七十四
お延が下女から食事の催促を受けて、二返目に継子と共に席を立ったのは、それから間もなくであった。一家のものは明るい室に晴々した顔を揃えた。先刻何かに拗ねて縁の下へ這入ったなり容易に出て来なかったという一さえ、機嫌よく叔父と話をしていた。「一さんは犬みたいよ」と百合子がわざわざ知らせに来た時、お延はこの小さい従妹から、彼がぱくりと口を開いて上から鼻の先へ出された餅菓子に食いついたという話を聞いたのであった。お延は微笑しながらいわゆる犬みたいな男の子の談話に耳を傾けた。「お父さま彗星が出ると何か悪い事があるんでしょう」「うん昔の人はそう思っていた。しかし今は学問が開けたから、そんな事を考えるものは、もう一人もなくなっちまった」「西洋では」西洋にも同じ迷信が古代に行われたものかどうだか、叔父は知らないらしかった。「西洋?西洋にゃ昔からない」「でもシーザーの死ぬ前に彗星が出たっていうじゃないの」「うんシーザーの殺される前か」と云った彼は、ごまかすよりほかに仕方がないらしかった。「ありゃ羅馬の時代だからな。ただの西洋とは訳が違うよ」一はそれで納得して黙った。しかしすぐ第二の質問をかけた。前よりは一層奇抜なその質問は立派に三段論法の形式を具えていた。井戸を掘って水が出る以上、地面の下は水でなければならない、地面の下が水である以上、地面は落こちなければならない。しかるに地面はなぜ落こちないか。これが彼の要旨であった。それに対する叔父の答弁がまたすこぶるしどろもどろなので、傍のものはみんなおかしがった。「そりゃお前落ちないさ」「だって下が水なら落ちる訳じゃないの」「そう旨くは行かないよ」女連が一度に笑い出すと、一はたちまち第三の問題に飛び移った。「お父さま、僕この宅が軍艦だと好いな。お父さまは?」「お父さまは軍艦よりただの宅の方が好いね」「だって地震の時宅なら潰れるじゃないの」「ははあ軍艦ならいくら地震があっても潰れないか。なるほどこいつは気がつかなかった。ふうん、なるほど」本式に感服している叔父の顔を、お延は微笑しながら眺めた。先刻藤井を晩餐に招待するといった彼は、もうその事を念頭においていないらしかった。叔母も忘れたように澄ましていた。お延はつい一に訊いて見たくなった。「一さん藤井の真事さんと同級なんでしょう」「ああ」と云った一は、すぐ真事についてお延の好奇心を満足させた。彼の話は、とうてい子供でなくては云えない、観察だの、批評だの、事実だのに富んでいた。食卓は一時彼の力で賑わった。みんなを笑わせた真事の逸話の中に、下のようなのがあった。ある時学校の帰りに、彼は一といっしょに大きな深い穴を覗き込んだ。土木工事のために深く掘り返されて、往来の真中に出来上ったその穴の上には、一本の杉丸太が掛け渡してあった。一は真事に、その丸太の上を渡ったら百円やると云った。すると無鉄砲な真事は、背嚢を背負って、尨犬の皮で拵えたといわれる例の靴を穿いたまま、「きっとくれる?」と云いながら、ほとんど平たい幅をもっていない、つるつる滑りそうな材木を渡り始めた。最初は今に落ちるだろうと思って見ていた一は、相手が一歩一歩と、危ないながらゆっくりゆっくり自分に近づいて来るのを見て、急に怖くなった。彼は深い穴の真上にある友達をそこへ置き去りにして、どんどん逃げだした。真事はまた始終足元に気を取られなければならないので、丸太を渡り切ってしまうまでは、一がどこへ行ったか全く知らずにいた。ようやく冒険を仕遂げて、約束通り百円貰おうと思って始めて眼を上げると、相手はいつの間にか逃げてしまって、一の影も形もまるで見えなかったというのである。「一の方が少し小悧巧のようだな」と叔父が評した。「藤井さんは近頃あんまり遊びに来ないようね」と叔母が云った。
七十五
