百四
二人ははたしてぴたりと黙った。しかし暴風雨がこれから荒れようとする途中で、急にその進行を止められた時の沈黙は、けっして平和の象徴ではなかった。不自然に抑えつけられた無言の瞬間にはむしろ物凄い或物が潜んでいた。二人の位置関係から云って、最初にお延を見たものは津田であった。南向の縁側の方を枕にして寝ている彼の眼に、反対の側から入って来たお延の姿が一番早く映るのは順序であった。その刹那に彼は二つのものをお延に握られた。一つは彼の不安であった。一つは彼の安堵であった。困ったという心持と、助かったという心持が、包み蔵す余裕のないうちに、一度に彼の顔に出た。そうしてそれが突然入って来たお延の予期とぴたりと一致した。彼女はこの時夫の面上に現われた表情の一部分から、或物を疑っても差支えないという証左を、永く心の中に掴んだ。しかしそれは秘密であった。とっさの場合、彼女はただ夫の他の半面に応ずるのを、ここへ来た刻下の目的としなければならなかった。彼女は蒼白い頬に無理な微笑を湛えて津田を見た。そうしてそれがちょうどお秀のふり返るのと同時に起った所作だったので、お秀にはお延が自分を出し抜いて、津田と黙契を取り換わせているように取れた。薄赤い血潮が覚えずお秀の頬に上った。「おや」「今日は」軽い挨拶が二人の間に起った。しかしそれが済むと話はいつものように続かなかった。二人とも手持無沙汰に圧迫され始めなければならなかった。滅多な事の云えないお延は、脇に抱えて来た風呂敷包を開けて、岡本の貸してくれた英語の滑稽本を出して津田に渡した。その指の先には、お秀が始終腹の中で問題にしている例の指輪が光っていた。津田は薄い小型な書物を一つ一つ取り上げて、さらさら頁を翻えして見たぎりで、再びそれを枕元へ置いた。彼はその一行さえ読む気にならなかった。批評を加える勇気などはどこからも出て来なかった。彼は黙っていた。お延はその間にまたお秀と二言三言ほど口を利いた。それもみんな彼女の方から話しかけて、必要な返事だけを、云わば相手の咽喉から圧し出したようなものであった。お延はまた懐中から一通の手紙を出した。「今来がけに郵便函の中を見たら入っておりましたから、持って参りました」お延の言葉は几帳面に改たまっていた。津田と差向いの時に比べると、まるで別人のように礼儀正しかった。彼女はその形式的なよそよそしいところを暗に嫌っていた。けれども他人の前、ことにお秀の前では、そうした不自然な言葉遣いを、一種の意味から余儀なくされるようにも思った。手紙は夫婦の間に待ち受けられた京都の父からのものであった。これも前便と同じように書留になっていないので、眼前の用を弁ずる中味に乏しいのは、お秀からまだ何にも聞かせられないお延にもほぼ見当だけはついていた。津田は封筒を切る前に彼女に云った。「お延駄目だとさ」「そう、何が」「お父さんはいくら頼んでももうお金をくれないんだそうだ」津田の云い方は珍らしく真摯の気に充ちていた。お秀に対する反抗心から、彼はいつの間にかお延に対して平たい旦那様になっていた。しかもそこに自分はまるで気がつかずにいた。衒い気のないその態度がお延には嬉しかった。彼女は慰さめるような温味のある調子で答えた。言葉遣いさえ吾知らず、平生の自分に戻ってしまった。「いいわ、そんなら。こっちでどうでもするから」津田は黙って封を切った。中から出た父の手紙はさほど長いものではなかった。その上一目見ればすぐ要領を得られるくらいな大きな字で書いてあった。それでも女二人は滑稽本の場合のように口を利き合わなかった。ひとしく注意の視線を巻紙の上に向けているだけであった。だから津田がそれを読み了って、元通りに封筒の中へ入れたのを、そのまま枕元へ投げ出した時には、二人にも大体の意味はもう呑み込めていた。それでもお秀はわざと訊いた。「何と書いてありますか、兄さん」気のない顔をしていた津田は軽く「ふん」と答えた。お秀はちょっとよそを向いた。それからまた訊いた。「あたしの云った通りでしょう」手紙にははたして彼女の推察する通りの事が書いてあった。しかしそれ見た事かといったような妹の態度が、津田にはいかにも気に喰わなかった。それでなくっても先刻からの行がかり上、彼は天然自然の返事をお秀に与えるのが業腹であった。
