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明暗・夏目漱石

11

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四十五

手術後の夫を、やっと安静状態に寝かしておいて、自分一人下へ降りた時、お延はもう約束の時間をだいぶおくらせていた。彼女は自分の行先を車夫に教えるために、ただ一口ひとくち劇場の名を云ったなり、すぐくるまに乗った。門前に待たせておいたその俥は、角の帳場にある四五台のうちで一番新らしいものであった。小路こうじを出た護謨輪ゴムわは電車通りばかり走った。何の意味なしに、ただにぎやかな方角へ向けてのみ速力を出すといった風の、景気の好い車夫の駈方かけかたが、お延に感染した。ふっくらした厚い席の上で、彼女の身体からだうわつきながら早くうごくと共に、彼女の心にも柔らかで軽快な一種の動揺が起った。それは自分の左右前後にふんとして活躍する人生を、容赦なく横切って目的地へ行く時の快感であった。車上の彼女はうちの事を考える暇がなかった。機嫌きげんよく病院の二階へ寝かして来た津田の影像イメジが、今日一日ぐらい安心して彼を忘れても差支さしつかえないという保証を彼女に与えるので、夫の事もまるで苦にならなかった。ただ目前の未来が彼女の俥とともに動いた。芝居その物に大した嗜好しこうを始めからもっていない彼女は、時間がおくれたのを気にするよりも、ただ早くそこに行き着くのを気にした。こうして新らしい俥で走っている道中が現に刺戟しげきであると同様の意味で、そこへ行き着くのはさらに一層の刺戟であった。俥は茶屋の前でとまった。挨拶あいさつをする下女にすぐ「岡本」と答えたお延の頭には、提灯ちょうちんだの暖簾のれんだの、紅白の造り花などがちらちらした。彼女は俥を降りる時一度に眼に入ったこれらの色と形の影を、まだ片づける暇もないうちに、すぐ廊下伝いに案内されて、それよりも何層倍か錯綜さくそうした、また何層倍か濃厚な模様を、縦横に織り拡げている、海のような場内へ、ひょっこり顔を出した。それは茶屋の男が廊下の戸を開けて「こちらへ」と云った時、その隙間すきまから遠くに前の方を眺めたお延の感じであった。好んでこういう場所へ出入しゅつにゅうしたがる彼女にとって、別に珍らしくもないこの感じは、彼女にとって、永久に新らしい感じであった。だからまた永久に珍らしい感じであるとも云えた。彼女は暗闇くらやみを通り抜けて、急に明海あかるみへ出た人のように眼をました。そうしてこの氛囲気ふんいき片隅かたすみに身を置いた自分は、眼の前に動く生きた大きな模様の一部分となって、挙止動作きょしどうさ共ことごとくこれからその中に織り込まれて行くのだという自覚が、緊張した彼女の胸にはっきり浮んだ。席には岡本の姿が見えなかった。細君に娘二人を入れても三人にしかならないので、お延の坐るべき余地は充分あった。それでも姉娘の継子つぎこは、お延の座があいにく自分の影になるのを気遣きづかうように、うしろを向いて筋違すじかい身体からだを延ばしながらお延にいた。「見えて?少しこことかわってあげましょうか」「ありがとう。ここでたくさん」お延は首を振って見せた。お延のすぐ前に坐っていた十四になる妹娘の百合子ゆりこ左利ひだりききなので、左の手に軽い小さな象牙製ぞうげせいの双眼鏡を持ったまま、そのひじを、赤いきれつつんだ手摺てすりの上にせながら、うしろをふり返った。「遅かったのね。あたしうちの方へいらっしゃるのかと思ってたのよ」年の若い彼女は、まだ津田の病気について挨拶あいさつかたがたお延に何か云うほどの智慧ちえをもたなかった。「御用があったの?」「ええ」お延はただ簡単な返事をしたぎり舞台の方を見た。それは先刻さっきから姉妹きょうだいの母親が傍目わきめもふらず熱心に見つめている方角であった。彼女とお延は最初顔を見合せた時に、ちょっと黙礼を取り替わせただけで、拍子木ひょうしぎの鳴るまでついに一言ひとことも口をかなかった。

