三十三
その時自分はこれぎりでその娘さんの話を止められてはと思った。幸いに時間がまだだいぶあったので、自分の方から何とも云わない先に彼はまた語り続けた。「宅のものがその娘さんの精神に異状があるという事を明かに認め出してからはまだよかったが、知らないうちは今云った通り僕もその娘さんの露骨なのにずいぶん弱らせられた。父や母は苦い顔をする。台所のものはないしょでくすくす笑う。僕は仕方がないから、その娘さんが僕を送って玄関まで来た時、烈しく怒りつけてやろうかと思って、二三度後を振り返って見たが、顔を合せるや否や、怒るどころか、邪慳な言葉などは可哀そうでとても口から出せなくなってしまった。その娘さんは蒼い色の美人だった。そうして黒い眉毛と黒い大きな眸をもっていた。その黒い眸は始終遠くの方の夢を眺ているように恍惚と潤って、そこに何だか便のなさそうな憐を漂よわせていた。僕が怒ろうと思ってふり向くと、その娘さんは玄関に膝を突いたなりあたかも自分の孤独を訴えるように、その黒い眸を僕に向けた。僕はそのたびに娘さんから、こうして活きていてもたった一人で淋しくってたまらないから、どうぞ助けて下さいと袖に縋られるように感じた。――その眼がだよ。その黒い大きな眸が僕にそう訴えるのだよ」「君に惚れたのかな」と自分は三沢に聞きたくなった。「それがさ。病人の事だから恋愛なんだか病気なんだか、誰にも解るはずがないさ」と三沢は答えた。「色情狂っていうのは、そんなもんじゃないのかな」と自分はまた三沢に聞いた。三沢は厭な顔をした。「色情狂と云うのは、誰にでもしなだれかかるんじゃないか。その娘さんはただ僕を玄関まで送って出て来て、早く帰って来てちょうだいねと云うだけなんだから違うよ」「そうか」自分のこの時の返事は全く光沢がなさ過ぎた。「僕は病気でも何でも構わないから、その娘さんに思われたいのだ。少くとも僕の方ではそう解釈していたいのだ」と三沢は自分を見つめて云った。彼の顔面の筋肉はむしろ緊張していた。「ところが事実はどうもそうでないらしい。その娘さんの片づいた先の旦那というのが放蕩家なのか交際家なのか知らないが、何でも新婚早々たびたび家を空けたり、夜遅く帰ったりして、その娘さんの心をさんざん苛めぬいたらしい。けれどもその娘さんは一口も夫に対して自分の苦みを言わずに我慢していたのだね。その時の事が頭に祟っているから、離婚になった後でも旦那に云いたかった事を病気のせいで僕に云ったのだそうだ。――けれども僕はそう信じたくない。強いてもそうでないと信じていたい」「それほど君はその娘さんが気に入ってたのか」と自分はまた三沢に聞いた。「気に入るようになったのさ。病気が悪くなればなるほど」「それから。――その娘さんは」「死んだ。病院へ入って」自分は黙然とした。「君から退院を勧められた晩、僕はその娘さんの三回忌を勘定して見て、単にそのためだけでも帰りたくなった」と三沢は退院の動機を説明して聞かせた。自分はまだ黙っていた。「ああ肝心の事を忘れた」とその時三沢が叫んだ。自分は思わず「何だ」と聞き返した。「あの女の顔がね、実はその娘さんに好く似ているんだよ」三沢の口元には解ったろうと云う一種の微笑が見えた。二人はそれからじきに梅田の停車場へ俥を急がした。場内は急行を待つ乗客ですでにいっぱいになっていた。二人は橋を向へ渡って上り列車を待ち合わせた。列車は十分と立たないうちに地を動かして来た。「また会おう」自分は「あの女」のために、また「その娘さん」のために三沢の手を固く握った。彼の姿は列車の音と共にたちまち暗中に消えた。

