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行人・夏目漱石

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朗読者: VOICEVOX Nemo / ノーマルこの朗読者の公開朗読はまだない / 朗読停止中

二十五

その日自分は下宿へ帰らずに、事務所からすぐ番町へ廻った。昨日きのうまで恐れて近寄らなかったのに、兄の出立と聞くや否や、すぐそちらへ足を向けるのだから、自分の行為はあまりに現金過ぎた。けれども自分はそれを隠す気もなかった。隠さなければすまない人は、うちに一人もいないように思われた。茶の間にはあによめが雑誌の口絵を見ていた。「今朝ほどは失礼」「おや吃驚びっくりしたわ、誰かと思ったら、二郎さん。今京橋から御帰り?」「ええ、暑くなりましたね」自分は手帛ハンケチを出して顔をいた。それから上着をいで畳の上へほうり出した。嫂は団扇うちわを取ってくれた。「御父さんは?」「御父さんは御留守よ。今日は築地つきじで何かあるんですって」「精養軒?」「じゃないでしょう。多分ほかの御茶屋だと思うんだけれども」「お母さんは?」「お母さんは今御風呂」「お重は?」「お重さんも……」嫂はとうとう笑いかけた。「風呂ですか」「いいえ、いないの」下女が来て氷の中へいちごを入れるかレモンを入れるかと尋ねた。「宅じゃもう氷を取るんですか」「ええ二三日にさんち前から冷蔵庫を使っているのよ」気のせいか嫂はこの前見た時よりも少しやつれていた。頬の肉が心持減ったらしかった。それが夕方の光線の具合で、顔を動かす時に、ちらりちらりと自分の眼をかすめた。彼女は左の頬を縁側えんがわに向けて坐っていたのである。「兄さんはそれでもよく思い切って旅に出かけましたね。僕はことによると今度こんだもまた延ばすかも知れないと思ってたんだが」「延ばしゃなさらないわよ」あによめはこういう時に下を向いた。そうしていつもよりも一層落ちついた沈んだ低い声を出した。「そりゃ兄さんは義理堅いから、Hさんと約束した以上、それを実行するつもりだったには違ないけれども……」「そんな意味じゃないのよ。そんな意味じゃなくって、そうして延ばさないのよ」自分はぽかんとして彼女の顔を見た。「じゃどんな意味で延ばさないんです」「どんな意味って、――解ってるじゃありませんか」自分には解らなかった。「僕には解らない」「兄さんはあたしに愛想を尽かしているのよ」「愛想づかしに旅行したというんですか」「いいえ、愛想を尽かしてしまったから、それで旅行に出かけたというのよ。つまり妾を妻と思っていらっしゃらないのよ」「だから……」「だから妾の事なんかどうでも構わないのよ。だから旅に出かけたのよ」嫂はこれで黙ってしまった。自分も何とも云わなかった。そこへ母が風呂からあがって来た。「おやいつ来たの」母は二人坐っているところを見ていやな顔をした。