四十六

「よく来られたのね。ことによると今日はむずかしいんじゃないかって、先刻さっきつぎと話してたの」幕が引かれてから、始めてうちくつろいだ様子を示した細君は、ようやくお延に口を利き出した。「そら御覧なさい、あたしの云った通りじゃなくって」誇り顔に母の方を見てこう云った継子はすぐお延に向ってそのあとを云い足した。「あたしお母さまとかけをしたのよ。今日あなたが来るか来ないかって。お母さまはことによると来ないだろうっておっしゃるから、あたしきっといらっしゃるに違ないって受け合ったの」「そう。また御神籤おみくじを引いて」継子は長さ二寸五分幅六分ぐらいの小さな神籤箱の所有者であった。黒塗の上へ篆書てんしょの金文字で神籤と書いたその箱の中には、象牙ぞうげを平たくけずった精巧の番号札が数通かずどおり百本納められていた。彼女はよく「ちょっと見て上げましょうか」と云いながら、小楊枝入こようじいれを取り扱うような手つきで、短冊形たんざくがたの薄い象牙札を振り出しては、箱の大きさと釣り合うようにできた文句入もんくいり折手本おりでほんりひろげて見た。そうしてそこに書いてあるはえの頭ほどな細かい字を読むために、これも附属品として始めから添えてある小さな虫眼鏡を、羽二重はぶたえの裏をつけた更紗さらさの袋から取り出して、もったいらしくその上へかざしたりした。お延が津田と浅草へ遊びに行った時、玩具おもちゃとしては高過ぎる四円近くの代価を払って、仲見世から買って帰った精巧なこの贈物は、来年二十一になる継子にとって、処女の空想に神秘の色を遊戯的ゆうぎてきに着けてくれる無邪気な装飾品であった。彼女は時としてちつ入のままそれを机の上から取って帯の間にはさんで外出する事さえあった。「今日も持って来たの?」お延は調戯半分からかいはんぶん彼女にいて見たくなった。彼女は苦笑しながら首を振った。母がそばから彼女に代って返事をするごとくに云った。「今日の予言はお神籤みくじじゃないのよ。お神籤よりもっとえらい予言なの」「そう」お延は後が聞きたそうにして、母子おやこを見比べた。つぎはね……」と母が云いかけたのを、娘はすぐ追被おっかぶせるようにとめた。してちょうだいよ、お母さま。そんな事ここで云っちゃ悪いわよ」今まで黙って三人の会話をいていた妹娘の百合子ゆりこが、くすくす笑い出した。「あたし云ってあげてもいいわ」「お止しなさいよ、百合子さん。そんな意地の悪い事するのは。いいわ、そんなら、もうピヤノをさらって上げないから」母は隣りにいる人の注意をかないように、小さな声を出して笑った。お延もおかしかった。同時になお訳がきたかった。「話してちょうだいよ、お姉さまに怒られたって構わないじゃないの。あたしがついてるから大丈夫よ」百合子はわざとあごを前へ突き出すようにして姉を見た。心持小鼻をふくらませたその態度は、話す話さないの自由を我に握った人の勝利を、ものものしく相手に示していた。「いいわ、百合子さん。どうでも勝手になさい」こう云いながら立つと、継子はうしろの戸を開けてすぐ廊下へ出た。「お姉さま怒ったのね」「怒ったんじゃないよ。きまりが悪いんだよ」「だってきまりの悪い事なんかなかないの。あんな事云ったって」「だから話してちょうだいよ」年歯としの六つほど下な百合子の小供らしい心理状態を観察したお延は、それをうまく利用しようと試みた。けれども不意に座を立った姉の挙動が、もうすでにその状態をくずしていたので、お延の慫慂しょうようは何の効目ききめもなかった。母はとうとうすべてに対する責任を一人で背負しょわなければならなかった。「なに何でもないんだよ。継がね、由雄さんはああいう優しい好い人で、何でも延子さんのいう通りになるんだから、今日はきっと来るに違ないって云っただけなんだよ」「そう。由雄が継子さんにはそんなに頼母たのもしく見えるの。ありがたいわね。お礼を云わなくっちゃならないわ」「そうしたら百合子が、そんならお姉様も由雄さん見たような人の所へお嫁に行くといいって云ったんでね、それをお前の前で云われるのが恥ずかしいもんだから、ああやって出て行ったんだよ」「まあ」お延は弱い感投詞かんとうしをむしろさみしそうに投げた。

