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明暗・夏目漱石

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朗読者: VOICEVOX Nemo / ノーマルこの朗読者の公開朗読はまだない / 朗読停止中

九十七

感情と理窟のもつった所をごしながら前へ進む事のできなかった彼らは、どこまでもうねうね歩いた。局所に触るようなまた触らないような双方の態度が、心のうちで双方を焦烈じれったくした。しかし彼らは兄妹きょうだいであった。二人共ねちねちした性質を共通に具えていた。相手の淡泊さっぱりしないところをあんに非難しながらも、自分の方から爆発するような不体裁ふていさいは演じなかった。ただ津田は兄だけに、また男だけに、話を一点にくく手際てぎわをお秀より余計にもっていた。「つまりお前は兄さんに対して同情がないと云うんだろう」「そうじゃないわ」「でなければお延に同情がないというんだろう。そいつはまあどっちにしたっておんなじ事だがね」「あら、ねえさんの事をあたし何とも云ってやしませんわ」「要するにこの事件について一番悪いものはおれだと、結局こうなるんだろう。そりゃ今さら説明を伺わなくってもよく兄さんには解ってる。だから好いよ。兄さんは甘んじてその罰を受けるから。今月はお父さんからお金を貰わないで生きて行くよ」「兄さんにそんな事ができて」お秀の兄を冷笑あざけるような調子が、すぐ津田の次の言葉をおこした。「できなければ死ぬまでの事さ」お秀はついにきりりとしまった口元を少しゆるめて、白い歯をかすかに見せた。津田の頭には、電灯の下で光る厚帯をいじくっているお延の姿が、再び現れた。「いっそ今までの経済事情を残らずお延に打ち明けてしまおうか」津田にとってそれほど容易たやすい解決法はなかった。しかし行きがかりから云うと、これほどまた困難な自白はなかった。彼はお延の虚栄心をよく知り抜いていた。それにできるだけの満足を与える事が、またとりなおさず彼の虚栄心にほかならなかった。お延の自分に対する信用を、女に大切なその一角いっかくにおいて突きくずすのは、自分で自分に打撲傷だぼくしょうを与えるようなものであった。お延に気の毒だからという意味よりも、細君の前で自分の器量を下げなければならないというのが彼の大きな苦痛になった。そのくらいの事をとひとから笑われるようなこんな小さな場合ですら、彼はすぐ動く気になれなかった。家には現に金がある、お延に対して自己の体面を保つには有余ありあまるほどの金がある。のにという勝手な事実の方がどうしても先に立った。その上彼はどんな時にでもむかっ腹を立てる男ではなかった。おのれを忘れるという事を非常に安っぽく見る彼は、また容易に己れを忘れる事のできない性質たちに父母から生みつけられていた。「できなければ死ぬまでさ」ほうすように云った後で、彼はまだお秀の様子をうかがっていた。腹の中に言葉通りの断乎だんこたる何物も出て来ないのが恥ずかしいとも何とも思えなかった。彼はむしろ冷やかに胸の天秤てんびんを働かし始めた。彼はお延に事情を打ち明ける苦痛と、お秀から補助を受ける不愉快とを商量しょうりょうした。そうしていっそ二つのうちで後の方をおかしたらどんなものだろうかと考えた。それに応ずる力を充分もっていたお秀は、第一兄の心から後悔していないのをあきたらなく思った。兄のうしろに御本尊のお延が澄まして控えているのをにくんだ。夫の堀をこの事件の責任者ででもあるように見傚みなして、京都の父が遠廻しに持ちかけて来るのがいかにも業腹ごうはらであった。そんなこんなのわだかまりから、津田の意志が充分見えいて来たあとでも、彼女は容易に自分の方で積極的な好意を示す事をあえてしなかった。同時に、器量望みで比較的富裕な家に嫁に行ったお秀に対する津田の態度も、また一種の自尊心にちていた。彼は成上なりあがりものに近いある臭味しゅうみを結婚後のこの妹に見出みいだした。あるいは見出したと思った。いつか兄といういかめしい具足ぐそくを着けて彼女に対するような気分に支配され始めた。だから彼といえどもみだりにお秀の前に頭を下げる訳には行かなかった。二人はそれでどっちからも金の事を云い出さなかった。そうして両方共両方で云い出すのを待っていた。その煮え切らない不徹底な内輪話の最中に、突然下女のお時が飛び込んで来て、二人のこしらえかけていた局面を、一度にくずしてしまったのである。

