八十二
「津田君は近頃だいぶおとなしくなったようですね。全く奥さんの影響でしょう」お時が出て行くや否や、小林は藪から棒にこんな事を云い出した。お延は相手が相手なので、当らず障らずの返事をしておくに限ると思った。「そうですか。私自身じゃ影響なんかまるでないように思っておりますがね」「どうして、どうして。まるで人間が生れ変ったようなものです」小林の云い方があまり大袈裟なので、お延はかえって相手を冷評し返してやりたくなった。しかし彼女の気位がそれを許さなかったので、彼女はわざと黙っていた。小林はまたそんな事を顧慮する男ではなかった。秩序も段落も構わない彼の話題は、突飛にここかしこを駈け回る代りに、時としては不作法なくらい一直線に進んだ。「やッぱり細君の力には敵いませんね、どんな男でも。――僕のような独身ものには、ほとんど想像がつかないけれども、何かあるんでしょうね、そこに」お延はとうとう自分を抑える事ができなくなった。彼女は笑い出した。「ええあるわ。小林さんなんかにはとても見当のつかない神秘的なものがたくさんあるわ、夫婦の間には」「あるなら一つ教えていただきたいもんですね」「独りものが教わったって何にもならないじゃありませんか」「参考になりますよ」お延は細い眼のうちに、賢こそうな光りを見せた。「それよりあなた御自分で奥さんをお貰いになるのが、一番捷径じゃありませんか」小林は頭を掻く真似をした。「貰いたくっても貰えないんです」「なぜ」「来てくれ手がなければ、自然貰えない訳じゃありませんか」「日本は女の余ってる国よ、あなた。お嫁なんかどんなのでもそこいらにごろごろ転がってるじゃありませんか」お延はこう云ったあとで、これは少し云い過ぎたと思った。しかし相手は平気であった。もっと強くて烈しい言葉に平生から慣れ抜いている彼の神経は全く無感覚であった。「いくら女が余っていても、これから駈け落をしようという矢先ですからね、来ッこありませんよ」駈落という言葉が、ふと芝居でやる男女二人の道行をお延に想い起させた。そうした濃厚な恋愛を象どる艶めかしい歌舞伎姿を、ちらりと胸に描いた彼女は、それと全く縁の遠い、他の着古した外套を貰うために、今自分の前に坐っている小林を見て微笑した。「駈落をなさるのなら、いっそ二人でなすったらいいでしょう」「誰とです」「そりゃきまっていますわ。奥さんのほかに誰も伴れていらっしゃる方はないじゃありませんか」「へえ」小林はこう云ったなり畏まった。その態度が全くお延の予期に外れていたので、彼女は少し驚ろかされた。そうしてかえって予期以上おかしくなった。けれども小林は真面目であった。しばらく間をおいてから独り言のような口調で、彼は妙なことを云い出した。「僕だって朝鮮三界まで駈落のお供をしてくれるような、実のある女があれば、こんな変な人間にならないで、すんだかも知れませんよ。実を云うと、僕には細君がないばかりじゃないんです。何にもないんです。親も友達もないんです。つまり世の中がないんですね。もっと広く云えば人間がないんだとも云われるでしょうが」お延は生れて初めての人に会ったような気がした。こんな言葉をまだ誰の口からも聞いた事のない彼女は、その表面上の意味を理解するだけでも困難を感じた。相手をどう捌なしていいかの点になると、全く方角が立たなかった。すると小林の態度はなお感慨を帯びて来た。「奥さん、僕にはたった一人の妹があるんです。ほかに何にもない僕には、その妹が非常に貴重に見えるのです。普通の人の場合よりどのくらい貴重だか分りゃしません。それでも僕はその妹をおいて行かなければならないのです。妹は僕のあとへどこまでも喰ッついて来たがります。しかし僕はまた妹をどうしても伴れて行く事ができないのです。二人いっしょにいるよりも、二人離れ離れになっている方が、まだ安全だからです。人に殺される危険がまだ少ないからです」お延は少し気味が悪くなった。早く帰って来てくれればいいと思うお時はまだ帰らなかった。仕方なしに彼女は話題を変えてこの圧迫から逃れようと試みた。彼女はすぐ成功した。しかしそれがために彼女はまたとんでもない結果に陥った。
八十三
