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明暗・夏目漱石

22

朗読者: VOICEVOX Nemo / ノーマルこの朗読者の公開朗読はまだない / 朗読停止中

八十六

お延の心はこの不思議な男の前に入り乱れて移って行った。一には理解が起らなかった。二には同情が出なかった。三には彼の真面目まじめさが疑がわれた。反抗、畏怖いふ軽蔑、不審、馬鹿らしさ、嫌悪けんお好奇心、――雑然として彼女の胸に交錯こうさくしたいろいろなものはけっして一点にまとまる事ができなかった。したがってただ彼女を不安にするだけであった。彼女はしまいにいた。「じゃあなたは私をいやがらせるために、わざわざここへいらしったと言明なさるんですね」「いや目的はそうじゃありません。目的は外套がいとうを貰いに来たんです」「じゃ外套を貰いに来たついでに、私を厭がらせようとおっしゃるんですか」「いやそうでもありません。僕はこれで天然自然のつもりなんですからね。奥さんよりもよほど技巧は少ないと思ってるんです」「そんな事はどうでも、私の問にはっきりお答えになったらいいじゃありませんか」「だから僕は天然自然だと云うのです。天然自然の結果、奥さんが僕を厭がられるようになるというだけなのです」「つまりそれがあなたの目的でしょう」「目的じゃありません。しかし本望ほんもうかも知れません」「目的と本望とどこが違うんです」「違いませんかね」お延の細い眼から憎悪ぞうおの光が射した。女だと思って馬鹿にするなという気性きしょうがありありと瞳子ひとみうちに宿った。「怒っちゃいけません」と小林が云った。「僕は自分の小さな料簡りょうけんから敵打かたきうちをしてるんじゃないという意味を、奥さんに説明して上げただけです。天がこんな人間になってひとを厭がらせてやれと僕に命ずるんだから仕方がないと解釈していただきたいので、わざわざそう云ったのです。僕は僕に悪い目的はちっともない事をあなたに承認していただきたいのです。僕自身は始めから無目的だという事を知っておいていただきたいのです。しかし天には目的があるかも知れません。そうしてその目的が僕を動かしているかも知れません。それに動かされる事がまた僕の本望かも知れません」小林の筋の運び方は、少し困絡こんがらかり過ぎていた。お延は彼の論理ロジック間隙すきを突くだけに頭がれていなかった。といって無条件で受け入れていいか悪いかを見分けるほど整った脳力ももたなかった。それでいて彼女は相手の吹きかける議論の要点をつかむだけの才気を充分に具えていた。彼女はすぐ小林の主意を一口にまとめて見せた。「じゃあなたは人を厭がらせる事は、いくらでも厭がらせるが、それに対する責任はけっしてわないというんでしょう」「ええそこです。そこが僕の要点なんです」「そんな卑怯な――」「卑怯じゃありません。責任のない所に卑怯はありません」「ありますとも。第一この私があなたに対してどんな悪い事をしたおぼえがあるんでしょう。まあそれから伺いますから、云って御覧なさい」「奥さん、僕は世の中から無籍もの扱いにされている人間ですよ」「それが私や津田に何の関係があるんです」小林は待ってたと云わぬばかりに笑い出した。「あなた方から見たらおおかたないでしょう。しかし僕から見れば、あり過ぎるくらいあるんです」「どうして」小林は急に答えなくなった。その意味は宿題にして自分でよく考えて見たらよかろうと云う顔つきをした彼は、黙って煙草たばこを吹かし始めた。お延は一層の不快を感じた。もう好い加減に帰ってくれと云いたくなった。同時に小林の意味もよく突きとめておきたかった。それを見抜いて、わざと高をくくったように落ちついている小林の態度がまたしゃくさわった。そこへ先刻さっきから心持ちに待ち受けていたお時がようやく帰って来たので、お延のわだかまりは、一定した様式のもとに表現される機会の来ない先にまたくずされてしまわなければならなかった。