小供が一つ学校の同級にいる事のほかに、お延の関係から近頃岡本と藤井の間に起った交際には多少の特色があった。否でも顔を合せなければならない祝儀不祝儀の席を未来に控えている彼らは、事情の許す限り、双方から接近しておく便宜を、平生から認めない訳に行かなかった。ことに女の利害を代表する岡本の方は、藤井よりも余計この必要を認めなければならない地位に立っていた。その上岡本の叔父には普通の成功者に附随する一種の如才なさがあった。持って生れた楽天的な広い横断面もあった。神経質な彼はまた誤解を恐れた。ことに生計向に不自由のないものが、比較的貧しい階級から受けがちな尊大不遜の誤解を恐れた。多年の多忙と勉強のために損なわれた健康を回復するために、当分閑地についた昨今の彼には、時間の余裕も充分あった。その時間の空虚なところを、自分の趣味に適う模細工で毎日埋めて行く彼は、今まで自分と全く縁故のないものとして、平気で通り過ぎた人や物にだんだん接近して見ようという意志ももっていた。これらの原因が困絡がって、叔父は時々藤井の宅へ自分の方から出かけて行く事があった。排外的に見える藤井は、律義に叔父の訪問を返そうともしなかったが、そうかと云って彼を厭がる様子も見せなかった。彼らはむしろ快よく談じた。底まで打ち解けた話はできないにしたところで、ただ相互の世界を交換するだけでも、多少の興味にはなった。その世界はまた妙に食い違っていた。一方から見るといかにも迂濶なものが、他方から眺めるといかにも高尚であったり、片側で卑俗と解釈しなければならないものを、向うでは是非とも実際的に考えたがったりするところに、思わざる発見がひょいひょい出て来た。「つまり批評家って云うんだろうね、ああ云う人の事を。しかしあれじゃ仕事はできない」お延は批評家という意味をよく理解しなかった。実際の役に立たないから、口先で偉そうな事を云って他をごまかすんだろうと思った。「仕事ができなくって、ただ理窟を弄んでいる人、そういう人に世間はどんな用があるだろう。そういう人が物質上相当の報酬を得ないで困るのは当然ではないか」。これ以上進む事のできなかった彼女は微笑しながら訊いた。「近頃藤井さんへいらしって」「うんこないだもちょっと散歩の帰りに寄ったよ。草臥れた時、休むにはちょうど都合の好い所にある宅だからね、あすこは」「また何か面白いお話しでもあって」「相変らず妙な事を考えてるね、あの男は。こないだは、男が女を引張り、女がまた男を引張るって話をさかんにやって来た」「あら厭だ」「馬鹿らしい、好い年をして」お延と叔母はこもごも呆れたような言葉を出す間に、継子だけはよそを向いた。「いや妙な事があるんだよ。大将なかなか調べているから感心だ。大将のいうところによると、こうなんだ。どこの宅でも、男の子は女親を慕い、女の子はまた反対に男親を慕うのが当り前だというんだが、なるほどそう云えば、そうだね」親身の叔母よりも義理の叔父を好いていたお延は少し真面目になった。「それでどうしたの」「それでこうなんだ。男と女は始終引張り合わないと、完全な人間になれないんだ。つまり自分に不足なところがどこかにあって、一人じゃそれをどうしても充たす訳に行かないんだ」お延の興味は急に退きかけた。叔父の云う事は、自分の疾うに知っている事実に過ぎなかった。「昔から陰陽和合っていうじゃありませんか」「ところが陰陽和合が必然でありながら、その反対の陰陽不和がまた必然なんだから面白いじゃないか」「どうして」「いいかい。男と女が引張り合うのは、互に違ったところがあるからだろう。今云った通り」「ええ」「じゃその違ったところは、つまり自分じゃない訳だろう。自分とは別物だろう」「ええ」「それ御覧。自分と別物なら、どうしたっていっしょになれっこないじゃないか。いつまで経ったって、離れているよりほかに仕方がないじゃないか」叔父はお延を征服した人のようにからからと笑った。お延は負けなかった。「だけどそりゃ理窟よ」「無論理窟さ。どこへ出ても立派に通る理窟さ」「駄目よ、そんな理窟は。何だか変ですよ。ちょうど藤井の叔父さんがふり廻しそうな屁理窟よ」お延は叔父をやり込める事ができなかった。けれども叔父のいう通りを信ずる気にはなれなかった。またどうあっても信ずるのは厭であった。
