LIB read シンボルLIB read
認証確認中...
作品を探す朗読する投稿する

LIB READ READER

明暗・夏目漱石

29

朗読未選択 / 朗読停止中

百十一

単に病院でお秀に出会うという事は、お延にとって意外でも何でもなかった。けれども出会った結果からいうと、また意外以上の意外に帰着した。自分に対するお秀の態度を平生から心得ていた彼女も、まさかこんな場面シーンでその相手になろうとは思わなかった。相手になった後あとでも、それが偶然の廻まわり合あわせのように解釈されるだけであった。その必然性を認めるために、過去の因果いんがを迹付あとづけて見ようという気さえ起らなかった。この心理状態をもっと砕けた言葉で云い直すと、事件の責任は全く自分にないという事に過ぎなかった。すべてお秀が背負しょって立たなければならないという意味であった。したがってお延の心は存外平静であった。少くとも、良心に対して疚やましい点は容易に見出みいだされなかった。この会見からお延の得た収獲は二つあった。一つは事後に起る不愉快さであった。その不愉快さのうちには、お秀を通して今後自分達の上に持もち来きたされそうに見える葛藤かっとうさえ織り込まれていた。彼女は充分それを切り抜けて行く覚悟をもっていた。ただしそれには、津田が飽あくまで自分の肩を持ってくれなければ駄目だという条件が附帯していた。そこへ行くと彼女には七分通しちぶどおりの安心と、三分方さんぶがたの不安があった。その三分方の不安を、今日きょうの自分が、どのくらいの程度に減らしているかは、彼女にとって重大な問題であった。少くとも今日の彼女は、夫の愛を買うために、もしくはそれを買い戻すために、できるだけの実じつを津田に見せたという意味で、幾分かの自信をその方面に得たつもりなのである。これはお延自身に解っている側がわの消息中しょうそくちゅうで、最も必要と認めなければならない一端であるが、そのほかにまだ彼女のいっこう知らない間まに、自然自分の手に入るように仕組まれた収獲ができた。無論それは一時的のものに過ぎなかった。けれども当然自分の上に向けられるべき夫の猜疑さいぎの眼めから、彼女は運よく免まぬかれたのである。というのは、お秀という相手を引き受ける前の津田と、それに悩まされ出した後の彼とは、心持から云っても、意識の焦点になるべき対象から見ても、まるで違っていた。だからこの変化の強く起った際きわどい瞬間に姿を現わして、その変化の波を自然のままに拡ひろげる役を勤めたお延は、吾知われしらず儲もうけものをしたのと同じ事になったのである。彼女はなぜ岡本が強しいて自分を芝居へ誘ったか、またなぜその岡本の宅うちへ昨日きのう行かなければならなくなったか、そんな内情に関するすべての自分を津田の前に説明する手数てかずを省はぶく事ができた。むしろ自分の方から云い出したいくらいな小林の言葉についてすら、彼女は一口も語る余裕をもたなかった。お秀の帰ったあとの二人は、お秀の事で全く頭を占領されていた。二人はそれを二人の顔つきから知った。そうして二人の顔を見合せたのは、お秀を送り出したお延が、階子段はしごだんを上あがって、また室へやの入口にそのすらりとした姿を現わした刹那せつなであった。お延は微笑した。すると津田も微笑した。そこにはほかに何なんにもなかった。ただ二人がいるだけであった。そうして互の微笑が互の胸の底に沈んだ。少なくともお延は久しぶりに本来の津田をそこに認めたような気がした。彼女は肉の上に浮び上ったその微笑が何の象徴シムボルであるかをほとんど知らなかった。ただ一種の恰好かっこうをとって動いた肉その物の形が、彼女には嬉うれしい記念であった。彼女は大事にそれを心の奥にしまい込んだ。その時二人の微笑はにわかに変った。二人は歯を露あらわすまでに口を開あけて、一度に声を出して笑い合った。「驚ろいた」お延はこう云いながらまた津田の枕元へ来て坐った。津田はむしろ落ちついて答えた。「だから彼奴あいつに電話なんかかけるなって云うんだ」二人は自然お秀を問題にしなければならなかった。「秀子さんは、まさか基督教キリストきょうじゃないでしょうね」「なぜ」「なぜでも――」「金を置いて行ったからかい」「そればかりじゃないのよ」「真面目まじめくさった説法をするからかい」「ええまあそうよ。あたし始めてだわ。秀子さんのあんなむずかしい事をおっしゃるところを拝見したのは」「彼奴は理窟屋りくつやだよ。つまりああ捏こね返かえさなければ気がすまない女なんだ」「だってあたし始めてよ」「お前は始めてさ。おれは何度だか分りゃしない。いったい何でもないのに高尚がるのが彼奴の癖なんだ。そうして生なまじい藤井の叔父の感化を受けてるのが毒になるんだ」「どうして」「どうしてって、藤井の叔父の傍そばにいて、あの叔父の議論好きなところを、始終しじゅう見ていたもんだから、とうとうあんなに口が達者になっちまったのさ」津田は馬鹿らしいという風をした。お延も苦笑した。

