだからね。どうも少しも不断と違ったところはないようでしたよ」わがままに育った兄は、平生からうちで気むずかしい癖に、外では至極しごく穏かであった。しかしそれは昔の兄であった。今の彼を、ただ我儘わがままの二字で説明するのは余りに単純過ぎた。自分はやむをえずその時兄がHさんに向っておもにどんな話をしたか、差支さしつかえない限りそれを聞こうと試みた。「なに別に家庭の事なんか一口も云やしませんよ」これもうそではなかった。記憶の好いHさんは、その時の話題を明瞭めいりょうに覚えていて、それを最も淡泊たんぱくな態度で話してくれた。兄はその時しきりに死というものについて云々したそうである。彼は英吉利イギリス亜米利加アメリカ流行はやる死後の研究という題目に興味をもって、だいぶその方面を調べたそうである。けれども、どれもこれも彼には不満足だと云ったそうである。彼はメーテルリンクの論文も読んで見たが、やはり普通のスピリチュアリズムと同じようにつまらんものだと嘆息したそうである。兄に関するHさんの話は、すべて学問とか研究とかいうがわばかりに限られていた。Hさんは兄の本領としてそれを当然のごとくに思っているらしかった。けれども聞いている自分は、どうしてもこの兄と家庭の兄とを二つに切り離して考える訳には行かなかった。むしろ家庭の兄がこういう研究的な兄を生み出したのだとしか理解できなかった。「そりゃ動揺はしていますね。御宅の方の関係があるかないか、そこは僕にも解らないが、何しろ思想の上で動揺して落ちつかないで弱っている事はたしかなようです」Hさんはしまいにこう云った。彼はその上に兄の神経衰弱もうけがった。しかしそれは兄の隠している事でも何でもなかった。兄はHさんに会うたんびに、ほとんどきまり文句のように、それを訴えてやまなかったそうである。「だからこの際旅行は至極しごく好いでしょうよ。そう云う訳なら一つ勧めて見ましょう。しかしうんと云ってすぐ承知するかね。なかなか動かない人だから、ことによるとむずかしいね」Hさんの言葉には自信がなかった。「あなたのおっしゃる事なら素直すなおに聞くだろうと思うんですが」「そうも行かんさ」Hさんは苦笑していた。表へ出た時はかれこれ十時に近かった。それでも閑静な屋敷町にちらほら人の影が見えた。それがみんなそぞろ歩きでもするように、長閑のどかに履物はきものの音を響かして行った。空には星の光がにぶかった。あたかも眠たい眼をしばたたいているような鈍さであった。自分は不透明な何物かに包まれた気分を抱いた。そうして薄明るい往来を三沢と二人肩を並べて帰った。