八十七

お時は縁側えんがわへ坐って外部そとから障子しょうじを開けた。「ただいま。大変遅くなりました。電車で病院まで行って参りましたものですから」お延は少し腹立たしい顔をしてお時を見た。「じゃ電話はかけなかったのかい」「いいえかけたんでございます」「かけても通じなかったのかい」問答を重ねているうちに、お時の病院へ行った意味がようやくお延にみ込めるようになって来た。――始め通じなかった電話は、しまいに通じるだけは通じても用を弁ずる事ができなかった。看護婦を呼び出して用事を取次いで貰おうとしたが、それすらお時の思うようにはならなかった。書生だか薬局員だかが始終しじゅう相手になって、何か云うけれども、それがまたちっとも要領を得なかった。第一言語が不明暸ふめいりょうであった。それから判切はっきり聞こえるところも辻褄つじつまの合わない事だらけだった。要するにその男はお時の用事を津田に取次いでくれなかったらしいので、彼女はとうとうあきらめて、電話箱を出てしまった。しかし義務を果さないでそのままうちへ帰るのがいやだったので、すぐその足で電車へ乗って病院へ向った。「いったん帰って、伺ってからにしようかと思いましたけれども、ただ時間が長くかかるぎりでございますし、それにお客さまがこうして待っておいでの事をなまじい存じておるものでございますから」お時のいう事はもっともであった。お延は礼を云わなければならなかった。しかしそのために、小林からさんざんいやな思いをさせられたのだと思うと、気をかした下女がかえってうらめしくもあった。彼女は立って茶の間へ入った。すぐそこにえられたあかの金具の光るかさ箪笥だんすの一番下の抽斗ひきだしを開けた。そうして底の方から問題の外套がいとうを取り出して来て、それを小林の前へ置いた。「これでしょう」「ええ」と云った小林はすぐ外套を手に取って、品物を改める古着屋のような眼で、それを繰返くりかえした。「思ったよりだいぶよごれていますね」「あなたにゃそれでたくさんだ」と云いたかったお延は、何にも答えずに外套を見つめた。外套は小林のいう通り少し色が変っていた。えりを返して日に当らない所を他の部分と比較して見ると、それがいちじるしく目立った。「どうせただ貰うんだからそう贅沢ぜいたくも云えませんかね」「お気に召さなければ、どうぞ御遠慮なく」「置いて行けとおっしゃるんですか」「ええ」小林はやッぱり外套を放さなかった。お延は痛快な気がした。「奥さんちょっとここで着て見てもよござんすか」「ええ、ええ」お延はわざと反対を答えた。そうして窮屈そうなそでへ、もがくようにして手を通す小林を、坐ったまま皮肉な眼で眺めた。「どうですか」小林はこう云いながら、背中をお延の方に向けた。見苦しいたたじわが幾筋もお延の眼にった。アイロンの注意でもしてやるべきところを、彼女はまたぎゃくった。「ちょうど好いようですね」彼女は誰も自分のそばにいないので、せっかく出来上った滑稽こっけい後姿うしろすがたも、眼と眼で笑ってやる事ができないのを物足りなく思った。すると小林がまたぐるりと向き直って、外套を着たなり、お延の前にどっさり胡坐あぐらをかいた。「奥さん、人間はいくら変な着物を着て人から笑われても、生きている方がいいものなんですよ」「そうですか」お延は急に口元をめた。「奥さんのようなこまった事のない方にゃ、まだその意味が解らないでしょうがね」「そうですか。私はまた生きてて人に笑われるくらいなら、いっそ死んでしまった方が好いと思います」小林は何にも答えなかった。しかし突然云った。「ありがとう。御蔭おかげでこの冬も生きていられます」彼は立ち上った。お延も立ち上った。しかし二人が前後して座敷から縁側えんがわへ出ようとするとき、小林はたちまちふり返った。「奥さん、あなたそういう考えなら、よく気をつけてひとに笑われないようにしないといけませんよ」