百十二

久しぶりに夫と直じかに向き合ったような気のしたお延は嬉うれしかった。二人の間あいだにいつの間まにかかけられた薄い幕を、急に切って落した時の晴々はればれしい心持になった。彼を愛する事によって、是非共自分を愛させなければやまない。――これが彼女の決心であった。その決心は多大の努力を彼女に促うながした。彼女の努力は幸い徒労に終らなかった。彼女はついに酬むくいられた。少なくとも今後の見込を立て得るくらいの程度において酬いられた。彼女から見れば不慮の出来事と云わなければならないこの破綻はたんは、取とりも直なおさず彼女にとって復活の曙光しょこうであった。彼女は遠い地平線の上に、薔薇色ばらいろの空を、薄明るく眺める事ができた。そうしてその暖かい希望の中に、この破綻から起るすべての不愉快を忘れた。小林の残酷に残して行った正体の解らない黒い一点、それはいまだに彼女の胸の上にあった。お秀の口から迸ほとばしるように出た不審の一句、それも疑惑の星となって、彼女の頭の中に鈍にぶい瞬まばたきを見せた。しかしそれらはもう遠い距離に退しりぞいた。少くともさほど苦くにならなかった。耳に入れた刹那せつなに起った昂奮こうふんの記憶さえ、再び呼び戻す必要を認めなかった。「もし万一の事があるにしても、自分の方は大丈夫だ」夫に対するこういう自信さえ、その時のお延の腹にはできた。したがって、いざという場合に、どうでも臨機の所置をつけて見せるという余裕があった。相手を片づけるぐらいの事なら訳はないという気持も手伝った。「相手?どんな相手ですか」と訊きかれたら、お延は何と答えただろう。それは朧気おぼろげに薄墨うすずみで描かれた相手であった。そうして女であった。そうして津田の愛を自分から奪う人であった。お延はそれ以外に何なんにも知らなかった。しかしどこかにこの相手が潜んでいるとは思えた。お秀と自分ら夫婦の間に起った波瀾はらんが、ああまで際きわどくならずにすんだなら、お延は行いきがかり上じょう、是非共津田の腹のなかにいるこの相手を、遠くから探さぐらなければならない順序だったのである。お延はそのプログラムを狂わせた自分を顧みて、むしろ幸福だと思った。気がかりを後へ繰り越すのが辛つらくて耐たまらないとはけっして考えなかった。それよりもこの機会を緊張できるだけ緊張させて、親切な今の自分を、強く夫の頭の中に叩たたき込んでおく方が得策だと思案した。こう決心するや否や彼女は嘘うそを吐ついた。それは些細ささいの嘘であった。けれども今の場合に、夫を物質的と精神的の両面に亘わたって、窮地から救い出したものは、自分が持って来た小切手だという事を、深く信じて疑わなかった彼女には、むしろ重大な意味をもっていた。その時津田は小切手を取り上げて、再びそれを眺めていた。そこに書いてある額は彼の要求するものよりかえって多かった。しかしそれを問題にする前、彼はお延に云った。「お延ありがとう。お蔭かげで助かったよ」お延の嘘はこの感謝の言葉の後に随ついて、すぐ彼女の口を滑すべって出てしまった。「昨日きのう岡本へ行ったのは、それを叔父さんから貰もらうためなのよ」津田は案外な顔をした。岡本へ金策をしに行って来いと夫から頼まれた時、それを断然跳はねつけたものは、この小切手を持って来たお延自身であった。一週間と経たたないうちに、どこからそんな好意が急に湧わいて出たのだろうと思うと、津田は不思議でならなかった。それをお延はこう説明した。「そりゃ厭いやなのよ。この上叔父さんにお金の事なんかで迷惑をかけるのは。けれども仕方がないわ、あなた。いざとなればそのくらいの勇気を出さなくっちゃ、妻としてのあたしの役目がすみませんもの」「叔父さんに訳を話したのかい」「ええ、そりゃずいぶん辛つらかったの」お延は津田へ来る時の支度を大部分岡本に拵こしらえて貰もらっていた。「その上お金なんかには、ちっとも困らない顔を今日きょうまでして来たんですもの。だからなおきまりが悪いわ」自分の性格から割り出して、こういう場合のきまりの悪さ加減は、津田にもよく呑のみ込めた。「よくできたね」「云えばできるわ、あなた。無いんじゃないんですもの。ただ云い悪にくいだけよ」「しかし世の中にはまたお父さんだのお秀だのっていう、むずかしやも揃そろっているからな」津田はかえって自尊心を傷きずつけられたような顔つきをした。お延はそれを取とり繕つくろうように云った。「なにそう云う意味ばかりで貰って来た訳でもないのよ。叔父さんにはあたしに指輪を買ってくれる約束があるのよ。お嫁に行くとき買ってやらない代りに、今に買ってやるって、此間こないだからそう云ってたのよ。だからそのつもりでくれたんでしょうおおかた。心配しないでもいいわ」津田はお延の指を眺めた。そこには自分の買ってやった宝石がちゃんと光っていた。