九十八

しかしお時のじかに来る前に、津田へ電話のかかって来た事もたしかであった。彼は階子段はしごだんの途中で薬局生の面倒臭そうに取り次ぐ「津田さん電話ですよ」という声を聞いた。彼はお秀との対話をちょっとやめて、「どこからです」き返した。薬局生はりながら、「おおかたお宅からでしょう」と云った。冷笑なこの挨拶あいさつが、つい込み入った話に身を入れ過ぎた津田の心を横着おうちゃくにした。芝居へ行ったぎり、昨日きのう今日きょうも姿を見せないお延の仕うちをあんに快よく思っていなかった彼をなお不愉快にした。「電話で釣るんだ」彼はすぐこう思った。昨日の朝もかけ、今日の朝もかけ、ことによると明日あしたの朝も電話だけかけておいて、さんざん人の心を自分の方にき着けた後で、ひょっくり本当の顔を出すのが手だろうと鑑定した。お延の彼に対する平生の素振そぶりから推して見ると、この類測に満更まんざらな無理はなかった。彼は不用意の際に、突然としてしかも静粛しとやかに自分を驚ろかしに這入はいって来るお延の笑顔さえ想像した。その笑顔がまた変に彼の心に影響して来る事も彼にはよく解っていた。彼女は一刹那いっせつなひらめかすその鋭どい武器の力で、いつでも即座に彼を征服した。今までこたえに持ち応え抜いた心機をひらりと転換させられる彼から云えば、見す見す彼女の術中に落ち込むようなものであった。彼はお秀の注意もかかわらず、電話をそのままにしておいた。「なにどうせ用じゃないんだ。構わないよ。ほうっておけ」この挨拶あいさつがまたお秀にはまるで意外であった。第一はズボラをむ兄の性質に釣り合わなかった。第二には何でもお延の云いなり次第になっている兄の態度でなかった。彼女は兄が自分の手前をはばかって、不断の甘いところを押し隠すために、わざとあによめに対して無頓着むとんじゃくよそおうのだと解釈した。心のうちで多少それを小気味よく感じた彼女も、下から電話の催促をする薬局生の大きな声を聞いた時には、それでも兄の代りに立ち上らない訳に行かなかった。彼女はわざわざ下まで降りて行った。しかしそれは何の役にも立たなかった。薬局生が好い加減にあしらって、荒らし抜いた後の受話器はもう不通になっていた。形式的に義務を済ました彼女が元の座に帰って、再び二人に共通な話題の緒口いとくちを取り上げた時、一方では急込せきこんだお時が、とうとう我慢し切れなくなって自働電話をてて電車に乗ったのである。それから十五分とたないうちに、津田はまた予想外な彼女の口から予想外な用事を聞かされて驚ろいたのである。お時の帰った後の彼の心は容易に元へ戻らなかった。小林の性格はよく知り抜いているという自信はありながら、不意に自分の留守宅るすたくに押しかけて来て、それほど懇意でもないお延を相手に、話し込もうとも思わなかった彼は、驚ろかざるを得ないのみならず、また考えざるを得なかった。それは外套がいとうをやるやらないの問題ではなかった。問題は、外套とはまるで縁のない、しかしひとの外套を、平気でよく知りもしない細君の手からじかに貰い受けに行くような彼の性格であった。もしくは彼の境遇が必然的に生み出した彼の第二の性格であった。もう一歩押して行くと、その性格がお延に向ってどう働らきかけるかが彼の問題であった。そこには突飛とっぴがあった。自暴やけがあった。満足の人間を常に不満足そうに眺める白い眼があった。新らしく結婚した彼ら二人は、彼の接触し得る満足した人間のうちで、得意な代表者として彼から選択せんたくされる恐れがあった。平生から彼を軽蔑けいべつする事において、何の容赦も加えなかった津田には、またそういう素地したじを作っておいた自覚が充分あった。「何をいうか分らない」津田の心には突然一種の恐怖がいた。お秀はまた反対に笑い出した。いつまでもその小林という男を何とかかとか批評したがる兄の意味さえ彼女にはほとんど通じなかった。「何を云ったって、構わないじゃありませんか、小林さんなんか。あんな人のいう事なんぞ、誰も本気にするものはありゃしないわ」お秀も小林の一面をよく知っていた。しかしそれは多く彼が藤井の叔父おじの前で出す一面だけに限られていた。そうしてその一面は酒を呑んだ時などとは、生れ変ったように打って違った穏やかな一面であった。「そうでないよ、なかなか」「近頃そんなに人が悪くなったの。あの人が」お秀はやっぱり信じられないという顔つきをした。「だって燐寸マッチ一本だって、大きなうちを焼こうと思えば、焼く事もできるじゃないか」「その代り火が移らなければそれまででしょう、幾箱燐寸マッチを抱え込んでいたって。ねえさんはあんな人に火をつけられるような女じゃありませんよ。それとも……」

