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明暗・夏目漱石

13

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五十四

彼らほど多人数たにんずでない、したがって比較的静かなほかの客が、まるで舞台をよそにして、気楽そうな話ばかりしているお延の一群いちぐんを折々見た。時間を倹約するため、わざと軽い食事を取ったものたちが、珈琲コヒーも飲まずに、そろそろ立ちかける時が来ても、お延の前にはそれからそれへと新らしい皿が運ばれた。彼らは中途で拭布ナプキンほうす訳に行かなかった。またそんな世話しない真似まねをする気もないらしかった。芝居をに来たというよりも、芝居場へ遊びに来たという態度で、どこまでもゆっくり構えていた。「もう始まったのかい」急に静かになった食堂を見廻した叔父は、こう云って白服のボイにいた。ボイは彼の前に温かい皿を置きながら、鄭寧ていねいに答えた。「ただ今きました」「いいや開いたって。この際眼よりも口の方が大事だ」叔父はすぐ皮付のとりももを攻撃し始めた。向うにいる吉川も、舞台で何が起っていようとまるで頓着とんじゃくしないらしかった。彼はすぐ叔父のあとへついて、劇とは全く無関係な食物くいもの挨拶あいさつをした。「君は相変らずうまそうに食うね。――奥さんこの岡本君が今よりもっと食って、もっと肥ってた時分、西洋人の肩車かたぐるまへ乗った話をお聞きですか」叔母は知らなかった。吉川はまた同じ問を継子にかけた。継子も知らなかった。「そうでしょうね、あんまり外聞がいぶんの好い話じゃないから、きっと隠しているんですよ」「何が?」叔父はようやく皿から眼を上げて、不思議そうに相手を見た。すると吉川の夫人がそばから口を出した。「おおかた重過ぎてその外国人をつぶしたんでしょう」「そんならまだ自慢になるが、みんなに変な顔をしてじろじろ見られながら、倫敦ロンドンの群衆の中で、大男の肩の上へかじりついていたんだ。行列を見るためにね」叔父おじはまだ笑いもしなかった。「何を捏造ねつぞうする事やら。いったいそりゃいつの話だね」「エドワード七世の戴冠式たいかんしきの時さ。行列を見ようとしてマンションハウスの前に立ってたところが、日本と違って向うのものがあんまり君より背丈せいが高過ぎるもんだから、苦しまぎれにいっしょに行った下宿の亭主に頼んで、肩車に乗せて貰ったって云うじゃないか」「馬鹿を云っちゃいけない。そりゃ人違だ。肩車へ乗った奴はちゃんと知ってるが、僕じゃない、あの猿だ」叔父の弁解はむしろ真面目まじめであった。その真面目な口から猿という言葉が突然出た時、みんなは一度に笑った。「なるほどあの猿ならよく似合うね。いくら英吉利人イギリスじんが大きいたって、どうも君じゃ辻褄つじつまが合わな過ぎると思ったよ。――あの猿と来たらまたずいぶん矮小わいしょうだからな」知っていながらわざと間違えたふりをして見せたのか、あるいは最初から事実を知らなかったのか、とにかく吉川はやっとに落ちたらしい言葉遣ことばづかいをして、なおその当人の猿という渾名あざなを、一座をにぎわせる滑稽こっけい余音よいんのごとくかえした。夫人はなかば好奇的で、半ば戒飭的かいちょくてきな態度を取った。「猿だなんて、いったい誰の事をおっしゃるの」「なにお前の知らない人だ」「奥さん心配なさらないでも好ござんす。たとい猿がこの席にいようとも、我々は表裏ひょうりなく彼を猿々と呼び得る人間なんだから。その代り向うじゃ私の事を豚々って云ってるから、おんなじ事です」こんな他愛たわいもない会話が取り換わされている間、お延はついに社交上の一員として相当の分前わけまえを取る事ができなかった。自分を吉川夫人に売りつける機会はいつまでっても来なかった。夫人は彼女を眼中に置いていなかった。あるいはむしろ彼女を回避していた。そうして特に自分の一軒いっけん置いて隣りに坐っている継子にばかり話しかけた。たとい一分間でもこの従妹いとこを、注意の中心として、みんなの前に引き出そうとする努力のあとさえありありと見えた。それを利用する事のできない継子が、感謝とは反対に、かえって迷惑そうな表情を、遠慮なく外部そとに示すたびに、すぐ彼女と自分とを比較したくなるお延の心には羨望せんぼう漣漪さざなみが立った。「自分がもしあの従妹の地位に立ったなら」会食中の彼女はしばしばこう思った。そうしてそのあとからあん人馴ひとなれない継子をあわれんだ。最後には何という気の毒な女だろうという軽侮けいぶの念がいつもの通り起った。