百十三

二人はいつになく融とけ合った。今までお延の前で体面を保つために武装していた津田の心が吾知われしらず弛ゆるんだ。自分の父が鄙吝ひりんらしく彼女の眼に映りはしまいかという掛念けねん、あるいは自分の予期以下に彼女が父の財力を見縊みくびりはしまいかという恐れ、二つのものが原因になって、なるべく京都の方面に曖昧あいまいな幕を張り通そうとした警戒が解けた。そうして彼はそれに気づかずにいた。努力もなく意志も働かせずに、彼は自然の力でそこへ押し流されて来た。用心深い彼をそっと持ち上げて、事件がお延のために彼をそこまで運んで来てくれたと同じ事であった。お延にはそれが嬉うれしかった。改めようとする決心なしに、改たまった夫の態度には自然があった。同時に津田から見たお延にも、またそれと同様の趣おもむきが出た。余事はしばらく問題外に措おくとして、結婚後彼らの間には、常に財力に関する妙な暗闘があった。そうしてそれはこう云う因果いんがから来た。普通の人のように富を誇りとしたがる津田は、その点において、自分をなるべく高くお延から評価させるために、父の財産を実際より遥はるか余計な額に見積ったところを、彼女に向って吹聴ふいちょうした。それだけならまだよかった。彼の弱点はもう一歩先へ乗り越す事を忘れなかった。彼のお延に匂におわせた自分は、今より大変楽な身分にいる若旦那わかだんなであった。必要な場合には、いくらでも父から補助を仰ぐ事ができた。たとい仰がないでも、月々の支出に困る憂うれいはけっしてなかった。お延と結婚した時の彼は、もうこれだけの言責げんせきを彼女に対して背負しょって立っていたのと同じ事であった。利巧りこうな彼は、財力に重きを置く点において、彼に優まさるとも劣らないお延の性質をよく承知していた。極端に云えば、黄金おうごんの光りから愛その物が生れるとまで信ずる事のできる彼には、どうかしてお延の手前を取繕とりつくろわなければならないという不安があった。ことに彼はこの点においてお延から軽蔑けいべつされるのを深く恐れた。堀に依頼して毎月まいげつ父から助すけて貰もらうようにしたのも、実は必要以外にこんな魂胆が潜んでいたからでもあった。それでさえ彼はどこかに煙たいところをもっていた。少くとも彼女に対する内と外にはだいぶんの距離があった。眼から鼻へ抜けるようなお延にはまたその距離が手に取るごとくに分った。必然の勢い彼女はそこに不満を抱いだかざるを得なかった。しかし彼女は夫の虚偽を責めるよりもむしろ夫の淡泊たんぱくでないのを恨うらんだ。彼女はただ水臭いと思った。なぜ男らしく自分の弱点を妻の前に曝さらけ出だしてくれないのかを苦くにした。しまいには、それをあえてしないような隔へだたりのある夫なら、こっちにも覚悟があると一人腹の中できめた。