八十八

二人の顔は一尺足らずの距離に接近した。お延が前へ出ようとする途端とたん小林がうしろを向いた拍子ひょうし二人はそこで急に運動を中止しなければならなかった。二人はぴたりと止まった。そうして顔を見合せた。というよりもむしろ眼と眼に見入った。その時小林の太いまゆが一層際立きわだってお延の視覚をおかした。下にある黒瞳くろめはじっと彼女の上にえられたまま動かなかった。それが何を物語っているかは、こっちの力で動かして見るよりほかに途はなかった。お延は口を切った。「余計な事です。あなたからそんな御注意を受ける必要はありません」「注意を受ける必要がないのじゃありますまい。おおかた注意を受けるおぼえがないとおっしゃるつもりなんでしょう。そりゃあなたはもとより立派な貴婦人に違ないかも知れません。しかし――」「もうたくさんです。早く帰って下さい」小林は応じなかった。問答が咫尺しせきの間に起った。「しかし僕のいうのは津田君の事です」「津田がどうしたというんです。わたくしは貴婦人だけれども、津田は紳士でないとおっしゃるんですか」「僕は紳士なんてどんなものかまるで知りません。第一そんな階級が世の中に存在している事を、僕は認めていないのです」「認めようと認めまいと、そりゃあなたの御随意です。しかし津田がどうしたというんです」「聞きたいですか」鋭どい稲妻いなずまがお延の細い眼からまともにほとばしった。「津田はわたくしの夫です」「そうです。だから聞きたいでしょう」お延は歯をんだ。「早く帰って下さい」「ええ帰ります。今帰るところです」小林はこう云ったなりすぐ向き直った。玄関の方へ行こうとして縁側えんがわを二足ばかりお延から遠ざかった。その後姿を見てたまらなくなったお延はまた呼びとめた。「お待ちなさい」「何ですか」小林はのっそり立ちどまった。そうしてゆきの長過ぎる古外套ふるがいとうを着た両手を前の方に出して、ポンチ絵に似た自分の姿を鑑賞でもするように眺め廻した後で、にやにやと笑いながらお延を見た。お延の声はなお鋭くなった。「なぜ黙って帰るんです」「御礼は先刻さっき云ったつもりですがね」「外套の事じゃありません」小林はわざと空々そらぞらしい様子をした。はてなと考える態度までよそおって見せた。お延は詰責きっせきした。「あなたは私の前で説明する義務があります」「何をですか」「津田の事をです。津田は私の夫です。さいの前で夫の人格を疑ぐるような言葉を、遠廻しにでも出した以上、それを綺麗きれいに説明するのは、あなたの義務じゃありませんか」「でなければそれを取消すだけの事でしょう。僕は義務だの責任だのって感じの少ない人間だから、あなたの要求通り説明するのは困難かも知れないけれども、同時にはじを恥と思わない男として、いったん云った事を取り消すぐらいは何でもありません。――じゃ津田君に対する失言を取消しましょう。そうしてあなたにあやまりましょう。そうしたらいいでしょう」お延は黙然として答えなかった。小林は彼女の前に姿勢を正しくした。「ここに改めて言明します。津田君は立派な人格を具えた人です。紳士です。(もし社会にそういう特別な階級が存在するならば)」お延は依然として下を向いたまま口をかなかった。小林は語を続けた。「僕は先刻奥さんに、人から笑われないようによく気をおつけになったらよかろうという注意を与えました。奥さんは僕の注意などを受ける必要がないと云われました。それで僕もそのあとを話す事を遠慮しなければならなくなりました。考えるとこれも僕の失言でした。あわせて取消します。その他もし奥さんの気にさわった事があったら、すべて取消します。みんな僕の失言です」小林はこう云った後で、沓脱くつぬぎそろえてある自分の靴を穿いた。そうして格子こうしを開けて外へ出る最後に、またふり向いて「奥さんさよなら」と云った。かすかに黙礼を返したぎり、お延はいつまでもぼんやりそこに立っていた。それから急に二階の梯子段はしごだんけ上って、津田の机の前に坐るや否や、その上に突ッ伏してわっと泣き出した。

