四十一
そこへ先刻の看護婦が急須へ茶を淹れて持って来た。「今仕度をしておりますから、少しの間どうぞ」二人は仕方なしに行儀よく差向いに坐ったなり茶を飲んだ。「何だか気がそわそわして落ちつかないのね」「まるでお客さまに行ったようだろう」「ええ」お延は帯の間から女持の時計を出して見た。津田は時間の事よりもこれから受ける手術の方が気になった。「いったい何分ぐらいで済むのかなあ。眼で見ないでもあの刃物の音だけ聞いていると、好い加減変な心持になるからな」「あたし怖いわ、そんなものを見るのは」お延は実際怖そうに眉を動かした。「だからお前はここに待っといでよ。わざわざ手術台の傍まで来て、穢ないところを見る必要はないんだから」「でもこんな場合には誰か身寄のものが立ち合わなくっちゃ悪いんでしょう」津田は真面目なお延の顔を見て笑い出した。「そりゃ死ぬか生きるかっていうような重い病気の時の事だね。誰がこれしきの療治に立合人なんか呼んで来る奴があるものかね」津田は女に穢ないものを見せるのが嫌な男であった。ことに自分の穢ないところを見せるは厭であった。もっと押しつめていうと、自分で自分の穢ないところを見るのでさえ、普通の人以上に苦痛を感ずる男であった。「じゃ止しましょう」と云ったお延はまた時計を出した。「お午までに済むでしょうか」「済むだろうと思うがね。どうせこうなりゃいつだって同なじこっちゃないか」「そりゃそうだけど……」お延は後を云わなかった。津田も訊かなかった。看護婦がまた階子段の上へ顔を出した。「支度ができましたからどうぞ」津田はすぐ立ち上った。お延も同時に立ち上ろうとした。「お前はそこに待っといでと云うのに」「診察室へ行くんじゃないのよ。ちょっとここの電話を借りるのよ」「どこかへ用があるのかね」「用じゃないけど、――ちょっとお秀さんの所へあなたの事を知らせておこうと思って」同じ区内にある津田の妹の家はそこからあまり遠くはなかった。今度の病気について妹の事をあまり頭の中に入れていなかった津田は、立とうとするお延を留めた。「いいよ、知らせないでも。お秀なんかに知らせるのはあんまり仰山過ぎるよ。それにあいつが来るとやかましくっていけないからね」年は下でも、性質の違うこの妹は、津田から見たある意味の苦手であった。お延は中腰のまま答えた。「でも後でまた何か云われると、あたしが困るわ」強いてとめる理由も見出し得なかった津田は仕方なしに云った。「かけても構わないが、何も今に限った事はないだろう。あいつは近所だから、きっとすぐ来るよ。手術をしたばかりで、神経が過敏になってるところへもって来て、兄さんが何とかで、お父さんがかんとかだと云われるのは実際楽じゃないからね」お延は微かな声で階下を憚かるような笑い方をした。しかし彼女の露わした白い歯は、気の毒だという同情よりも、滑稽だという単純な感じを明らかに夫に物語っていた。「じゃお秀さんへかけるのは止すから」こう云ったお延は、とうとう津田といっしょに立ち上った。「まだほかにかける所があるのかい」「ええ岡本へかけるのよ。午までにかけるって約束があるんだから、いいでしょう、かけても」前後して階子段を下りた二人は、そこで別々になった。一人が電話口の前に立った時、一人は診察室の椅子へ腰をおろした。
四十二
「リチネはお飲みでしたろうね」医者は糊の強い洗い立ての白い手術着をごわごわさせながら津田に訊いた。「飲みましたが思ったほど効目がないようでした」昨日の津田にはリチネの効目を気にするだけの暇さえなかった。それからそれへと忙がしく心を使わせられた彼がこの下剤から受けた影響は、ほとんど精神的に零であったのみならず、生理的にも案外微弱であった。「じゃもう一度浣腸しましょう」浣腸の結果も充分でなかった。津田はそれなり手術台に上って仰向に寝た。冷たい防水布がじかに皮膚に触れた時、彼は思わず冷りとした。堅い括り枕に着けた彼の頭とは反対の方角からばかり光線が差し込むので、彼の眼は明りに向って寝る人のように、少しも落ちつけなかった。彼は何度も瞬きをして、何度も天井を見直した。すると看護婦が手術の器械を入れたニッケル製の四角な浅い盆みたようなものを持って彼の横を通ったので、白い金属性の光がちらちらと動いた。仰向けに寝ている彼には、それが自分の眼を掠めて通り過ぎるとしか思われなかった。見てならない気味の悪いものを、ことさらに偸み見たのだという心持がなおのこと募った。その時表の方で鳴る電話のベルが突然彼の耳に響いた。彼は今まで忘れていたお延の事を急に思い出した。彼女の岡本へかけた用事がやっと済んだ時に、彼の療治はようやく始まったのである。「コカインだけでやります。なに大して痛い事はないでしょう。もし注射が駄目だったら、奥の方へ薬を吹き込みながら進んで行くつもりです。