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草枕・夏目漱石

12

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十二

基督キリストは最高度に芸術家の態度を具足したるものなりとは、オスカー・ワイルドの説と記憶している。基督は知らず。観海寺の和尚おしょうのごときは、まさしくこの資格を有していると思う。趣味があると云う意味ではない。時勢に通じていると云う訳でもない。彼は画えと云う名のほとんど下くだすべからざる達磨だるまの幅ふくを掛けて、ようできたなどと得意である。彼は画工えかきに博士があるものと心得ている。彼は鳩の眼を夜でも利きくものと思っている。それにも関かかわらず、芸術家の資格があると云う。彼の心は底のない嚢ふくろのように行き抜けである。何にも停滞ていたいしておらん。随処ずいしょに動き去り、任意にんいに作なし去って、些さの塵滓じんしの腹部に沈澱ちんでんする景色けしきがない。もし彼の脳裏のうりに一点の趣味を貼ちょうし得たならば、彼は之ゆく所に同化して、行屎走尿こうしそうにょうの際にも、完全たる芸術家として存在し得るだろう。余のごときは、探偵に屁への数を勘定かんじょうされる間は、とうてい画家にはなれない。画架がかに向う事は出来る。小手板こていたを握る事は出来る。しかし画工にはなれない。こうやって、名も知らぬ山里へ来て、暮れんとする春色しゅんしょくのなかに五尺の痩躯そうくを埋うずめつくして、始めて、真の芸術家たるべき態度に吾身を置き得るのである。一たびこの境界きょうがいに入れば美の天下はわが有に帰する。尺素せきそを染めず、寸縑すんけんを塗らざるも、われは第一流の大画工である。技ぎにおいて、ミケルアンゼロに及ばず、巧たくみなる事ラフハエルに譲る事ありとも、芸術家たるの人格において、古今の大家と歩武ほぶを斉ひとしゅうして、毫ごうも遜ゆずるところを見出し得ない。余はこの温泉場へ来てから、まだ一枚の画えもかかない。絵の具箱は酔興すいきょうに、担かついできたかの感さえある。人はあれでも画家かと嗤わらうかもしれぬ。いくら嗤われても、今の余は真の画家である。立派な画家である。こう云う境きょうを得たものが、名画をかくとは限らん。しかし名画をかき得る人は必ずこの境を知らねばならん。朝飯あさめしをすまして、一本の敷島しきしまをゆたかに吹かしたるときの余の観想は以上のごとくである。日は霞かすみを離れて高く上のぼっている。障子しょうじをあけて、後うしろの山を眺ながめたら、蒼あおい樹きが非常にすき通って、例になく鮮あざやかに見えた。余は常に空気と、物象と、彩色の関係を宇宙よのなかでもっとも興味ある研究の一と考えている。色を主にして空気を出すか、物を主にして、空気をかくか。または空気を主にしてそのうちに色と物とを織り出すか。画は少しの気合きあい一つでいろいろな調子が出る。この調子は画家自身の嗜好しこうで異なってくる。それは無論であるが、時と場所とで、自おのずから制限されるのもまた当前とうぜんである。英国人のかいた山水さんすいに明るいものは一つもない。明るい画が嫌きらいなのかも知れぬが、よし好きであっても、あの空気では、どうする事も出来ない。同じ英人でもグーダルなどは色の調子がまるで違う。違うはずである。彼は英人でありながら、かつて英国の景色けいしょくをかいた事がない。彼の画題は彼の郷土にはない。彼の本国に比すると、空気の透明の度の非常に勝まさっている、埃及エジプトまたは波斯辺ペルシャへんの光景のみを択えらんでいる。