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行人・夏目漱石

31

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二十

自分は先刻から「もう一人の女」に特別の注意を払っていた。それには三沢の様子や態度が有力な原因となって働いていたに違ないが、単独に云っても、彼女は自分の視線を引着けるに足るほどな好い器量きりょうをもっていたのである。自分は彼女と三沢の細君になるべき人との後姿うしろすがたを、舞楽ぶがくの相間相間に絶えず眺めた。彼らは自分の坐っている所から、ことさらな方向に眸子ひとみを転ずる事なしに、自然と見られるように都合の好い地位に坐っていた。こうして首筋ばかり眺めていた自分は今比較的自由な場所に立って、彼らの顔立を筋違すじかいに見始めた。あるいは正面に動く機会が来るかも知れないと思った時、自分はチョコレートを頬張ほおばりながら、あんにその瞬間をとらえる注意をおこたらなかった。けれどもその女も三沢の意中の人も、ついにこっちを向かなかった。自分はただ彼らの容貌ようぼうを三分の二だけ側面から遠くに望んだ。そのうち三沢はまた盆を持ってこっちへ帰って来た。自分のそばを通る時、彼は微笑しながら、「どうだい」と云った。自分はただ「御苦労さま」挨拶あいさつした。あとから例の背の高い兄さんがやって来た。「どうです、あちらへいらしって煙草でも御呑おのみになっちゃ。喫煙室はあすこの突き当りです」自分は三沢との間に緒口いとぐちのつきかけた談話はこれでまた流れてしまった。二人は彼に導かれて喫煙室に這入はいった。煙と男子に占領された比較的狭いそのへやは思ったよりにぎやかであった。自分はその一隅ひとすみにただ一人の知った顔を見出した。それは伶人れいじんの姓をもった眼の大きい男であった。ある協会の主要な一員として、舞台の上でたくみにその大きな眼を利用する男であった。彼は台詞せりふを使う時のような深い声で、誰かと話していたが、ほとんど自分達と入れ代りぐらいに、喫煙室を出て行った。「とうとう役者になったんだそうだ」もうかるのかね」「ええ儲かるんだろう」「この間何とかをやるという事が新聞に出ていたが、あの人なんですか」「ええそうだそうです」彼の去ったあとで、室の中央にいた三人の男はこんな話をしていた。三沢の知人は自分達にその三人の名を教えてくれた。そのうちの二人は公爵で、一人は伯爵であった。そうして三人が三人とも公卿出くげでの華族であった。彼らの会話から察すると、三人ながらほとんど劇という芸術に対して何の知識も興味ももっていないようであった。我々はまた元の席に帰って二三番の欧洲楽おうしゅうがくを聞いた後、ようやく五時頃になって雅楽所を出た。周囲に人がいなくなった時、三沢はようやく「もう一人の女」の事について語り始めた。彼の考えは自分が最初から推察した通りであった。「どうだい、気に入らないかね」「顔は好いね」「顔だけかい」「あとは分らないが、しかし少し旧式じゃないか。何でも遠慮さえすればそれが礼儀だと思ってるようだね」「家庭が家庭だからな。しかしああいうのが間違がないんだよ」二人は土手に沿うて歩いた。土手の上の松が雨を含んで蒼黒あおぐろく空に映った。