十六

自分は首を長くしてHさんの消息を待った。花のたよりが都下の新聞をにぎわし始めた一週間ののちになっても、Hさんからは何の通知もなかった。自分は失望した。電話を番町へかけて聞き合せるのもいやになった。どうでもするが好いという気分でじっとしていた。そこへ三沢が来た。「どうもうまく行かないそうだ」事実ははたして自分の想像した通りであった。兄はHさんの勧誘を断然断ってしまった。Hさんはやむをえず三沢を呼んで、その結果を自分に伝えるように頼んだ。「それでわざわざ来てくれたのかい」「まあそうだ」「どうも御苦労さま、すまない」自分はこれ以上何を云う気も起らなかった。「Hさんはああ云う人だから、自分の責任のように気の毒がっている。今度は事があまり突然なので旨く行かなかったが、この次の夏休みには是非どこかへ連れ出すつもりだと云っていた」自分はこういう慰藉いしゃをもたらしてくれた三沢の顔を見て苦笑した。Hさんのような大悠たいゆうな人から見たら、春休みも夏休みも同じ事なんだろうけれども、内側で働いている自分達の眼には、夏休みといえば遠い未来であった。その遠い未来と現在の間には大きな不安がひそんでいた。「しかしまあ仕方がない。元々こっちで勝手なプログラムをこしらえておいて、それに当てはまるように兄を自由に動かそうというんだから」自分はとうとうあきらめた。三沢は何にも批評せずに、机の角にひじを突き立てて、その上にあごを載せたなり自分の顔を眺めていた。彼はしばらくしてから、「だから僕のいう通りにすれば好いんだ」と云った。この間Hさんに兄の事を依頼しに行ったかえみちに、無言な彼は突然往来の真中で自分を驚かしたのである。今まで兄の事について一言いちごんも発しなかった彼は、その時不意に自分の肩を突いて、「君兄さんを旅行させるの、快活にするのって心配するより、自分で早く結婚した方が好かないか。その方がつまり君の得だぜ」と云った。彼が自分に結婚を勧めたのは、その晩が始めてではなかった。自分はいつも相手がないとばかり彼に答えていた。彼はしまいに相手を拵えてやると云い出した。そうして一時はそれがほとんど事実になりかけた事もあった。自分はその晩の彼に向ってもやはり同じような挨拶あいさつをした。彼はそれをいつもより冷淡なものとして記憶していたのである。「じゃ君のいう通りにするから、本当に相手を出してくれるかい」「本当に僕のいう通りにすれば、本当に好いのを出す」彼は実際心当りがあるような口をいた。近いうち彼のめとるべき女からでも聞いたのだろう。彼はもう大きな黒い眼をもった精神病の御嬢さんについては多くを語らなかった。「君の未来の細君はやっぱりああいう顔立なんだろう」「さあどうかな。いずれそのうち引き合わせるから見てくれたまえ」「結婚式はいつだい」「ことによると向うの都合で秋まで延ばすかも知れない」彼は愉快らしかった。彼は来るべき彼の生活に、彼のもっている過去の詩を投げかけていた。

十七

四月はいつの間にか過ぎた。花は上野から向島、それから荒川という順序で、だんだん咲いていってだんだん散ってしまった。自分は一年のうちで人の最もうれしがるこの花の時節を無為むいに送った。しかし月がかわって世の中が青葉で包まれ出してから、ふり返ってやり過ごした春を眺めるとはなはだ物足りなかった。それでも無為に送れただけがありがたかった。うちへはそののち一回も足を向けなかった。家からも誰一人尋ねて来なかった。電話は母とお重から一二度かかったが、それは自分の着る着物についての用事に過ぎなかった。三沢には全く会わなかった。大阪の岡田からは花の盛りに絵端書えはがきがまた一枚来た。前と同じようにお貞さんやおかねさんの署名があった。自分は事務所へ通う動物のごとく暮していた。すると五月の末になって突然三沢から大きな招待状を送って来た。自分は結婚の通知と早合点して封を裂いた。ところが案外にもそれは富士見町の雅楽稽古所からの案内状であった。「六月二日音楽演習相催し候間そろあいだ同日午後一時より御来聴被下度候くだされたくそろ此段御案内申進候也そろなりと書いてあった。今までこういう方面に関係があるとは思わなかった三沢が、どうしてこんな案内状を自分に送ったのか、まるで解らなかった。半日の後自分はまた彼の手紙を受け取った。その手紙には、六月二日には、是非来いという文句が添えてあった。是非来いというくらいだから彼自身は無論行くにきまっている。自分はせっかくだからまず行って見ようと思い定めた。けれども、雅楽そのものについては大した期待も何もなかった。それよりも自分の気分に転化の刺戟しげきを与えたのは、三沢が余事のごとく名宛なあてのあとへ付け足した、短い報知であった。「Hさんはうそかない人だ。Hさんはとうとう君の兄さんを説き伏せた。この六月学校の講義を切り上げ次第、二人はどこかへ旅をする事に約束ができたそうだ」自分は父のため母のためかつ兄自身のため喜んだ。あの兄がHさんに対して旅行しようと約束する気分になったとすれば、単にそれだけでも彼には大きい変化であった。偽りのきらいな彼は必ずそれを実行するつもりでいるに違いなかった。自分は父にも母にも実否を問い合わせなかった。Hさんに向ってもその消息を確める手段を取らなかった。ただ三沢の口からもう少しくわしいところを聞かせて貰いたかった。それも今度会った時で構わないという気があるので、彼の是非来いという六月二日があんに待ち受けられた。六月二日はあいにく雨であった。十一時頃には少しんだが、季節が季節なのでからりとは晴れなかった。往来を行く人は傘をさしたり畳んだりした。見附外みつけそとの柳は煙のように長い枝を垂れていた。その下を通ると、青白いかびが着物にくっついていつまでも落ちないように感ぜられた。雅楽所の門内にはくるまがたくさん並んでいた。馬車も一二台いた。しかし自動車は一つも見えなかった。自分は玄関先で帽子を人に渡した。その人は金の釦鈕ボタンのついた制服のようなものを着ていた。もう一人の人が自分を観覧席へ連れて行ってくれた。「そこいらへおかけなすって」彼はそう云ってまた玄関の方へ帰って行った。椅子はまだまばらに占領されているだけであった。自分はなるべく人の眼に着かないように後列の一脚に腰をおろした。