特殊の経過をもったその時の問答は、まずお延の言葉から始まった。「しかしあなたのおっしゃる事は本当なんでしょうかね」小林ははたして沈痛らしい今までの態度をすぐ改めた。そうしてお延の思わく通り向うから訊き返して来た。「何がです、今僕の云った事がですか」「いいえ、そんな事じゃないの」お延は巧みに相手を岐路に誘い込んだ。「あなた先刻おっしゃったでしょう。近頃津田がだいぶ変って来たって」小林は元へ戻らなければならなかった。「ええ云いました。それに違ないから、そう云ったんです」「本当に津田はそんなに変ったでしょうか」「ええ変りましたね」お延は腑に落ちないような顔をして小林を見た。小林はまた何か証拠でも握っているらしい様子をしてお延を見た。二人がしばらく顔を見合せている間、小林の口元には始終薄笑いの影が射していた。けれどもそれは終に本式の笑いとなる機会を得ずに消えてしまわなければならなかった。お延は小林なんぞに調戯われる自分じゃないという態度を見せたのである。「奥さん、あなた自分だって大概気がつきそうなものじゃありませんか」今度は小林の方からこう云ってお延に働らきかけて来た。お延はたしかにそこに気がついていた。けれども彼女の気がついている夫の変化は、全く別ものであった。小林の考えている、少なくとも彼の口にしている、変化とはまるで反対の傾向を帯びていた。津田といっしょになってから、朧気ながらしだいしだいに明るくなりつつあるように感ぜられるその変化は、非常に見分けにくい色調の階段をそろりそろりと動いて行く微妙なものであった。どんな鋭敏な観察者が外部から覗いてもとうてい判りこない性質のものであった。そうしてそれが彼女の秘密であった。愛する人が自分から離れて行こうとする毫釐の変化、もしくは前から離れていたのだという悲しい事実を、今になって、そろそろ認め始めたという心持の変化。それが何で小林ごときものに知れよう。「いっこう気がつきませんね。あれでどこか変ったところでもあるんでしょうか」小林は大きな声を出して笑った。「奥さんはなかなか空惚ける事が上手だから、僕なんざあとても敵わない」「空惚けるっていうのはあなたの事じゃありませんか」「ええ、まあ、そんならそうにしておきましょう。――しかし奥さんはそういう旨いお手際をもっていられるんですね。ようやく解った。それで津田君がああ変化して来るんですね、どうも不思議だと思ったら」お延はわざと取り合わなかった。と云って別に煩さい顔もしなかった。愛嬌を見せた平気とでもいうような態度をとった。小林はもう一歩前へ進み出した。「藤井さんでもみんな驚ろいていますよ」「何を」藤井という言葉を耳にした時、お延の細い眼がたちまち相手の上に動いた。誘き出されると知りながら、彼女はついこういって訊き返さなければならなかった。「あなたのお手際にです。津田君を手のうちに丸め込んで自由にするあなたの霊妙なお手際にです」小林の言葉は露骨過ぎた。しかし露骨な彼は、わざと愛嬌半分にそれをお延の前で披露するらしかった。お延はつんとして答えた。「そうですか。わたくしにそれだけの力があるんですかね。自分にゃ解りませんが、藤井の叔父さんや叔母さんがそう云って下さるなら、おおかた本当なんでしょうよ」「本当ですとも。僕が見たって、誰が見たって本当なんだから仕方がないじゃありませんか」「ありがとう」お延はさも軽蔑した調子で礼を云った。その礼の中に含まれていた苦々しい響は、小林にとって全く予想外のものであるらしかった。彼はすぐ彼女を宥めるような口調で云った。「奥さんは結婚前の津田君を御承知ないから、それで自分の津田君に及ぼした影響を自覚なさらないんでしょうが、――」「わたくしは結婚前から津田を知っております」「しかしその前は御存じないでしょう」「当り前ですわ」「ところが僕はその前をちゃんと知っているんですよ」話はこんな具合にして、とうとう津田の過去に溯って行った。
八十四
