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明暗・夏目漱石

19

朗読者: VOICEVOX Nemo / ノーマルこの朗読者の公開朗読はまだない / 朗読停止中

七十八

お延はその晩京都にいる自分の両親へてて手紙を書いた。一昨日おととい昨日きのうも書きかけてめにしたその音信たよりを、今日は是非ぜひとも片づけてしまわなければならないと思い立った彼女の頭の中には、けっして両親の事ばかり働いているのではなかった。彼女は落ちつけなかった。不安からのがれようとする彼女には注意を一つ所に集める必要があった。先刻さっきからの疑問を解決したいという切な希望もあった。要するに京都へ手紙を書けば、ざわざわしがちな自分の心持をまとめて見る事ができそうに思えたのである。筆を取り上げた彼女は、例の通り時候の挨拶あいさつから始めて、無沙汰ぶさたの申し訳までを器械的に書きおわった後で、しばらく考えた。京都へ何か書いてやる以上は、是非とも自分と津田との消息をまとにおかなければならなかった。それはどの親も新婚の娘から聞きたがる事項であった。どの娘もまた生家せいか父母ふぼに知らせなくってはすまない事項であった。それを差しいて里へ手紙をやる必要はほとんどあるまいとまで平生から信じていたお延は、筆を持ったまま、目下自分と津田との間柄あいだがらは、はたしてどんなところにどういう風に関係しているかを考えなければならなかった。彼女はありのままその物を父母ふぼに報知する必要にせまられてはいなかった。けれどもある男にとついだ一個の妻として、それを見極みきわめておく要求を痛切に感じた。彼女はじっと考え込んだ。筆はそこでとまったぎり動かなくなった。その動かなくなった筆の事さえ忘れて、彼女は考えなければならなかった。しかも知ろうとすればするほど、しかとしたところは手につかめなかった。手紙を書くまでの彼女は、ざわざわした散漫な不安に悩まされていた。手紙を書き始めた今の彼女は、ようやく一つ所に落ちついた。そうしてまた一つ所に落ちついた不安に悩まされ始めた。先刻さっき電車の中で、ちらちら眼先につき出したいろいろの影像イメジは、みんなこの一点に向って集注するのだという事を、前後両様の比較から発見した彼女は、やっと自分を苦しめる不安の大根おおね辿たどりついた。けれどもその大根の正体はどうしても分らなかった。勢い彼女は問題を未来に繰り越さなければならなかった。今日こんにち解決ができなければ、明日みょうにち解決するよりほかに仕方がない。明日解決ができなければ明後日みょうごにち解決するよりほかに仕方がない。明後日解決ができなければ……」これが彼女の論法ロジックであった。また希望であった。最後の決心であった。そうしてその決心を彼女はすでに継子の前で公言していたのである。「誰でも構わない、自分のこうと思い込んだ人をくまで愛する事によって、その人に飽くまで自分を愛させなければやまない」彼女はここまで行く事を改めて心に誓った。ここまで行って落ちつく事を自分の意志に命令した。彼女の気分は少しかろくなった。彼女は再び筆を動かした。なるべく父母ふぼの喜こびそうな津田と自分の現況をはばかりなく書き連ねた。幸福そうに暮している二人のおもむきが、それからそれへと描出びょうしゅつされた。感激にちた筆の穂先がさらさらと心持よく紙の上を走るのが彼女には面白かった。長い手紙がただ一息に出来上った。その一息がどのくらいの時間に相当しているかという事を、彼女はまるで知らなかった。しまいに筆をいた彼女は、もう一遍自分の書いたものを最初から読み直して見た。彼女の手を支配したと同じ気分が、彼女の眼を支配しているので、彼女は訂正や添削てんさくの必要をどこにも認めなかった。日頃苦にして、使う時にはきっと言海げんかいを引いて見る、うろ覚えの字さえそのままで少しも気にかからなかった。てには違のために意味の通じなくなったところを、二三カ所ちょいちょいと取りつくろっただけで、彼女は手紙を巻いた。そうして心の中でそれを受取る父母に断った。「この手紙に書いてある事は、どこからどこまで本当です。うそや、気休きやすめや、誇張は、一字もありません。もしそれを疑う人があるなら、私はその人をにくみます、軽蔑けいべつします、つばきを吐きかけます。その人よりも私の方が真相を知っているからです。私は上部うわかわの事実以上の真相をここに書いています。それは今私にだけ解っている真相なのです。しかし未来では誰にでも解らなければならない真相なのです。私はけっしてあなた方をあざむいてはおりません。私があなた方を安心させるために、わざと欺騙あざむきの手紙を書いたのだというものがあったなら、その人は眼の明いた盲目めくらです。その人こそ嘘吐うそつきです。どうぞこの手紙を上げる私を信用して下さい。神様はすでに信用していらっしゃるのですから」お延は封書を枕元へ置いて寝た。

