百十九
しかし彼の驚ろかし方には、また彼一流の順序があった。彼は一番始めにこんな事を云って津田に調戯った。「兄妹喧嘩をしたんだって云うじゃないか。先生も奥さんも、お秀さんにしゃべりつけられて弱ってたぜ」「君はまた傍でそれを聴いていたのか」小林は苦笑しながら頭を掻いた。「なに聴こうと思って聴いた訳でもないがね。まあ天然自然耳へ入ったようなものだ。何しろしゃべる人がお秀さんで、しゃべらせる人が先生だからな」お秀にはどこか片意地で一本調子な趣があった。それに一種の刺戟が加わると、平生の落ちつきが全く無くなって、不断と打って変った猛烈さをひょっくり出現させるところに、津田とはまるで違った特色があった。叔父はまた叔父で、何でも構わず底の底まで突きとめなければ承知のできない男であった。単に言葉の上だけでもいいから、前後一貫して俗にいう辻褄が合う最後まで行きたいというのが、こういう場合相手に対する彼の態度であった。筆の先で思想上の問題を始終取り扱かいつけている癖が、活字を離れた彼の日常生活にも憑り移ってしまった結果は、そこによく現われた。彼は相手にいくらでも口を利かせた。その代りまたいくらでも質問をかけた。それが或程度まで行くと、質問という性質を離れて、詰問に変化する事さえしばしばあった。津田は心の中で、この叔父と妹と対坐した時の様子を想像した。ことによるとそこでまた一波瀾起したのではあるまいかという疑さえ出た。しかし小林に対する手前もあるので、上部はわざと高く出た。「おおかためちゃくちゃに僕の悪口でも云ったんだろう」小林は御挨拶にただ高笑いをした後で、こんな事を云った。「だが君にも似合わないね、お秀さんと喧嘩をするなんて」「僕だからしたのさ。彼奴だって堀の前なら、もっと遠慮すらあね」「なるほどそうかな。世間じゃよく夫婦喧嘩っていうが、夫婦喧嘩より兄妹喧嘩の方が普通なものかな。僕はまだ女房を持った経験がないから、そっちのほうの消息はまるで解らないが、これでも妹はあるから兄妹の味ならよく心得ているつもりだ。君何だぜ。僕のような兄でも、妹と喧嘩なんかした覚はまだないぜ」「そりゃ妹次第さ」「けれどもそこはまた兄次第だろう」「いくら兄だって、少しは腹の立つ場合もあるよ」小林はにやにや笑っていた。「だが、いくら君だって、今お秀さんを怒らせるのが得策だとは思ってやしまい」「そりゃ当り前だよ。好んで誰が喧嘩なんかするもんか。あんな奴と」小林はますます笑った。彼は笑うたびに一調子ずつ余裕を生じて来た。「蓋しやむをえなかった訳だろう。しかしそれは僕の云う事だ。僕は誰と喧嘩したって構わない男だ。誰と喧嘩したって損をしっこない境遇に沈淪している人間だ。喧嘩の結果がもしどこかにあるとすれば、それは僕の損にゃならない。何となれば、僕はいまだかつて損になるべき何物をも最初からもっていないんだからね。要するに喧嘩から起り得るすべての変化は、みんな僕の得になるだけなんだから、僕はむしろ喧嘩を希望してもいいくらいなものだ。けれども君は違うよ。君の喧嘩はけっして得にゃならない。そうして君ほどまた損得利害をよく心得ている男は世間にたんとないんだ。ただ心得てるばかりじゃない、君はそうした心得の下に、朝から晩まで寝たり起きたりしていられる男なんだ。少くともそうしなければならないと始終考えている男なんだ。好いかね。その君にして――」津田は面倒臭そうに小林を遮ぎった。「よし解った。解ったよ。つまり他と衝突するなと注意してくれるんだろう。ことに君と衝突しちゃ僕の損になるだけだから、なるべく事を穏便にしろという忠告なんだろう、君の主意は」小林は惚けた顔をしてすまし返った。「何僕と?僕はちっとも君と喧嘩をする気はないよ」「もう解ったというのに」「解ったらそれでいいがね。誤解のないように注意しておくが、僕は先刻からお秀さんの事を問題にしているんだぜ、君」「それも解ってるよ」「解ってるって、そりゃ京都の事だろう。あっちが不首尾になるという意味だろう」「もちろんさ」「ところが君それだけじゃないぜ。まだほかにも響いて来るんだぜ、気をつけないと」小林はそこで句を切って、自分の言葉の影響を試験するために、津田の顔を眺めた。津田ははたして平気でいる事ができなかった。
百二十