五十五

彼らの席を立ったのは、男達のくゆらし始めた食後の葉巻に、白い灰が一寸近くもたまった頃であった。その時誰かの口から出た「もう何時なんじだろう」というきっかけが、偶然お延の位地に変化を与えた。立ち上る前の一瞬間をとらえた夫人は突然お延に話しかけた。「延子さん。津田さんはどうなすって」いきなりこう云っておいて、お延の返事も待たずに、夫人はすぐそのあとを自分で云い足した。先刻さっきから伺おう伺おうと思ってた癖に、つい自分の勝手な話ばかりして――」この云訳いいわけをお延は腹の中でうそらしいと考えた。それは相手の使う当座の言葉つきや態度から出た疑でなくって、彼女に云わせると、もう少し深い根拠こんきょのある推定であった。彼女は食堂へ這入はいって夫人に挨拶あいさつをした時、自分の使った言葉をよく覚えていた。それは自分のためというよりも、むしろ自分の夫のために使った言葉であった。彼女はこの夫人を見るや否や、うやうやしく頭を下げて、「毎度津田が御厄介ごやっかいになりまして」と云った。けれども夫人はその時その津田については一言ひとことも口を利かなかった。自分が挨拶を交換した最後の同席者である以上、そこにはそれだけの口を利く余裕が充分あったにも関わらず、夫人は、すぐよそを向いてしまった。そうして二三日前にさんちまえ津田から受けた訪問などは、まるで忘れているような風をした。お延は夫人のこの挙動を、自分がきらわれているからだとばかり解釈しなかった。嫌われている上に、まだ何か理由があるに違ないと思った。でなければ、いくら夫人でも、とくに津田の名前を回避するような素振そぶりを、彼の妻たるものに示すはずがないと思った。彼女は自分の夫がこの夫人の気に入っているという事実をよく承知していた。しかし単に夫を贔負ひいきにしてくれるという事が、何でその人を妻の前に談話の題目としてはばかられるのだろう。お延は解らなかった。彼女が会食中、当然ひとに好かれべき女性としての自己の天分を、夫人の前に発揮するために、二人の間に存在する唯一ゆいいつの共通点とも見られる津田から出立しようと試みて、ついに出立し得なかったのも、一つはこれが胸につかえていたからであった。それをいよいよ席を立とうとする間際まぎわになって、向うから切り出された時のお延は、ただ夫人の云訳に対してのみ、うそらしいという疑をいだくだけではすまなかった。今頃になって夫の病気の見舞をいってくれる夫人の心の中には、やむをえない社交上の辞令以外に、まだ何か存在しているのではなかろうかと考えた。「ありがとうございます。かげさまで」「もう手術をなすったの」「ええ今日こんち今日きょうそれであなたよくこんな所へ来られましたね」「大した病気でもございませんものですから」「でも寝ていらっしゃるんでしょう」「寝てはおります」夫人はそれで構わないのかという様子をした。少なくとも彼女の黙っている様子がお延にはそう見えた。ひとに対して男らしく無遠慮にふるまっている夫人が、自分にだけは、まるで別な人間として出てくるのではないかと思われた。「病院へ御入おはいりになって」「病院と申すほどの所ではございませんが、ちょうどお医者様の二階がいておるので、五六日ごろくんちそこへおいていただく事にしております」夫人は医者の名前と住所ところとをいた。見舞に行くつもりだとも何とも云わなかったけれども、実はそのために、わざわざ津田の話を持ち出したのじゃなかろうかという気のしたお延は、始めて夫人の意味が多少自分に呑み込めたような心持もした。夫人と違って最初から津田の事をあまり念頭においていなかったらしい吉川は、この時始めて口を出した。「当人に聞くと、去年から病気を持ち越しているんだってね。今の若さにそう病気ばかりしちゃ仕方がない。休むのは五六日に限った事もないんだから、なおるまでよく養生するように、そう云って下さい」お延は礼を云った。食堂を出た七人は、廊下でまた二組に分れた。