二十六

「もう好い加減に芳江を起さないとまた晩に寝ないで困るよ」嫂は黙ってった。「起きたらすぐ湯に入れておやんなさいよ」「ええ」彼女の後姿うしろすがたは廊下をまがって消えた。「芳江は昼寝ひるねですか、どうれでしずかだと思った」先刻さっき何だかねて泣いてたら、それっきり寝ちまったんだよ。何ぼなんでも、もう五時だから、好い加減に起してやらなくっちゃ……」母は不平らしい顔をしていた。自分はその日珍しくうちの食卓に向って、晩餐ばんさんはしを取った。築地の料理屋か待合へ呼ばれたという父は、無論帰らなかったけれども、お重は予定通り戻って来た。「おい早く来て坐らないか。みんな御前の湯からあがるのを待ってたんだ」お重は縁側へぺたりとしりを着けて団扇うちわ浴衣ゆかたの胸へ風を入れていた。「そんなにき立てなくったってよかないの。たまに来たお客さまの癖に」お重はつんとしてわざと鼻の先の八つ手の方を向いていた。母はまた始まったという笑のうちに自分を見た。自分はまた調戯からかいたくなった。「御客さまだと思うなら、そんな大きなお尻を向けないで、早くここへ来てお坐りよ」蒼蠅うるさいわよ」「いったいこの暑いのに、一人でどこをほっつき歩いてたんだい」「どこでも余計な御世話よ。ほっつき歩くだなんて、第一だいち言葉使からしてあなたは下品よ。――好いわ、今日坂田さんの所へ行って、兄さんの秘密をすっかり聞いて来たから」お重は兄の事を大兄さん、自分の事をただ兄さんと呼んでいた。始めはち﹅い﹅兄さんと云ったのだが、そのち﹅い﹅を聞くたびに妙な不快を感ずるので、自分はとうとうち﹅い﹅だけを取らしてしまった。「好くってみんなに話しても」お重は湯で火照ほてった顔をぐるりと自分の方に向けた。自分はまたたきを二つ続けざまにした。「だって御前は今兄さんの秘密だと明言したじゃないか」「ええ秘密よ」「秘密なら話してよくないにきまってるじゃないか」「それを話すから面白いのよ」自分はお重の無鉄砲が、何を云い出すか分らないと思って腹の中では辟易へきえきした。「お重御前は論理学でいうコントラジクション・イン・タームス、という事を知らないだろう」「よくってよ。そんな高慢ちきな英語なんか使って、ひとが知らないと思って」「もう二人ともしにおしよ。何だね面白くもない、十五六の子供じゃあるまいし」母はとうとう二人をたしなめた。自分もそれを好いしおにすぐ舌戦を切り上げた。お重も団扇を縁側へ投げ出しておとなしく食卓に着いた。局面が一転したあとなので、秘密らしい秘密は、食事中ついにお重の口かられる機会がなかった。母もあによめもまるでそれには取り合う気色けしきも見せなかった。平吉という男が裏から出て来て、庭に水を打った。「まだそうかわいていないんだから、好い加減にしておおき」と母が云っていた。

二十七

その晩番町を出たのは灯火あかりいてまだ間もないよいの口であった。それでも飯を済ましてから約一時間半ほどは、そこへすわり込んだまま、みんなを相手に喋舌しゃべっていた。自分はその一時間半の間に、とうとうお重から例の秘密をあばかれる羽目におちいった。しかしそれが自分に取っては、秘密でも何でもない例の結婚問題だったので、自分はかえって安心した。「御母さん、兄さんは妾達あたしたちに隠れてこの間見合をなすったんですって」「隠れて見合なんかするものか」自分は母がまだ何とも云わないうちにお重の言葉をさえぎった。「いいえたしかな筋からちゃんと聞いて来たんだから、いくら白ばっくれてももう駄目よ」たしかな筋というような一種の言葉が、お重の口から出るのを聞いたとき、自分は思わず苦笑した。「馬鹿だなお前は」「馬鹿でもいいわよ」お重は六月二日の出来事を母やあによめに向ってべらべら喋舌しゃべり出した。それがなかなかくわしいので自分は少し驚いた。どこからその知識を得て来たのだろうという好奇心が強く自分の反問をうながした。けれどもお重はただ意地の悪い微笑をらすのみで、けっして出所しゅっしょを告げなかった。「兄さんが妾達に黙っているのは、きっと打ち明けて云いにくい訳があるからなのよ。ね、そうでしょう、兄さん」お重は自分の好奇心を満足させないのみか、かえって向うからこっちをなぶりにかかった。自分は「どうでも好いや」と云った。母から真面目まじめに事の顛末てんまつを聞かれた時、自分は簡単にありのままを答えた。「ただそれだけの事なんです。しかもむこうじゃ全く知らないんだからそのつもりでいて下さい。お重見たいに好い加減な事を云い触らすと、僕はどうでも構わんにしたところで、先方が迷惑するかも知れませんから」母は先方が迷惑がるはずがないという顔つきで、むやみに細かい質問を始めた。しかし財産がどのくらいあるんだろうとか、親類に貧乏人があるだろうかとか、あるいは悪い病気の系統を引いていやしなかろうかと云うような事になると、自分にはまるで答えられなかった。のみならずしまいには聞くのさえ面倒でいやになって来た。自分はとうとう逃げ出すようにして番町を出た。自分がその夜母からいろいろな質問を掛けられている間、あによめ始終しじゅう同じ席にいたが、この問題に関してはほとんど一言ひとことも口を開かなかった。母も彼女に向ってついぞ相談がましい言葉をかけなかった。二人のこの態度が、二人の気質をよく代表していた。しかしそれは単に気質の相違からばかり来た一種の対照とも思えなかった。あによめは全くの局外者らしい位地を守るためか何だか、始終しじゅう芳江のおもりに気を取られ勝に見えた。日が暮れさえすればすぐ寝かされる習慣の芳江は、昼寝をむさぼり過ぎた結果として、その晩はとうとう自分が帰るまで蚊帳かやの中へ這入はいらなかった。自分は下宿へ帰って、自分のへやの暑苦しいのを意外に感じた。わざと電気灯を消して暗い所に黙って坐っていた。今朝けさ立った兄は今日どこで泊るだろう。Hさんは今夜彼とどんな話をするだろう。鷹揚おうようなHさんの顔が自然と眼の前に浮かんだ。それと共にせた兄の頬にきざまれた久しぶりの笑が見えた。