二十一

自分は三沢とかず女の話をした。彼のめとるべき人は宮内省に関係のある役人の娘であった。その伴侶つれは彼女と仲の好い友達であった。三沢は彼女と打ち合せをして、とくに自分のためにその人を誘い出したのであった。自分はその人の家族やら地位やら教育やらについて得らるる限りの知識を彼から供給して貰った。自分は本末ほんまつ顛倒てんどうした。雅楽所で三沢に会うまでは、Hさんと兄とがこの夏いっしょにするという旅行の件を、その日の問題としてあんに胸のうちに畳み込んでいた。雅楽所を出る時は、それがほんのつけたりになってしまった。自分はいよいよ彼に別れる間際まぎわになって、始めてかどすみに立った。「兄の事も今日君に会ったらよく聞こうと思っていたんだが、いよいよHさんの云う通りになったんだね」「Hさんはわざわざ僕を呼び寄せてそう云ったくらいなんだから間違はないさ。大丈夫だよ」「どこへ行くんだろう」「そりゃ知らない。――どこだって好いじゃないか、行きさいすりゃあ」遠くから見ている三沢の眼には、兄の運命が最初からそれほどの問題になっていなかった。「それより片っ方のほうを積極的にどしどし進行させようじゃないか」自分は一人下宿へ帰る途々みちみちやはり兄とあによめの事を考えない訳に行かなかった。しかしその日会った女の事もあるいは彼ら以上に考えたかも知れない。自分は彼女と一言ひとことも口を交えなかった。自分はついに彼女の声を聞き得なかった。三沢は自然が二人を視線の通う一室に会合させたという事実以外に、わざとらしい痕迹こんせきを見せるのはいやだと云って、紹介も何もしなかった。彼はそう云ってあとから自分に断った。彼の遣口やりくちは、彼女に取っても自分に取っても、面倒や迷惑の起り得ないほど単簡たんかん淡泊たんぱくなものであった。しかしそれだから物足りなかった。自分はもう少し何とかして貰いたかった。「しかし君の意志が解らなかったから」と三沢は弁解した。そう云われて見ると、そうでもあった。自分はあれ以上、女をめがけて進んで行く考えはなかったのだから。それから二三日は女の顔を時々頭の中で見た。しかしそれがために、また会いたいの焦慮あせるのという熱は起らなかった。その当日のぱっとした色彩がげて行くに連れて、番町の方が依然として重要な問題になって来た。自分はなまじい遠くから女のにおいをいだ反動として、かえってじじむさくなった。事務所の往復に、ざらざらした頬をでて見て、手もなく電車に乗ったむじなのようなものだと悲観したりした。一週間ほどって母から電話がかかった。彼女は電話口へ出て、昨日きのうHさんが遊びに来た事を告げた。あによめ風邪気かぜけなので、彼女が代理として饗応もてなしの席に出たら、Hさんが兄といっしょに旅行する話を始めたと告げた。彼女は喜ばしそうな調子で、自分に礼を述べた。父からもよろしくとの事であった。自分は「いい案排あんばいでした」と答えた。自分はその晩いろいろ考えた。自分は旅行が兄のために有利であると認めたから、Hさんをわずらわして、これだけの手続を運んだのであるが、真底しんていを自白すると、自分の最もんでいるのは、兄の自分に対する思わくであった。彼は自分をどう見ているだろうか。どのくらいの程度に自分を憎んでいるだろう、またうたぐっているだろう。そこが一番知りたかった。したがって自分の気になるのは未来の兄であると同時に現在の兄であった。久しく彼と会見のみちを絶たれた自分は、その現在の兄に関する直接の知識をほとんどもたなかった。