五十六

残りの時間を叔母の家族とともに送ったお延には、それから何の波瀾はらんも来なかった。ただ褞袍どてらを着て横臥おうがした寝巻姿ねまきすがたの津田の面影おもかげが、熱心に舞台を見つめている彼女の頭の中に、不意に出て来る事があった。その面影は今まで読みかけていた本を伏せて、ここに坐っている彼女を、遠くから眺めているらしかった。しかしそれは、彼女が喜こんで彼を見返そうとする刹那せつなに、「いや疳違かんちがいをしちゃいけない、何をしているかちょっとのぞいて見ただけだ。お前なんかに用のあるおれじゃない」という意味を、眼つきで知らせるものであった。だまされたお延は何だ馬鹿らしいという気になった。すると同時に津田の姿も幽霊のようにすぐ消えた。二度目にはお延の方から「もうあなたのような方の事は考えて上げません」と云い渡した。三度目に津田の姿が眼に浮んだ時、彼女は舌打したうちをしたくなった。食堂へ入る前の彼女はいまだかつて夫の事を念頭においていなかったので、お延に云わせると、こういう不可抗な心の作用は、すべて夕飯後ゆうめしごに起った新らしい経験にほかならなかった。彼女は黙って前後二様にようの自分を比較して見た。そうしてこの急劇な変化の責任者として、胸のうちで、吉川夫人の名前をかえさない訳に行かなかった。今夜もし夫人と同じ食卓テーブル晩餐ばんさんを共にしなかったならば、こんな変な現象はけっして自分に起らなかったろうという気が、彼女の頭のどこかでした。しかし夫人のいかなる点が、このにがい酒をかも醗酵分子はっこうぶんしとなって、どんな具合に彼女の頭のなかに入り込んだのかとかれると、彼女はとても判然はっきりした返事を与えることができなかった。彼女はただ不明暸ふめいりょうな材料をもっていた。そうして比較的明暸な断案に到着していた。材料に不足な掛念けねんいだかない彼女が、その断案を不備として疑うはずはなかった。彼女はすべての源因が吉川夫人にあるものと固く信じていた。芝居がねていったん茶屋へ引き上げる時、お延はそこでまた夫人に会う事を恐れた。しかし会ってもう少し突ッ込んで見たいような気もした。帰りを急ぐ混雑ごたごたした間際まぎわに、そんな機会の来るはずもないと、始めからあきらめている癖に、そうした好奇の心が、会いたくないという回避の念のかげから、ちょいちょい首を出した。茶屋は幸にしてちがっていた。吉川夫婦の姿はどこにも見えなかった。えりに毛皮の付いた重そうな二重廻にじゅうまわしを引掛ひっかけながら岡本がコートにそでを通しているお延をかえりみた。「今日はうちへ来て泊って行かないかね」「え、ありがとう」泊るとも泊らないとも片づかない挨拶あいさつをしたお延は、微笑しながら叔母を見た。叔母はまた「あなたの気楽さ加減にもあきれますね」という表情で叔父を見た。そこに気がつかないのか、あるいは気がついても無頓着むとんじゃくなのか、彼は同じ事を、前よりはもっと真面目まじめな調子で繰り返した。「泊って行くなら、泊っといでよ。遠慮はらないから」「泊っていけったって、あなた、うちにゃ下女がたった一人で、この子の帰るのを待ってるんですもの。そんな事無理ですわ」「はあ、そうかね、なるほど。下女一人じゃ不用心だね」そんならすが好かろうと云った風の様子をした叔父は、無論最初からどっちでも構わないものをちょっと問題にして見ただけであった。「あたしこれでも津田へ行ってからまだ一晩も御厄介ごやっかいになった事はなくってよ」「はあ、そうだったかね。それは感心に品行方正のいたりだね」「厭だ事。――由雄だって外へ泊った事なんか、まだ有りゃしないわ」「いや結構ですよ。御夫婦おそろいで、お堅くっていらっしゃるのは――」「何よりもって恐悦至極きょうえつしごく先刻さっき聞いた役者の言葉を、小さな声であとへ付け足した継子は、そう云った後で、自分ながらその大胆さにあきれたように、薄赤くなった。叔父はわざと大きな声を出した。「何ですって」継子はきまりが悪いので、聞こえないふりをして、どんどん門口かどぐちの方へ歩いて行った。みんなもそのあといて表へ出た。車へ乗る時、叔父はお延に云った。

「お前うちへ泊れなければ、泊らないでいいから、その代りいつかおいでよ、二三日中にさんちじゅうにね。少しきたい事があるんだから」「あたしも叔父さんに伺わなくっちゃならない事があるから、今日のお礼かたがた是非上るわ。もしか都合ができたら明日あしたにでも伺ってよ、好くって」「オー、ライ」四人の車はこの英語を相図あいずした。