九十九

津田はお秀の口から出た下半句しもはんくを聞いた時、わざと眼を動かさなかった。よそを向いたまま、じっとそのあとを待っていた。しかし彼の聞こうとするそのあとはついに出て来なかった。お秀は彼の気になりそうな事を半分云ったぎりで、すぐ句を改めてしまった。「何だって兄さんはまた今日に限って、そんなつまらない事を心配していらっしゃるの。何か特別な事情でもあるの」津田はやはり元の所へ眼をつけていた。それはなるべく妹に自分の心を気取けどられないためであった。眼の色を彼女に読まれないためであった。そうして現にその不自然な所作しょさから来る影響を受けていた。彼は何となく臆病な感じがした。彼はようやくお秀の方を向いた。「別に心配もしていないがね」「ただ気になるの」この調子で押して行くと彼はただお秀から冷笑ひやかされるようなものであった。彼はすぐ口を閉じた。同時に先刻さっきから催おしていた収縮感がまた彼の局部に起った。彼は二三度それを不愉快に経験した後で、あるいは今度も規則正しく一定の時間中繰り返さなければならないのかという掛念けねんに制せられた。そんな事に気のつかないお秀は、なぜだか同じ問題をいつまでも放さなかった。彼女はいったん緒口いとくちを失ったその問題を、すぐ別の形で彼の前に現わして来た。「兄さんはいったいねえさんをどんな人だと思っていらっしゃるの」「なぜ改まって今頃そんな質問をかけるんだい。馬鹿らしい」「そんならいいわ、伺わないでも」「しかしなぜくんだよ。その訳を話したらいいじゃないか」「ちょっと必要があったから伺ったんです」「だからその必要をお云いな」「必要は兄さんのためよ」津田は変な顔をした。お秀はすぐ後を云った。「だって兄さんがあんまり小林さんの事を気になさるからよ。何だか変じゃありませんか」

「そりゃお前にゃ解らない事なんだ」「どうせ解らないから変なんでしょうよ。じゃいったい小林さんがどんな事をどんな風に嫂さんに持ちかけるって云うの」「持ちかけるとも何とも云っていやしないじゃないか」「持ちかける恐れがあるという意味です。云い直せば」津田は答えなかった。お秀は穴のくようにその顔を見た。「まるで想像がつかないじゃありませんか。たとえばいくらあの人が人が悪くなったにしたところで、何も云いようがないでしょう。ちょっと考えて見ても」津田はまだ答えなかった。お秀はどうしても津田の答えるところまで行こうとした。「よしんば、あの人が何か云うにしたところで、嫂さんさえ取り合わなければそれまでじゃありませんか」「そりゃかないでも解ってるよ」「だからあたしが伺うんです。兄さんはいったい嫂さんをどう思っていらっしゃるかって。兄さんは嫂さんを信用していらっしゃるんですか、いらっしゃらないんですか」お秀は急に畳みかけて来た。津田にはその意味がよく解らなかった。しかしそこに相手の拍子ひょうしを抜く必要があったので、彼は判然はっきりした返事を避けて、わざと笑い出さなければならなかった。「大変な権幕けんまくだね。まるで詰問でも受けているようじゃないか」「ごまかさないで、ちゃんとしたところをおっしゃい」「云えばどうするというんだい」「私はあなたの妹です」「それがどうしたというのかね」「兄さんは淡泊たんぱくでないから駄目よ」津田は不思議そうに首を傾けた。「何だか話が大変むずかしくなって来たようだが、お前少し癇違かんちがいをしているんじゃないかい。僕はそんな深い意味で小林の事を云い出したんでも何でもないよ。ただ彼奴あいつは僕の留守にお延に会って何をいうか分らない困った男だというだけなんだよ」「ただそれだけなの」「うんそれだけだ」お秀は急にあてはずれたような様子をした。けれども黙ってはいなかった。「だけど兄さん、もし堀のいない留守るすに誰かあたしの所へ来て何か云うとするでしょう。それを堀が知って心配すると思っていらっしって」「堀さんの事は僕にゃ分らないよ。お前は心配しないと断言する気かも知れないがね」「ええ断言します」「結構だよ。――それで?」「あたしの方もそれだけよ」二人は黙らなければならなかった。