それで多分できそうですから」局部を消毒しながらこんな事を云う医者の言葉を、津田は恐ろしいようなまた何でもないような一種の心持で聴いた。局部魔睡は都合よく行った。まじまじと天井を眺めている彼は、ほとんど自分の腰から下に、どんな大事件が起っているか知らなかった。ただ時々自分の肉体の一部に、遠い所で誰かが圧迫を加えているような気がするだけであった。鈍い抵抗がそこに感ぜられた。「どんなです。痛かないでしょう」医者の質問には充分の自信があった。津田は天井を見ながら答えた。「痛かありません。しかし重い感じだけはあります」その重い感じというのを、どう云い現わしていいか、彼には適当な言葉がなかった。無神経な地面が人間の手で掘り割られる時、ひょっとしたらこんな感じを起しはしまいかという空想が、ひょっくり彼の頭の中に浮かんだ。「どうも妙な感じです。説明のできないような」「そうですか。我慢できますか」途中で脳貧血でも起されては困ると思ったらしい医者の言葉つきが、何でもない彼をかえって不安にした。こういう場合予防のために葡萄酒などを飲まされるものかどうか彼は全く知らなかったが、何しろ特別の手当を受ける事は厭であった。「大丈夫です」「そうですか。もう直です」こういう会話を患者と取り換わせながら、間断なく手を働らかせている医者の態度には、熟練からのみ来る手際が閃めいていそうに思われた。けれども手術は彼の言葉通りそう早くは片づかなかった。切物の皿に当って鳴る音が時々した。鋏で肉をじょきじょき切るような響きが、強く誇張されて鼓膜を威嚇した。津田はそのたびにガーゼで拭き取られなければならない赤い血潮の色を、想像の眼で腥さそうに眺めた。じっと寝かされている彼の神経はじっとしているのが苦になるほど緊張して来た。むず痒い虫のようなものが、彼の身体を不安にするために、気味悪く血管の中を這い廻った。彼は大きな眼を開いて天井を見た。その天井の上には綺麗に着飾ったお延がいた。そのお延が今何を考えているか、何をしているか、彼にはまるで分らなかった。彼は下から大きな声を出して、彼女を呼んで見たくなった。すると足の方で医者の声がした。「やっと済みました」むやみにガーゼを詰め込まれる、こそばゆい感じのした後で、医者はまた云った。「瘢痕が案外堅いんで、出血の恐れがありますから、当分じっとしていて下さい」最後の注意と共に、津田はようやく手術台から下ろされた。
四十三
診察室を出るとき、後から随いて来た看護婦が彼に訊いた。「いかがです。気分のお悪いような事はございませんか」「いいえ。――蒼い顔でもしているかね」自分自身に多少懸念のあった津田はこう云って訊き返さなければならなかった。創口にできるだけ多くのガーゼを詰め込まれた彼の感じは、他が想像する倍以上に重苦しいものであった。彼は仕方なしにのそのそ歩いた。それでも階子段を上る時には、割かれた肉とガーゼとが擦れ合ってざらざらするような心持がした。お延は階段の上に立っていた。津田の顔を見ると、すぐ上から声を掛けた。「済んだの?どうして?」津田ははっきりした返事も与えずに室の中に這入った。そこには彼の予期通り、白いシーツに裹まれた蒲団が、彼の安臥を待つべく長々と延べてあった。羽織を脱ぎ捨てるが早いか、彼はすぐその上へ横になった。鼠地のネルを重ねた銘仙の褞袍を後から着せるつもりで、両手で襟の所を持ち上げたお延は、拍子抜けのした苦笑と共に、またそれを袖畳みにして床の裾の方に置いた。「お薬はいただかなくっていいの」彼女は傍にいる看護婦の方を向いて訊いた。「別に内用のお薬は召し上らないでも差支えないのでございます。お食事の方はただいま拵えてこちらから持って参ります」看護婦は立ちかけた。黙って寝ていた津田は急に口を開いた。「お延、お前何か食うなら看護婦さんに頼んだらいいだろう」「そうね」お延は躊躇した。「あたしどうしようかしら」「だって、もう昼過だろう」「ええ。十二時二十分よ。あなたの手術はちょうど二十八分かかったのね」時計の葢を開けたお延は、それを眺めながら精密な時間を云った。津田が手術台の上で俎へ乗せられた魚のように、おとなしく我慢している間、お延はまた彼の見つめなければならなかった天井の上で、時計と睨めっ競でもするように、手術の時間を計っていたのである。津田は再び訊いた。「今から宅へ帰ったって仕方がないだろう」「ええ」「じゃここで洋食でも取って貰って食ったらいいじゃないか」「ええ」お延の返事はいつまで経っても捗々しくなかった。看護婦はとうとう下へ降りて行った。津田は疲れた人が光線の刺戟を避けるような気分で眼をねむった。するとお延が頭の上で、「あなた、あなた」というので、また眼を開かなければならなかった。「心持が悪いの?」