七十九

始めて京都で津田に会った時の事が思い出された。久しぶりに父母ちちははの顔を見に帰ったお延は、着いてから二三日にさんちして、父に使を頼まれた。一通の封書と一帙いっちつ唐本とうほんを持って、彼女は五六町へだたった津田のうちまで行かなければならなかった。軽い神経痛に悩まされて、寝たり起きたりぶらぶらしていた彼女の父は、病中の徒然つれづれなぐさめるために折々津田の父から書物を借り受けるのだという事を、お延はその時始めて彼の口から聞かされた。古いのを返して新らしいのを借りて来るのが彼女の用向であった。彼女は津田の玄関に立って案内を乞うた。玄関には大きな衝立ついたてが立ててあった。白い紙の上におどっているように見える変な字を、彼女が驚ろいて眺めていると、その衝立のうしろから取次に現われたのは、下女でも書生でもなく、ちょうどその時彼女と同じように京都のうちへ来ていた由雄であった。二人はもとよりそれまでに顔を合せた事がなかった。お延の方ではただうわさで由雄を知っているだけであった。近頃家へ帰って来たとか、または帰っているとかいう話は、その朝始めて父から聞いたぐらいのものであった。それも父に新らしく本を借りようという気が起って、彼がそのための手紙を書いた。事のついでに過ぎなかった。由雄はその時お延から帙入ちついり唐本とうほんを受取って、なぜだか、明詩別裁みんしべっさいといういかめしい字で書いた標題を長らくの間見つめていた。その見つめている彼を、お延はまたいつまでも眺めていなければならなかった。すると彼が急に顔を上げたので、お延が今まで熱心に彼を見ていた事がすぐ発覚してしまった。しかし由雄の返事を待ち受ける位地に立たせられたお延から見れば、これもやむをえない所作しょさに違なかった。顔を上げた由雄は、「父はあいにく今留守ですが」と云った。お延はすぐ帰ろうとした。すると由雄がまた呼びとめて、自分の父あての手紙を、お延の見ている前で、断りも何にもせずに、開封した。この平気な挙動がまたお延の注意をいた。彼の遣口やりくち不作法ぶさほうであった。けれども果断に違なかった。彼女はどうしても彼を粗野がさつとか乱暴とかいう言葉で評する気にならなかった。手紙を一目見た由雄は、お延を玄関先に待たせたまま、入用いりようの書物を探しに奥へ這入はいった。しかし不幸にして父の借ろうとする漢籍は彼の眼のつく所になかった。十分ばかりしてまた出て来た彼は、お延をむなしく引きとめておいたわびを述べた。指定していの本はちょっと見つからないから、彼の父の帰り次第、こっちから届けるようにすると云った。お延は失礼だというので、それを断った。自分がまた明日あしたにでも取りに来るからと約束してうちへ帰った。するとその日の午後由雄が向うから望みの本をわざわざ持って来てくれた。偶然にもお延がその取次に出た。二人はまた顔を見合せた。そうして今度はすぐ両方で両方を認め合った。由雄の手にげた書物は、今朝お延の返しに行ったものに比べると、約三倍の量があった。彼はそれを更紗さらさの風呂敷に包んで、あたかも鳥籠とりかごでもぶら下げているような具合にしてお延に示した。彼は招ぜられるままに座敷へ上ってお延の父と話をした。お延から云えば、とても若い人にはえられそうもない老人向の雑談を、別に迷惑そうな様子もなく、方角違の父と取り換わせた。彼は自分の持って来た本については何事も知らなかった。お延の返しに行った本についてはなお知らなかった。劃の多い四角な字の重なっている書物は全く読めないのだと断った。それでもこちらから借りに行った呉梅村詩ごばいそんしという四文字よもじあてに、書棚をあっちこっちと探してくれたのであった。父はあつく彼の好意を感謝した。……お延の眼にはその時の彼がちらちらした。その時の彼は今の彼と別人べつにんではなかった。といって、今の彼と同人でもなかった。平たく云えば、同じ人が変ったのであった。最初無関心に見えた彼は、だんだん自分の方にきつけられるように変って来た。いったん牽きつけられた彼は、またしだいに自分から離れるように変って行くのではなかろうか。彼女の疑はほとんど彼女の事実であった。彼女はそのうたがいぬぐい去るために、その事実をり返さなければならなかった。

