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明暗・夏目漱石

20

朗読者: VOICEVOX Nemo / ノーマルこの朗読者の公開朗読はまだない / 朗読停止中

八十二

「津田君は近頃だいぶおとなしくなったようですね。全く奥さんの影響でしょう」お時が出て行くや否や、小林はやぶからぼうにこんな事を云い出した。お延は相手が相手なので、あたらずさわらずの返事をしておくに限ると思った。「そうですか。私自身じゃ影響なんかまるでないように思っておりますがね」「どうして、どうして。まるで人間が生れ変ったようなものです」小林の云い方があまり大袈裟おおげさなので、お延はかえって相手を冷評ひやかし返してやりたくなった。しかし彼女の気位きぐらいがそれを許さなかったので、彼女はわざと黙っていた。小林はまたそんな事を顧慮こりょする男ではなかった。秩序も段落も構わない彼の話題は、突飛とっぴにここかしこをめぐる代りに、時としては不作法ぶさほうなくらい一直線に進んだ。「やッぱり細君の力にはかないませんね、どんな男でも。――僕のような独身ものには、ほとんど想像がつかないけれども、何かあるんでしょうね、そこに」お延はとうとう自分を抑える事ができなくなった。彼女は笑い出した。「ええあるわ。小林さんなんかにはとても見当けんとうのつかない神秘的なものがたくさんあるわ、夫婦の間には」「あるなら一つ教えていただきたいもんですね」ひとりものが教わったって何にもならないじゃありませんか」「参考になりますよ」お延は細い眼のうちに、かしこそうな光りを見せた。「それよりあなた御自分で奥さんをおもらいになるのが、一番捷径ちかみちじゃありませんか」小林は頭を真似まねをした。「貰いたくっても貰えないんです」「なぜ」「来てくれ手がなければ、自然貰えない訳じゃありませんか」「日本は女の余ってる国よ、あなた。お嫁なんかどんなのでもそこいらにごろごろ転がってるじゃありませんか」お延はこう云ったあとで、これは少し云い過ぎたと思った。しかし相手は平気であった。もっと強くてはげしい言葉に平生から慣れ抜いている彼の神経は全く無感覚であった。「いくら女が余っていても、これからおちをしようという矢先ですからね、来ッこありませんよ」駈落という言葉が、ふと芝居でやる男女二人なんにょふたり道行みちゆきをお延におもい起させた。そうした濃厚な恋愛をかたどるなまめかしい歌舞伎姿かぶきすがたを、ちらりと胸に描いた彼女は、それと全く縁の遠い、ひとの着古した外套がいとうを貰うために、今自分の前に坐っている小林を見て微笑した。駈落かけおちをなさるのなら、いっそ二人でなすったらいいでしょう」「誰とです」「そりゃきまっていますわ。奥さんのほかに誰もれていらっしゃる方はないじゃありませんか」「へえ」小林はこう云ったなりかしこまった。その態度が全くお延の予期にはずれていたので、彼女は少し驚ろかされた。そうしてかえって予期以上おかしくなった。けれども小林は真面目まじめであった。しばらくをおいてからひとごとのような口調で、彼は妙なことを云い出した。「僕だって朝鮮三界さんがいまで駈落のお供をしてくれるような、じつのある女があれば、こんな変な人間にならないで、すんだかも知れませんよ。実を云うと、僕には細君がないばかりじゃないんです。何にもないんです。親も友達もないんです。つまり世の中がないんですね。もっと広く云えば人間がないんだとも云われるでしょうが」お延は生れて初めての人に会ったような気がした。こんな言葉をまだ誰の口からも聞いた事のない彼女は、その表面上の意味を理解するだけでも困難を感じた。相手をどうなしていいかの点になると、全く方角が立たなかった。すると小林の態度はなお感慨を帯びて来た。「奥さん、僕にはたった一人のいもとがあるんです。ほかに何にもない僕には、その妹が非常に貴重に見えるのです。普通の人の場合よりどのくらい貴重だか分りゃしません。それでも僕はその妹をおいて行かなければならないのです。妹は僕のあとへどこまでも喰ッついて来たがります。しかし僕はまた妹をどうしてもれて行く事ができないのです。二人いっしょにいるよりも、二人離れ離れになっている方が、まだ安全だからです。人に殺される危険がまだ少ないからです」お延は少し気味が悪くなった。早く帰って来てくれればいいと思うお時はまだ帰らなかった。仕方なしに彼女は話題を変えてこの圧迫からのがれようと試みた。彼女はすぐ成功した。しかしそれがために彼女はまたとんでもない結果におちいった。