小林はここだという時機を捕まえた。「お秀さんはね君」と云い出した時の彼は、もう津田を擒にしていた。「お秀さんはね君、先生の所へ来る前に、もう一軒ほかへ廻って来たんだぜ。その一軒というのはどこの事だか、君に想像がつくか」津田には想像がつかなかった。少なくともこの事件について彼女が足を運びそうな所は、藤井以外にあるはずがなかった。「そんな所は東京にないよ」「いやあるんだ」津田は仕方なしに、頭の中でまたあれかこれかと物色して見た。しかしいくら考えても、見当らないものはやッぱり見当らなかった。しまいに小林が笑いながら、その宅の名を云った時に、津田ははたして驚ろいたように大きな声を出した。「吉川?吉川さんへまたどうして行ったんだろう。何にも関係がないじゃないか」津田は不思議がらざるを得なかった。ただ吉川と堀を結びつけるだけの事なら、津田にも容易にできた。強い空想の援に依る必要も何にもなかった。津田夫婦の結婚するとき、表向媒妁の労を取ってくれた吉川夫婦と、彼の妹にあたるお秀と、その夫の堀とが社交的に関係をもっているのは、誰の眼にも明らかであった。しかしその縁故で、この問題を提さげたお秀が、とくに吉川の門に向う理由はどこにも発見できなかった。「ただ訪問のために行っただけだろう。単に敬意を払ったんだろう」「ところがそうでないらしいんだ。お秀さんの話を聴いていると」津田はにわかにその話が聴きたくなった。小林は彼を満足させる代りに注意した。「しかし君という男は、非常に用意周到なようでどこか抜けてるね。あんまり抜けまい抜けまいとするから、自然手が廻りかねる訳かね。今度の事だって、そうじゃないか、第一お秀さんを怒らせる法はないよ、君の立場として。それから怒らせた以上、吉川の方へ突ッ走らせるのは愚だよ。その上吉川の方へ向いて行くはずがないと思い込んで、初手から高を括っているなんぞは、君の平生にも似合わないじゃないか」結果の上から見た津田の隙間を探し出す事は小林にも容易であった。「いったい君のファーザーと吉川とは友達だろう。そうして君の事はファーザーから吉川に万事宜しく願ってあるんだろう。そこへお秀さんが馳け込むのは当り前じゃないか」津田は病院へ来る前、社の重役室で吉川から聴かされた「年寄に心配をかけてはいけない。君が東京で何をしているか、ちゃんとこっちで解ってるんだから、もし不都合な事があれば、京都へ知らせてやるだけだ。用心しろ」という意味の言葉を思い出した。それは今から解釈して見ても冗談半分の訓戒に過ぎなかった。しかしもしそれをここで真面目一式な文句に転倒するものがあるとすれば、その作者はお秀であった。「ずいぶん突飛な奴だな」突飛という性格が彼の家伝にないだけ彼の批評には意外という観念が含まれていた。「いったい何を云やがったろう、吉川さんで。――彼奴の云う事を真向に受けていると、いいのは自分だけで、ほかのものはみんな悪くなっちまうんだから困るよ」津田の頭には直接の影響以上に、もっと遠くの方にある大事な結果がちらちらした。吉川に対する自分の信用、吉川と岡本との関係、岡本とお延との縁合、それらのものがお秀の遣口一つでどう変化して行くか分らなかった。「女はあさはかなもんだからな」この言葉を聴いた小林は急に笑い出した。今まで笑ったうちで一番大きなその笑い方が、津田をはっと思わせた。彼は始めて自分が何を云っているかに気がついた。「そりゃどうでもいいが、お秀が吉川へ行ってどんな事をしゃべったのか、叔父に話していたところを君が聴いたのなら、教えてくれたまえ」「何かしきりに云ってたがね。実をいうと、僕は面倒だから碌に聴いちゃいなかったよ」こう云った小林は肝心なところへ来て、知らん顔をして圏外へ出てしまった。津田は失望した。その失望をしばらく味わった後で、小林はまた圏内へ帰って来た。「しかしもう少し待ってたまえ。否でも応でも聴かされるよ」津田はまさかお秀がまた来る訳でもなかろうと思った。「なにお秀さんじゃない。お秀さんは直に来やしない。その代りに吉川の細君が来るんだ。嘘じゃないよ。この耳でたしかに聴いて来たんだもの。お秀さんは細君の来る時間まで明言したくらいだ。おおかたもう少ししたら来るだろう」お延の予言はあたった。津田がどうかして呼びつけたいと思っている吉川夫人は、いつの間にか来る事になっていた。
百二十一