八十

強い意志がお延の身体からだ全体にち渡った。朝になって眼をました時の彼女には、怯懦きょうだほど自分に縁の遠いものはなかった。寝起ねおきの悪過ぎた前の日の自分を忘れたように、彼女はすぐ飛び起きた。夜具を退けて、床を離れる途端とたんに、彼女は自分で自分の腕の力を感じた。朝寒あささむ刺戟しげきと共に、まった筋肉が一度に彼女を緊縮させた。彼女は自分の手で雨戸を手繰たぐった。戸外そとの模様はいつもよりまだよッぽど早かった。昨日きのうに引き換えて、今日は津田のいる時よりもかえって早く起きたという事が、なぜだか彼女にはうれしかった。なまけて寝過した昨日のつぐない、それも満足の一つであった。彼女は自分で床を上げて座敷をき出した後で鏡台に向った。そうしてってから四日目になる髪をいた。油でよごれた所へ二三度くしを通して、癖がついて自由にならないのを、無理にひさしつかげた。それが済んでから始めて下女を起した。食事のできるまでの時間を、下女と共に働らいた彼女は、ぜんに着いた時、下女から「今日は大変お早うございましたね」と云われた。何にも知らないお時は、彼女の早起を驚ろいているらしかった。また自分が主人より遅く起きたのをすまない事でもしたように考えているらしかった。「今日は旦那様だんなさまのお見舞に行かなければならないからね」「そんなにお早くいらっしゃるんでございますか」「ええ。昨日きのう行かなかったから今日は少し早く出かけましょう」お延の言葉遣ことばづかいは平生より鄭寧ていねいで片づいていた。そこに或落ちつきがあった。そうしてその落ちつきを裏切る意気があった。意気に伴なう果断も遠くに見えた。彼女の中にある心の調子がおのずと態度にあらわれた。それでも彼女はすぐ出かけようとはしなかった。たすきはずして盆を持ったお時を相手に、しばらく岡本の話などをした。もと世話になったおぼえのあるその家族は、お時にとっても、興味にちた題目なので、二人は同じ事を繰り返すようにしてまで、よく彼らについて語り合った。ことに津田のいない時はそうであった。というのは、もし津田がいると、ある場合には、彼一人が除外物のけものにされたような変な結果におちいるからであった。ふとした拍子からそんな気下味きまずい思いを一二度経験した後で、そこに気をつけ出したお延は、そのほかにまだ、富裕な自分の身内を自慢らしく吹聴ふいちょうしたがる女と夫から解釈される不快を避けなければならない理由もあったので、お時にもかねてそのむねを言い含めておいたのである。「御嬢さまはまだどこへもおきまりになりませんのでございますか」「何だかそんな話もあるようだけれどもね、まだどうなるかよく解らない様子だよ」「早く好い所へいらっしゃるようになると、結構でございますがね」「おおかたもうじきでしょう。叔父さんはあんな性急せっかちだから。それに継子さんはあたしと違って、ああいう器量好きりょうよしだしね」お時は何か云おうとした。お延は下女のお世辞せじを受けるのが苦痛だったので、すぐ自分でそのあとをつけた。「女はどうしても器量が好くないと損ね。いくら悧巧りこうでも、気がいていても、顔が悪いと男にはきらわれるだけね」「そんな事はございません」お時が弁護するように強くこういったので、お延はなお自分を主張したくなった。「本当よ。男はそんなものなのよ」「でも、それは一時の事で、年を取るとそうは参りますまい」お延は答えなかった。しかし彼女の自信はそんな弱いものではなかった。「本当にあたしのような不器量なものは、生れ変ってでも来なくっちゃ仕方がない」お時はあきれた顔をしてお延を見た。「奥様が不器量なら、わたくしなんか何といえばいいのでございましょう」お時の言葉はお世辞でもあり、事実でもあった。両方の度合をよく心得ていたお延は、それで満足して立ち上った。彼女が外出のため着物を着換えていると、戸外そとから誰か来たらしい足音がして玄関の号鈴ベルが鳴った。取次に出たお時に、「ちょっと奥さんに」という声が聞こえた。お延はその声のぬしを判断しようとして首を傾けた。