八十三

特殊の経過をもったその時の問答は、まずお延の言葉から始まった。「しかしあなたのおっしゃる事は本当なんでしょうかね」小林ははたして沈痛らしい今までの態度をすぐ改めた。そうしてお延の思わく通り向うからき返して来た。「何がです、今僕の云った事がですか」「いいえ、そんな事じゃないの」お延は巧みに相手を岐路わきみちに誘い込んだ。「あなた先刻さっきおっしゃったでしょう。近頃津田がだいぶ変って来たって」小林は元へ戻らなければならなかった。「ええ云いました。それに違ないから、そう云ったんです」「本当に津田はそんなに変ったでしょうか」「ええ変りましたね」お延はちないような顔をして小林を見た。小林はまた何か証拠しょうこでも握っているらしい様子をしてお延を見た。二人がしばらく顔を見合せている間、小林の口元には始終しじゅう薄笑いの影が射していた。けれどもそれはついに本式の笑いとなる機会を得ずに消えてしまわなければならなかった。お延は小林なんぞに調戯からかわれる自分じゃないという態度を見せたのである。「奥さん、あなた自分だって大概気がつきそうなものじゃありませんか」今度は小林の方からこう云ってお延に働らきかけて来た。お延はたしかにそこに気がついていた。けれども彼女の気がついている夫の変化は、全く別ものであった。小林の考えている、少なくとも彼の口にしている、変化とはまるで反対の傾向を帯びていた。津田といっしょになってから、朧気おぼろげながらしだいしだいに明るくなりつつあるように感ぜられるその変化は、非常に見分けにくい色調しきちょうの階段をそろりそろりと動いて行く微妙なものであった。どんな鋭敏な観察者が外部そとからのぞいてもとうていわかりこない性質のものであった。そうしてそれが彼女の秘密であった。愛する人が自分から離れて行こうとする毫釐ごうりの変化、もしくは前から離れていたのだという悲しい事実を、今になって、そろそろ認め始めたという心持の変化。それが何で小林ごときものに知れよう。「いっこう気がつきませんね。あれでどこか変ったところでもあるんでしょうか」小林は大きな声を出して笑った。「奥さんはなかなか空惚そらッとぼける事が上手だから、僕なんざあとてもかなわない」「空惚けるっていうのはあなたの事じゃありませんか」「ええ、まあ、そんならそうにしておきましょう。――しかし奥さんはそういううまいお手際てぎわをもっていられるんですね。ようやく解った。それで津田君がああ変化して来るんですね、どうも不思議だと思ったら」お延はわざと取り合わなかった。と云って別にうるさい顔もしなかった。愛嬌あいきょうを見せた平気とでもいうような態度をとった。小林はもう一歩前へ進み出した。「藤井さんでもみんな驚ろいていますよ」「何を」藤井という言葉を耳にした時、お延の細い眼がたちまち相手の上に動いた。おびされると知りながら、彼女はついこういってき返さなければならなかった。「あなたのお手際にです。津田君を手のうちに丸め込んで自由にするあなたの霊妙なお手際にです」小林の言葉は露骨過ぎた。しかし露骨な彼は、わざと愛嬌半分にそれをお延の前で披露ひろうするらしかった。お延はつんとして答えた。「そうですか。わたくしにそれだけの力があるんですかね。自分にゃ解りませんが、藤井の叔父さんや叔母さんがそう云って下さるなら、おおかた本当なんでしょうよ」「本当ですとも。僕が見たって、誰が見たって本当なんだから仕方がないじゃありませんか」「ありがとう」お延はさも軽蔑けいべつした調子で礼を云った。その礼の中に含まれていた苦々にがにがしい響は、小林にとって全く予想外のものであるらしかった。彼はすぐ彼女をなだめるような口調で云った。「奥さんは結婚前の津田君を御承知ないから、それで自分の津田君に及ぼした影響を自覚なさらないんでしょうが、――」「わたくしは結婚前から津田を知っております」「しかしその前は御存じないでしょう」「当り前ですわ」「ところが僕はその前をちゃんと知っているんですよ」話はこんな具合にして、とうとう津田の過去にさかのぼって行った。

