四十九
場中の様子は先刻見た時と何の変りもなかった。土間を歩く男女の姿が、まるで人の頭の上を渡っているように煩らわしく眺められた。できるだけ多くの注意を惹こうとする浮誇の活動さえ至る所に出現した。そうして次の色彩に席を譲るべくすぐ消滅した。眼中の小世界はただ動揺であった、乱雑であった、そうしていつでも粉飾であった。比較的静かな舞台の裏側では、道具方の使う金槌の音が、一般の予期を唆るべく、折々場内へ響き渡った。合間合間には幕の後で拍子木を打つ音が、攪き廻された注意を一点に纏めようとする警柝の如に聞こえた。不思議なのは観客であった。何もする事のないこの長い幕間を、少しの不平も云わず、かつて退屈の色も見せず、さも太平らしく、空疎な腹に散漫な刺戟を盛って、他愛なく時間のために流されていた。彼らは穏和かであった。彼らは楽しそうに見えた。お互の吐く呼息に酔っ払った彼らは、少し醒めかけると、すぐ眼を転じて誰かの顔を眺めた。そうしてすぐそこに陶然たる或物を認めた。すぐ相手の気分に同化する事ができた。席に戻った二人は愉快らしく四辺を見廻した。それから申し合せたように問題の吉川夫人の方を見た。婦人の双眼鏡はもう彼らを覘っていなかった。その代り双眼鏡の主人もどこかへ行ってしまった。「あらいらっしゃらないわ」「本当ね」「あたし探してあげましょうか」百合子はすぐ自分の手に持ったこっちのオペラグラスを眼へ宛てがった。「いない、いない、どこかへ行っちまった。あの奥さんなら二人前ぐらい肥ってるんだから、すぐ分るはずだけれども、やっぱりいないわよ」そう云いながら百合子は象牙の眼鏡を下へ置いた。綺麗な友染模様の背中が隠れるほど、帯を高く背負った令嬢としては、言葉が少しもよそゆきでないので、姉はおかしさを堪えるような口元に、年上らしい威厳を示して、妹を窘なめた。「百合子さん」妹は少しも応えなかった。例の通りちょっと小鼻を膨らませて、それがどうしたんだといった風の表情をしながら、わざと継子を見た。「あたしもう帰りたくなったわ。早くお父さまが来てくれると好いんだけどな」「帰りたければお帰りよ。お父さまがいらっしゃらなくっても構わないから」「でもいるわ」百合子はやはり動かなかった。子供でなくってはふるまいにくいこの腕白らしい態度の傍に、お延が年相応の分別を出して叔母に向った。「あたしちょっと行って吉川さんの奥さんに御挨拶をして来ましょうか。澄ましていちゃ悪いわね」実を云うと彼女はこの夫人をあまり好いていなかった。向うでもこっちを嫌っているように思えた。しかも最初先方から自分を嫌い始めたために、この不愉快な現象が二人の間に起ったのだという朧気な理由さえあった。自分が嫌われるべき何らのきっかけも与えないのに、向うで嫌い始めたのだという自信も伴っていた。先刻双眼鏡を向けられた時、すでに挨拶に行かなければならないと気のついた彼女は、即座にそれを断行する勇気を起し得なかったので、内心の不安を質問の形に引き直して叔母に相談しかけながら、腹の中では、その義務を容易く果させるために、叔母が自分と連れ立って、夫人の所へ行ってくれはしまいかと暗に願っていた。叔母はすぐ返事をした。「ああ行った方がいいよ。行っといでよ」「でも今いらっしゃらないから」「なにきっと廊下にでも出ておいでなんだよ。行けば分るよ」「でも、――じゃ行くから叔母さんもいっしょにいらっしゃいな」「叔母さんは――」「いらっしゃらない?」「行ってもいいがね。どうせ今に御飯を食べる時に、いっしょになるはずになってるんだから、御免蒙ってその時にしようかと思ってるのよ」「あらそんなお約束があるの。あたしちっとも知らなかったわ。誰と誰がいっしょに御飯を召上がるの」「みんなよ」「あたしも?」「ああ」意外の感に打たれたお延は、しばらくしてから答えた。「そんならあたしもその時にするわ」
五十