八十一

そでを口へ当ててくすくす笑いながら茶の間へけ込んで来たお時は、容易に客の名を云わなかった。彼女はただおかしさをみ殺そうとして、お延の前でもだえ苦しんだ。わずか「小林」という言葉を口へ出すのでさえよほど手間取った。この不時の訪問者をどう取り扱っていいか、お延は解らなかった。厚い帯をめかけているので、自分がすぐ玄関へ出る訳に行かなかった。といって、掛取かけとりでも待たせておくように、いつまでも彼をそこに立たせるのも不作法であった。姿見すがたみの前にすくんだ彼女は当惑のまゆを寄せた。仕方がないので、がけだから、ゆっくり会ってはいられないがとわざわざ断らした後で、彼を座敷へ上げた。しかし会って見ると、満更まんざら知らない顔でもないので、用だけ聴いてすぐ帰って貰う事もできなかった。その上小林は斟酌しんしゃくだの遠慮だのを知らない点にかけて、たいていの人にひけを取らないように、天から生みつけられた男であった。お延の時間がせまっているのを承知の癖に、彼は相手さえ悪い顔をしなければ、いつまで坐り込んでいても差支さしつかえないものとひとりで合点がてんしているらしかった。彼は津田の病気をよく知っていた。彼は自分が今度地位を得て朝鮮に行く事を話した。彼のいうところによれば、その地位は未来に希望のある重要のものであった。彼はまた探偵にけられた話をした。それは津田といっしょに藤井から帰る晩の出来事だと云って、驚ろいたお延の顔を面白そうに眺めた。彼は探偵に跟けられるのが自慢らしかった。おおかた社会主義者として目指めざされているのだろうという説明までして聴かせた。彼の談話には気の弱い女に衝撃ショックを与えるような部分があった。津田から何にも聞いていないお延は、怖々こわごわながらついそこに釣り込まれて大切な時間を度外においた。しかし彼の云う事を素直にはいはい聴いているとどこまで行ってもはてしがなかった。しまいにはこっちから催促して、早く向うに用事を切り出させるように仕向けるよりほかにみちがなくなった。彼は少しきまりの悪そうな様子をしてようやく用向を述べた。それは昨夕ゆうべお延とお時をさんざ笑わせた外套がいとうの件にほかならなかった。「津田君から貰うっていう約束をしたもんですから」彼の主意は朝鮮へ立つ前ちょっとその外套を着て見て、もしあんまり自分の身体からだに合わないようなら今のうちに直させたいというのであった。お延はすぐ入用いりようの品を箪笥たんすの底から出してやろうかと思った。けれども彼女はまだ津田から何にも聞いていなかった。「どうせもう着る事なんかなかろうとは思うんですが」といって逡巡ためらった彼女は、こんな事に案外やかましい夫の気性きしょうをよく知っていた。着古した外套がいとう一つがもとで、他日細君の手落呼ておちよばわりなどをされた日にはたまらないと思った。「大丈夫ですよ、くれるって云ったにちがいないんだから。うそなんかきやしませんよ」出してやらないと小林を嘘吐うそつきとしてしまうようなものであった。「いくら酔払っていたって気はたしかなんですからね。どんな事があったって貰う物を忘れるような僕じゃありませんよ」お延はとうとう決心した。「じゃしばらく待ってて下さい。電話でちょっと病院へ聞き合せにやりますから」「奥さんは実に几帳面きちょうめんですね」と云って小林は笑った。けれどもお延のあんに恐れていた不愉快そうな表情は、彼の顔のどこにも認められなかった。「ただ念のためにですよ。あとでわたくしがまた何とか云われると困りますから」お延はそれでも小林が気を悪くしない用心に、こんな弁解がましい事を附け加えずにはいられなかった。お時が自働電話へけつけて津田の返事を持って来る間、二人はなお対座した。そうして彼女の帰りを待ち受ける時間を談話でつないだ。ところがその談話は突然なひらめきで、何にも予期していなかったお延の心臓をおどらせた。

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