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明暗・夏目漱石

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百二十三

堀のうち大略おおよその見当から云って、病院と同じ方角にあるので、電車を二つばかり手前の停留所で下りて、下りた処から、すぐ右へ切れさえすれば、つい四五町の道を歩くだけで、すぐ門前へ出られた。藤井や岡本の住居すまいと違って、郊外に遠い彼のやしきには、ほとんど庭というものがなかった。車廻し、馬車廻しは無論の事であった。往来に面して建てられたと云ってもいいその二階作りと門の間には、ただ三間足らずの余地があるだけであった。しかもそれが石で敷き詰められているので、地面の色はどこにも見えなかった。市区改正の結果、よほど以前に取り広げられた往来には、比較的よそで見られない幅があった。それでいて商売をしている店は、町内にほとんど一軒も見当らなかった。弁護士、医者、旅館、そんなものばかりが並んでいるので、四辺あたりが繁華な割に、通りはいつも閑静であった。その上みちの左右には柳の立木が行儀よく植えつけられていた。したがって時候の好い時には、殺風景な市内の風も、両側にうごく緑りのうちに一種のおもむきを見せた。中で一番大きいのが、ちょうどほり塀際へいぎわから斜めに門の上へ長い枝を差し出しているので、よそにはそれが家と調子を取るために、わざとそこへ移されたように体裁ていさいが好かった。その他の特色を云うと、玄関の前に大きな鉄の天水桶てんすいおけがあった。まるで下町の質屋か何かを聯想れんそうさせるこの長物ちょうぶつと、そのすぐ横にある玄関のかまえとがまたよく釣り合っていた。比較的間口の広いその玄関の入口はことごとくほそ格子こうしで仕切られているだけで、唐戸からどだのドアだのの装飾はどこにも見られなかった。一口でいうと、ハイカラな仕舞しもうたと評しさえすれば、それですぐ首肯うなずかれるこの家の職業は、少なくとも系統的に、家の様子を見ただけで外部から判断する事ができるのに、不思議なのはその主人であった。彼は自分がどんなうちへ入っているかいまだかつて知らなかった。そんな事をにする神経をもたない彼は、ひとから自分の家業柄かぎょうがらを何とあげつらわれてもいっこう平気であった。道楽者だが、満更まんざら無教育なただの金持とは違って、人柄からいえば、こんな役者向の家にすまうのはむしろ不適当かも知れないくらいな彼は、きわめての少ない人であった。悪く云えば自己の欠乏した男であった。何でも世間の習俗通りにして行く上に、わが家庭に特有な習俗もまた改めようとしない気楽ものであった。かくして彼は、彼の父、彼の母に云わせるとすなわち先代、の建てた土蔵造どぞうづくりのような、そうしてどこかに芸人趣味のある家に住んで満足しているのであった。もし彼の美点がそこにもあるとすれば、わざとらしく得意がっていない彼の態度をめるよりほかに仕方がなかった。しかし彼はまた得意がるはずもなかった。彼の眼に映る彼の住宅は、得意がるにしては、彼にとってあまりに陳腐ちんぷ過ぎた。お延は堀のうちを見るたびに、自分と家との間に存在する不調和を感じた。家へいってからもその距離を思い出す事がしばしばあった。お延の考えによると、一番そこに落ちついてぴたりと坐っていられるものは堀の母だけであった。ところがこの母は、家族中でお延の最も好かない女であった。好かないというよりも、むしろ応対しにくい女であった。時代が違う、残酷に云えば隔世の感がある、もしそれが当らないとすれば、肌が合わない、出が違う、その他評する言葉はいくらでもあったが、結果はいつでも同じ事に帰着した。次には堀その人が問題であった。お延から見たこの主人は、このうちに釣り合うようでもあり、また釣り合わないようでもあった。それをもう一歩進めていうと、彼はどんな家へ行っても、釣り合うようでもあり、釣り合わないようでもあるというのとほとんど同じ意味になるので、始めから問題にしないのと、大した変りはなかった。この曖昧あいまいなところがまたお延の堀に対する好悪こうおの感情をそのままに現わしていた。事実をいうと、彼女は堀を好いているようでもあり、また好いていないようでもあった。最後にきたるお秀に関しては、ただ要領を一口でいう事ができた。お延から見ると、彼女はこの家の構造に最も不向ふむきに育て上げられていた。この断案にもう少しもったいをつけ加えて、心理的に翻訳すると、彼女とこの家庭の空気とはいつまで行っても一致しっこなかった。堀の母とお秀、お延は頭の中にこの二人を並べて見るたびに一種の矛盾をいられた。しかし矛盾の結果が悲劇であるか喜劇であるかは容易に判断ができなかった。家と人とをこう組み合せて考えるお延の眼に、不思議と思われる事がただ一つあった。「一番家と釣り合の取れている堀の母が、最も彼女を手古摺てこずらせると同時に、その反対に出来上っているお秀がまた別の意味で、最も彼女に苦痛を与えそうな相手である」玄関の格子こうしを開けた時、お延の頭に平生からあったこんな考えを一度によみがえらさせるべく号鈴ベルがはげしく鳴った。

