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侏儒の言葉・芥川龍之介

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恋愛と死と

恋愛の死を想わせるのは進化論的根拠を持っているのかも知れない。蜘蛛くもや蜂は交尾を終ると、たちまち雄は雌の為に刺し殺されてしまうのである。わたしは伊太利イタリアの旅役者の歌劇「カルメン」を演ずるのを見た時、どうもカルメンの一挙一動に蜂を感じてならなかった。

身代り

我我は彼女を愛する為に往々彼女の外の女人を彼女の身代りにするものである。こう言う羽目に陥るのはかならずしも彼女の我我をしりぞけた場合に限るわけではない。我我は時には怯懦きょうだの為に、時には又美的要求の為にこの残酷な慰安の相手に一人の女人を使い兼ねぬのである。

結婚

結婚は性慾を調節することには有効である。が、恋愛を調節することには有効ではない。

彼は二十代に結婚した後、一度も恋愛関係に陥らなかった。何と言う俗悪さ加減!

多忙

我我を恋愛から救うものは理性よりもむしろ多忙である。恋愛も亦完全に行われる為には何よりも時間を持たなければならぬ。ウエルテル、ロミオ、トリスタン――古来の恋人を考えて見ても、彼等は皆閑人ひまじんばかりである。

男子

男子は由来恋愛よりも仕事を尊重するものである。若しこの事実を疑うならば、バルザックの手紙を読んで見るが好い。バルザックはハンスカ伯爵夫人に「この手紙も原稿料に換算すれば、何フランを越えている」と書いている。

行儀

昔わたしの家に出入りした男まさりの女髪結は娘を一人持っていた。わたしは未だに蒼白あおじろい顔をした十二三の娘を覚えている。女髪結はこの娘に行儀を教えるのにやかましかった。殊にまくらをはずすことにはその都度折檻せっかんを加えていたらしい。が、近頃ふと聞いた話によれば、娘はもう震災前に芸者になったとか言うことである。わたしはこの話を聞いた時、ちょっともの哀れに感じたものの、微笑しない訣には行かなかった。彼女は定めし芸者になっても、厳格な母親のしつけ通り、枕だけははずすまいと思っているであろう。……

自由

誰も自由を求めぬものはない。が、それは外見だけである。実は誰もはらの底では少しも自由を求めていない。その証拠には人命を奪うことに少しも躊躇ちゅうちょしない無頼漢さえ、金甌無欠きんおうむけつの国家の為に某某を殺したと言っているではないか?しかし自由とは我我の行為に何の拘束もないことであり、即ち神だの道徳だの或は又社会的習慣だのと連帯責任を負うことを潔しとしないものである。

自由は山巓さんてんの空気に似ている。どちらも弱い者には堪えることは出来ない。

まことに自由を眺めることは直ちに神々の顔を見ることである。

自由主義、自由恋愛、自由貿易、――どの「自由」生憎あいにく杯の中に多量の水を混じている。しかも大抵はたまり水を。

言行一致

言行一致の美名を得る為にはまず自己弁護に長じなければならぬ。

方便

一人を欺かぬ聖賢はあっても、天下を欺かぬ聖賢はない。仏家の所謂いわゆる善巧方便とは畢竟ひっきょう精神上のマキアヴェリズムである。

芸術至上主義者

古来熱烈なる芸術至上主義者は大抵芸術上の去勢者である。丁度熱烈なる国家主義者は大抵亡国の民であるように――我我は誰でも我我自身の持っているものを欲しがるものではない。

唯物史観

し如何なる小説家もマルクスの唯物史観に立脚した人生を写さなければならぬならば、同様に又如何なる詩人もコペルニクスの地動説に立脚した日月山川を歌わなければならぬ。が、「太陽は西に沈み」と言う代りに「地球は何度何分廻転かいてんし」と言うのは必しも常に優美ではあるまい。

支那

蛍の幼虫は蝸牛かたつむりを食う時に全然蝸牛を殺してはしまわぬ。いつも新らしい肉を食う為に蝸牛を麻痺まひさせてしまうだけである。我日本帝国を始め、列強の支那に対する態度は畢竟この蝸牛に対する蛍の態度と選ぶ所はない。

今日の支那の最大の悲劇は無数の国家的羅曼ローマン主義者即ち「若き支那」の為に鉄の如き訓練を与えるに足る一人のムッソリニもいないことである。

小説

本当らしい小説とは単に事件の発展に偶然性の少ないばかりではない。恐らくは人生に於けるよりも偶然性の少ない小説である。

文章

文章の中にある言葉は辞書の中にある時よりも美しさを加えていなければならぬ。

彼等は皆樗牛ちょぎゅうのように「文は人なり」と称している。が、いずれも内心では「人は文なり」と思っているらしい。

女の顔

女は情熱に駆られると、不思議にも少女らしい顔をするものである。もっともその情熱なるものはパラソルに対する情熱でも差支えない。

世間智

消火は放火ほど容易ではない。こう言う世間智の代表的所有者は確かに「ベル・アミ」の主人公であろう。彼は恋人をつくる時にもちゃんともう絶縁することを考えている。

単に世間に処するだけならば、情熱の不足などは患わずとも好い。それよりもむしろ危険なのは明らかに冷淡さの不足である。

恒産

恒産のないものに恒心のなかったのは二千年ばかり昔のことである。今日では恒産のあるものは寧ろ恒心のないものらしい。

彼等

わたしは実は彼等夫婦の恋愛もなしに相抱いて暮らしていることに驚嘆していた。が、彼等はどう云うわけか、恋人同志の相抱いて死んでしまったことに驚嘆している。

作家所生の言葉

「振っている」「高等遊民」「露悪家」「月並み」等の言葉の文壇に行われるようになったのは夏目先生から始まっている。こう言う作家所生しょせいの言葉は夏目先生以後にもない訣ではない。久米正雄君所生の「微苦笑」「強気弱気」などはその最たるものであろう。なお又「等、等、等」と書いたりするのも宇野浩二君所生のものである。我我は常に意識して帽子を脱いでいるものではない。のみならず時には意識的には敵とし、怪物とし、犬となすものにもいつか帽子を脱いでいるものである。或作家をののしる文章の中にもその作家の作った言葉の出るのは必ずしも偶然ではないかも知れない。