八十九

幸いにお時が下からあがって来なかったので、お延ははばかりなく当座の目的を達する事ができた。彼女はひとに顔を見られずに思う存分泣けた。彼女が満足するまで自分を泣き尽した時、涙はおのずから乾いた。れた手巾ハンケチたもとへ丸め込んだ彼女は、いきなり机の抽斗ひきだしを開けた。抽斗は二つ付いていた。しかしそれを順々に調べた彼女の眼には別段目新らしい何物も映らなかった。それもそのはずであった。彼女は津田が病院へ入る時、彼に入用いりようの手荷物をまとめるため、二三日前にさんちまえすでにそこをさがしたのである。彼女は残された封筒だの、物指ものさしだの、会費の受取だのを見て、それをまた一々鄭寧ていねいそろえた。パナマや麦藁製むぎわらせいのいろいろな帽子が石版で印刷されている広告用の小冊子めいたものが、二人で銀座へ買物に行った初夏しょかの夕暮を思い出させた。その時夏帽を買いに立寄った店から津田が貰って帰ったこの見本には、真赤まっかに咲いた日比谷公園の躑躅つつじだの、突当りにかすみせきの見える大通りの片側に、薄暗い影をこんもり漂よわせている高い柳などが、離れにくい過去のにおいのように、聯想れんそうとしてつきまつわっていた。お延はそれを開いたまま、しばらくじっと考え込んだ。それから急に思い立ったように机の抽斗をがちゃりと閉めた。机の横には同じく直線の多い様式で造られた本箱があった。そこにも抽斗が二つ付いていた。机をてたお延は、すぐ本箱の方に向った。しかしそれを開けようとして、手をかんにかけた時、抽斗は双方とも何の抵抗もなく、するすると抜け出したので、お延は中を調べない先に、まず失望した。手応てごたえのない所に、新らしい発見のあるはずはなかった。彼女は書き古したノートブックのようなものをいたずらにまわした。それを一々読んで見るのは大変であった。読んだところで自分の知ろうと思う事が、そんな筆記の底にひそんでいようとは想像できなかった。彼女は用心深い夫の性質をよく承知していた。じょうおろさない秘密をそこいらへほうしておくには、あまりにこまぎるのが彼の持前であった。お延は戸棚とだなを開けて、錠を掛けたものがどこかにないかという眼つきをした。けれども中には何にもなかった。上には殺風景な我楽多がらくたが、無器用に積み重ねられているだけであった。下は長持でいっぱいになっていた。再び机の前に取って返したお延は、その上に乗せてある状差じょうさしの中から、津田あてで来た手紙を抜き取って、一々調べ出した。彼女はそんな所に、何にも怪しいものが落ちているはずがないとは思った。しかし一番最初眼につきながら、手さえ触れなかった幾通の書信は、やっぱり最後に眼を通すべき性質を帯びて、彼女の注意をいざないつつ、いつまでもそこに残っていたのである。彼女はつい念のためという口実のもとに、それへ手を出さなければならなくなった。封筒が次から次へと裏返された。中身が順々に繰りひろげられた。あるいは四半分、あるいは半分、残るものは全部、ことごとくお延によって黙読された。しかる後彼女はそれを元通りの順で、元通りの位置にもどした。突然疑惑のほのおが彼女の胸に燃え上った。一束ひとたばの古手紙へ油をそそいで、それを綺麗きれいに庭先で焼き尽している津田の姿が、ありありと彼女の眼に映った。その時めらめらと火に化して舞い上る紙片かみきれを、津田は恐ろしそうに、竹の棒でおさえつけていた。それは初秋はつあきの冷たい風がはだえを吹き出した頃の出来事であった。そうしてある日曜の朝であった。二人差向いで食事を済ましてから、五分とたないうちに起った光景であった。はしを置くと、すぐ二階から細いひもからげた包を抱えて下りて来た津田は、急に勝手口から庭先へ廻ったと思うと、もうその包に火をけていた。お延が縁側えんがわへ出た時には、厚い上包がすでにげて、中にある手紙が少しばかり見えていた。お延は津田に何でそれを焼き捨てるのかといた。津田はかさばって始末に困るからだと答えた。なぜ反故ほごにして、自分達の髪をう時などに使わせないのかと尋ねたら、津田は何とも云わなかった。ただ底から現われて来る手紙をむやみに竹の棒で突ッついた。突ッつくたびに、火になり切れない濃い煙がうずを巻いて棒の先に起った。渦は青竹の根を隠すと共に、抑えつけられている手紙をも隠した。津田は煙にむせぶ顔をお延からそむけた。……お時が午飯ひるめしの催促にあがって来るまで、お延はこんな事を考えつづけて作りつけの人形のようにじっと坐り込んでいた。

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