自分のまだ知らない夫の領分に這入り込んで行くのはお延にとって多大の興味に違なかった。彼女は喜こんで小林の談話に耳を傾けようとした。ところがいざ聴こうとすると、小林はけっして要領を得た事を云わなかった。云っても肝心のところはわざと略してしまった。例えば二人が深夜非常線にかかった時の光景には一口触れるが、そういう出来事に出合うまで、彼らがどこで夜深しをしていたかの点になると、彼は故意に暈しさって、全く語らないという風を示した。それを訊けば意味ありげににやにや笑って見せるだけであった。お延は彼がとくにこうして自分を焦燥しているのではなかろうかという気さえ起した。お延は平生から小林を軽く見ていた。半ば夫の評価を標準におき、半ば自分の直覚を信用して成立ったこの侮蔑の裏には、まだ他に向って公言しない大きな因子があった。それは単に小林が貧乏であるという事に過ぎなかった。彼に地位がないという点にほかならなかった。売れもしない雑誌の編輯、そんなものはきまった職業として彼女の眼に映るはずがなかった。彼女の見た小林は、常に無籍もののような顔をして、世の中をうろうろしていた。宿なしらしい愚痴を零して、厭がらせにそこいらをまごつき歩くだけであった。しかしこの種の軽蔑に、ある程度の不気味はいつでも附物であった。ことにそういう階級に馴らされない女、しかも経験に乏しい若い女には、なおさらの事でなければならなかった。少くとも小林の前に坐ったお延はそう感じた。彼女は今までに彼ぐらいな貧しさの程度の人に出合わないとは云えなかった。しかし岡本の宅へ出入りをするそれらの人々は、みんなその分を弁えていた。身分には段等があるものと心得て、みんなおのれに許された範囲内においてのみ行動をあえてした。彼女はいまだかつて小林のように横着な人間に接した例がなかった。彼のように無遠慮に自分に近づいて来るもの、富も位地もない癖に、彼のように大きな事を云うもの、彼のようにむやみに上流社会の悪体を吐くものにはけっして会った事がなかった。お延は突然気がついた。「自分の今相手にしているのは、平生考えていた通りの馬鹿でなくって、あるいは手に余る擦れッ枯らしじゃなかろうか」軽蔑の裏に潜んでいる不気味な方面が強く頭を持上げた時、お延の態度は急に改たまった。すると小林はそれを見届けた証拠にか、またはそれに全くの無頓着でか、アははと笑い出した。「奥さんまだいろいろ残ってますよ。あなたの知りたい事がね」「そうですか。今日はもうそのくらいでたくさんでしょう。あんまり一度きに伺ってしまうと、これから先の楽しみがなくなりますから」「そうですね、じゃ今日はこれで切り上げときますかな。あんまり奥さんに気を揉ませて、歇斯的里でも起されると、後でまた僕の責任だなんて、津田君に恨まれるだけだから」お延は後を向いた。後は壁であった。それでも茶の間に近いその見当に、彼女はお時の消息を聞こうとする努力を見せた。けれども勝手口は今まで通り静かであった。疾うに帰るべきはずのお時はまだ帰って来なかった。「どうしたんでしょう」「なに今に帰って来ますよ。心配しないでも迷児になる気遣はないから大丈夫です」小林は動こうともしなかった。お延は仕方がないので、茶を淹れ代えるのを口実に、席を立とうとした。小林はそれさえ遮ぎった。「奥さん、時間があるなら、退屈凌ぎに幾らでも先刻の続きを話しますよ。しゃべって潰すのも、黙って潰すのも、どうせ僕見たいな穀潰しにゃ、同なし時間なんだから、ちっとも御遠慮にゃ及びません。どうです、津田君にはあれでまだあなたに打ち明けないような水臭いところがだいぶあるんでしょう」「あるかも知れませんね」「ああ見えてなかなか淡泊でないからね」お延ははっと思った。腹の中で小林の批評を首肯わない訳に行かなかった彼女は、それがあたっているだけになおの事感情を害した。自分の立場を心得ない何という不作法な男だろうと思って小林を見た。小林は平気で前の言葉を繰り返した。「奥さんあなたの知らない事がまだたくさんありますよ」「あっても宜しいじゃございませんか」「いや、実はあなたの知りたいと思ってる事がまだたくさんあるんですよ」「あっても構いません」「じゃ、あなたの知らなければならない事がまだたくさんあるんだと云い直したらどうです。それでも構いませんか」「ええ、構いません」
八十五