幼児

我我は一体何の為に幼い子供を愛するのか?その理由の一半は少くとも幼い子供にだけは欺かれる心配のない為である。

我我の恬然てんぜんと我我の愚を公にすることを恥じないのは幼い子供に対する時か、――或は、犬猫に対する時だけである。

池大雅

大雅たいがは余程呑気のんきな人で、世情に疎かった事は、其室玉瀾ぎょくらんを迎えた時に夫婦の交りを知らなかったと云うのでほぼ其人物が察せられる。」「大雅が妻を迎えて夫婦の道を知らなかったと云う様な話も、人間離れがしていて面白いと云えば、面白いと云えるが、丸で常識のない愚かな事だと云えば、そうも云えるだろう。」こう言う伝説を信ずる人はここに引いた文章の示すように今日もまだ芸術家や美術史家の間に残っている。大雅は玉瀾をめとった時に交合のことを行わなかったかも知れない。しかしその故に交合のことを知らずにいたと信ずるならば、――勿論もちろんその人はその人自身はげしい性欲を持っている余り、いやしくもちゃんと知っている以上、行わずにすませられるはずはないと確信している為であろう。

荻生徂徠

荻生徂徠おぎゅうそらいまめんで古人を罵るのを快としている。わたしは彼の煎り豆を噛んだのは倹約の為と信じていたものの、彼の古人を罵ったのは何の為か一向わからなかった。しかし今日考えて見れば、それは今人を罵るよりも確かに当り障りのなかった為である。

若楓

若楓わかかえでは幹に手をやっただけでも、もうこずえむらがった芽を神経のように震わせている。植物と言うものの気味の悪さ!

最も美しい石竹色せきちくいろは確かにひきがえるの舌の色である。

わたしは或雪霽ゆきばれの薄暮、隣の屋根に止まっていた、まっ青なからすを見たことがある。

作家

文を作るのに欠くべからざるものは何よりも創作的情熱である。その又創作的情熱を燃え立たせるのに欠くべからざるものは何よりも或程度の健康である。瑞典スエーデン式体操、菜食主義、複方ジアスタアゼ等を軽んずるのは文を作らんとするものの志ではない。

文を作らんとするものは如何なる都会人であるにしても、その魂の奥底には野蛮人を一人持っていなければならぬ。

文を作らんとするものの彼自身を恥ずるのは罪悪である。彼自身を恥ずる心の上には如何なる独創の芽も生えたことはない。

百足むかで ちっとは足でも歩いて見ろ。蝶 ふん、ちっとは羽根でも飛んで見ろ。

気韻は作家の後頭部である。作家自身には見えるものではない。し又無理に見ようとすれば、くびの骨を折るのにおわるだけであろう。

批評家 君は勤め人の生活しか書けないね?作家 誰か何でも書けた人がいたかね?

あらゆる古来の天才は、我我凡人の手のとどかない壁上のくぎに帽子をかけている。もっとも踏み台はなかったわけではない。

しかしああ言う踏み台だけはどこの古道具屋にも転がっている。

あらゆる作家は一面には指物師さしものしの面目をそなえている。が、それは恥辱ではない。あらゆる指物師も一面には作家の面目を具えている。

のみならず又あらゆる作家は一面には店を開いている。何、わたしは作品は売らない?それは君、買い手のない時にはね。或は売らずとも好い時にはね。

俳優や歌手の幸福は彼等の作品ののこらぬことである。――と思うこともない訣ではない。

侏儒の言葉(遺稿)

弁護

他人を弁護するよりも自己を弁護するのは困難である。疑うものは弁護士を見よ。

女人

健全なる理性は命令している。――なんじ女人を近づくるなかれ。」しかし健全なる本能は全然反対に命令している。――「爾、女人を避くる勿れ。」

女人は我我男子には正に人生そのものである。即ち諸悪の根源である。

理性

わたしはヴォルテェルを軽蔑けいべつしている。若し理性に終始するとすれば、我我は我我の存在に満腔まんこう呪咀じゅそを加えなければならぬ。しかし世界の賞讃しょうさんに酔った Candide の作者の幸福さは!

自然

我我の自然を愛する所以ゆえんは、――少くともその所以の一つは自然は我我人間のようにねたんだり欺いたりしないからである。

処世術

最も賢い処世術は社会的因襲を軽蔑しながら、しかも社会的因襲と矛盾せぬ生活をすることである。

女人崇拝

「永遠に女性なるもの」を崇拝したゲエテは確かに仕合せものの一人だった。が、Yahoo のめすを軽蔑したスウィフトは狂死せずにはいなかったのである。これは女性ののろいであろうか?或は又理性の呪いであろうか?

理性

理性のわたしに教えたものは畢竟ひっきょう理性の無力だった。

運命

運命は偶然よりも必然である。「運命は性格の中にある」と云う言葉は決して等閑に生まれたものではない。

教授

若し医家の用語を借りれば、いやしくも文芸を講ずるには臨床的でなければならぬはずである。しかも彼等はいまかつて人生の脈搏みゃくはくに触れたことはない。殊に彼等の或るものは英仏の文芸には通じても彼等を生んだ祖国の文芸には通じていないと称している。

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