したがって彼のかいた画を、始めて見ると誰も驚ろく。英人にもこんな明かな色を出すものがあるかと疑うくらい判然はっきり出来上っている。個人の嗜好しこうはどうする事も出来ん。しかし日本の山水を描くのが主意であるならば、吾々われわれもまた日本固有の空気と色を出さなければならん。いくら仏蘭西フランスの絵がうまいと云って、その色をそのままに写して、これが日本の景色けいしょくだとは云われない。やはり面まのあたり自然に接して、朝な夕なに雲容煙態うんようえんたいを研究したあげく、あの色こそと思ったとき、すぐ三脚几さんきゃくきを担いで飛び出さなければならん。色は刹那せつなに移る。一たび機を失しっすれば、同じ色は容易に眼には落ちぬ。余が今見上げた山の端はには、滅多めったにこの辺で見る事の出来ないほどな好いい色が充みちている。せっかく来て、あれを逃にがすのは惜しいものだ。ちょっと写してきよう。襖ふすまをあけて、椽側えんがわへ出ると、向う二階の障子しょうじに身を倚もたして、那美さんが立っている。顋あごを襟えりのなかへ埋うずめて、横顔だけしか見えぬ。余が挨拶あいさつをしようと思う途端とたんに、女は、左の手を落としたまま、右の手を風のごとく動かした。閃ひらめくは稲妻いなずまか、二折ふたおれ三折みおれ胸のあたりを、するりと走るや否いなや、かちりと音がして、閃めきはすぐ消えた。女の左り手には九寸すん五分ぶの白鞘しらさやがある。姿はたちまち障子の影に隠れた。余は朝っぱらから歌舞伎座かぶきざを覗のぞいた気で宿を出る。門を出て、左へ切れると、すぐ岨道そばみちつづきの、爪上つまあがりになる。鶯うぐいすが所々ところどころで鳴く。左り手がなだらかな谷へ落ちて、蜜柑みかんが一面に植えてある。右には高からぬ岡が二つほど並んで、ここにもあるは蜜柑のみと思われる。何年前か一度この地に来た。指を折るのも面倒だ。何でも寒い師走しわすの頃であった。その時蜜柑山に蜜柑がべた生なりに生る景色を始めて見た。蜜柑取りに一枝売ってくれと云ったら、幾顆いくつでも上げますよ、持っていらっしゃいと答えて、樹きの上で妙な節ふしの唄うたをうたい出した。東京では蜜柑の皮でさえ薬種屋やくしゅやへ買いに行かねばならぬのにと思った。夜になると、しきりに銃つつの音がする。何だと聞いたら、猟師りょうしが鴨かもをとるんだと教えてくれた。その時は那美さんの、なの字も知らずに済んだ。あの女を役者にしたら、立派な女形おんながたが出来る。普通の役者は、舞台へ出ると、よそ行きの芸をする。あの女は家のなかで、常住じょうじゅう芝居をしている。しかも芝居をしているとは気がつかん。自然天然しぜんてんねんに芝居をしている。あんなのを美的生活びてきせいかつとでも云うのだろう。あの女の御蔭おかげで画えの修業がだいぶ出来た。あの女の所作しょさを芝居と見なければ、薄気味がわるくて一日もいたたまれん。義理とか人情とか云う、尋常の道具立どうぐだてを背景にして、普通の小説家のような観察点からあの女を研究したら、刺激が強過ぎて、すぐいやになる。現実世界に在あって、余とあの女の間に纏綿てんめんした一種の関係が成り立ったとするならば、余の苦痛は恐らく言語ごんごに絶するだろう。余のこのたびの旅行は俗情を離れて、あくまで画工になり切るのが主意であるから、眼に入るものはことごとく画として見なければならん。能、芝居、もしくは詩中の人物としてのみ観察しなければならん。この覚悟の眼鏡めがねから、あの女を覗のぞいて見ると、あの女は、今まで見た女のうちでもっともうつくしい所作をする。