津田の頭に二つのものが相継いで閃めいた。一つはこれからここへ来るその吉川夫人を旨く取扱わなければならないという事前の暗示であった。彼女の方から病院まで足を運んでくれる事は、予定の計画から見て、彼の最も希望するところには違なかったが、来訪の意味がここに新らしく付け加えられた以上、それに対する彼の応答ぶりも変えなければならなかった。この場合における夫人の態度を想像に描いて見た彼は、多少の不安を感じた。お秀から偏見を注ぎ込まれた後の夫人と、まだ反感を煽られない前の夫人とは、彼の眼に映るところだけでも、だいぶ違っていた。けれどもそこには平生の自信もまた伴なっていた。彼には夫人の持ってくる偏見と反感を、一場の会見で、充分引繰り返して見せるという覚悟があった。少くともここでそれだけの事をしておかなければ、自分の未来が危なかった。彼は三分の不安と七分の信力をもって、彼女の来訪を待ち受けた。残る一つの閃めきが、お延に対する態度を、もう一遍臨時に変更する便宜を彼に教えた。先刻までの彼は退屈のあまり彼女の姿を刻々に待ち設けていた。しかし今の彼には別途の緊張があった。彼は全然異なった方面の刺戟を予想した。お延はもう不用であった。というよりも、来られてはかえって迷惑であった。その上彼はただ二人、夫人と差向いで話してみたい特殊な問題も控えていた。彼はお延と夫人がここでいっしょに落ち合う事を、是非共防がなければならないと思い定めた。附帯条件として、小林を早く追払う手段も必要になって来た。しかるにその小林は今にも吉川夫人が見えるような事を云いながら、自分の帰る気色をどこにも現わさなかった。彼は他の邪魔になる自分を苦にする男ではなかった。時と場合によると、それと知って、わざわざ邪魔までしかねない人間であった。しかもそこまで行って、実際気がつかずに迷惑がらせるのか、または心得があって故意に困らせるのか、その判断を確と他に与えずに平気で切り抜けてしまうじれったい人物であった。津田は欠伸をして見せた。彼の心持と全く釣り合わないこの所作が彼を二つに割った。どこかそわそわしながら、いかにも所在なさそうに小林と応対するところに、中断された気分の特色が斑になって出た。それでも小林はすましていた。枕元にある時計をまた取り上げた津田は、それを置くと同時に、やむをえず質問をかけた。「君何か用があるのか」「ない事もないんだがね。なにそりゃ今に限った訳でもないんだ」津田には彼の意味がほぼ解った。しかしまだ降参する気にはなれなかった。と云って、すぐ撃退する勇気はなおさらなかった。彼は仕方なしに黙っていた。すると小林がこんな事を云い出した。「僕も吉川の細君に会って行こうかな」冗談じゃないと津田は腹の中で思った。「何か用があるのかい」「君はよく用々って云うが、何も用があるから人に会うとは限るまい」「しかし知らない人だからさ」「知らない人だからちょっと会って見たいんだ。どんな様子だろうと思ってね。いったい僕は金持の家庭へ入った事もないし、またそんな人と交際った例もない男だから、ついこういう機会に、ちょっとでもいいから、会っておきたくなるのさ」「見世物じゃあるまいし」「いや単なる好奇心だ。それに僕は閑だからね」津田は呆れた。彼は小林のようなみすぼらしい男を、友達の内にもっているという証拠を、夫人に見せるのが厭でならなかった。あんな人と付合っているのかと軽蔑された日には、自分の未来にまで関係すると考えた。「君もよほど呑気だね。吉川の奥さんが今日ここへ何しに来るんだか、君だって知ってるじゃないか」「知ってる。――邪魔かね」津田は最後の引導を渡すよりほかに途がなくなった。「邪魔だよ。だから来ないうちに早く帰ってくれ」小林は別に怒った様子もしなかった。「そうか、じゃ帰ってもいい。帰ってもいいが、その代り用だけは云って行こう、せっかく来たものだから」面倒になった津田は、とうとう自分の方からその用を云ってしまった。「金だろう。僕に相当の御用なら承ってもいい。しかしここには一文も持っていない。と云って、また外套のように留守へ取りに行かれちゃ困る」小林はにやにや笑いながら、じゃどうすればいいんだという問を顔色でかけた。まだ小林に聴く事の残っている津田は、出立前もう一遍彼に会っておく方が便宜であった。けれども彼とお延と落ち合う掛念のある病院では都合が悪かった。津田は送別会という名の下に、彼らの出会うべき日と時と場所とを指定した後で、ようやくこの厄介者を退去させた。
百二十二
