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明暗・夏目漱石

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朗読者: VOICEVOX Nemo / ノーマルこの朗読者の公開朗読はまだない / 朗読停止中

百一

津田から見たお秀は彼に対する僻見へきけんで武装されていた。ことに最後の攻撃は誤解その物の活動に過ぎなかった。彼には「嫂さん、嫂さん」を繰り返す妹の声がいかにも耳障みみざわりであった。むしろ自己を満足させるための行為を、ことごとく細君を満足させるために起ったものとして解釈する妹の前に、彼はすくなからぬ不快を感じた。「おれはお前の考えてるような二本棒にほんぼうじゃないよ」「そりゃそうかも知れません。嫂さんから電話がかかって来ても、あたしの前じゃわざと冷淡をよそおって、うっちゃっておおきになるくらいですから」こういう言葉が所嫌ところきらわずお秀の口からひょいひょい続発して来るようになった時、津田はほとんど眼前の利害を忘れるべく余儀なくされた。彼は一二度腹の中で舌打をした。「だからこいつに電話をかけるなと、あれだけお延に注意しておいたのに」彼は神経の亢奮こうふんまぎらす人のように、しきりに短かい口髭くちひげを引張った。しだいしだいににがい顔をし始めた。そうしてだんだん言葉少なになった。津田のこの態度が意外の影響をお秀に与えた。お秀は兄の弱点が自分のために一皮ずつ赤裸あかはだかにされて行くので、しまいに彼はじ入って、黙り込むのだとばかり考えたらしく、なお猛烈に進んだ。あたかももう一息ひといきで彼を全然自分の前に後悔させる事ができでもするようないきおいで。「嫂さんといっしょになる前の兄さんは、もっと正直でした。少なくとももっと淡泊たんぱくでした。私は証拠のない事を云うと思われるのが厭だから、有体ありていに事実を申します。だから兄さんも淡泊に私の質問に答えて下さい。兄さんは嫂さんをおもらいになる前、今度こんだのようなうそをお父さんにいたおぼえがありますか」この時津田は始めて弱った。お秀の云う事は明らかな事実であった。しかしその事実はけっしてお秀の考えているような意味から起ったのではなかった。津田に云わせると、ただ偶然の事実に過ぎなかった。「それでお前はこの事件の責任者はお延だと云うのかい」お秀はそうだと答えたいところをわざとそらした。「いいえ、嫂さんの事なんか、あたしちっとも云ってやしません。ただ兄さんが変った証拠しょうこにそれだけの事実を主張するんです」津田は表向どうしても負けなければならない形勢におちいって来た。「お前がそんなに変ったと主張したければ、変ったでいいじゃないか」「よかないわ。お父さんやお母さんにすまないわ」すぐ「そうかい」と答えた津田は冷淡に「そんならそれでもいいよ」と付け足した。お秀はこれでもまだ後悔しないのかという顔つきをした。「兄さんの変った証拠しょうこはまだあるんです」津田は素知そしらぬ風をした。お秀は遠慮なくその証拠というのをげた。「兄さんは小林さんが兄さんの留守へ来て、ねえさんに何か云やしないかって、先刻さっきから心配しているじゃありませんか」うるさいな。心配じゃないって先刻説明したじゃないか」「でも気になる事はたしかなんでしょう」「どうでも勝手に解釈するがいい」「ええ。――どっちでも、とにかく、それが兄さんの変った証拠じゃありませんか」「馬鹿を云うな」「いいえ、証拠よ。たしかな証拠よ。兄さんはそれだけ嫂さんを恐れていらっしゃるんです」津田はふと眼を転じた。そうして枕に頭を載せたまま、下からお秀の顔をのぞき込むようにして見た。それから好い恰好かっこうをした鼻柱に冷笑のしわを寄せた。この余裕がお秀には全く突然であった。もう一息ひといき懺悔ざんげ深谷しんこくさかさまに突き落すつもりでいた彼女は、まだ兄のうしろ平坦へいたんな地面が残っているのではなかろうかという疑いを始めて起した。しかし彼女は行けるところまで行かなければならなかった。「兄さんはついこの間まで小林さんなんかを、まるで鼻の先であしらっていらっしったじゃありませんか。何を云っても取り合わなかったじゃありませんか。それを今日に限ってなぜそんなにこわがるんです。たかが小林なんかを怖がるようになったのは、その相手が嫂さんだからじゃありませんか」「そんならそれでいいさ。僕がいくら小林を怖がったって、お父さんやお母さんに対する不義理になる訳でもなかろう」「だからあたしの口を出す幕じゃないとおっしゃるの」「まあその見当けんとうだろうね」お秀はかっとした。同時に一筋の稲妻いなずまが彼女の頭の中を走った。