自分でうつくしい芸をして見せると云う気がないだけに役者の所作よりもなおうつくしい。こんな考かんがえをもつ余を、誤解してはならん。社会の公民として不適当だなどと評してはもっとも不届ふとどきである。善は行い難い、徳は施ほどこしにくい、節操は守り安からぬ、義のために命を捨てるのは惜しい。これらをあえてするのは何人なんびとに取っても苦痛である。その苦痛を冒おかすためには、苦痛に打ち勝つだけの愉快がどこかに潜ひそんでおらねばならん。画と云うも、詩と云うも、あるは芝居と云うも、この悲酸ひさんのうちに籠こもる快感の別号に過ぎん。この趣おもむきを解し得て、始めて吾人ごじんの所作は壮烈にもなる、閑雅にもなる、すべての困苦に打ち勝って、胸中の一点の無上趣味を満足せしめたくなる。肉体の苦しみを度外に置いて、物質上の不便を物とも思わず、勇猛精進しょうじんの心を駆かって、人道のために、鼎鑊ていかくに烹にらるるを面白く思う。もし人情なる狭せまき立脚地に立って、芸術の定義を下し得るとすれば、芸術は、われら教育ある士人の胸裏きょうりに潜ひそんで、邪じゃを避さけ正せいに就つき、曲きょくを斥しりぞけ直ちょくにくみし、弱じゃくを扶たすけ強きょうを挫くじかねば、どうしても堪たえられぬと云う一念の結晶して、燦さんとして白日はくじつを射返すものである。芝居気があると人の行為を笑う事がある。うつくしき趣味を貫つらぬかんがために、不必要なる犠牲をあえてするの人情に遠きを嗤わらうのである。自然にうつくしき性格を発揮するの機会を待たずして、無理矢理に自己の趣味観を衒てらうの愚ぐを笑うのである。真に個中こちゅうの消息を解し得たるものの嗤うはその意を得ている。趣味の何物たるをも心得ぬ下司下郎げすげろうの、わが卑いやしき心根に比較して他たを賤いやしむに至っては許しがたい。昔し巌頭がんとうの吟ぎんを遺のこして、五十丈の飛瀑ひばくを直下して急湍きゅうたんに赴おもむいた青年がある。余の視みるところにては、彼の青年は美の一字のために、捨つべからざる命を捨てたるものと思う。死そのものは洵まことに壮烈である、ただその死を促うながすの動機に至っては解しがたい。されども死そのものの壮烈をだに体し得ざるものが、いかにして藤村子ふじむらしの所作しょさを嗤い得べき。彼らは壮烈の最後を遂とぐるの情趣を味あじわい得ざるが故ゆえに、たとい正当の事情のもとにも、とうてい壮烈の最後を遂げ得べからざる制限ある点において、藤村子よりは人格として劣等であるから、嗤う権利がないものと余は主張する。余は画工である。画工であればこそ趣味専門の男として、たとい人情世界に堕在だざいするも、東西両隣りの没風流漢ぼつふうりゅうかんよりも高尚である。社会の一員として優に他を教育すべき地位に立っている。詩なきもの、画えなきもの、芸術のたしなみなきものよりは、美くしき所作が出来る。人情世界にあって、美くしき所作は正である、義である、直である。正と義と直を行為の上において示すものは天下の公民の模範である。しばらく人情界を離れたる余は、少なくともこの旅中りょちゅうに人情界に帰る必要はない。あってはせっかくの旅が無駄になる。人情世界から、じゃりじゃりする砂をふるって、底にあまる、うつくしい金きんのみを眺めて暮さなければならぬ。余自みずからも社会の一員をもって任じてはおらぬ。純粋なる専門画家として、己おのれさえ、纏綿てんめんたる利害の累索るいさくを絶って、優ゆうに画布裏がふりに往来している。いわんや山をや水をや他人をや。那美さんの行為動作といえどもただそのままの姿と見るよりほかに致し方がない。