するとその態度がまた木精こだまのように津田の胸に反響した。二人はどこまで行っても、直じかに向き合う訳に行かなかった。しかも遠慮があるので、なるべくそこには触れないように慎つつしんでいた。ところがお秀との悶着もんちゃくが、偶然にもお延の胸にあるこの扉を一度にがらりと敲たたき破った。しかもお延自身毫ごうもそこに気がつかなかった。彼女は自分を夫の前に開放しようという努力も決心もなしに、天然自然自分を開放してしまった。だから津田にもまるで別人べつにんのように快よく見えた。二人はこういう風で、いつになく融とけ合った。すると二人が融け合ったところに妙な現象がすぐ起った。二人は今まで回避していた問題を平気で取り上げた。二人はいっしょになって、京都に対する善後策を講じ出した。二人には同じ予感が働いた。この事件はこれだけで片づくまいという不安が双方の心を引き締めた。きっとお秀が何かするだろう。すれば直接京都へ向ってやるに違いない。そうしてその結果は自然二人の不利益となるにきまっている。――ここまでは二人の一致する点であった。それから先が肝心かんじんの善後策になった。しかしそこへ来ると意見が区々まちまちで、容易に纏まとまらなかった。お延は仲裁者として第一に藤井の叔父を指名した。しかし津田は首を掉ふった。彼は叔父も叔母もお秀の味方である事をよく承知していた。次に津田の方から岡本はどうだろうと云い出した。けれども岡本は津田の父とそれほど深い交際がないと云う理由で、今度はお延が反対した。彼女はいっそ簡単に自分が和解の目的で、お秀の所へ行って見ようかという案を立てた。これには津田も大した違存いぞんはなかった。たとい今度の事件のためでなくとも、絶交を希望しない以上、何らかの形式のもとに、両家の交際は復活されべき運命をもっていたからである。しかしそれはそれとして、彼らはもう少し有効な方法を同時に講じて見たかった。彼らは考えた。しまいに吉川の名が二人の口から同じように出た。彼の地位、父との関係、父から特別の依頼を受けて津田の面倒を見てくれている目下の事情、――数えれば数えるほど、彼には有利な条件が具そなわっていた。けれどもそこにはまた一種の困難があった。それほど親しく近づき悪にくい吉川に口を利きいて貰もらおうとすれば、是非共その前に彼の細君を口説くどき落さなければならなかった。ところがその細君はお延にとって大の苦手にがてであった。お延は津田の提議に同意する前に、少し首を傾けた。細君と仲善なかよしの津田はまた充分成効せいこうの見込がそこに見えているので、熱心にそれを主張した。しまいにお延はとうとう我がを折った。事件後の二人は打ち解けてこんな相談をした後あとで心持よく別れた。