岡本の来たのはそれから間もなくであった。茶屋の男に開けて貰った戸の隙間から中を覗いた彼は、おいでおいでをして百合子を廊下へ呼び出した。そこで二人がみんなの邪魔にならないような小声の立談を、二言三言取り換わした後で、百合子は約束通り男に送られてすぐ場外へ出た。そうして入れ代りに入って来た彼がその後へ窮屈そうに坐った。こんな場所ではちょっと身体の位置を変るのさえ臆劫そうに見える肥満な彼は、坐ってしまってからふと気のついたように、半分ばかり背後を向いた。「お延、代ってやろうか。あんまり大きいのが前を塞いで邪魔だろう」一夜作りの山が急に出来上ったような心持のしたお延は、舞台へ気を取られている四辺へ遠慮して動かなかった。毛織ものを肌へ着けた例のない岡本は、毛だらけな腕を組んで、これもおつき合だと云った風に、みんなの見ている方角へ視線を向けた。そこでは色の生っ白い変な男が柳の下をうろうろしていた。荒い縞の着物をぞろりと着流して、博多の帯をわざと下の方へ締めたその色男は、素足に雪駄を穿いているので、歩くたびにちゃらちゃらいう不愉快な音を岡本の耳に響かせた。彼は柳の傍にある橋と、橋の向うに並んでいる土蔵の白壁を見廻して、それからそのついでに観客の方へ眼を移した。然るに観客の顔はことごとく緊張していた。雪駄をちゃらちゃら鳴らして舞台の上を往ったり来たりするこの若い男の運動に、非常な重大の意味でもあるように、満場は静まり返って、咳一つするものがなかった。急に表から入って来た彼にとって、すぐこの特殊な空気に感染する事が困難であったのか、また馬鹿らしかったのか、しばらくすると彼はまた窮屈そうに半分後を向いて、小声でお延に話しかけた。「どうだ面白いかね。――由雄さんはどうだ。――」簡単な質問を次から次へと三つ四つかけて、一口ずつの返事をお延から受け取った彼は、最後に意味ありげな眼をしてさらに訊いた。「今日はどうだったい。由雄さんが何とか云やしなかったかね。おおかたぐずぐず云ったんだろう。おれが病気で寝ているのに貴様一人芝居へ行くなんて不埒千万だとか何とか。え?きっとそうだろう」「不埒千万だなんて、そんな事云やしないわ」「でも何か云われたろう。岡本は不都合な奴だぐらい云われたに違あるまい。電話の様子がどうも変だったぜ」小声でさえ話をするものが周囲に一人もない所で、自分だけ長い受け答をするのはきまりが悪かったので、お延はただ微笑していた。「構わないよ。叔父さんが後で話をしてやるから、そんな事は心配しないでもいいよ」「あたし心配なんかしちゃいないわ」「そうか、それでも少しゃ気がかりだろう。結婚早々旦那様の御機嫌を損じちゃ」「大丈夫よ。御機嫌なんか損じちゃいないって云うのに」お延は煩さそうに眉を動かした。面白半分調戯って見た岡本は少し真面目になった。「実は今日お前を呼んだのはね、ただ芝居を見せるためばかりじゃない、少し呼ぶ必要があったんだよ。それで由雄さんが病気のところを無理に来て貰ったような訳だが、その訳さえ由雄さんに後から話しておけば何でもない事さ。叔父さんがよく話しておくよ」お延の眼は急に舞台を離れた。「理由っていったい何」「今ここじゃ話し悪いがね。いずれ後で話すよ」お延は黙るよりほかに仕方なかった。岡本はつけ足すように云った。「今日は吉川さんといっしょに食堂で晩食を食べる事になってるんだよ。知ってるかね。そら吉川もあすこへ来ているだろう」先刻まで眼につかなかった吉川の姿がすぐお延の眼に入った。「叔父さんといっしょに来たんだよ。倶楽部から」二人の会話はそこで途切れた。お延はまた真面目に舞台の方を見出した。しかし十分経つか経たないうちに、彼女の注意がまたそっと後の戸を開ける茶屋の男によって乱された。男は叔母に何か耳語いた。叔母はすぐ叔父の方へ顔を寄せた。「あのね吉川さんから、食事の用意を致させておきましたから、この次の幕間にどうぞ食堂へおいで下さいますようにって」叔父はすぐ返事を伝えさせた。「承知しました」男はまた戸をそっと閉てて出て行った。これから何が始まるのだろうかと思ったお延は、黙って会食の時間を待った。