「いいや」念を押したお延はすぐ後を云った。「岡本でよろしくって。いずれそのうち御見舞に上りますからって」「そうか」津田は軽い返事をしたなり、また眼をつぶろうとした。するとお延がそうさせなかった。「あの岡本でね、今日是非芝居へいっしょに来いって云うんですが、行っちゃいけなくって」気のよく廻る津田の頭に、今朝からのお延の所作が一度に閃めいた。病院へ随いて来るにしては派出過ぎる彼女の衣裳といい、出る前に日曜だと断った彼女の注意といい、ここへ来てから、そわそわして岡本へ電話をかけた彼女の態度といい、ことごとく芝居の二字に向って注ぎ込まれているようにも取れた。そういう眼で見ると、手術の時間を精密に計った彼女の動機さえ疑惑の種にならないではすまなかった。津田は黙って横を向いた。床の間の上に取り揃えて積み重ねてある、封筒だの書翰用紙だの鋏だの書物だのが彼の眼についた。それは先刻鞄へ入れて彼がここへ持って来たものであった。「看護婦に小さい机を借りて、その上へ載せようと思ったんですけれども、まだ持って来てくれないから、しばらくの間、ああしておいたのよ。本でも御覧になって」お延はすぐ立って床の間から書物をおろした。
四十四
津田は書物に手を触れなかった。「岡本へは断ったんじゃないのか」不審よりも不平な顔をした彼が、向を変えて寝返りを打った時に、堅固にできていない二階の床が、彼の意を迎えるように、ずしんと鳴った。「断ったのよ」「断ったのに是非来いっていうのかね」この時津田は始めてお延の顔を見た。けれどもそこには彼の予期した何物も現われて来なかった。彼女はかえって微笑した。
「断ったのに是非来いっていうのよ」「しかし……」彼はちょっと行きつまった。彼の胸には云うべき事がまだ残っているのに、彼の頭は自分の思わく通り迅速に働らいてくれなかった。「しかし――断ったのに是非来いなんていうはずがないじゃないか」「それを云うのよ。岡本もよっぽどの没分暁漢ね」津田は黙ってしまった。何といって彼女を追究していいか見当がつかなかった。「あなたまだ何かあたしを疑ぐっていらっしゃるの。あたし厭だわ、あなたからそんなに疑ぐられちゃ」彼女の眉がさもさも厭そうに動いた。「疑ぐりゃしないが、何だか変だからさ」「そう。じゃその変なところを云ってちょうだいな、いくらでも説明するから」不幸にして津田にはその変なところが明暸に云えなかった。「やっぱり疑ぐっていらっしゃるのね」津田ははっきり疑っていないと云わなければ、何だか夫として自分の品格に関わるような気がした。と云って、女から甘く見られるのも、彼にとって少なからざる苦痛であった。二つの我が我を張り合って、彼の心のうちで闘う間、よそ目に見える彼は、比較的冷静であった。「ああ」お延は微かな溜息を洩らしてそっと立ち上った。いったん閉て切った障子をまた開けて、南向の縁側へ出た彼女は、手摺の上へ手を置いて、高く澄んだ秋の空をぼんやり眺めた。隣の洗濯屋の物干に隙間なく吊されたワイ襯衣だのシーツだのが、先刻見た時と同じように、強い日光を浴びながら、乾いた風に揺れていた。「好いお天気だ事」お延が小さな声で独りごとのようにこう云った時、それを耳にした津田は、突然籠の中にいる小鳥の訴えを聞かされたような心持がした。弱い女を自分の傍に縛りつけておくのが少し可哀相になった。彼はお延に言葉をかけようとして、接穂のないのに困った。お延も欄干に身を倚せたまますぐ座敷の中へ戻って来なかった。そこへ看護婦が二人の食事を持って下から上って来た。「どうもお待遠さま」津田の膳には二個の鶏卵と一合のソップと麺麭がついているだけであった。その麺麭も半片の二分ノ一と分量はいつのまにか定められていた。津田は床の上に腹這になったまま、むしゃむしゃ口を動かしながら、機会を見計らって、お延に云った。「行くのか、行かないのかい」お延はすぐ肉匙の手を休めた。「あなた次第よ。あなたが行けとおっしゃれば行くし、止せとおっしゃれば止すわ」「大変柔順だな」「いつでも柔順だわ。――岡本だってあなたに伺って見た上で、もしいいとおっしゃったら連れて行ってやるから、御病気が大した事でなかったら、訊いて見ろって云うんですもの」「だってお前の方から岡本へ電話をかけたんじゃないか」「ええそりゃそうよ、約束ですもの。一返断ったけれども、模様次第では行けるかも知れないだろうから、もう一返その日の午までに電話で都合を知らせろって云って来たんですもの」「岡本からそういう返事が来たのかい」「ええ」しかしお延はその手紙を津田に示していなかった。「要するに、お前はどうなんだ。行きたいのか、行きたくないのか」津田の顔色を見定めたお延はすぐ答えた。「そりゃ行きたいわ」「とうとう白状したな。じゃおいでよ」二人はこういう会話と共に午飯を済ました。

