LIB READ READER

明暗・夏目漱石

18

朗読未選択 / 朗読停止中朗読未選択 / 朗読停止中

七十四

お延が下女から食事の催促を受けて、二返目に継子と共に席を立ったのは、それからもなくであった。一家のものは明るい室に晴々はればれした顔をそろえた。先刻さっき何かにねて縁の下へ這入はいったなり容易に出て来なかったというはじめさえ、機嫌きげんよく叔父と話をしていた。「一さんは犬みたいよ」と百合子がわざわざ知らせに来た時、お延はこの小さい従妹いとこから、彼がぱくりと口をいて上から鼻の先へ出された餅菓子もちがしに食いついたという話を聞いたのであった。お延は微笑しながらいわゆる犬みたいな男の子の談話に耳を傾けた。「お父さま彗星ほうきぼしが出ると何か悪い事があるんでしょう」「うん昔の人はそう思っていた。しかし今は学問がひらけたから、そんな事を考えるものは、もう一人もなくなっちまった」「西洋では」西洋にも同じ迷信が古代に行われたものかどうだか、叔父は知らないらしかった。「西洋?西洋にゃ昔からない」「でもシーザーの死ぬ前に彗星が出たっていうじゃないの」「うんシーザーの殺される前か」と云った彼は、ごまかすよりほかに仕方がないらしかった。「ありゃ羅馬ローマの時代だからな。ただの西洋とは訳が違うよ」はじめはそれで納得なっとくして黙った。しかしすぐ第二の質問をかけた。前よりは一層奇抜なその質問は立派に三段論法の形式を具えていた。井戸を掘って水が出る以上、地面の下は水でなければならない、地面の下が水である以上、地面はおっこちなければならない。しかるに地面はなぜ落こちないか。これが彼の要旨ようしであった。それに対する叔父の答弁がまたすこぶるしどろもどろなので、はたのものはみんなおかしがった。「そりゃお前落ちないさ」「だって下が水なら落ちる訳じゃないの」「そううまくは行かないよ」女連おんなれんが一度に笑い出すと、一はたちまち第三の問題に飛び移った。「お父さま、僕このうちが軍艦だと好いな。お父さまは?」「お父さまは軍艦よりただの宅の方が好いね」「だって地震の時宅ならつぶれるじゃないの」「ははあ軍艦ならいくら地震があっても潰れないか。なるほどこいつは気がつかなかった。ふうん、なるほど」本式に感服している叔父の顔を、お延は微笑しながら眺めた。先刻さっき藤井を晩餐ばんさんに招待するといった彼は、もうその事を念頭においていないらしかった。叔母も忘れたように澄ましていた。お延はつい一にいて見たくなった。「一さん藤井の真事まことさんと同級なんでしょう」「ああ」と云った一は、すぐ真事についてお延の好奇心を満足させた。彼の話は、とうてい子供でなくては云えない、観察だの、批評だの、事実だのに富んでいた。食卓は一時彼の力でにぎわった。みんなを笑わせた真事の逸話のうちに、しものようなのがあった。ある時学校の帰りに、彼は一といっしょに大きな深い穴をのぞき込んだ。土木工事のために深く掘り返されて、往来の真中に出来上ったその穴の上には、一本の杉丸太が掛け渡してあった。一は真事に、その丸太の上を渡ったら百円やると云った。すると無鉄砲な真事は、背嚢はいのう背負しょって、尨犬むくいぬの皮でこしらえたといわれる例の靴を穿いたまま、「きっとくれる?」と云いながら、ほとんど平たい幅をもっていない、つるつるすべりそうな材木を渡り始めた。最初は今に落ちるだろうと思って見ていた一は、相手が一歩一歩と、危ないながらゆっくりゆっくり自分に近づいて来るのを見て、急にこわくなった。彼は深い穴の真上にある友達をそこへりにして、どんどん逃げだした。真事はまた始終しじゅう足元に気を取られなければならないので、丸太を渡り切ってしまうまでは、一がどこへ行ったか全く知らずにいた。ようやく冒険を仕遂しとげて、約束通り百円貰おうと思って始めて眼を上げると、相手はいつの間にか逃げてしまって、一の影も形もまるで見えなかったというのである。「一の方が少し小悧巧こりこうのようだな」と叔父が評した。「藤井さんは近頃あんまり遊びに来ないようね」と叔母が云った。