三丁ほど上のぼると、向うに白壁の一構ひとかまえが見える。蜜柑みかんのなかの住居すまいだなと思う。道は間もなく二筋に切れる。白壁を横に見て左りへ折れる時、振り返ったら、下から赤い腰巻こしまきをした娘が上あがってくる。腰巻がしだいに尽きて、下から茶色の脛はぎが出る。脛が出切できったら、藁草履わらぞうりになって、その藁草履がだんだん動いて来る。頭の上に山桜が落ちかかる。背中には光る海を負しょっている。岨道そばみちを登り切ると、山の出鼻でばなの平たいらな所へ出た。北側は翠みどりを畳たたむ春の峰で、今朝椽えんから仰いだあたりかも知れない。南側には焼野とも云うべき地勢が幅半丁ほど広がって、末は崩くずれた崖がけとなる。崖の下は今過ぎた蜜柑山で、村を跨またいで向むこうを見れば、眼に入るものは言わずも知れた青海あおうみである。路みちは幾筋もあるが、合うては別れ、別れては合うから、どれが本筋とも認められぬ。どれも路である代りに、どれも路でない。草のなかに、黒赤い地が、見えたり隠れたりして、どの筋につながるか見分みわけのつかぬところに変化があって面白い。どこへ腰を据すえたものかと、草のなかを遠近おちこちと徘徊はいかいする。椽えんから見たときは画えになると思った景色も、いざとなると存外纏まとまらない。色もしだいに変ってくる。草原をのそつくうちに、いつしか描かく気がなくなった。描かぬとすれば、地位は構わん、どこへでも坐すわった所がわが住居すまいである。染しみ込んだ春の日が、深く草の根に籠こもって、どっかと尻を卸おろすと、眼に入らぬ陽炎かげろうを踏ふみ潰つぶしたような心持ちがする。海は足の下に光る。遮ぎる雲の一片ひとひらさえ持たぬ春の日影は、普あまねく水の上を照らして、いつの間にかほとぼりは波の底まで浸しみ渡ったと思わるるほど暖かに見える。色は一刷毛ひとはけの紺青こんじょうを平らに流したる所々に、しろかねの細鱗さいりんを畳んで濃こまやかに動いている。春の日は限り無き天あめが下したを照らして、天が下は限りなき水を湛たたえたる間には、白き帆が小指の爪つめほどに見えるのみである。しかもその帆は全く動かない。往昔入貢そのかみにゅうこうの高麗船こまぶねが遠くから渡ってくるときには、あんなに見えたであろう。そのほかは大千だいせん世界を極きわめて、照らす日の世、照らさるる海の世のみである。ごろりと寝ねる。帽子が額ひたいをすべって、やけに阿弥陀あみだとなる。所々の草を一二尺抽ぬいて、木瓜ぼけの小株が茂っている。余が顔はちょうどその一つの前に落ちた。木瓜ぼけは面白い花である。枝は頑固がんこで、かつて曲まがった事がない。そんなら真直まっすぐかと云うと、けっして真直でもない。ただ真直な短かい枝に、真直な短かい枝が、ある角度で衝突して、斜しゃに構えつつ全体が出来上っている。そこへ、紅べにだか白だか要領を得ぬ花が安閑あんかんと咲く。柔やわらかい葉さえちらちら着ける。評して見ると木瓜は花のうちで、愚おろかにして悟さとったものであろう。世間には拙せつを守ると云う人がある。この人が来世らいせに生れ変るときっと木瓜になる。余も木瓜になりたい。小供のうち花の咲いた、葉のついた木瓜ぼけを切って、面白く枝振えだぶりを作って、筆架ひつかをこしらえた事がある。それへ二銭五厘の水筆すいひつを立てかけて、白い穂が花と葉の間から、隠見いんけんするのを机へ載のせて楽んだ。その日は木瓜ぼけの筆架ひつかばかり気にして寝た。あくる日、眼が覚さめるや否いなや、飛び起きて、机の前へ行って見ると、花は萎なえ葉は枯れて、白い穂だけが元のごとく光っている。