四十七

手前勝手な男としての津田が不意にお延の胸に上った。自分の朝夕あさゆう尽している親切は、ずいぶん精一杯なつもりでいるのに、夫の要求する犠牲には際限がないのかしらんという、不断からの疑念が、濃い色でぱっと頭の中へ出た。彼女はその疑念を晴らしてくれる唯一ゆいいつの責任者が今自分の前にいるのだという自覚と共に、岡本の細君を見た。その細君は、遠くに離れている両親をもった彼女から云えば、東京中で頼りにするたった一人の叔母であった。良人おっとというものは、ただ妻の情愛を吸い込むためにのみ生存する海綿かいめんに過ぎないのだろうか」これがお延のとうから叔母おばにぶつかって、ただして見たい問であった。不幸にして彼女には持って生れた一種の気位きぐらいがあった。見方次第では痩我慢やせがまんとも虚栄心とも解釈のできるこの気位が、叔母に対する彼女を、この一点で強く牽制けんせいした。ある意味からいうと、毎日土俵の上で顔を合せて相撲すもうを取っているような夫婦関係というものを、内側の二人から眺めた時に、妻はいつでも夫の相手であり、またたまには夫の敵であるにしたところで、いったん世間に向ったが最後、どこまでも夫の肩を持たなければ、ていよく夫婦として結びつけられた二人の弱味を表へさらすような気がして、恥ずかしくていられないというのがお延の意地であった。だから打ち明け話をして、何か訴えたくてたまらない時でも、夫婦から見れば、やっぱり「世間」という他人の部類へ入れべきこの叔母の前へ出ると、敏感のお延は外聞が悪くって何も云う気にならなかった。その上彼女は、自分の予期通り、夫が親切に親切を返してくれないのを、足りない自分の不行届ふゆきとどきからでも出たように、はたから解釈されてはならないと日頃から掛念けねんしていた。すべてのうわさのうちで、愚鈍という非難を、彼女は火のように恐れていた。「世間には津田よりも何層倍かむずかしい男を、すぐ手の内に丸め込む若い女さえあるのに、二十三にもなって、自分の思うように良人おっとあやなして行けないのは、畢竟ひっきょう知恵ちえがないからだ」知恵と徳とをほとんど同じように考えていたお延には、叔母からこう云われるのが、何よりの苦痛であった。女として男に対する腕をもっていないと自白するのは、人間でありながら人間の用をなさないと自白するくらいの屈辱として、お延の自尊心をきずつけたのである。時と場合が、こういう立ち入った談話を許さない劇場でないにしたところで、お延は黙っているよりほかに仕方がなかった。意味ありげに叔母の顔を見た彼女は、すぐ眼をそらせた。舞台一面に垂れている幕がふわふわ動いて、継目つぎめの少し切れた間から誰かが見物の方をのぞいた。気のせいかそれがお延の方を見ているようなので、彼女は今向け換えたばかりの眼をまたよそに移した。下は席を出る人、座へ戻る人、途中を歩く人で、一度にざわつき始めていた。すわったぎりの大多数も、前後左右に思い思いの姿勢を取ったりくずしたりして、片時も休まなかった。無数の黒い頭がうずのように見えた。彼らの或者の派出はで扮装つくりが、色彩の運動から来る落ちつかない快感を、乱雑にちらちらさせた。土間どまから眼を放したお延は、ついに谷をへだてた向う側を吟味ぎんみし始めた。するとちょうどその時うしろをふり向いた百合子が不意に云った。「あすこに吉川さんの奥さんが来ていてよ。見えたでしょう」お延は少し驚ろかされた眼を、教わった通りの見当けんとうへつけて、そこに容易たやすく吉川夫人らしい人の姿を発見した。「百合子さん、眼が早いのね、いつ見つけたの」「見つけやしないのよ。先刻さっきから知ってるのよ」「叔母さんや継子さんも知ってるの」「ええみんな知ってるのよ」知らないのは自分だけだったのにようやく気のついたお延が、なおその方を百合子の影から見守っていると、故意だか偶然だか、いきなり吉川夫人の手にあった双眼鏡が、お延の席に向けられた。「あたしいやだわ。あんなにして見られちゃ」お延は隠れるように身をちぢめた。それでも向側むこうがわの双眼鏡は、なかなかお延の見当から離れなかった。「そんならいいわ。逃げ出しちまうだけだから」お延はすぐ継子のあとおっかけて廊下へ出た。