五十一
彼女が叔父叔母の後に随いて、継子といっしょに、二階の片隅にある奥行の深い食堂に入るべく席を立ったのは、それから小一時間後であった。彼女は自分と肩を並べて、すれすれに廊下を歩いて行く従妹に小声で訊いて見た。「いったいこれから何が始まるの」「知らないわ」継子は下を向いて答えた。「ただ御飯を食べるぎりなの」「そうなんでしょう」訊こうとすれば訊こうとするほど、継子の返事が曖昧になってくるように思われたので、お延はそれぎり口を閉じた。継子は前に行く父母に遠慮があるのかも知れなかった。また自分は何にも承知していないのかも分らなかった。あるいは承知していても、お延に話したくないので、わざと短かい返事を小さな声で与えないとも限らなかった。鋭い一瞥の注意を彼らの上に払って行きがちな、廊下で出逢う多数の人々は、みんなお延よりも継子の方に余分の視線を向けた。忽然お延の頭に彼女と自分との比較が閃めいた。姿恰好は継子に立ち優っていても、服装や顔形で是非ひけを取らなければならなかった彼女は、いつまでも子供らしく羞恥んでいるような、またどこまでも気苦労のなさそうに初々しく出来上った、処女としては水の滴たるばかりの、この従妹を軽い嫉妬の眼で視た。そこにはたとい気の毒だという侮蔑の意が全く打ち消されていないにしたところで、ちょっと彼我の地位を易えて立って見たいぐらいな羨望の念が、著るしく働らいていた。お延は考えた。「処女であった頃、自分にもかつてこんなお嬢さんらしい時期があったろうか」幸か不幸か彼女はその時期を思い出す事ができなかった。平生継子を標準におかないで、何とも思わずに暮していた彼女は、今その従妹と肩を並べながら、賑やかな電灯で明るく照らされた廊下の上に立って、またかつて感じた事のない一種の哀愁に打たれた。それは軽いものであった。しかし涙に変化しやすい性質のものであった。そうして今嫉妬の眼で眺めたばかりの相手の手を、固く握り締めたくなるような種類のものであった。彼女は心の中で継子に云った。「あなたは私より純潔です。私が羨やましがるほど純潔です。けれどもあなたの純潔は、あなたの未来の夫に対して、何の役にも立たない武器に過ぎません。私のように手落なく仕向けてすら夫は、けっしてこっちの思う通りに感謝してくれるものではありません。あなたは今に夫の愛を繋ぐために、その貴い純潔な生地を失わなければならないのです。それだけの犠牲を払って夫のために尽してすら、夫はことによるとあなたに辛くあたるかも知れません。私はあなたが羨ましいと同時に、あなたがお気の毒です。近いうちに破壊しなければならない貴い宝物を、あなたはそれと心づかずに、無邪気にもっているからです。幸か不幸か始めから私には今あなたのもっているような天然そのままの器が完全に具わっておりませんでしたから、それほどの損失もないのだと云えば、云われないこともないでしょうが、あなたは私と違います。あなたは父母の膝下を離れると共に、すぐ天真の姿を傷けられます。あなたは私よりも可哀相です」二人の歩き方は遅かった。先に行った岡本夫婦が人に遮ぎられて見えなくなった時、叔母はわざわざ取って返した。「早くおいでなね。何をぐずぐずしているの。もう吉川さんの方じゃ先へ来て待っていらっしゃるんだよ」叔母の眼は継子の方にばかり注がれていた。言葉もとくに彼女に向ってかけられた。けれども吉川という名前を聞いたお延の耳には、それが今までの気分を一度に吹き散らす風のように響いた。彼女は自分のあまり好いていない、また向うでも自分をあまり好いていないらしい、吉川夫人の事をすぐ思い出した。彼女は自分の夫が、平生から一方ならぬ恩顧を受けている勢力家の妻君として、今その人の前に、能う限りの愛嬌と礼儀とを示さなければならなかった。平静のうちに一種の緊張を包んで彼女は、知らん顔をして、みんなの後に随いて食堂に入った。
五十二