小林の顔には皮肉の渦が漲った。進んでも退いてもこっちのものだという勝利の表情がありありと見えた。彼はその瞬間の得意を永久に引き延ばして、いつまでも自分で眺め暮したいような素振さえ示した。「何という陋劣な男だろう」お延は腹の中でこう思った。そうしてしばらくの間じっと彼と睨めっ競をしていた。すると小林の方からまた口を利き出した。「奥さん津田君が変った例証として、是非あなたに聴かせなければならない事があるんですが、あんまりおびえていらっしゃるようだから、それは後廻しにして、その反対の方、すなわち津田君がちっとも変らないところを少し御参考までにお話しておきますよ。これはいやでも私の方で是非奥さんに聴いていただきたいのです。――どうです聴いて下さいますか」お延は冷淡に「どうともあなたの御随意に」と答えた。小林は「ありがたい」と云って笑った。「僕は昔から津田君に軽蔑されていました。今でも津田君に軽蔑されています。先刻からいう通り津田君は大変変りましたよ。けれども津田君の僕に対する軽蔑だけは昔も今も同様なのです。毫も変らないのです。これだけはいくら怜悧な奥さんの感化力でもどうする訳にも行かないと見えますね。もっともあなた方から見たら、それが理の当然なんでしょうけれどもね」小林はそこで言葉を切って、少し苦しそうなお延の笑い顔に見入った。それからまた続けた。「いや別に変って貰いたいという意味じゃありませんよ。その点について奥さんの御尽力を仰ぐ気は毛頭ないんだから、御安心なさい。実をいうと、僕は津田君にばかり軽蔑されている人間じゃないんです。誰にでも軽蔑されている人間なんです。下らない女にまで軽蔑されているんです。有体に云えば世の中全体が寄ってたかって僕を軽蔑しているんです」小林の眼は据わっていた。お延は何という事もできなかった。「まあ」「それは事実です。現に奥さん自身でもそれを腹の中で認めていらっしゃるじゃありませんか」「そんな馬鹿な事があるもんですか」「そりゃ口の先では、そうおっしゃらなければならないでしょう」「あなたもずいぶん僻んでいらっしゃるのね」「ええ僻んでるかも知れません。僻もうが僻むまいが、事実は事実ですからね。しかしそりゃどうでもいいんです。もともと無能に生れついたのが悪いんだから、いくら軽蔑されたって仕方がありますまい。誰を恨む訳にも行かないのでしょう。けれども世間からのべつにそう取り扱われつけて来た人間の心持を、あなたは御承知ですか」小林はいつまでもお延の顔を見て返事を待っていた。お延には何もいう事がなかった。まるっきり同情の起り得ない相手の心持、それが自分に何の関係があろう。自分にはまた自分で考えなければならない問題があった。彼女は小林のために想像の翼さえ伸ばしてやる気にならなかった。その様子を見た小林はまた「奥さん」と云い出した。「奥さん、僕は人に厭がられるために生きているんです。わざわざ人の厭がるような事を云ったりしたりするんです。そうでもしなければ苦しくってたまらないんです。生きていられないのです。僕の存在を人に認めさせる事ができないんです。僕は無能です。幾ら人から軽蔑されても存分な讐討ができないんです。仕方がないからせめて人に嫌われてでも見ようと思うのです。それが僕の志願なのです」お延の前にまるで別世界に生れた人の心理状態が描き出された。誰からでも愛されたい、また誰からでも愛されるように仕向けて行きたい、ことに夫に対しては、是非共そうしなければならない、というのが彼女の腹であった。そうしてそれは例外なく世界中の誰にでも当て篏って、毫も悖らないものだと、彼女は最初から信じ切っていたのである。「吃驚りしたようじゃありませんか。奥さんはまだそんな人に会った事がないんでしょう。世の中にはいろいろの人がありますからね」小林は多少溜飲の下りたような顔をした。「奥さんは先刻から僕を厭がっている。早く帰ればいい、帰ればいいと思っている。ところがどうした訳か、下女が帰って来ないもんだから、仕方なしに僕の相手になっている。それがちゃんと僕には分るんです。けれども奥さんはただ僕を厭な奴だと思うだけで、なぜ僕がこんな厭な奴になったのか、その原因を御承知ない。だから僕がちょっとそこを説明して上げたのです。僕だってまさか生れたてからこんな厭な奴でもなかったんでしょうよ、よくは分りませんけれどもね」小林はまた大きな声を出して笑った。