百二

わかりました」お秀は鋭どい声でこうはなった。しかし彼女の改まった切口上きりこうじょうは外面上何の変化も津田の上に持ち来さなかった。彼はもう彼女の挑戦ちょうせんに応ずる気色けしきを見せなかった。「解りましたよ、兄さん」お秀は津田の肩をゆすぶるような具合に、再び前の言葉を繰返した。津田は仕方なしにまた口を開いた。「何が」「なぜねえさんに対して兄さんがそんなに気をおいていらっしゃるかという意味がです」津田の頭に一種の好奇心が起った。「云って御覧」「云う必要はないんです。ただ私にその意味が解ったという事だけを承知していただけばたくさんなんです」「そんならわざわざ断る必要はないよ。黙ってひとりで解ったと思っているがいい」「いいえよくないんです。兄さんは私を妹と見傚みなしていらっしゃらない。お父さんやお母さんに関係する事でなければ、私には兄さんの前で何にもいう権利がないものとしていらっしゃる。だから私も云いません。しかし云わなくっても、眼はちゃんとついています。知らないで云わないと思っておいでだと間違いますから、ちょっとお断り致したのです」津田は話をここいらで切り上げてしまうよりほかに道はないと考えた。なまじいかかり合えばかかり合うほど、事は面倒になるだけだと思った。しかし彼には妹に頭を下げる気がちっともなかった。彼女の前に後悔するなどという芝居じみた真似まねは夢にも思いつけなかった。そのくらいの事をあえてし得る彼は、平生から低く見ている妹にだけは、思いのほか高慢であった。そうしてその高慢なところを、他人に対してよりも、比較的遠慮なく外へ出した。したがっていくら口先が和解的でも大して役に立たなかった。お秀にはただ彼の中心にある軽蔑けいべつが、微温なまぬるい表現を通して伝わるだけであった。彼女はもうやりきれないと云った様子を先刻さっきから見せている津田をごうも容赦しなかった。そうしてまた「兄さん」と云い出した。その時津田はそれまでにまだ見出し得なかったお秀の変化に気がついた。今までの彼女は彼を通して常に鋒先ほこさきをお延に向けていた。兄を攻撃するのもうそではなかったが、矢面やおもてに立つ彼をよそにしても、背後に控えているあねだけは是非射とめなければならないというのが、彼女の真剣であった。それがいつの間にか変って来た。彼女は勝手に主客の位置を改めた。そうして一直線に兄の方へ向いて進んで来た。「兄さん、妹は兄の人格に対して口を出す権利がないものでしょうか。よし権利がないにしたところで、もしそうしたうたがいを妹が少しでももっているなら、綺麗きれいにそれを晴らしてくれるのが兄の義務――義務は取り消します、私には不釣合な言葉かも知れませんから。――少なくとも兄の人情でしょう。私は今その人情をもっていらっしゃらない兄さんを眼の前に見る事を妹として悲しみます」「何を生意気な事を云うんだ。黙っていろ、何にも解りもしない癖に」津田の癇癪かんしゃくは始めて破裂した。「お前に人格という言葉の意味が解るか。たかが女学校を卒業したぐらいで、そんな言葉をおれの前で人並に使うのからして不都合だ」「私は言葉に重きをおいていやしません。事実を問題にしているのです」「事実とは何だ。おれの頭の中にある事実が、お前のような教養に乏しい女につらまえられると思うのか。馬鹿め」「そう私を軽蔑けいべつなさるなら、御注意までに申します。しかしよござんすか」「いいも悪いも答える必要はない。人の病気のところへ来て何だ、その態度は。それでも妹だというつもりか」「あなたが兄さんらしくないからです」「黙れ」「黙りません。云うだけの事は云います。兄さんはねえさんに自由にされています。お父さんや、お母さんや、私などよりも嫂さんを大事にしています」「妹よりさいを大事にするのはどこの国へ行ったって当り前だ」「それだけならいいんです。しかし兄さんのはそれだけじゃないんです。嫂さんを大事にしていながら、まだほかにも大事にしている人があるんです」「何だ」「それだから兄さんは嫂さんをこわがるのです。しかもその怖がるのは――」お秀がこう云いかけた時、病室のふすまがすうといた。そうして蒼白あおしろい顔をしたお延の姿が突然二人の前に現われた。