二十八

その翌日あくるひからHさんの手紙が心待に待ち受けられた。自分は一日いちんち二日ふつか三日みっかと指を折って日取を勘定かんじょうし始めた。けれどもHさんからは何の音信たよりもなかった。絵端書えはがき一枚さえ来なかった。自分は失望した。Hさんに責任を忘れるような軽薄はなかった。しかしこちらの予期通り律義りちぎにそれを果してくれないほどの大悠たいゆうはあった。自分は自烈じれったい部に属する人間の一人として遠くから彼を眺めた。すると二人が立ってからちょうど十一日目の晩に、重い封書が始めて自分の手に落ちた。Hさんはけいこまかい西洋紙へ、万年筆まんねんふでで一面に何か書いて来た。ページかずから云っても、二時間や三時間でできる仕事ではなかった。自分は机の前にくくりつけられた人形にんぎょうのような姿勢で、それを読み始めた。自分の眼には、この小さな黒い字の一点一かくも読み落すまいという決心が、ほのおのごとく輝いた。自分の心は頁の上にくぎづけにされた。しかも雪を行くそりのように、その上をすべって行った。要するに自分はHさんの手紙の最初の頁の第一行から読み始めて、最後の頁の最終の文句に至るまでに、どのくらいの時間がったかまるで知らなかった。手紙はしものように書いてあった。「長野君を誘って旅へ出るとき、あなたから頼まれた事を、いったん引き受けるには引き受けたが、いざとなって見ると、とても実行はできまい、またできてもする必要があるまい、もしくは必要と不必要にかかわらず、するのはこのもしい事でなかろう、――こういう考えでいました。旅行を始めてから一日いちにち二日ふつかは、この三つの事情のすべてかあるいは幾分かが常に働くので、これではせっかくの約束も反古ほごにしなければならないという気が強くつのりました。それが三日みっか四日よっかとなった時、少し考えさせられました。五日いつか六日むいかと日を重ねるに従って、考えるばかりでなく、約束通りあなたに手紙を上げるのが、あるいは必要かも知れないと思うようになりました。もっともここにいう必要という意味が、あなたと私とで、だいぶ違うかも知れませんが、それはこの手紙をしまいまで御読みになれば解る事ですから、説明はしません。それから当初私の抱いた好もしくないという倫理上の感じ、これはいくら日数ひかずを経過しても取去る訳には行きませんが、片方にある必要のが、自然それを抑えつけるほど強くなって来た事もまたたしかであります。おそらく手紙を書いている暇があるまい。――この故障だけは始めあなたに申上げた通りどこまでもつけまとって離れませんでした。我々二人はいっしょのへやに寝ます、いっしょの室で飯を食います、散歩に出る時もいっしょです、湯も風呂場の構造が許す限りは、いっしょに這入はいります。こう数え立てて見ると、別々に行動するのは、まあかわやのぼる時ぐらいなものなのですから。無論我々二人は朝から晩までのべつに喋舌しゃべり続けている訳ではありません。御互が勝手な書物を手にしている時もあります、黙って寝転ねころんでいる事もあります。しかし現にその人のいる前で、その人の事を知らん顔で書いて、そうしてそれをそっとひとに知らせるのはちょっと私にとってはできにくいのです。書くべき必要を認め出した私も、これには弱りました。いくら書く機会を見つけよう見つけようと思っても、そんな機会の出て来るはずがないのですから。しかし偶然はついに私の手を導いて、私に私の必要と認める仕事をさせるようにしてくれました。私はそれほど兄さんに気兼きがねをせずに、この手紙を書き初めました。そうして同じ状態のもとに、それを書き終る事を希望します。