十八

自分は心のうちで三沢を予期しながら四方を見渡したが彼の姿はどこにも見えなかった。もっとも見所けんじょは正面のほか左右両側面りょうそくめんにもあった。自分は玄関から左へ突き当って右へ折れて金屏風きんびょうぶの立ててある前を通って正面席に案内されたのである。自分の前には紋付もんつきの女が二三人いた。うしろにはカーキー色の軍服を着けた士官が二人いた。そのほか六七人そこここに散点していた。自分から一席置いて隣の二人連ふたりづれは、舞台の正面にかかっている幕の話をしていた。それには雅楽に何の縁故ゆかりもなさそうに見える変なもんが、たてに何行も染め出されていた。「あれが織田信長おだのぶながの紋ですよ。信長が王室の式微しきびなげいて、あの幕を献上したというのが始まりで、それから以後は必ずあの木瓜もっこうの紋の付いた幕を張る事になってるんだそうです」幕の上下は紫地むらさきじきん唐草からくさの模様を置いたふちで包んであった。幕の前を見ると、真中に太鼓たいこえてあった。その太鼓には緑や金や赤の美しい彩色いろどりほどこされてあった。そうして薄くて丸いわくの中に入れてあった。左の端には火熨斗ひのしぐらいの大きさの鐘がやはり枠の中に釣るしてあった。そのほかにはことが二面あった。琵琶びわも二面あった。楽器の前は青い毛氈もうせんで敷きつめられた舞をまう所になっていた。構造は能のそれのように、三方の見所からは全く切り離されていた。そうしてその途切とぎれた四五尺の空間からは日も射し風も通うようにできていた。自分が物珍らしそうにこの様子を見ているうちに、観客けんぶつは一人二人と絶えず集まって来た。その中には自分がある音楽会で顔だけ覚えたNという侯爵もいた。「今日は教育会があるので来られない」と細君の事か何かを、そばにいた坊主頭の丸々と肥えた小さい人に話していた。この丸い小さな人がKという公爵である事を、自分はあとで三沢からおすわった。その三沢は舞楽の始まるやっと五六分前にフロックコートでやって来て、入口の金屏風の所でしばらく観覧席を見渡しながら躊躇ちゅうちょしていたが、自分の顔を見つけるや否や、すぐ傍へ来て腰をかけた。彼と前後して一人の背の高い若い男が、年頃の女を二人連れて、やはり正面席へ這入はいって来た。男はフロックコートを着ていた。女は無論紋付であった。その男とつれの女の一人が顔立から云ってよく似ているので、自分はすぐ彼らの兄妹である事をさとった。彼らは人の頭を五六列越して、三沢と挨拶あいさつを交換した。男の顔にはできるだけの愛嬌あいきょうたたえられた。女は心持顔を赤くした。三沢はわざわざ腰を浮かして起立した。婦人はたいてい前の方に席を占めるので、彼らはついに自分達のそばへは来なかった。「あれが僕のさいになるべき人だ」と三沢は小声で自分に告げた。自分は腹の中で、あの夢のような大きな黒い眼の所有者であった精神病のお嬢さんと、自分の二三間前に今席を取った色沢いろつやの好いお嬢さんとを比較した。彼女は自分にただ黒い髪と白い襟足えりあしとを見せて坐っていた。それも人の影にさえぎられて自由には見られなかった。「もう一人の女ね」と三沢がまた小声で云いかけた。それから彼は突然ポッケットへ手を入れて、白い紙片かみきれと万年筆を取り出した。彼はすぐそれへ何か書き始めた。正面の舞台にはもう楽人がくじんが現われた。