津田はすぐ第二の予防策に取りかかった。彼は床の上に置かれた小型の化粧箱を取り除けて、その下から例のレターペーパーを同じラヴェンダー色の封筒を引き抜くや否や、すぐ万年筆を走らせた。今日は少し都合があるから、見舞に来るのを見合せてくれという意味を、簡単に書き下した手紙は一分かかるかかからないうちに出来上った。気の急いた彼には、それを読み直す暇さえ惜かった。彼はすぐ封をしてしまった。そうして中味の不完全なために、お延がどんな疑いを起すかも知れないという事には、少しの顧慮も払わなかった。平生の用心を彼から奪ったこの場合は、彼を怱卒しくしたのみならず彼の心を一直線にしなければやまなかった。彼は手紙を持ったまま、すぐ二階を下りて看護婦を呼んだ。「ちょっと急な用事だから、すぐこれを持たせて車夫を宅までやって下さい」看護婦は「へえ」と云って封書を受け取ったなり、どこに急な用事ができたのだろうという顔をして、宛名を眺めた。津田は腹の中で往復に費やす車夫の時間さえ考えた。「電車で行くようにして下さい」彼は行き違いになる事を恐れた。手紙を受け取らない前にお延が病院へ来てはせっかくの努力も無駄になるだけであった。二階へ帰って来た後でも、彼はそればかりが苦になった。そう思うと、お延がもう宅を出て、電車へ乗って、こっちの方角へ向いて動いて来るような気さえした。自然それといっしょに頭の中に纏付るのは小林であった。もし自分の目的が達せられない先に、細君が階子段の上に、すらりとしたその姿を現わすとすれば、それは全く小林の罪に相違ないと彼は考えた。貴重な時間を無駄に費やさせられたあげく、頼むようにして帰って貰った彼の後姿を見送った津田は、それでももう少しで刻下の用を弁ずるために、小林を利用するところであった。「面倒でも帰りにちょっと宅へ寄って、今日来てはいけないとお延に注意してくれ」。こういう言葉がつい口の先へ出かかったのを、彼は驚ろいて、引ッ込ましてしまったのである。もしこれが小林でなかったなら、この際どんなに都合がよかったろうにとさえ実は思ったのである。津田が神経を鋭どくして、今来るか今来るかという細かい予期に支配されながら、吉川夫人を刻々に待ち受けている間に、彼の看護婦に渡したお延への手紙は、また彼のいまだ想いいたらない運命に到着すべく余儀なくされた。手紙は彼の命令通り時を移さず車夫の手に渡った。車夫はまた看護婦の命令通り、それを手に持ったまますぐ電車へ乗った。それから教えられた通りの停留所で下りた。そこを少し行って、大通りを例の細い往来へ切れた彼は、何の苦もなくまた名宛の苗字を小綺麗な二階建の一軒の門札に見出した。彼は玄関へかかった。そこで手に持った手紙を取次に出たお時に渡した。ここまではすべての順序が津田の思い通りに行った。しかしその後には、書面を認める時、まるで彼の頭の中に入っていなかった事実が横わっていた。手紙はすぐお延の手に落ちなかった。しかし津田の懸念したように、宅にいなかったお延は、彼の懸念したように病院へ出かけたのではなかった。彼女は別に行先を控えていた。しかもそれは際どい機会を旨く利用しようとする敏捷な彼女の手腕を充分に発揮した結果であった。その日のお延は朝から通例のお延であった。彼女は不断のように起きて、不断のように動いた。津田のいる時と万事変りなく働らいた彼女は、それでも夫の留守から必然的に起る、時間の余裕を持て余すほど楽な午前を過ごした。午飯を食べた後で、彼女は洗湯に行った。病院へ顔を出す前ちょっと綺麗になっておきたい考えのあった彼女は、そこでずいぶん念入に時間を費やした後、晴々した好い心持を湯上りの光沢しい皮膚に包みながら帰って来ると、お時から嘘ではないかと思われるような報告を聴いた。「堀の奥さんがいらっしゃいました」お延は下女の言葉を信ずる事ができないくらいに驚ろいた。昨日の今日、お秀の方からわざわざ自分を尋ねて来る。そんな意外な訪問があり得べきはずはなかった。彼女は二遍も三遍も下女の口を確かめた。何で来たかをさえ訊かなければ気がすまなかった。なぜ待たせておかなかったかも問題になった。しかし下女は何にも知らなかった。ただ藤井の帰りに通り路だからちょっと寄ったまでだという事だけが、お秀の下女に残して行った言葉で解った。お延は既定のプログラムをとっさの間に変更した。病院は抜いて、お秀の方へ行先を転換しなければならないという覚悟をきめた。それは津田と自分との間に取り換わされた約束に過ぎなかった。何らの不自然に陥いる痕迹なしにその約束を履行するのは今であった。彼女はお秀の後を追かけるようにして宅を出た。