七十五

小供が一つ学校の同級にいる事のほかに、お延の関係から近頃岡本と藤井の間に起った交際には多少の特色があった。いやでも顔を合せなければならない祝儀しゅうぎ不祝儀ぶしゅうぎの席を未来に控えている彼らは、事情の許す限り、双方から接近しておく便宜を、平生から認めない訳に行かなかった。ことに女の利害を代表する岡本の方は、藤井よりも余計この必要を認めなければならない地位に立っていた。その上岡本の叔父には普通の成功者に附随する一種の如才じょさいなさがあった。持って生れた楽天的な広い横断面おうだんめんもあった。神経質な彼はまた誤解を恐れた。ことに生計向くらしむきに不自由のないものが、比較的貧しい階級から受けがちな尊大不遜ふそんの誤解を恐れた。多年の多忙と勉強のために損なわれた健康を回復するために、当分閑地についた昨今の彼には、時間の余裕も充分あった。その時間の空虚なところを、自分の趣味にかな模細工モザイックで毎日めて行く彼は、今まで自分と全く縁故のないものとして、平気で通り過ぎた人や物にだんだん接近して見ようという意志ももっていた。これらの原因が困絡こんがらがって、叔父は時々藤井のうちへ自分の方から出かけて行く事があった。排外的に見える藤井は、律義りちぎに叔父の訪問を返そうともしなかったが、そうかと云って彼をいやがる様子も見せなかった。彼らはむしろ快よく談じた。そこまで打ち解けた話はできないにしたところで、ただ相互の世界を交換するだけでも、多少の興味にはなった。その世界はまた妙に食い違っていた。一方から見るといかにも迂濶うかつなものが、他方から眺めるといかにも高尚であったり、片側で卑俗と解釈しなければならないものを、向うでは是非とも実際的に考えたがったりするところに、思わざる発見がひょいひょい出て来た。「つまり批評家って云うんだろうね、ああ云う人の事を。しかしあれじゃ仕事はできない」お延は批評家という意味をよく理解しなかった。実際の役に立たないから、口先で偉そうな事を云ってひとをごまかすんだろうと思った。「仕事ができなくって、ただ理窟りくつもてあそんでいる人、そういう人に世間はどんな用があるだろう。そういう人が物質上相当の報酬を得ないで困るのは当然ではないか」。これ以上進む事のできなかった彼女は微笑しながらいた。「近頃藤井さんへいらしって」「うんこないだもちょっと散歩の帰りに寄ったよ。草臥くたびれた時、休むにはちょうど都合の好い所にある宅だからね、あすこは」「また何か面白いお話しでもあって」「相変らず妙な事を考えてるね、あの男は。こないだは、男が女を引張り、女がまた男を引張るって話をさかんにやって来た」「あらいやだ」「馬鹿らしい、好い年をして」お延と叔母はこもごもあきれたような言葉を出す間に、継子だけはよそを向いた。「いや妙な事があるんだよ。大将なかなか調べているから感心だ。大将のいうところによると、こうなんだ。どこのうちでも、男の子は女親を慕い、女の子はまた反対に男親を慕うのが当り前だというんだが、なるほどそう云えば、そうだね」親身しんみの叔母よりも義理の叔父を好いていたお延は少し真面目まじめになった。「それでどうしたの」「それでこうなんだ。男と女は始終しじゅう引張り合わないと、完全な人間になれないんだ。つまり自分に不足なところがどこかにあって、一人じゃそれをどうしてもたす訳に行かないんだ」お延の興味は急に退きかけた。叔父の云う事は、自分のうに知っている事実に過ぎなかった。「昔から陰陽和合いんようわごうっていうじゃありませんか」「ところが陰陽和合が必然でありながら、その反対の陰陽不和がまた必然なんだから面白いじゃないか」「どうして」「いいかい。男と女が引張り合うのは、互に違ったところがあるからだろう。今云った通り」「ええ」「じゃその違ったところは、つまり自分じゃない訳だろう。自分とは別物だろう」「ええ」「それ御覧。自分と別物なら、どうしたっていっしょになれっこないじゃないか。いつまで経ったって、離れているよりほかに仕方がないじゃないか」叔父はお延を征服した人のようにからからと笑った。お延は負けなかった。「だけどそりゃ理窟りくつよ」「無論理窟さ。どこへ出ても立派に通る理窟さ」「駄目よ、そんな理窟は。何だか変ですよ。ちょうど藤井の叔父さんがふり廻しそうな屁理窟へりくつよ」お延は叔父をやり込める事ができなかった。けれども叔父のいう通りを信ずる気にはなれなかった。またどうあっても信ずるのはいやであった。