あんなに奇麗なものが、どうして、こう一晩のうちに、枯れるだろうと、その時は不審ふしんの念に堪たえなかった。今思うとその時分の方がよほど出世間的しゅっせけんてきである。寝ねるや否や眼についた木瓜は二十年来の旧知己である。見詰めているとしだいに気が遠くなって、いい心持ちになる。また詩興が浮ぶ。寝ながら考える。一句を得るごとに写生帖に記しるして行く。しばらくして出来上ったようだ。始めから読み直して見る。出門多所思。春風吹吾衣。芳草生車轍。廃道入霞微。停笻而矚目。万象帯晴暉。聴黄鳥宛転。観落英紛霏。行尽平蕪遠。題詩古寺扉。孤愁高雲際。大空断鴻帰。寸心何窈窕。縹緲忘是非。三十我欲老。韶光猶依々。逍遥随物化。悠然対芬菲。

ああ出来た、出来た。これで出来た。寝ながら木瓜を観みて、世の中を忘れている感じがよく出た。木瓜が出なくっても、海が出なくっても、感じさえ出ればそれで結構である。と唸うなりながら、喜んでいると、エヘンと云う人間の咳払せきばらいが聞えた。こいつは驚いた。寝返ねがえりをして、声の響いた方を見ると、山の出鼻を回って、雑木ぞうきの間から、一人の男があらわれた。茶の中折なかおれを被かぶっている。中折れの形は崩くずれて、傾かたむく縁へりの下から眼が見える。眼の恰好かっこうはわからんが、たしかにきょろきょろときょろつくようだ。藍あいの縞物しまものの尻を端折はしょって、素足すあしに下駄がけの出いで立たちは、何だか鑑定がつかない。野生やせいの髯ひげだけで判断するとまさに野武士のぶしの価値はある。男は岨道そばみちを下りるかと思いのほか、曲り角からまた引き返した。もと来た路へ姿をかくすかと思うと、そうでもない。またあるき直してくる。この草原を、散歩する人のほかに、こんなに行きつ戻りつするものはないはずだ。しかしあれが散歩の姿であろうか。またあんな男がこの近辺きんぺんに住んでいるとも考えられない。男は時々立ち留どまる。首を傾ける。または四方を見廻わす。大に考え込むようにもある。人を待ち合せる風にも取られる。何だかわからない。余はこの物騒ぶっそうな男から、ついに吾眼をはなす事ができなかった。別に恐しいでもない、また画えにしようと云う気も出ない。ただ眼をはなす事ができなかった。右から左、左りから右と、男に添うて、眼を働かせているうちに、男ははたと留った。留ると共に、またひとりの人物が、余が視界に点出てんしゅつされた。二人は双方そうほうで互に認識したように、しだいに双方から近づいて来る。余が視界はだんだん縮ちぢまって、原の真中で一点の狭せまき間に畳たたまれてしまう。二人は春の山を背せに、春の海を前に、ぴたりと向き合った。男は無論例の野武士のぶしである。相手は?相手は女である。那美なみさんである。余は那美さんの姿を見た時、すぐ今朝の短刀を連想した。もしや懐ふところに呑のんでおりはせぬかと思ったら、さすが非人情ひにんじょうの余もただ、ひやりとした。男女は向き合うたまま、しばらくは、同じ態度で立っている。動く景色けしきは見えぬ。口は動かしているかも知れんが、言葉はまるで聞えぬ。男はやがて首を垂たれた。女は山の方を向く。顔は余の眼に入らぬ。山では鶯うぐいすが啼なく。女は鶯に耳を借して、いるとも見える。しばらくすると、男は屹きっと、垂れた首を挙げて、半なかば踵くびすを回めぐらしかける。尋常の様さまではない。女は颯さっと体を開いて、海の方へ向き直る。帯の間から頭を出しているのは懐剣かいけんらしい。男は昂然こうぜんとして、行きかかる。女は二歩ふたあしばかり、男の踵を縫ぬうて進む。