百十四

前夜よく寝られなかった疲労の加わった津田はその晩案外気易きやすく眠る事ができた。翌日あくるひもまた透すき通るような日差ひざしを眼に受けて、晴々はればれしい空気を篏硝子はめガラスの外に眺めた彼の耳には、隣りの洗濯屋で例の通りごしごし云わす音が、どことなしに秋の情趣を唆そそった。「……へ行くなら着て行かしゃんせ。シッシッシ」洗濯屋の男は、俗歌を唄うたいながら、区切くぎり区切へシッシッシという言葉を入れた。それがいかにも忙がしそうに手を働かせている彼らの姿を津田に想像させた。彼らは突然変な穴から白い物を担いで屋根へ出た。それから物干へ上のぼって、その白いものを隙間すきまなく秋の空へ広げた。ここへ来てから、日ごとに繰り返される彼らの所作しょさは単調であった。しかし勤勉であった。それがはたして何を意味しているか津田には解わからなかった。彼は今の自分にもっと親切な事を頭の中で考えなければならなかった。彼は吉川夫人の姿を憶おもい浮べた。彼の未来、それを眼の前に描き出すのは、あまりに漠然ばくぜん過ぎた。それを纏まとめようとすると、いつでも吉川夫人が現われた。平生から自分の未来を代表してくれるこの焦点にはこの際特別な意味が附着していた。一にはこの間訪問した時からの引ひっかかりがあった。その時二人の間に封じ込められたある問題を、ぽたりと彼の頭に点じたのは彼女であった。彼にはその後あとを聴きくまいとする努力があった。また聴こうとする意志も動いた。すでに封を切ったものが彼女であるとすれば、中味を披ひらく権利は自分にあるようにも思われた。二には京都の事が気になった。軽重けいちょうを別にして考えると、この方がむしろ急に逼せまっていた。一日も早く彼女に会うのが得策のようにも見えた。まだ四五日はどうしても動く事のできない身体からだを持ち扱った彼は、昨日きのうお延の帰る前に、彼女を自分の代りに夫人の所へやろうとしたくらいであった。それはお延に断られたので、成立しなかったけれども、彼は今でもその方が適当な遣口やりくちだと信じていた。お延がなぜこういう用向ようむきを帯びて夫人を訪たずねるのを嫌きらったのか、津田は不思議でならなかった。黙っていてもそんな方面へ出入でいりをしたがる女のくせに。と彼はその時考えた。夫人の前へ出られるためにわざと用事を拵こしらえて貰もらったのと同じ事だのにとまで、自分の動議を強調して見た。しかしどうしても引き受けたがらないお延を、たって強しいる気もまたその場合の彼には起らなかった。それは夫婦打ち解けた気分にも起因していたが、一方から見ると、またお延の辞退しようにも関係していた。彼女は自分が行くと必ず失敗するからと云った。しかしその理由を述べる代りに、津田ならきっと成効せいこうするに違ちがいないからと云った。成効するにしても、病院を出た後あとでなければ会う訳に行かないんだから、遅くなる虞おそれがあると津田が注意した時、お延はまた意外な返事を彼に与えた。彼女は夫人がきっと病院へ見舞に来るに違ないと断言した。その時機を利用しさえすれば、一番自然にまた一番簡単に事が運ぶのだと主張した。津田は洗濯屋の干物ほしものを眺めながら、昨日きのうの問答をこんな風に、それからそれへと手元へ手繰たぐり寄せて点検した。すると吉川夫人は見舞に来てくれそうでもあった。また来てくれそうにもなかった。つまりお延がなぜ来る方をそう堅く主張したのか解らなくなった。彼は芝居の食堂で晩餐ばんさんの卓に着いたという大勢を眼先に想像して見た。お延と吉川夫人の間にどんな会話が取り換わされたかを、小説的に組み合せても見た。けれどもその会話のどこからこの予言が出て来たかの点になると、自分に解らないものとして投げてしまうよりほかに手はなかった。彼はすでに幾分の直覚、不幸にして天が彼に与えてくれなかった幾分の直覚を、お延に許していた。その点でいつでも彼女を少し畏おそれなければならなかった彼には、杜撰ずざんにそこへ触れる勇気がなかった。と同時に、全然その直覚に信頼する事のできない彼は、何とかしてこっちから吉川夫人を病院へ呼び寄せる工夫はあるまいかと考えた。彼はすぐ電話を思いついた。横着にも見えず、ことさらでもなし、自然に彼女がここまで出向いて来るような電話のかけ方はなかろうかと苦心した。しかしその苦心は水の泡あわを製造する努力とほぼ似たものであった。いくら骨を折って拵こしらえても、すぐ後から消えて行くだけであった。根本的に無理な空想を実現させようと巧たくらんでいるのだから仕方がないと気がついた時、彼は一人で苦笑してまた硝子越ガラスごしに表を眺めた。表はいつか風立かぜだった。洗濯屋の前にある一本の柳の枝が白い干物といっしょになって軽く揺れていた。それを掠かすめるようにかけ渡された三本の電線も、よそと調子を合せるようにふらふらと動いた。

EPISODE COMMENTS

この話の感想

感想 0件
ログインして感想を書く

29話感想一覧

感想一覧を読み込み中...