八十四

自分のまだ知らない夫の領分に這入はいり込んで行くのはお延にとって多大の興味に違なかった。彼女は喜こんで小林の談話に耳を傾けようとした。ところがいざ聴こうとすると、小林はけっして要領を得た事を云わなかった。云っても肝心かんじんのところはわざと略してしまった。たとえば二人が深夜非常線にかかった時の光景には一口触れるが、そういう出来事に出合うまで、彼らがどこで夜深よふかしをしていたかの点になると、彼は故意にぼかしさって、全く語らないという風を示した。それをけば意味ありげににやにや笑って見せるだけであった。お延は彼がとくにこうして自分を焦燥じらしているのではなかろうかという気さえ起した。お延は平生から小林を軽く見ていた。なかば夫の評価を標準におき、半ば自分の直覚を信用して成立ったこの侮蔑ぶべつの裏には、まだひとに向って公言しない大きな因子ファクトーがあった。それは単に小林が貧乏であるという事に過ぎなかった。彼に地位がないという点にほかならなかった。売れもしない雑誌の編輯へんしゅうそんなものはきまった職業として彼女の眼に映るはずがなかった。彼女の見た小林は、常に無籍むせきもののような顔をして、世の中をうろうろしていた。宿なしらしい愚痴ぐちこぼして、いやがらせにそこいらをまごつき歩くだけであった。しかしこの種の軽蔑に、ある程度の不気味はいつでも附物つきものであった。ことにそういう階級にらされない女、しかも経験に乏しい若い女には、なおさらの事でなければならなかった。少くとも小林の前に坐ったお延はそう感じた。彼女は今までに彼ぐらいな貧しさの程度の人に出合わないとは云えなかった。しかし岡本のうち出入ではいりをするそれらの人々は、みんなその分をわきまえていた。身分には段等だんとうがあるものと心得て、みんなおのれに許された範囲内においてのみ行動をあえてした。彼女はいまだかつて小林のように横着な人間に接した例がなかった。彼のように無遠慮に自分に近づいて来るもの、富も位地もない癖に、彼のように大きな事を云うもの、彼のようにむやみに上流社会の悪体あくたいくものにはけっして会った事がなかった。お延は突然気がついた。「自分の今相手にしているのは、平生考えていた通りの馬鹿でなくって、あるいは手に余るれッらしじゃなかろうか」軽蔑けいべつの裏にひそんでいる不気味な方面が強く頭を持上もちやげた時、お延の態度は急に改たまった。すると小林はそれを見届けた証拠しょうこにか、またはそれに全くの無頓着むとんじゃくでか、アははと笑い出した。「奥さんまだいろいろ残ってますよ。あなたの知りたい事がね」「そうですか。今日はもうそのくらいでたくさんでしょう。あんまり一度いちどきに伺ってしまうと、これから先の楽しみがなくなりますから」「そうですね、じゃ今日はこれで切り上げときますかな。あんまり奥さんに気をませて、歇斯的里ヒステリでも起されると、あとでまた僕の責任だなんて、津田君にうらまれるだけだから」お延はうしろを向いた。後は壁であった。それでも茶の間に近いその見当けんとうに、彼女はお時の消息を聞こうとする努力を見せた。けれども勝手口は今まで通り静かであった。うに帰るべきはずのお時はまだ帰って来なかった。「どうしたんでしょう」「なに今に帰って来ますよ。心配しないでも迷児まいごになる気遣きづかいはないから大丈夫です」小林は動こうともしなかった。お延は仕方がないので、茶をえるのを口実に、席を立とうとした。小林はそれさえさえぎった。「奥さん、時間があるなら、退屈凌たいくつしのぎに幾らでも先刻さっきの続きを話しますよ。しゃべってつぶすのも、黙って潰すのも、どうせ僕見たいな穀潰ごくつぶしにゃ、おんなし時間なんだから、ちっとも御遠慮にゃ及びません。どうです、津田君にはあれでまだあなたに打ち明けないような水臭いところがだいぶあるんでしょう」「あるかも知れませんね」「ああ見えてなかなか淡泊たんぱくでないからね」お延ははっと思った。腹の中で小林の批評を首肯うけがわない訳に行かなかった彼女は、それがあたっているだけになおの事感情を害した。自分の立場を心得ない何という不作法ぶさほうな男だろうと思って小林を見た。小林は平気で前の言葉を繰り返した。「奥さんあなたの知らない事がまだたくさんありますよ」「あってもよろしいじゃございませんか」「いや、実はあなたの知りたいと思ってる事がまだたくさんあるんですよ」「あっても構いません」「じゃ、あなたの知らなければならない事がまだたくさんあるんだと云い直したらどうです。それでも構いませんか」「ええ、構いません」