七十六
叔父は面白半分まだいろいろな事を云った。男が女を得て成仏する通りに、女も男を得て成仏する。しかしそれは結婚前の善男善女に限られた真理である。一度夫婦関係が成立するや否や、真理は急に寝返りを打って、今までとは正反対の事実を我々の眼の前に突きつける。すなわち男は女から離れなければ成仏できなくなる。女も男から離れなければ成仏し悪くなる。今までの牽引力がたちまち反撥性に変化する。そうして、昔から云い習わして来た通り、男はやっぱり男同志、女はどうしても女同志という諺を永久に認めたくなる。つまり人間が陰陽和合の実を挙げるのは、やがて来るべき陰陽不和の理を悟るために過ぎない。……叔父の言葉のどこまでが藤井の受売で、どこからが自分の考えなのか、またその考えのどこまでが真面目で、どこからが笑談なのか、お延にはよく分らなかった。筆を持つ術を知らない叔父は恐ろしく口の達者な人であった。ちょっとした心棒があると、その上に幾枚でも手製の着物を着せる事のできる人であった。俗にいう警句という種類のものが、いくらでも彼の口から出た。お延が反対すればするほど、膏が乗ってとめどなく出て来た。お延はとうとう好い加減にして切り上げなければならなかった。「ずいぶんのべつね、叔父さんも」「口じゃとても敵いっこないからお止しよ。こっちで何かいうと、なお意地になるんだから」「ええ、わざわざ陰陽不和を醸すように仕向けるのね」お延が叔母とこんな批評を取り換わせている間、叔父はにこにこして二人を眺めていたが、やがて会話の途切れるのを待って、徐ろに宣告を下した。「とうとう降参しましたかな。降参したなら、降参したで宜しい。敗けたものを追窮はしないから。――そこへ行くと男にはまた弱いものを憐れむという美点があるんだからな、こう見えても」彼はさも勝利者らしい顔を粧って立ち上がった。障子を開けて室の外へ出ると、もったいぶった足音が書斎の方に向いてだんだん遠ざかって行った。しばらくして戻って来た時、彼は片手に小型の薄っぺらな書物を四五冊持っていた。「おいお延好いものを持って来た。お前明日にでも病院へ行くなら、これを由雄さんの所へ持ってッておやり」「何よ」お延はすぐ書物を受け取って表紙を見た。英語の標題が、外国語に熟しない彼女の眼を少し悩ませた。彼女は拾い読にぽつぽつ読み下した。ブック・オフ・ジョークス。イングリッシ・ウィット・エンド・ヒュモア。……「へええ」「みんな滑稽なもんだ。洒落だとか、謎だとかね。寝ていて読むにはちょうど手頃で好いよ、肩が凝らなくってね」「なるほど叔父さん向のものね」「叔父さん向でもこのくらいな程度なら差支えあるまい。いくら由雄さんが厳格だって、まさか怒りゃしまい」「怒るなんて、……」「まあいいや、これも陰陽和合のためだ。試しに持ってッてみるさ」お延が礼を云って書物を膝の上に置くと、叔父はまた片々の手に持った小さい紙片を彼女の前に出した。「これは先刻お前を泣かした賠償金だ。約束だからついでに持っておいで」お延は叔父の手から紙片を受取らない先に、その何であるかを知った。叔父はことさらにそれをふり廻した。「お延、これは陰陽不和になった時、一番よく利く薬だよ。たいていの場合には一服呑むとすぐ平癒する妙薬だ」お延は立っている叔父を見上げながら、弱い調子で抵抗した。「陰陽不和じゃないのよ。あたし達のは本当の和合なのよ」「和合ならなお結構だ。和合の時に呑めば、精神がますます健全になる。そうして身体はいよいよ強壮になる。どっちへ転んでも間違のない妙薬だよ」叔父の手から小切手を受け取って、じっとそれを見つめていたお延の眼に涙がいっぱい溜った。
七十七