叔母の云った通り、吉川夫婦は自分達より一足早く約束の場所へ来たものと見えて、お延の目標にするその夫人は、入口の方を向いて叔父と立談をしていた。大きな叔父の後姿よりも、向う側に食み出している大々した夫人のかっぷくが、まずお延の眼に入った。それと同時に、肉づきの豊かな頬に笑いを漲らしていた夫人の方でも、すぐ眸をお延の上に移した。しかし咄嗟の電火作用は起ると共に消えたので、二人は正式に挨拶を取り換すまで、ついに互を認め合わなかった。夫人に投げかけた一瞥についで、お延はまたその傍に立っている若い紳士を見ない訳に行かなかった。それが間違もなく、先刻廊下で継子といっしょになって、冗談半分夫人の双眼鏡をはしたなく批評し合った時に、自分達を驚ろかした無言の男なので、彼女は思わずひやりとした。簡単な挨拶が各自の間に行われる間、控目にみんなの後に立っていた彼女は、やがて自分の番が廻って来た時、ただ三好さんとしてこの未知の人に紹介された。紹介者は吉川夫人であったが、夫人の用いる言葉が、叔父に対しても、叔母に対しても、また継子に対しても、みんな自分に対するのと同じ事で、その間に少しも変りがないので、お延はついにその三好の何人であるかを知らずにしまった。席に着くとき、夫人は叔父の隣りに坐った。一方の隣には三好が坐らせられた。叔母の席は食卓の角であった。継子のは三好の前であった。余った一脚の椅子へ腰を下ろすべく余儀なくされたお延は、少し躊躇した。隣りには吉川がいた。そうして前は吉川夫人であった。「どうですかけたら」吉川は催促するようにお延を横から見上げた。「さあどうぞ」と気軽に云った夫人は正面から彼女を見た。「遠慮しずにおかけなさいよ。もうみんな坐ってるんだから」お延は仕方なしに夫人の前に着席した。先を越すつもりでいたのに、かえって先を越されたという拙い感じが胸のどこかにあった。自分の態度を礼儀から出た本当の遠慮と解釈して貰うように、これから仕向けて行かなければならないという意志もすぐ働らいた。その意志は自分と正反対な継子の初心らしい様子を、食卓越に眺めた時、ますます強固にされた。継子はまたいつもよりおとなし過ぎた。ろくろく口も利かないで、下ばかり向いている彼女の態度の中には、ほとんど苦痛に近い或物が見透された。気の毒そうに彼女を一目見やったお延は、すぐ前にいる夫人の方へ、彼女に特有な愛嬌のある眼を移した。社交に慣れ切った夫人も黙っている人ではなかった。調子の好い会話の断片が、二三度二人の間を往ったり来たりした。しかしそれ以上に発展する余地のなかった題目は、そこでぴたりととまってしまった。二人の間に共通な津田を話の種にしようと思ったお延が、それを自分から持ち出したものかどうかと遅疑しているうちに、夫人はもう自分を置き去りにして、遠くにいる三好に向った。「三好さん、黙っていないで、ちっとあっちの面白い話でもして継子さんに聞かせてお上げなさい」ちょうど叔母と話を途切らしていた三好は夫人の方を向いて静かに云った。「ええ何でも致しましょう」「ええ何でもなさい。黙ってちゃいけません」命令的なこの言葉がみんなを笑わせた。「また独逸を逃げ出した話でもするがいい」吉川はすぐ細君の命令を具体的にした。「独逸を逃げ出した話も、何度となく繰り返すんでね、近頃はもう他よりも自分の方が陳腐になってしまいました」「あなたのような落ちついた方でも、少しは周章たでしょうね」「少しどころなら好いですが、ほとんど夢中でしたろう。自分じゃよく分らないけれども」「でも殺されるとは思わなかったでしょう」「さよう」三好が少し考えていると、吉川はすぐ隣りから口を出した。「まさか殺されるとも思うまいね。ことにこの人は」「なぜです。人間がずうずうしいからですか」「という訳でもないが、とにかく非常に命を惜しがる男だから」継子が下を向いたままくすくす笑った。戦争前後に独逸を引き上げて来た人だという事だけがお延に解った。
五十三