七十六

叔父は面白半分まだいろいろな事を云った。男が女を得て成仏じょうぶつする通りに、女も男を得て成仏する。しかしそれは結婚前の善男善女に限られた真理である。一度ひとたび夫婦関係が成立するや否や、真理は急に寝返りを打って、今までとは正反対の事実を我々の眼の前に突きつける。すなわち男は女から離れなければ成仏できなくなる。女も男から離れなければ成仏しにくくなる。今までの牽引力けんいんりょくがたちまち反撥性はんぱつせいに変化する。そうして、昔から云い習わして来た通り、男はやっぱり男同志、女はどうしても女同志ということわざを永久に認めたくなる。つまり人間が陰陽和合の実をげるのは、やがてきたるべき陰陽不和の理を悟るために過ぎない。……叔父の言葉のどこまでが藤井の受売うけうりで、どこからが自分の考えなのか、またその考えのどこまでが真面目まじめで、どこからが笑談じょうだんなのか、お延にはよく分らなかった。筆を持つすべを知らない叔父は恐ろしく口の達者な人であった。ちょっとした心棒しんぼうがあると、その上に幾枚でも手製の着物を着せる事のできる人であった。俗にいう警句という種類のものが、いくらでも彼の口から出た。お延が反対すればするほど、あぶらが乗ってとめどなく出て来た。お延はとうとう好い加減にして切り上げなければならなかった。「ずいぶんのべつね、叔父さんも」「口じゃとてもかないっこないからおしよ。こっちで何かいうと、なお意地になるんだから」「ええ、わざわざ陰陽不和をかもすように仕向けるのね」お延が叔母とこんな批評を取り換わせている間、叔父はにこにこして二人を眺めていたが、やがて会話の途切とぎれるのを待って、おもむろに宣告を下した。「とうとう降参しましたかな。降参したなら、降参したでよろしい。けたものを追窮ついきゅうはしないから。――そこへ行くと男にはまた弱いものをあわれむという美点があるんだからな、こう見えても」彼はさも勝利者らしい顔をよそおって立ち上がった。障子しょうじを開けてへやの外へ出ると、もったいぶった足音が書斎の方に向いてだんだん遠ざかって行った。しばらくして戻って来た時、彼は片手に小型の薄っぺらな書物を四五冊持っていた。「おいお延好いものを持って来た。お前明日あしたにでも病院へ行くなら、これを由雄さんの所へ持ってッておやり」「何よ」お延はすぐ書物を受け取って表紙を見た。英語の標題が、外国語に熟しない彼女の眼を少し悩ませた。彼女はひろよみにぽつぽつ読み下した。ブック・オフ・ジョークス。イングリッシ・ウィット・エンド・ヒュモア。……「へええ」「みんな滑稽こっけいなもんだ。洒落しゃれだとか、なぞだとかね。寝ていて読むにはちょうど手頃で好いよ、肩がらなくってね」「なるほど叔父さんむきのものね」「叔父さん向でもこのくらいな程度なら差支さしつかえあるまい。いくら由雄さんが厳格だって、まさか怒りゃしまい」「怒るなんて、……」「まあいいや、これも陰陽和合のためだ。試しに持ってッてみるさ」お延が礼を云って書物をひざの上に置くと、叔父はまた片々かたかたの手に持った小さい紙片かみぎれを彼女の前に出した。「これは先刻さっきお前を泣かした賠償金ばいしょうきんだ。約束だからついでに持っておいで」お延は叔父の手から紙片を受取らない先に、その何であるかを知った。叔父はことさらにそれをふり廻した。「お延、これは陰陽不和になった時、一番よくく薬だよ。たいていの場合には一服呑むとすぐ平癒へいゆする妙薬だ」お延は立っている叔父を見上げながら、弱い調子で抵抗した。「陰陽不和じゃないのよ。あたし達のは本当の和合なのよ」「和合ならなお結構だ。和合の時に呑めば、精神がますます健全になる。そうして身体からだはいよいよ強壮になる。どっちへ転んでも間違のない妙薬だよ」叔父の手から小切手を受け取って、じっとそれを見つめていたお延の眼に涙がいっぱいたまった。