百三

彼女が医者の玄関へかかったのはその三四分前であった。医者の診察時間は午前と午後に分れていて、午後の方は、役所や会社へ勤める人の便宜べんぎを計るため、四時から八時までの規定になっているので、お延は比較的閑静なドアーを開けて内へ入る事ができたのである。実際彼女は三四日さんよっか前に来た時のように、編上あみあげだのたたみつきだのという雑然たる穿物はきものを、一足も沓脱くつぬぎの上に見出みいださなかった。患者の影は無論の事であった。時間外という考えを少しも頭の中に入れていなかった彼女には、それがいかにも不思議であったくらい四囲あたり寂寞ひっそりしていた。彼女はそのしんとした玄関の沓脱の上に、行儀よくそろえられたただ一足の女下駄を認めた。価段ねだんから云っても看護婦などの穿きそうもない新らしいその下駄が突然彼女の心をおどらせた。下駄はまさしく若い婦人のものであった。小林から受けた疑念で胸がいっぱいになっていた彼女は、しばらくそれから眼を放す事ができなかった。彼女は猛烈にそれを見た。右手にある小さい四角な窓から書生が顔を出した。そうしてそこに動かないお延の姿を認めた時、誰何すいかでもする人のような表情を彼女の上に注いだ。彼女はすぐ津田への来客があるかないかを確かめた。それが若い女であるかないかもいた。それからわざと取次を断って、ひとりで階子段はしごだんの下まで来た。そうして上を見上げた。上では絶えざる話し声が聞こえた。しかし普通雑談の時に、言葉が対話者の間を、よどみなく往ったり来たり流れているのとはだいぶおもむきことにしていた。そこには強い感情があった。亢奮こうふんがあった。しかもそれをおさえつけようとする努力のあとがありありと聞こえた。他聞たぶんはばかるとしか受取れないその談話が、お延の神経を針のように鋭どくした。下駄を見つめた時より以上の猛烈さがそこに現われた。彼女は一倍猛烈に耳を傾むけた。津田の部屋は診察室の真上にあった。家の構造から云うと、階子段をあがってすぐとっつきが壁で、その右手がまた四畳半の小さい部屋になっているので、この部屋の前を廊下伝いに通り越さなければ、津田の寝ている所へは出られなかった。したがってお延のこうとする談話は、聴くに都合の好くない見当けんとうすなわち彼女のうしろの方かられて来るのであった。彼女はそっと階子段をのぼった。柔婉しなやか体格からだをもった彼女の足音は猫のように静かであった。そうして猫と同じような成効せいこうをもってむくいられた。あがぐちの一方には、落ちない用心に、一間ほどの手欄てすりこしらえてあった。お延はそれにって、津田の様子をうかがった。するとたちまち鋭どいお秀の声が彼女の耳にった。ことにねえさんがという特殊な言葉が際立きわだって鼓膜こまくに響いた。みごとに予期のはずれた彼女は、またはっと思わせられた。硬い緊張がゆるいとまなく再び彼女を襲って来た。彼女は津田に向ってお秀の口からげつけられる嫂さんというその言葉が、どんな意味に用いられているかを知らなければならなかった。彼女は耳を澄ました。二人の語勢は聴いているうちに急になって来た。二人は明らかに喧嘩けんかをしていた。その喧嘩の渦中かちゅうには、知らないに、自分が引き込まれていた。あるいは自分がこの喧嘩のおもな原因かも分らなかった。しかし前後の関係を知らない彼女は、ただそれだけで自分の位置をきめる訳に行かなかった。それに二人の使う、というよりもむしろお秀の使う言葉はあられのように忙がしかった。後から後から落ちてくる単語の意味を、一粒ずつ拾って吟味ぎんみしているひまなどはとうていなかった。「人格」、「大事にする」、「当り前」、こんな言葉がそれからそれへとそこに佇立たたずんでいる彼女の耳朶みみたぶたたきに来るだけであった。彼女は事件が分明ぶんみょうになるまでじっと動かずに立っていようかと考えた。するとその時お秀の口から最後の砲撃のように出た「兄さんは嫂さんよりほかにもまだ大事にしている人があるのだ」という句が、突然彼女の心をふるわせた。際立きわだって明暸めいりょうに聞こえたこの一句ほどお延にとって大切なものはなかった。同時にこの一句ほど彼女にとって不明暸なものもなかった。後を聞かなければ、それだけで独立した役にはとても立てられなかった。お延はどんな犠牲を払っても、その後を聴かなければ気がすまなかった。しかしその後はまたどうしても聴いていられなかった。先刻さっきから一言葉ひとことばごとに一調子ひとちょうしずつ高まって来た二人の遣取やりとりは、ここで絶頂に達したものと見傚みなすよりほかにみちはなかった。もう一歩も先へ進めない極端まで来ていた。もしいて先へ出ようとすれば、どっちかで手を出さなければならなかった。したがってお延は不体裁ふていさいを防ぐ緩和剤かんわざいとして、どうしても病室へ入らなければならなかった。彼女は兄妹きょうだいの中をよく知っていた。彼らの不和の原因が自分にある事も彼女には平生から解っていた。そこへ顔を出すには、出すだけの手際てぎわった。しかし彼女にはその自信がないでもなかった。彼女はきわどい刹那せつなに覚悟をきめた。そうしてわざと静かに病室のふすまを開けた。

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