二十二

自分は旅行に出る前のHさんに一応会っておく必要を感じた。こっちで頼んだ事を順に運んでくれた好意に対して、礼を云わなければすまない義理も控えていた。自分は事務所の帰りがけにまた彼の玄関に立って名刺を出した。取次が奥へ這入はいったかと思うと、彼は例のむくむくした丸い体躯からだを、自分の前に運んで来た。「実は今あしたの講義で苦しんでいるところなんですがね。もし急用でなければ、今日は御免ごめんこうむりたい」学者の生活に気のつかなかった自分は、Hさんのこの言葉で、急に兄の日常をおもい起した。彼らの書斎に立籠たてこもるのは、必ずしも家庭や社会に対する謀反むほんとも限らなかった。自分はHさんに都合の好い日を聞いて、また出直す事にした。「じゃ御気の毒だが、そうして下さい。なるべく早く講義を切り上げて、兄さんといっしょに旅行しようと云う訳なんだからね」自分はHさんの前に丁寧ていねいな頭を下げなければならなかった。彼の家を再度訪問おとずれたのは、それからまた二三日経った梅雨晴つゆばれの夕方であった。ふとった彼は暑いと云って浴衣ゆかたの胸を胃の上部まで開け放ってすわっていた。「さあどこへ行くかね。まだ海とも山ともきめていないんだが」Hさんだけあって行く先などはとんとにしていないらしかった。自分もそれには無頓着むとんじゃくであった。けれども……。「少しそれについて御願があるんですが」家庭の事情の一般は、この間三沢と来た時、すでにHさんの耳に入れてしまった。しかし兄と自分との間に横たわる一種特別な関係については、まだ一言ひとことも彼に告げていなかった。しかしそれはいつまで経ってもHさんの前で自分から打ちあけるべき性質のものでないと自分は考えていた。親しい三沢の知識ですら、そこになるとほとんど臆測おくそくに過ぎなかった。Hさんは三沢からその臆測の知識を間接に受けているかも知れなかったけれども、こっちから露骨に切り出さない以上、その信偽しんぎも程度も、まるで確める訳に行かなかった。自分は兄から今どう見られているか、どう思われているか、それが知りたくって仕方がなかった。それを知るために、この際Hさんのたすけを借りようとすれば、勢い万事を彼の前に投げ出して見せなければならなかった。自分が三沢に何事も云わずに、あたかも彼を出し抜いたような態度で、たった一人こうしてHさんを訪問するのも、実はその用事の真相をなるべくひとに知らせたくないからであった。しかし三沢に対してさえ、良心に気兼きがねをするような用事の真相なら、それをHさんの前で云われるはずがなかった。自分はやむをえず特殊スペシャルな問題を一般的ジェネラルくずしてしまった。「はなはだ御迷惑かも知れませんが、兄といっしょに旅行される間、兄の挙動なり言語なり、思想なり感情なりについて、あなたの御観察になったところを、できるだけくわしく書いて報知していただく訳には行きますまいか。その辺が明瞭めいりょうになると、たくでも兄の取扱上大変便宜べんぎを得るだろうと思うんですが」「そうさね。絶対にできない事もないが、ちっとむずかしそうですね。だいち時間がないじゃないか、君、そんな事をする。よし時間があっても、必要がないだろう。それより僕らが旅行から帰ったらゆっくり聞きに来たら好いじゃありませんか」

二十三

Hさんの云うところはもっともであった。自分は下を向いてしばらく黙っていたが、とうとううそいた。「実は父や母が心配して、できるなら旅行中の模様を、経過の一段落ごとに承知したいと云うんですが……」自分は困った顔をした。Hさんは笑い出した。「君そんなに心配する事はありませんよ。大丈夫だよ、僕が受け合うよ」「しかし年寄ですから……」「困るね、それじゃ。だから年寄はきらいなんだ。うちへ行ってそう云いたまえな、大丈夫だって」「何とか好い工夫はないもんでしょうか。あなたの御迷惑にならないで、そうして、父や母を満足させるような」Hさんはまたにやにや笑っていた。「そんな重宝な工夫があるものかね、君。――しかしせっかくの御依頼だからこうしよう。もし旅先で報道するに足るような事が起ったら、君の所へ手紙を上げると。もし手紙が行かなかったら、平生の通りだと思って安心していると。それでよかろう」自分はこれより以上Hさんに望む事はできなかった。「それで結構です。しかし出来事という意味を俗にいう不慮の出来事と取らずに、あなたが御観察になる兄の感情なり思想のうちで、これは尋常でないと御気づきになったものに応用していただけましょうか」「なかなか面倒だね、事が。しかしまあいいや、そうしてもいい」「それからことによると、僕の事だの母の事だの、家庭の事などが兄の口にのぼるかも知れませんが、それを御遠慮なく一々聞かしていただきたいと思いますが」「うん、そりゃ差支さしつかえない限り知らせて上げましょう」「差支えがあっても構わないから聞かしていただきたい。それでないとうちのものが困りますから」Hさんは黙って煙草たばこを吹かし出した。自分は弱輩じゃくはいの癖に多少云い過ぎた事に気がついた。手持無沙汰てもちぶさたの感じが強く頭に上った。Hさんは庭の方を見ていた。そのすみに秋田から家主が持って来て植えたという大きなふきが五六本あった。雨上りの初夏の空がいつまでも明るい光を地の上に投げているので、その太い蕗のくきがすいすいと薄暗い中に青く描かれていた。「あすこへ大きながまが出るんですよ」とHさんが云った。しばらく世間話をした後で、自分は暗くならないうちに席を立とうとした。「君の縁談はどうなりました。この間三沢が来て、好いのを見つけてやったって得意になっていましたよ」「ええ三沢もずいぶん世話好せわずきですから」「ところが万更まんざら世話好ばかりでやってるんでもないようですよ。だから君も好い加減に貰っちまったら好いじゃありませんか。器量は悪かないって話じゃないか。君には気に入らんのかね」「気に入らんのじゃありません」Hさんは「はあやっぱり気に入ったのかい」と云って笑い出した。自分はHさんの門を出て、あの事も早くどうかしなければ、三沢に対して義理が悪いと考えた。しかし兄の問題が一段落でも片づいてくれない以上、とうていそっちへ向ける心の余裕は出なかった。いっそ一思いにあの女の方かられ込んでくれたならなどと思っても見た。