二十九

我々は二三日前からこのべにやつの奥に来て、疲れた身体からだを谷と谷の間に放り出しました。いる所は私の親戚のもっている小さい別荘です。所有主は八月にならないと東京を離れる事がむずかしいので、その前ならいつでも君方に用立ようだててよろしいと云った言葉を、はからず旅行中に利用する訳になったのであります。別荘というと大変人聞ひとぎきが好いようですが、その実ははなはだ見苦しい手狭てぜまなもので、構えからいうと、ちょうど東京の場末にある四五十円の安官吏の住居すまいです。しかし田舎いなかだけに邸内の地面には多少の余裕があります。庭だか菜園だか分らないものが、軒から爪下つまさがりに向うの垣根まで続いています。その垣には珊瑚樹さんごじゅの実が一面にっていて、葉越に隣の藁屋根わらやねが四半分ほど見えます。同じ軒の下から谷を隔てて向うの山も手に取るように見えます。この山全体がある伯爵の別荘地で、時には浴衣ゆかたの色がから見えたり、女の声ががけの上で響いたりします。その崖のいただきには高い松が空を突くようにそびえています。我々は低い軒の下から朝夕あさゆうこの松を見上るのを、高尚な課業のように心得て暮しています。今まで通って来たうちで、君の兄さんにはここが一番気に入ったようです。それにはいろいろな意味があるかも知れませんが、二人ぎりで独立した一軒の家の主人あるじになりすまされたという気分が、人慣れない兄さんの胸に一種の落ちつきを与えるのが、その大原因だろうと思います。今までどこへ泊ってもよく寝られなかった兄さんは、ここへ来た晩からよく寝ます。現に今私がこうやって万年筆まんねんふでを走らしている間も、ぐうぐう寝ています。もう一つここへ来てから偶然の恩恵に浴したと思うのは、普通の宿屋のように二人が始終しじゅうひざを突き合わして、一つの部屋にごろごろしていないですむ事です。家は今申した通り手狭てぜま至極しごくなものであります。門を出て右の坂上にある或る長者ちょうじゃこしらえた西洋館などに比べると全くの燐寸箱マッチばこに過ぎません。それでも垣をめぐらして四方から切り離した独立の一軒家です。窮屈ではあるが間数まかずは五つほどあります。兄さんと私は一つ座敷にった一つ蚊帳かやの中に寝ます。しかし宿屋と違って同じ時間に起きる必要はありません。片方が起きても、片方は寝たいだけ寝ていられます。私は兄さんをそっとしておいて、次の座敷にえてある一閑張いっかんばりの机に向う事ができます。昼もその通りです。二人差向いでいるのが苦痛になれば、どっちかが勝手に姿を隠して、自分に都合のいい事を、好な時間だけやります。それから適当な頃にまた出て来て顔を見せます。私はこういう偶然を利用してこの手紙を書くのであります。そうしてこの偶然を思いがけなく利用する事のできた自分を、あなたのために仕合せと考えます。同時に、それを利用する必要を認め出した自分を、自分のために遺憾いかんだと思います。私のいう事は順序からいうと日記体にまとまっておりません。分類からいうと科学的に区別が立たないかも知れません。しかしそれは汽車、くるま宿、すべて規則的な仕事をさまたげる旅行というものの障害と、平気で取りかかりにくいというその仕事の性質とが、破壊的に働いた結果と思っていただくより仕方がありません。断片的にせよしもに述べるだけの事をあなたに報道し得るのがすでに私には意外なのであります。全く偶然の御蔭おかげなのであります。

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