八十五

小林の顔には皮肉のうずみなぎった。進んでも退しりぞいてもこっちのものだという勝利の表情がありありと見えた。彼はその瞬間の得意を永久に引き延ばして、いつまでも自分で眺め暮したいような素振そぶりさえ示した。「何という陋劣ろうれつな男だろう」お延は腹の中でこう思った。そうしてしばらくの間じっと彼とにらめっくらをしていた。すると小林の方からまた口をき出した。「奥さん津田君が変った例証として、是非あなたにかせなければならない事があるんですが、あんまりおびえていらっしゃるようだから、それは後廻しにして、その反対の方、すなわち津田君がちっとも変らないところを少し御参考までにお話しておきますよ。これはいやでもわたしの方で是非奥さんに聴いていただきたいのです。――どうです聴いて下さいますか」お延は冷淡に「どうともあなたの御随意に」と答えた。小林は「ありがたい」と云って笑った。「僕は昔から津田君に軽蔑けいべつされていました。今でも津田君に軽蔑されています。先刻さっきからいう通り津田君は大変変りましたよ。けれども津田君の僕に対する軽蔑だけは昔も今も同様なのです。ごうも変らないのです。これだけはいくら怜悧りこうな奥さんの感化力でもどうする訳にも行かないと見えますね。もっともあなた方から見たら、それが理の当然なんでしょうけれどもね」小林はそこで言葉を切って、少し苦しそうなお延の笑い顔に見入った。それからまた続けた。「いや別に変って貰いたいという意味じゃありませんよ。その点について奥さんの御尽力を仰ぐ気は毛頭ないんだから、御安心なさい。実をいうと、僕は津田君にばかり軽蔑されている人間じゃないんです。誰にでも軽蔑されている人間なんです。下らない女にまで軽蔑されているんです。有体ありていに云えば世の中全体が寄ってたかって僕を軽蔑しているんです」小林の眼はわっていた。お延は何という事もできなかった。「まあ」「それは事実です。現に奥さん自身でもそれを腹の中で認めていらっしゃるじゃありませんか」「そんな馬鹿な事があるもんですか」「そりゃ口の先では、そうおっしゃらなければならないでしょう」「あなたもずいぶんひがんでいらっしゃるのね」「ええ僻んでるかも知れません。僻もうが僻むまいが、事実は事実ですからね。しかしそりゃどうでもいいんです。もともと無能やくざに生れついたのが悪いんだから、いくら軽蔑されたって仕方がありますまい。誰をうらむ訳にも行かないのでしょう。けれども世間からのべつにそう取り扱われつけて来た人間の心持を、あなたは御承知ですか」小林はいつまでもお延の顔を見て返事を待っていた。お延には何もいう事がなかった。まるっきり同情の起り得ない相手の心持、それが自分に何の関係があろう。自分にはまた自分で考えなければならない問題があった。彼女は小林のために想像のつばささえ伸ばしてやる気にならなかった。その様子を見た小林はまた「奥さん」と云い出した。「奥さん、僕は人にいやがられるために生きているんです。わざわざ人の厭がるような事を云ったりしたりするんです。そうでもしなければ苦しくってたまらないんです。生きていられないのです。僕の存在を人に認めさせる事ができないんです。僕は無能です。幾ら人から軽蔑けいべつされても存分な讐討かたきうちができないんです。仕方がないからせめて人に嫌われてでも見ようと思うのです。それが僕の志願なのです」お延の前にまるで別世界に生れた人の心理状態が描き出された。誰からでも愛されたい、また誰からでも愛されるように仕向けて行きたい、ことに夫に対しては、是非共そうしなければならない、というのが彼女の腹であった。そうしてそれは例外なく世界中の誰にでもはまって、ごうもとらないものだと、彼女は最初から信じ切っていたのである。吃驚びっくりしたようじゃありませんか。奥さんはまだそんな人に会った事がないんでしょう。世の中にはいろいろの人がありますからね」小林は多少溜飲りゅういんの下りたような顔をした。「奥さんは先刻さっきから僕を厭がっている。早く帰ればいい、帰ればいいと思っている。ところがどうした訳か、下女が帰って来ないもんだから、仕方なしに僕の相手になっている。それがちゃんと僕には分るんです。けれども奥さんはただ僕を厭なやつだと思うだけで、なぜ僕がこんな厭な奴になったのか、その原因を御承知ない。だから僕がちょっとそこを説明して上げたのです。僕だってまさか生れたてからこんな厭な奴でもなかったんでしょうよ、よくは分りませんけれどもね」小林はまた大きな声を出して笑った。

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