女は草履ぞうりばきである。男の留とまったのは、呼び留められたのか。振り向く瞬間に女の右手めては帯の間へ落ちた。あぶない!するりと抜け出たのは、九寸五分かと思いのほか、財布さいふのような包み物である。差し出した白い手の下から、長い紐ひもがふらふらと春風しゅんぷうに揺れる。片足を前に、腰から上を少しそらして、差し出した、白い手頸てくびに、紫の包。これだけの姿勢で充分画えにはなろう。紫でちょっと切れた図面が、二三寸の間隔をとって、振り返る男の体たいのこなし具合で、うまい按排あんばいにつながれている。不即不離ふそくふりとはこの刹那せつなの有様を形容すべき言葉と思う。女は前を引く態度で、男は後しりえに引かれた様子だ。しかもそれが実際に引いてもひかれてもおらん。両者の縁えんは紫の財布の尽くる所で、ふつりと切れている。二人の姿勢がかくのごとく美妙びみょうな調和を保たもっていると同時に、両者の顔と、衣服にはあくまで、対照が認められるから、画として見ると一層の興味が深い。背せのずんぐりした、色黒の、髯ひげづらと、くっきり締しまった細面ほそおもてに、襟えりの長い、撫肩なでがたの、華奢きゃしゃ姿。ぶっきらぼうに身をひねった下駄がけの野武士と、不断着ふだんぎの銘仙めいせんさえしなやかに着こなした上、腰から上を、おとなしく反そり身に控えたる痩形やさすがた。はげた茶の帽子に、藍縞あいじまの尻切しりきり出立でだちと、陽炎かげろうさえ燃やすべき櫛目くしめの通った鬢びんの色に、黒繻子くろじゅすのひかる奥から、ちらりと見せた帯上おびあげの、なまめかしさ。すべてが好画題こうがだいである。男は手を出して財布を受け取る。引きつ引かれつ巧たくみに平均を保ちつつあった二人の位置はたちまち崩くずれる。女はもう引かぬ、男は引かりょうともせぬ。心的状態が絵を構成する上に、かほどの影響を与えようとは、画家ながら、今まで気がつかなかった。二人は左右へ分かれる。双方に気合きあいがないから、もう画としては、支離滅裂しりめつれつである。雑木林ぞうきばやしの入口で男は一度振り返った。女は後あとをも見ぬ。すらすらと、こちらへ歩行あるいてくる。やがて余の真正面ましょうめんまで来て、「先生、先生」と二声ふたこえ掛けた。これはしたり、いつ目付めっかったろう。「何です」と余は木瓜ぼけの上へ顔を出す。帽子は草原へ落ちた。「何をそんな所でしていらっしゃる」「詩を作って寝ねていました」「うそをおっしゃい。今のを御覧でしょう」「今の?今の、あれですか。ええ。少々拝見しました」「ホホホホ少々でなくても、たくさん御覧なさればいいのに」「実のところはたくさん拝見しました」「それ御覧なさい。まあちょっと、こっちへ出ていらっしゃい。木瓜の中から出ていらっしゃい」余は唯々いいとして木瓜の中から出て行く。「まだ木瓜の中に御用があるんですか」「もう無いんです。帰ろうかとも思うんです」「それじゃごいっしょに参りましょうか」「ええ」余は再び唯々として、木瓜の中に退しりぞいて、帽子を被かぶり、絵の道具を纏まとめて、那美さんといっしょにあるき出す。「画を御描きになったの」「やめました」「ここへいらしって、まだ一枚も御描きなさらないじゃありませんか」「ええ」「でもせっかく画をかきにいらしって、ちっとも御かきなさらなくっちゃ、つまりませんわね」「なにつまってるんです」「おやそう。なぜ?」「なぜでも、ちゃんとつまるんです。画なんぞ描かいたって、描かなくったって、つまるところは同おんなじ事でさあ」「そりゃ洒落しゃれなの、ホホホホ随分呑気のんきですねえ」「こんな所へくるからには、呑気にでもしなくっちゃ、来た甲斐かいがないじゃありませんか」「なあにどこにいても、呑気にしなくっちゃ、生きている甲斐はありませんよ。