お延は叔父の送らせるという俥を断った。しかし停留所まで自身で送ってやるという彼の好意を断りかねた。二人はついに連れ立って長い坂を河縁の方へ下りて行った。「叔父さんの病気には運動が一番いいんだからね。――なに歩くのは自分の勝手さ」肥っていて呼息が短いので、坂を上るときおかしいほど苦しがる彼は、まるで帰りを忘れたような事を云った。二人は途々夜の更けた昨夕の話をした。仮寝をして突ッ伏していたお時の様子などがお延の口に上った。もと叔父の家にいたという縁故で、新夫婦二人ぎりの家庭に住み込んだこの下女に対して、叔父は幾分か周旋者の責任を感じなければならなかった。「ありゃ叔母さんがよく知ってるが、正直で好い女なんだよ。留守なんぞさせるには持って来いだって受合ったくらいだからね。だが独りで寝ちまっちゃ困るね、不用心で。もっともまだ年歯が年歯だからな。眠い事も眠いだろうよ」いくら若くっても、自分ならそんな場合にぐっすり寝込まれる訳のものでないという事をよく承知していたお延は、叔父のこの想いやりをただ笑いながら聴いていた。彼女に云わせれば、こうして早く帰るのも、あんなに遅くなった昨日の結果を、今度は繰り返させたくないという主意からであった。彼女は急いでそこへ来た電車に乗った。そうして車の中から叔父に向って「さよなら」といった。叔父は「さよなら、由雄さんによろしく」といった。二人が辛うじて別れの挨拶を交換するや否や、一種の音と動揺がすぐ彼女を支配し始めた。車内のお延は別に纏まった事を考えなかった。入れ替り立ち替り彼女の眼の前に浮ぶ、昨日からの関係者の顔や姿は、自分の乗っている電車のように早く廻転するだけであった。しかし彼女はそうして目眩しい影像を一貫している或物を心のうちに認めた。もしくはその或物が根調で、そうした断片的な影像が眼の前に飛び廻るのだとも云えた。彼女はその或物を拈定しなければならなかった。しかし彼女の努力は容易に成効をもって酬いられなかった。団子を認めた彼女は、ついに個々を貫いている串を見定める事のできないうちに電車を下りてしまった。玄関の格子を開ける音と共に、台所の方から駈け出して来たお時は、彼女の予期通り「お帰り」と云って、鄭寧な頭を畳の上に押し付けた。お延は昨日に違った下女の判切した態度を、さも自分の手柄ででもあるように感じた。「今日は早かったでしょう」下女はそれほど早いとも思っていないらしかった。得意なお延の顔を見て、仕方なさそうに、「へえ」と答えたので、お延はまた譲歩した。「もっと早く帰ろうと思ったんだけれどもね、つい日が短かいもんだから」自分の脱ぎ棄てた着物をお時に畳ませる時、お延は彼女に訊いた。「あたしのいない留守に何にも用はなかったろうね」お時は「いいえ」と答えた。お延は念のためもう一遍問を改めた。「誰も来やしなかったろうね」するとお時が急に忘れたものを思い出したように調子高な返事をした。「あ、いらっしゃいました。あの小林さんとおっしゃる方が」夫の知人としての小林の名はお延の耳に始めてではなかった。彼女には二三度その人と口を利いた記憶があった。しかし彼女はあまり彼を好いていなかった。彼が夫からはなはだ軽く見られているという事もよく呑み込んでいた。「何しに来たんだろう」こんなぞんざいな言葉さえ、つい口先へ出そうになった彼女は、それでも尋常な調子で、お時に訊き返した。「何か御用でもおありだったの」「ええあの外套を取りにいらっしゃいました」夫から何にも聞かされていないお延に、この言葉はまるで通じなかった。「外套?誰の外套?」周密なお延はいろいろな問をお時にかけて、小林の意味を知ろうとした。けれどもそれは全くの徒労であった。お延が訊けば訊くほど、お時が答えれば答えるほど、二人は迷宮に入るだけであった。しまいに自分達より小林の方が変だという事に気のついた二人は、声を出して笑った。津田の時々使うノンセンスと云う英語がお延の記憶に蘇生えった。「小林とノンセンス」こう結びつけて考えると、お延はたまらなくおかしくなった。発作のように込み上げてくる滑稽感に遠慮なく自己を託した彼女は、電車の中から持ち越して帰って来た、気がかりな宿題を、しばらく忘れていた。