四十八

そこから見渡した外部そとの光景も場所柄ばしょがらだけににぎわっていた。裏へぬきを打ってはずしのできるようにこしらえたすかしの板敷を、絶間なく知らない人が往ったり来たりした。廊下のはじに立って、なかば柱に身をたせたお延が、継子の姿を見出みいだすまでには多少の時間がかかった。それを向う側に並んでいる売店の前に認めた時、彼女はすぐ下へ降りた。そうして軽く足早に板敷を踏んで、目指めざす人のいる方へ渡った。「何を買ってるの」うしろからのぞき込むようにしていたお延の顔と、驚ろいてふり返った継子の顔とが、ほとんどれ擦れになって、微笑ほほえみ合った。「今困ってるところなのよ。はじめさんが何かお土産みやげを買ってくれって云うから、見ているんだけれども、あいにくなんにもないのよ、あの人の喜びそうなものは」疳違かんちがいをして、男の子の玩具おもちゃを買おうとした継子は、それからそれへといろいろなものを並べられて、買うには買われず、すには止されず、弱っているところであった。役者に縁故のあるもんなどを着けた花簪はなかんざしだの、紙入だの、手拭てぬぐいだのの前に立って、もじもじしていた彼女は、どうしたらよかろうという訴えの眼をお延に向けた。お延はすぐ口をいてやった。「駄目よ、あの子は、拳銃ピストルとか木剣ぼっけんとか、人殺しのできそうなものでなくっちゃ気に入らないんだから。そんな物こんないきな所にあろうはずがないわ」売店の男は笑い出した。お延はそれをしおに年下の女の手を取った。「とにかく叔母さんに訊いてからになさいよ。――どうもお気の毒さま、じゃいずれまたのちほど」こう云ったなりさっさと歩き出した彼女は、気の毒そうにしている継子を、廊下のはじまで引張るようにして連れて来た。そこでとまった二人は、また一本の軒柱のきばしらたてに立話をした。「叔父さんはどうなすったの。今日はなぜいらっしゃらないの」「来るのよ、今に」お延は意外に思った。四人でさえ窮屈なところへ、あの大きな男が割り込んで来るのはたしかに一事件ひとじけんであった。「あの上叔父さんに来られちゃ、あたし見たいに薄っぺらなものは、されてへしゃげちまうわ」「百合子さんと入れ代るのよ」「どうして」「どうしてでもその方が都合が好いんでしょう。百合子さんはいてもいなくっても構わないんだから」「そう。じゃもし、由雄が病気でなくって、あたしといっしょに来たらどうするの」「その時はその時で、またどうかするつもりなんでしょう。もう一間いっけん取るとか、それでなければ、吉川さんの方といっしょになるとか」「吉川さんとも前から約束があったの?」「ええ」継子はその後を云わなかった。岡本と吉川の家庭がそれほど接近しているとも考えていなかったお延は、そこに何か意味があるのではないかと、ちょっと不審を打って見たが、時間に余裕のある人の間に起りがちな、単に娯楽のための約束として、それを眺める余地も充分あるので、彼女はついに何にもかなかった。二人の話はただ吉川夫人の双眼鏡に触れただけであった。お延はわざと手真似てまねまでして見せた。「こうやってともに向けるんだから、かなわないわね」「ずいぶん無遠慮でしょう。だけど、あれ西洋風なんだって、うちのお父さまがそうおっしゃってよ」「あら西洋じゃ構わないの。じゃあたしの方でも奥さんの顔をああやってつけつけ見ても好い訳ね。あたし見て上げようかしら」「見て御覧なさい、きっとうれしがってよ。延子さんはハイカラだって」二人が声を出して笑い合っているそばに、どこからか来た一人の若い男がちょっと立ちどまった。無地の羽織に友縫ともぬいもんを付けて、セルの行灯袴あんどんばかま穿いたその青年紳士は、彼らと顔を見合せるや否や、「失礼」挨拶あいさつでもして通り過ぎるように、鄭重ていちょうな態度を無言のうちに示して、板敷へ下りて向うへ行った。継子はあかくなった。「もう這入はいりましょうよ」彼女はすぐお延をうながして内へ入った。

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