二十四

自分はまた三沢を尋ねた。けれども腹をきめてから尋ねた訳でないから、実際上どんな歩調も前に動かす気にはなれなかった。自分の態度はどこまでもぐずぐずであった。そうしてただ漫然とその女の話をした。「どうするね」こう聞かれると、結局要領を得た何の挨拶あいさつもできなかった。「僕は職業の上ではふわふわして浪人のように暮しているが、家庭の人としてなら、これでも一定の方針に支配されて、着々固まって行きつつあるつもりだ。ところが君はまるで反対だね。一家の主人となるとか、ひとの夫になるとかいう方面には、故意に意志の働きを鈍らせる癖に、職業の問題になると、手っ取早く片づけて、ちゃんと落ちついているんだから」「あんまり落ちついてもいないさ」自分は大阪の岡田から受取った手紙の中に、相応な位地いちがあちらにあるから来ないかという勧誘があったので、ことによったら今の事務所を飛び出そうかと考えていた。「ついこの間までは洋行するってしきりに騒いでいたじゃないか」三沢は自分の矛盾を追窮した。自分には西洋も大阪も変化としてこの際大した相違もなかった。「そう万事あてにならなくっちゃ駄目だ。僕だけ君の結婚問題を真面目まじめに考えるのは馬鹿馬鹿しい訳だ。断っちまおう」三沢はだいぶしゃくさわったらしく見えた。自分はまた自分が癪に障ってならなかった。「いったい先方ではどういうんだ。君は僕ばかり責めるがね、僕には向うの意志が少しも解らないじゃないか」「解るはずがないよ。まだ何にも話してないんだもの」三沢は少し激していた。そうして激するのがもっともであった。彼は女の父兄にも女自身にも、自分の事をまだ一口も告げていなかった。どう間違っても彼らの体面にさわりようのない事情のもとに、女と自分を御互の視線の通う範囲内に置いただけであった。彼の処置には少しも人工的な痕迹こんせきとどめない、ほとんど自然そのままの利用に過ぎないというのが彼の大いなる誇りであった。「君の考えがまとまらない以上はどうする事もできないよ」「じゃもう少し考えて見よう」三沢は焦慮じれったそうであった。自分も自分が不愉快であった。Hさんと兄がいっしょの汽車で東京を去ったのは、自分が三沢の所へ出かけてから、一週間とたないうちであった。自分は彼らの立つ時刻も日限も知らずにいた。三沢からもHさんからも何の通知を受取らなかった自分は、うちからの電話で始めてそれを聞いた。その時電話口へは思いがけなくあによめが出て来た。「兄さんは今朝お立ちよ。お父さんがあなたへ知らせておけとおっしゃるから、ちょっと御呼び申しました」嫂の言葉は少し改まっていた。「Hさんといっしょなんでしょうね」「ええ」「どこへ行ったんですか」「何でも伊豆いずの海岸を廻るとかいう御話しでした」「じゃ船ですか」「いいえやっぱり新橋から……」

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