五十七

津田のうちとほぼ同じ方角に当る岡本の住居すまいは、少し道程みちのりが遠いので、三人のあといたお延の護謨輪ゴムわは、小路こうじへ曲る例のかどまでいっしょに来る事ができた。そこで別れる時、彼女はほろの中から、前に行く人達に声をかけた。けれどもそれが向うへ通じたか通じないか分らないうちに、彼女のくるまはもう電車通りを横に切れていた。しんとした小路の中で、急に一種のさみしさが彼女の胸を打った。今まで団体的に旋回していたものが、吾知われしらず調子をはずして、一人圏外けんがいにふり落された時のように、淡いながら頼りを失った心持で、彼女は自分のうちの玄関を上った。下女は格子こうしの音を聞いても出て来なかった。茶の間には電灯が明るく輝やいているだけで、鉄瓶てつびんさえいつものように快い音を立てなかった。今朝けさ見たと何の変りもないへやの中を、彼女は今朝と違った眼で見廻した。薄ら寒い感じが心細い気分を抱擁ほうようし始めた。その瞬間が過ぎて、ただの淋しさが不安の念に変りかけた時、歓楽に疲れた身体からだを、長火鉢ながひばちの前に投げかけようとした彼女は、突然勝手口の方を向いて「時、時」と下女の名前を呼んだ。同時に勝手の横に付いている下女部屋の戸を開けた。二畳敷の真中に縫物をひろげて、その上に他愛たわいなく突ッ伏していたお時は、急に顔を上げた。そうしてお延を見るや否や、いきなり「はい」という返事を判然はっきりして立ち上った。それと共に、針仕事のため、わざと低目にした電灯の笠へ、くずれかかった束髪の頭をぶつけたので、あらぬかたへ波をうった電球が、なおのこと彼女を狼狽ろうばいさせた。お延は笑いもしなかった。叱る気にもならなかった。こんな場合に自分ならという彼我ひがの比較さえ胸に浮かばなかった。今の彼女には寝ぼけたお時でさえ、そこにいてくれるのが頼母たのもしかった。「早く玄関をめてお寝。くぐりのかきがねはあたしがかけて来たから」下女を先へ寝かしたお延は、着物も着換えずにまた火鉢ひばちの前へ坐った。彼女は器械的に灰をほじくって消えかかった火種に新らしい炭をした。そうして家庭としては欠くべからざる要件のごとくに、湯をかした。しかし夜更よふけに鳴る鉄瓶てつびんの音に、一人耳を澄ましている彼女の胸に、どこからともなくせまってくる孤独の感が、先刻さっき帰った時よりもなおはげしくつのって来た。それが平生遅い夫の戻りを待ちあぐんで起すさびしみに比べると、はるかに程度が違うので、お延は思わず病院に寝ている夫の姿を、なつかしそうに心の眼で眺めた。「やっぱりあなたがいらっしゃらないからだ」彼女は自分の頭の中に描き出した夫の姿に向ってこう云った。そうして明日あしたは何をおいても、まず病院へ見舞に行かなければならないと考えた。しかし次の瞬間には、お延の胸がもうぴたりと夫の胸にくっついていなかった。二人の間に何だかはさまってしまった。こっちで寄り添おうとすればするほど、中間ちゅうかんにあるその邪魔ものが彼女の胸を突ッついた。しかも夫は平気で澄ましていた。なかば意地になった彼女の方でも、そんならよろしゅうございますといって、夫に背中を向けたくなった。こういう立場まで来ると、彼女の空想は会釈えしゃくなく吉川夫人の上に飛び移らなければならなかった。芝居場で一度考えた通り、もし今夜あの夫人に会わなかったなら、最愛の夫に対して、これほど不愉快な感じをいだかずにすんだろうにという気ばかり強くした。しまいに彼女はどこかにいる誰かに自分の心を訴えたくなった。昨夜ゆうべ書きかけた里へやる手紙のつづきを書こうと思って、筆をりかけた彼女は、いつまでっても、夫婦仲よく暮しているから安心してくれという意味よりほかに、自分の思いを巻紙の上に運ぶ事ができなかった。それは彼女が常に両親に対して是非云いたい言葉であった。しかし今夜は、どうしてもそれだけでは物足らない言葉であった。自分の頭をまとめる事に疲れ果た彼女は、とうとう筆を投げ出した。着物もそこへ脱ぎ捨てたまま、彼女はついに床へ入った。長い間眼に映った劇場の光景が、断片的に幾通りもの強い色になって、興奮した彼女の頭をちらちら刺戟しげきするので、彼女はらされる人のように、いつまでも眠に落ちる事ができなかった。

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