百五
お延には夫の気持がありありと読めた。彼女は心の中で再度の衝突を惧れた。と共に、夫の本意をも疑った。彼女の見た平生の夫には自制の念がどこへでもついて廻った。自制ばかりではなかった。腹の奥で相手を下に見る時の冷かさが、それにいつでも付け加わっていた。彼女は夫のこの特色中に、まだ自分の手に余る或物が潜んでいる事をも信じていた。それはいまだに彼女にとっての未知数であるにもかかわらず、そこさえ明暸に抑えれば、苦もなく彼を満足に扱かい得るものとまで彼女は思い込んでいた。しかし外部に現われるだけの夫なら一口で評するのもそれほどむずかしい事ではなかった。彼は容易に怒らない人であった。英語で云えば、テンパーを失なわない例にもなろうというその人が、またどうして自分の妹の前にこう破裂しかかるのだろう。もっと、厳密に云えば、彼女が室に入って来る前に、どうしてあれほど露骨に破裂したのだろう。とにかく彼女は退きかけた波が再び寄せ返す前に、二人の間に割り込まなければならなかった。彼女は喧嘩の相手を自分に引き受けようとした。「秀子さんの方へもお父さまから何かお音信があったんですか」「いいえ母から」「そう、やっぱりこの事について」「ええ」お秀はそれぎり何にも云わなかった。お延は後をつけた。「京都でもいろいろお物費が多いでしょうからね。それに元々こちらが悪いんですから」お秀にはこの時ほどお延の指にある宝石が光って見えた事はなかった。そうしてお延はまたさも無邪気らしくその光る指輪をお秀の前に出していた。お秀は云った。「そういう訳でもないんでしょうけれどもね。年寄は変なもので、兄さんを信じているんですよ。そのくらいの工面はどうにでもできるぐらいに考えて」お延は微笑した。「そりゃ、いざとなればどうにかこうにかなりますよ、ねえあなた」こう云って津田の方を見たお延は、「早くなるとおっしゃい」という意味を眼で知らせた。しかし津田には、彼女のして見せる眼の働らきが解っても、意味は全く通じなかった。彼はいつも繰り返す通りの事を云った。「ならん事もあるまいがね、おれにはどうもお父さんの云う事が変でならないんだ。垣根を繕ろったの、家賃が滞ったのって、そんな費用は元来些細なものじゃないか」「そうも行かないでしょう、あなた。これで自分の家を一軒持って見ると」「我々だって一軒持ってるじゃないか」お延は彼女に特有な微笑を今度はお秀の方に見せた。お秀も同程度の愛嬌を惜まずに答えた。「兄さんはその底に何か魂胆があるかと思って、疑っていらっしゃるんですよ」「そりゃあなた悪いわ、お父さまを疑ぐるなんて。お父さまに魂胆のあるはずはないじゃありませんか、ねえ秀子さん」「いいえ、父や母よりもね、ほかにまだ魂胆があると思ってるんですのよ」「ほかに?」お延は意外な顔をした。「ええ、ほかにあると思ってるに違ないのよ」お延は再び夫の方に向った。「あなた、そりゃまたどういう訳なの」「お秀がそう云うんだから、お秀に訊いて御覧よ」お延は苦笑した。お秀の口を利く順番がまた廻って来た。「兄さんはあたし達が陰で、京都を突ッついたと思ってるんですよ」「だって――」お延はそれより以上云う事ができなかった。そうしてその云った事はほとんど意味をなさなかった。お秀はすぐその虚を充たした。「それで先刻から大変御機嫌が悪いのよ。もっともあたしと兄さんと寄るときっと喧嘩になるんですけれどもね。ことにこの事件このかた」「困るのね」とお延は溜息交りに答えた後で、また津田に訊きかけた。「しかしそりゃ本当の事なの、あなた。あなただって真逆そんな男らしくない事を考えていらっしゃるんじゃないでしょう」「どうだか知らないけれども、お秀にはそう見えるんだろうよ」「だって秀子さん達がそんな事をなさるとすれば、いったい何の役に立つと、あなた思っていらっしゃるの」「おおかた見せしめのためだろうよ。おれにはよく解らないけれども」「何の見せしめなの?いったいどんな悪い事をあなたなすったの」「知らないよ」津田は蒼蠅そうにこう云った。お延は取りつく島もないといった風にお秀を見た。どうか助けて下さいという表情が彼女の細い眼と眉の間に現われた。
百六