七十七

お延は叔父の送らせるというくるまを断った。しかし停留所まで自身で送ってやるという彼の好意を断りかねた。二人はついに連れ立って長い坂を河縁かわべりの方へ下りて行った。「叔父さんの病気には運動が一番いいんだからね。――なに歩くのは自分の勝手さ」肥っていて呼息いきが短いので、坂をのぼるときおかしいほど苦しがる彼は、まるで帰りを忘れたような事を云った。二人は途々夜のけた昨夕ゆうべの話をした。仮寝うたたねをして突ッ伏していたお時の様子などがお延の口に上った。もと叔父のうちにいたという縁故で、新夫婦二人ふたりぎりの家庭に住み込んだこの下女に対して、叔父は幾分か周旋者の責任を感じなければならなかった。「ありゃ叔母さんがよく知ってるが、正直で好い女なんだよ。留守るすなんぞさせるには持って来いだって受合ったくらいだからね。だがひとりで寝ちまっちゃ困るね、不用心で。もっともまだ年歯としが年歯だからな。眠い事も眠いだろうよ」いくら若くっても、自分ならそんな場合にぐっすり寝込まれる訳のものでないという事をよく承知していたお延は、叔父のこのおもいやりをただ笑いながら聴いていた。彼女に云わせれば、こうして早く帰るのも、あんなに遅くなった昨日きのうの結果を、今度はかえさせたくないという主意からであった。彼女は急いでそこへ来た電車に乗った。そうして車の中から叔父に向って「さよなら」といった。叔父は「さよなら、由雄さんによろしく」といった。二人がかろうじて別れの挨拶あいさつを交換するや否や、一種の音と動揺がすぐ彼女を支配し始めた。車内のお延は別にまとまった事を考えなかった。入れ替り立ち替り彼女の眼の前に浮ぶ、昨日きのうからの関係者の顔や姿は、自分の乗っている電車のように早く廻転するだけであった。しかし彼女はそうして目眩めまぐるしい影像イメジを一貫している或物を心のうちに認めた。もしくはその或物が根調こんちょうで、そうした断片的な影像が眼の前に飛び廻るのだとも云えた。彼女はその或物を拈定ねんていしなければならなかった。しかし彼女の努力は容易に成効せいこうをもって酬いられなかった。団子を認めた彼女は、ついに個々を貫いているくしを見定める事のできないうちに電車を下りてしまった。玄関の格子こうしを開ける音と共に、台所の方からけ出して来たお時は、彼女の予期通り「お帰り」と云って、鄭寧ていねいな頭を畳の上に押し付けた。お延は昨日に違った下女の判切はっきりした態度を、さも自分の手柄てがらででもあるように感じた。「今日は早かったでしょう」下女はそれほど早いとも思っていないらしかった。得意なお延の顔を見て、仕方なさそうに、「へえ」と答えたので、お延はまた譲歩した。「もっと早く帰ろうと思ったんだけれどもね、つい日が短かいもんだから」自分の脱ぎ棄てた着物をお時に畳ませる時、お延は彼女にいた。「あたしのいない留守に何にも用はなかったろうね」お時は「いいえ」と答えた。お延は念のためもう一遍問を改めた。「誰もやしなかったろうね」するとお時が急に忘れたものを思い出したように調子高ちょうしだかな返事をした。「あ、いらっしゃいました。あの小林さんとおっしゃる方が」夫の知人としての小林の名はお延の耳に始めてではなかった。彼女には二三度その人と口をいた記憶があった。しかし彼女はあまり彼を好いていなかった。彼が夫からはなはだ軽く見られているという事もよく呑み込んでいた。「何しに来たんだろう」こんなぞんざいな言葉さえ、つい口先へ出そうになった彼女は、それでも尋常な調子で、お時に訊き返した。「何か御用でもおありだったの」「ええあの外套がいとうを取りにいらっしゃいました」夫から何にも聞かされていないお延に、この言葉はまるで通じなかった。「外套?誰の外套?」周密なお延はいろいろな問をお時にかけて、小林の意味を知ろうとした。けれどもそれは全くの徒労であった。お延がけば訊くほど、お時が答えれば答えるほど、二人は迷宮に入るだけであった。しまいに自分達より小林の方が変だという事に気のついた二人は、声を出して笑った。津田の時々使うノンセンスと云う英語がお延の記憶に蘇生よみがえった。「小林とノンセンス」こう結びつけて考えると、お延はたまらなくおかしくなった。発作ほっさのようにげてくる滑稽感こっけいかんに遠慮なく自己を託した彼女は、電車のうちから持ち越して帰って来た、気がかりな宿題を、しばらく忘れていた。

EPISODE COMMENTS

この話の感想

感想 0

18話感想一覧

感想一覧を読み込み中...