三好を中心にした洋行談がひとしきり弾んだ。相間相間に巧みなきっかけを入れて話の後を釣り出して行く吉川夫人のお手際を、黙って観察していたお延は、夫人がどんな努力で、彼ら四人の前に、この未知の青年紳士を押し出そうと試みつつあるかを見抜いた。穏和というよりもむしろ無口な彼は、自分でそうと気がつかないうちに、彼に好意をもった夫人の口車に乗せられて、最も有利な方面から自分をみんなの前に説明していた。彼女はこの談話の進行中、ほとんど一言も口を挟さむ余地を与えられなかった。自然の勢い沈黙の謹聴者たるべき地位に立った彼女には批判の力ばかり多く働らいた。卒直と無遠慮の分子を多量に含んだ夫人の技巧が、毫も技巧の臭味なしに、着々成功して行く段取を、一歩ごとに眺めた彼女は、自分の天性と夫人のそれとの間に非常の距離がある事を認めない訳に行かなかった。しかしそれは上下の距離でなくって、平面の距離だという気がした。では恐るるに足りないかというとけっしてそうでなかった。一部分は得意な現在の地位からも出て来るらしい命令的の態度のほかに、夫人の技巧には時として恐るべき破壊力が伴なって来はしまいかという危険の感じが、お延の胸のどこかでした。「こっちの気のせいかしらん」お延がこう考えていると、問題の夫人が突然彼女の方に注意を移した。「延子さんが呆れていらっしゃる。あたしがあんまりしゃべるもんだから」お延は不意を打たれて退避ろいだ。津田の前でかつて挨拶に困った事のない彼女の智恵が、どう働いて好いか分らなくなった。ただ空疎な薄笑が瞬間の虚を充たした。しかしそれは御役目にもならない偽りの愛嬌に過ぎなかった。「いいえ、大変面白く伺っております」と後から付け足した時は、お延自分でももう時機の後れている事に気がついていた。またやり損なったという苦い感じが彼女の口の先まで湧いて出た。今日こそ夫人の機嫌を取り返してやろうという気込が一度に萎えた。夫人は残酷に見えるほど早く調子を易えて、すぐ岡本に向った。「岡本さんあなたが外国から帰っていらしってから、もうよっぽどになりますね」「ええ。何しろ一昔前の事ですからな」「一昔前って何年頃なの、いったい」「さよう西暦……」自然だか偶然だか叔父はもったいぶった考え方をした。「普仏戦争時分?」「馬鹿にしちゃいけません。これでもあなたの旦那様を案内して倫敦を連れて歩いて上げた覚があるんだから」「じゃ巴理で籠城した組じゃないのね」「冗談じゃない」三好の洋行談をひとしきりで切り上げた夫人は、すぐ話頭を、それと関係の深い他の方面へ持って行った。自然吉川は岡本の相手にならなければすまなくなった。「何しろ自動車のできたてで、あれが通ると、みんなふり返って見た時分だったからね」「うん、あの鈍臭いバスがまだ幅を利かしていた時代だよ」その鈍臭いバスが、そういう交通機関を自分で利用した記憶のないほかの者にとって、何の思い出にならなかったにも関わらず、当時を回顧する二人の胸には、やっぱり淡い一種の感慨を惹き起すらしく見えた。継子と三好を見較べた岡本は、苦笑しながら吉川に云った。「お互に年を取ったもんだね。不断はちっとも気がつかずに、まだ若いつもりかなんかで、しきりにはしゃぎ廻っているが、こうして娘の隣に坐って見ると、少し考えるね」「じゃ始終その子の傍に坐っていらっしったら好いでしょう」叔母はすぐ叔父に向った。叔父もすぐ答えた。「全くだよ。外国から帰って来た時にゃ、この子がまだ」と云いかけてちょっと考えた彼は、「幾つだっけかな」と訊いた。叔母がそんな呑気な人に返事をする義務はないといわぬばかりの顔をして黙っているので、吉川が傍から口を出した。「今度はお爺さまお爺さまって云われる時機が、もう眼前に逼って来たんだ。油断はできません」継子が顔を赧くして下を向いた。夫人はすぐ夫の方を見た。「でも岡本さんにゃ自分の年歯を計る生きた時計が付いてるから、まだよいんです。あなたと来たら何にも反省器械を持っていらっしゃらないんだから、全く手に余るだけですよ」「その代りお前だっていつまでもお若くっていらっしゃるじゃないか」みんなが声を出して笑った。