「なに兄さんが強情なんですよ」とお秀が云い出した。嫂に対して何とか説明しなければならない位地に追いつめられた彼女は、こう云いながら腹の中でなおの事その嫂を憎んだ。彼女から見たその時のお延ほど、空々しいまたずうずうしい女はなかった。「ええ良人は強情よ」と答えたお延はすぐ夫の方を向いた。「あなた本当に強情よ。秀子さんのおっしゃる通りよ。そのくせだけは是非おやめにならないといけませんわ」「いったい何が強情なんだ」「そりゃあたしにもよく解らないけれども」「何でもかでもお父さんから金を取ろうとするからかい」「そうね」「取ろうとも何とも云っていやしないじゃないか」「そうね。そんな事おっしゃるはずがないわね。またおっしゃったところで効目がなければ仕方がありませんからね」「じゃどこが強情なんだ」「どこがってお聴きになっても駄目よ。あたしにもよく解らないんですから。だけど、どこかにあるのよ、強情なところが」「馬鹿」馬鹿と云われたお延はかえって心持ち好さそうに微笑した。お秀はたまらなくなった。「兄さん、あなたなぜあたしの持って来たものを素直にお取りにならないんです」「素直にも義剛にも、取るにも取らないにも、お前の方でてんから出さないんじゃないか」「あなたの方でお取りになるとおっしゃらないから、出せないんです」「こっちから云えば、お前の方で出さないから取らないんだ」「しかし取るようにして取って下さらなければ、あたしの方だって厭ですもの」「じゃどうすればいいんだ」「解ってるじゃありませんか」三人はしばらく黙っていた。突然津田が云い出した。「お延お前お秀に詫まったらどうだ」お延は呆れたように夫を見た。「なんで」「お前さえ詫まったら、持って来たものを出すというつもりなんだろう。お秀の料簡では」「あたしが詫まるのは何でもないわ。あなたが詫まれとおっしゃるなら、いくらでも詫まるわ。だけど――」お延はここで訴えの眼をお秀に向けた。お秀はその後を遮った。「兄さん、あなた何をおっしゃるんです。あたしがいつ嫂さんに詫まって貰いたいと云いました。そんな言がかりを捏造されては、あたしが嫂さんに対して面目なくなるだけじゃありませんか」沈黙がまた三人の上に落ちた。津田はわざと口を利かなかった。お延には利く必要がなかった。お秀は利く準備をした。「兄さん、あたしはこれでもあなた方に対して義務を尽しているつもりです。――」お秀がやっとこれだけ云いかけた時、津田は急に質問を入れた。「ちょっとお待ち。義務かい、親切かい、お前の云おうとする言葉の意味は」「あたしにはどっちだって同なじ事です」「そうかい。そんなら仕方がない。それで」「それでじゃありません。だからです。あたしがあなた方の陰へ廻って、お父さんやお母さんを突ッついた結果、兄さんや嫂さんに不自由をさせるのだと思われるのが、あたしにはいかにも辛いんです。だからその額だけをどうかして上げようと云う好意から、今日わざわざここへ持って来たと云うんです。実は昨日嫂さんから電話がかかった時、すぐ来ようと思ったんですけれども、朝のうちは宅に用があったし、午からはその用で銀行へ行く必要ができたものですから、つい来損なっちまったんです。元々わずかな金額ですから、それについてとやかく云う気はちっともありませんけれども、あたしの方の心遣いは、まるで兄さんに通じていないんだから、それがただ残念だと云いたいんです」お延はなお黙っている津田の顔を覗き込んだ。「あなた何とかおっしゃいよ」「何て」「何てって、お礼をよ。秀子さんの親切に対してのお礼よ」「たかがこれしきの金を貰うのに、そんなに恩に着せられちゃ厭だよ」「恩に着せやしないって今云ったじゃありませんか」とお秀が少し癇走った声で弁解した。お延は元通りの穏やかな調子を崩さなかった。「だから強情を張らずに、お礼をおっしゃいと云うのに。もしお金を拝借するのがお厭なら、お金はいただかないでいいから、ただお礼だけをおっしゃいよ」お秀は変な顔をした。津田は馬鹿を云うなという態度を示した。
百七