私なんぞは、今のようなところを人に見られても恥はずかしくも何とも思いません」「思わんでもいいでしょう」「そうですかね。あなたは今の男をいったい何だと御思いです」「そうさな。どうもあまり、金持ちじゃありませんね」「ホホホ善よくあたりました。あなたは占うらないの名人ですよ。あの男は、貧乏して、日本にいられないからって、私に御金を貰いに来たのです」「へえ、どこから来たのです」「城下じょうかから来ました」「随分遠方から来たもんですね。それで、どこへ行くんですか」「何でも満洲へ行くそうです」「何しに行くんですか」「何しに行くんですか。御金を拾いに行くんだか、死にに行くんだか、分りません」この時余は眼をあげて、ちょと女の顔を見た。今結んだ口元には、微かすかなる笑の影が消えかかりつつある。意味は解げせぬ。「あれは、わたくしの亭主です」迅雷じんらいを掩おおうに遑いとまあらず、女は突然として一太刀ひとたち浴びせかけた。余は全く不意撃ふいうちを喰くった。無論そんな事を聞く気はなし、女も、よもや、ここまで曝さらけ出そうとは考えていなかった。「どうです、驚ろいたでしょう」と女が云う。「ええ、少々驚ろいた」「今の亭主じゃありません、離縁りえんされた亭主です」「なるほど、それで……」「それぎりです」「そうですか。――あの蜜柑山みかんやまに立派な白壁の家がありますね。ありゃ、いい地位にあるが、誰の家うちなんですか」「あれが兄の家です。帰り路にちょっと寄って、行きましょう」「用でもあるんですか」「ええちっと頼まれものがあります」「いっしょに行きましょう」岨道そばみちの登り口へ出て、村へ下りずに、すぐ、右に折れて、また一丁ほどを登ると、門がある。門から玄関へかからずに、すぐ庭口へ廻る。女が無遠慮につかつか行くから、余も無遠慮につかつか行く。南向きの庭に、棕梠しゅろが三四本あって、土塀どべいの下はすぐ蜜柑畠である。女はすぐ、椽鼻えんばなへ腰をかけて、云う。「いい景色だ。御覧なさい」「なるほど、いいですな」障子のうちは、静かに人の気合けあいもせぬ。女は音おとのう景色もない。ただ腰をかけて、蜜柑畠を見下みおろして平気でいる。余は不思議に思った。元来何の用があるのかしら。しまいには話もないから、両方共無言のままで蜜柑畠を見下している。午ごに逼せまる太陽は、まともに暖かい光線を、山一面にあびせて、眼に余る蜜柑の葉は、葉裏まで、蒸むし返かえされて耀かがやいている。やがて、裏の納屋なやの方で、鶏が大きな声を出して、こけこっこううと鳴く。「おやもう。御午おひるですね。用事を忘れていた。――久一きゅういちさん、久一さん」女は及および腰ごしになって、立て切った障子しょうじを、からりと開あける。内は空むなしき十畳敷に、狩野派かのうはの双幅そうふくが空しく春の床とこを飾っている。「久一さん」納屋なやの方でようやく返事がする。足音が襖ふすまの向むこうでとまって、からりと、開あくが早いか、白鞘しらさやの短刀たんとうが畳の上へ転ころがり出す。「そら御伯父おじさんの餞別せんべつだよ」帯の間に、いつ手が這入はいったか、余は少しも知らなかった。短刀は二三度とんぼ返りを打って、静かな畳の上を、久一さんの足下あしもとへ走る。作りがゆる過ぎたと見えて、ぴかりと、寒いものが一寸すんばかり光った。

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