しかし二人はもう因果いんがづけられていた。どうしても或物を或所まで、会話の手段で、互の胸からたたき出さなければ承知ができなかった。ことに津田には目前の必要があった。当座にせまる金の工面くめん彼は今その財源を自分の前に控えていた。そうして一度取り逃せば、それは永久彼の手に戻って来そうもなかった。勢い彼はその点だけでもお秀に対する弱者の形勢におちいっていた。彼は失なわれた話頭を、どんな風にして取り返したものだろうと考えた。「お秀病院で飯を食って行かないか」時間がちょうどこんな愛嬌あいきょうをいうに適していた。ことに今朝母と子供を連れて横浜の親類へ行ったという堀の家族は留守なので、彼はこの愛嬌に特別な意味をもたせる便宜もあった。「どうせうちへ帰ったって用はないんだろう」お秀は津田のいう通りにした。話は容易たやすく二人の間に復活する事ができた。しかしそれは単に兄妹きょうだいらしい話に過ぎなかった。そうして単に兄妹らしい話はこの場合彼らにとってちっとも腹のたしにならなかった。彼らはもっと相手の胸の中へもぐもうとして機会を待った。「兄さん、あたしここに持っていますよ」「何を」「兄さんの入用いりようのものを」「そうかい」津田はほとんど取り合わなかった。その冷淡さはまさに彼の自尊心に比例していた。彼は精神的にも形式的にもこの妹に頭を下げたくなかった。しかし金は取りたかった。お秀はまた金はどうでもよかった。しかし兄に頭を下げさせたかった。勢い兄の欲しがる金をえばにして、自分の目的を達しなければならなかった。結果はどうしても兄をらす事に帰着した。「あげましょうか」「ふん」「お父さんはどうしたって下さりっこありませんよ」「ことによると、くれないかも知れないね」「だってお母さんが、あたしの所へちゃんとそう云って来ていらっしゃるんですもの。今日その手紙を持って来て、お目にかけようと思ってて、つい忘れてしまったんですけれども」「そりゃ知ってるよ。先刻さっきもうお前から聞いたじゃないか」「だからよ。あたしが持って来たって云うのよ」「僕をらすためにかい、または僕にくれるためにかい」お秀は打たれた人のように突然黙った。そうして見る見るうちに、美くしい眼の底に涙をいっぱいめた。津田にはそれが口惜涙くやしなみだとしか思えなかった。「どうして兄さんはこの頃そんなに皮肉になったんでしょう。どうして昔のように人の誠を受け入れて下さる事ができないんでしょう」「兄さんは昔とちっとも違ってやしないよ。近頃お前の方が違って来たんだよ」今度はあきれた表情がお秀の顔にあらわれた。「あたしがいつどんな風に変ったとおっしゃるの。云って下さい」「そんな事はひとかなくっても、よく考えて御覧、自分で解る事だから」「いいえ、解りません。だから云って下さい。どうぞ云って聞かして下さい」津田はむしろ冷やかな眼をして、鋭どく切り込んで来るお秀の様子を眺めていた。ここまで来ても、彼には相手の機嫌きげんを取り返した方がとくか、またはくしゃりと一度に押しつぶした方が得かという利害心が働らいていた。その中間を行こうと決心した彼はおもむろに口を開いた。「お秀、お前には解らないかも知れないがね、兄さんから見ると、お前は堀さんの所へ行ってっから以来、だいぶ変ったよ」「そりゃ変るはずですわ、女が嫁に行って子供が二人もできれば誰だって変るじゃありませんか」「だからそれでいいよ」「けれども兄さんに対して、あたしがどんなに変ったとおっしゃるんです。そこを聞かして下さい」「そりゃ……」津田は全部を答えなかった。けれども答えられないのではないという事を、語勢からお秀に解るようにした。お秀は少しをおいた。それからすぐ押し返した。「兄さんのおなかの中には、あたしが京都へ告口つげぐちをしたという事が始終しじゅうあるんでしょう」「そんな事はどうでもいいよ」「いいえ、それできっとあたしをかたきにしていらっしゃるんです」「誰が」不幸な言葉は二人の間に伏字ふせじのごとく潜在していたお延という名前に点火したようなものであった。お秀はそれを松明たいまつのように兄の眼先に振り廻した。「兄さんこそ違ったのです。ねえさんをお貰いになる前の兄さんと、嫂さんをお貰いになった後の兄さんとは、まるで違っています。誰が見たって別の人です」

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