三人は妙な羽目に陥った。行がかり上一種の関係で因果づけられた彼らはしだいに話をよそへ持って行く事が困難になってきた。席を外す事は無論できなくなった。彼らはそこへ坐ったなり、どうでもこうでも、この問題を解決しなければならなくなった。しかも傍から見たその問題はけっして重要なものとは云えなかった。遠くから冷静に彼らの身分と境遇を眺める事のできる地位に立つ誰の眼にも、小さく映らなければならない程度のものに過ぎなかった。彼らは他から注意を受けるまでもなくよくそれを心得ていた。けれども彼らは争わなければならなかった。彼らの背後に背負っている因縁は、他人に解らない過去から複雑な手を延ばして、自由に彼らを操った。しまいに津田とお秀の間に下のような問答が起った。「始めから黙っていれば、それまでですけれども、いったん云い出しておきながら、持って来た物を渡さずにこのまま帰るのも心持が悪うござんすから、どうか取って下さいよ。兄さん」「置いて行きたければ置いといでよ」「だから取るようにして取って下さいな」「いったいどうすればお前の気に入るんだか、僕には解らないがね、だからその条件をもっと淡泊に云っちまったらいいじゃないか」「あたし条件なんてそんなむずかしいものを要求してやしません。ただ兄さんが心持よく受取って下されば、それでいいんです。つまり兄妹らしくして下されば、それでいいというだけです。それからお父さんにすまなかったと本気に一口おっしゃりさえすれば、何でもないんです」「お父さんには、とっくの昔にもうすまなかったと云っちまったよ。お前も知ってるじゃないか。しかも一口や二口じゃないやね」「けれどもあたしの云うのは、そんな形式的のお詫じゃありません。心からの後悔です」津田はたかがこれしきの事にと考えた。後悔などとは思いも寄らなかった。「僕の詫様が空々しいとでも云うのかね、なんぼ僕が金を欲しがるったって、これでも一人前の男だよ。そうぺこぺこ頭を下げられるものか、考えても御覧な」「だけれども、兄さんは実際お金が欲しいんでしょう」「欲しくないとは云わないさ」「それでお父さんに謝罪ったんでしょう」「でなければ何も詫る必要はないじゃないか」「だからお父さんが下さらなくなったんですよ。兄さんはそこに気がつかないんですか」津田は口を閉じた。お秀はすぐ乗しかかって行った。「兄さんがそういう気でいらっしゃる以上、お父さんばかりじゃないわ、あたしだって上げられないわ」「じゃお止しよ。何も無理に貰おうとは云わないんだから」「ところが無理にでも貰おうとおっしゃるじゃありませんか」「いつ」「先刻からそう云っていらっしゃるんです」「言がかりを云うな、馬鹿」「言がかりじゃありません。先刻から腹の中でそう云い続けに云ってるじゃありませんか。兄さんこそ淡泊でないから、それが口へ出して云えないんです」津田は一種嶮しい眼をしてお秀を見た。その中には憎悪が輝やいた。けれども良心に対して恥ずかしいという光はどこにも宿らなかった。そうして彼が口を利いた時には、お延でさえその意外なのに驚ろかされた。彼は彼に支配できる最も冷静な調子で、彼女の予期とはまるで反対の事を云った。「お秀お前の云う通りだ。兄さんは今改めて自白する。兄さんにはお前の持って来た金が絶対に入用だ。兄さんはまた改めて公言する。お前は妹らしい情愛の深い女だ。兄さんはお前の親切を感謝する。だからどうぞその金をこの枕元へ置いて行ってくれ」お秀の手先が怒りで顫えた。両方の頬に血が差した。その血は心のどこからか一度に顔の方へ向けて動いて来るように見えた。色が白いのでそれが一層鮮やかであった。しかし彼女の言葉遣いだけはそれほど変らなかった。怒りの中に微笑さえ見せた彼女は、不意に兄を捨てて、輝やいた眼をお延の上に注いだ。「嫂さんどうしましょう。せっかく兄さんがああおっしゃるものですから、置いて行って上げましょうか」「そうね、そりゃ秀子さんの御随意でよござんすわ」「そう。でも兄さんは絶対に必要だとおっしゃるのね」「ええ良人には絶対に必要かも知れませんわ。だけどあたしには必要でも何でもないのよ」「じゃ兄さんと嫂さんとはまるで別ッこなのね」「それでいて、ちっとも別ッこじゃないのよ。これでも夫婦だから、何から何までいっしょくたよ」「だって――」お延は皆まで云わせなかった。「良人に絶対に必要なものは、あたしがちゃんと拵えるだけなのよ」彼女はこう云いながら、昨日岡本の叔父に貰って来た小切手を帯の間から出した。