十九

彼らは帽子とも頭巾ずきんとも名の付けようのない奇抜なものをかぶっていた。謡曲の富士太鼓を知っていた自分は、おおかたこれが鳥兜とりかぶとというものだろうと推察した。首から下も被りものと同じく現代を超越していた。彼らは錦で作った𧘕𧘔《かみしも》のようなものを着ていた。その𧘕𧘔には骨がないので肩のあたりはやわらかな線でぴたりと身体からだに付いていた。そでには白の先へ幅三寸ぐらいの赤い絹が縫足ぬいたしてあった。彼らはみな白のくくばかま穿いていた。そうして一様いちよう胡坐あぐらをかいた。三沢はひざの上で何か書きかけた白い紙をくちゃくちゃにした。自分はそのくちゃくちゃになった紙のかたまりを横から眺めた。彼は一言いちごんの説明も与えずに正面を見た。青い毛氈もうせんの上に左のとばりの影から現われたものはほこをもっていた。これも管絃かんげんを奏する人と同じく錦の袖無そでなしを着ていた。三沢はいつまでっても「もう一人の女はね」の続きを云わなかった。観覧席にいるものはことごとく静粛であった。隣同志で話をするのさえはばかられた。自分は仕方なしに催促を我慢した。三沢も空とぼけて澄ましていた。彼は自分と同じようにここへは始めて顔を出したので、少し硬くなっているらしかった。舞は謹慎な見物の前に、既定のプログラム通り、単調で上品な手足の運動をきもせずに進行させて行った。けれども彼らの服装は、題のあらたまるごとに、閑雅な上代の色彩を、代る代る自分達の眼に映しつつ過ぎた。あるものは冠に桜の花をしていた。しゃの大きなそでの下から燃えるような五色の紋をかせていた。黄金作こがねづくり太刀たちいていた。あるものは袖口そでぐちくくった朱色の着物の上に、唐錦からにしきのちゃんちゃんをひざのあたりまで垂らして、まるで錦に包まれた猟人かりゅうどのように見えた。あるものはみのに似た青いきぬをばらばらに着て、同じ青い色のかさを腰に下げていた。――すべてが夢のようであった。われわれの祖先が残して行った遠い記念かたみにおいがした。みんなありがたそうな顔をしてそれをていた。三沢も自分も狐にままれた気味で坐っていた。舞楽が一段落ついた時に、御茶を上げますと誰かが云ったので周囲の人は席を立って別室に動き始めた。そこへ先刻さっき三沢と約束の整ったという女のあにさんが来て、物馴ものなれた口調で彼と話した。彼はこういう方面に関係のある男と見えて、当日案内を受けた誰彼をよく知っていた。三沢と自分はこの人から今までそこいらにいた華族や高官や名士の名を教えて貰った。別室には珈琲コーヒーとカステラとチョコレートとサンドイッチがあった。普通の会の時のように、無作法ぶさほうなふるまいは見受けられなかったけれども、それでも多少込み合うので、女はすわったなり席を立たないのがあった。三沢と彼の知人は、菓子と珈琲を盆の上に載せて、わざわざ二人の御嬢さんの所へ持って行った。自分はチョコレートの銀紙をはがしながら、敷居の上に立って、遠くからその様子をぬすむように眺めていた。三沢の細君になるべき人は御辞義おじぎをして、珈琲茶碗ぢゃわんだけを取ったが、菓子には手を触れなかった。いわゆる「もう一人の女」はその珈琲茶碗にさえ容易たやすく手を出さなかった。三沢は盆を持ったまま、引く事もできず進む事もできない態度で立っていた。女の顔が先刻さっき見た時よりも子供子供した苦痛の表情にちていた。

EPISODE COMMENTS

この話の感想

感想 0

30話感想一覧

感想一覧を読み込み中...