百二十四

昨日きのう孫をれて横浜の親類へ行ったという堀の母がまだ帰っていなかったのは、座敷へ案内されたお延にとって、意外な機会であった。見方によって、好い都合つごうにもなり、また悪いばつにもなるこの機会は、彼女から話しのしにくい年寄をけてくれたと同時に、ただ一人めんと向き合って、当のかたきのお秀と応対しなければならない不利をも与えた。お延に知れていないこの情実は、訪問の最初から彼女の勝手を狂わせた。いつもなら何をおいても小さなまげった母が一番先へ出て来て、義理ずぐめにちやほやしてくれるところを、今日に限って、劈頭へきとうにお秀が顔を出したばかりか、待ちもうけた老女はそのあとからも現われる様子をいっこう見せないので、お延はいつもの予期から出てくる自然の調子をまずはずさせられた。その時彼女はお秀を一目見た眼のうちに、当惑の色を示した。しかしそれはすまなかったという後悔の記念でも何でもなかった。単に昨日きのうの戦争に勝った得意の反動からくる一種のきまり悪さであった。どんなかたきを打たれるかも知れないというかすかな恐怖であった。この場をどう切り抜けたらいいか知らという思慮の悩乱でもあった。お延はこの一瞥いちべつをお秀に与えた瞬間に、もう今日の自分を相手に握られたという気がした。しかしそれは自分のもっている技巧のどうする事もできない高い源からこの一瞥いちべつが突如としてひらめいてしまった後であった。自分の手の届かない暗中から不意に来たものを、喰い止める威力をもっていない彼女は、甘んじてその結果を待つよりほかに仕方がなかった。一瞥ははたしてお秀の上によく働いた。しかしそれに反応してくる彼女の様子は、またいかにも予想外であった。彼女の平生、その平生が破裂した昨日きのう津田と自分と寄ってたかってその破裂を料理した始末、これらの段取を、不断から一貫してはたの人の眼に着く彼女の性格に結びつけて考えると、どうしても無事に納まるはずはなかった。大なり小なり次の波瀾はらんが呼び起されずに片がつこうとは、いかに自分の手際に重きをおくお延にも信ぜられなかった。だから彼女は驚ろいた。座に着いたお秀が案に相違していつもより愛嬌あいきょうの好い挨拶あいさつをした時には、ほとんどわれを疑うくらいに驚ろいた。その疑いをまた少しも後へ繰り越させないように、手抜てぬかりなく仕向けて来る相手の態度を眼の前に見た時、お延はむしろ気味が悪くなった。何という変化だろうという驚ろきの後から、どういう意味だろうという不審がいて起った。けれども肝心かんじんなその意味を、お秀はまたいつまでもお延に説明しようとしなかった。そればかりか、昨日病院で起った不幸なちがいについても、ついに一言ひとことも口をく様子を見せなかった。相手に心得があってわざときわどい問題を避けている以上、お延の方からそれを切り出すのは変なものであった。第一好んで痛いところに触れる必要はどこにもなかった。と云って、どこかで区切くぎりを付けて、双方さっぱりしておかないと、自分は何のために、今日ここまで足を運んだのか、主意が立たなくなった。しかし和解の形式を通過しないうちに、もう和解の実を挙げている以上、それをとやかく表面へ持ち出すのも馬鹿げていた。怜悧りこうなお延は弱らせられた。会話がなめらかにすべって行けば行くほど、一種の物足りなさが彼女の胸の中に頭をもたげて来た。しまいに彼女は相手のどこかを突き破って、その内側をのぞいて見ようかと思い出した。こんな点にかけると、すこぶる冒険的なところのある彼女は、万一やりそくなったあかつきに、この場合から起り得る危険を知らないではなかった。けれどもそこには自分の腕に対する相当の自信も伴っていた。その上もし機会が許すならば、お秀の胸の格別なある一点に、打診を試ろみたいという希望が、お延の方にはあった。そこをたたかせてもらって局部から自然に出る本音ほんねを充分にく事は、津田と打ち合せを済ました訪問の主意でも何でもなかったけれども、お延自身からいうと、うまく媾和こうわの役目をやりおおせて帰るよりもはるかに重大な用向ようむきであった。津田に隠さなければならないこの用向は、津田がお延にないしょにしなければならない事件と、その性質の上においてよく似通っていた。そうして津田が自分のいない留守るすに、小林がお延に何を話したかを気にするごとく、お延もまた自分のいない留守に、お秀が津田に何を話したかをしかと突きとめたかったのである。どこにひっかかりをこしらえたものかと思案した末、彼女は仕方なしに、藤井の帰りに寄ってくれたというお秀の訪問をまた問題にした。けれども座に着いた時すでに、先刻さっきいらしって下すったそうですが、あいにくお湯に行っていて」という言葉を、会話の口切くちきりに使った彼女が、今度は「何か御用でもおありだったの」という質問で、それを復活させにかかった時、お秀はただ簡単に「いいえ」と答えただけで、綺麗きれいにお延をねつけてしまった。

百二十五

お延は次に藤井から入って行こうとした。今朝けさこの叔父おじの所をたずねたというお秀の自白が、話しをそっちへ持って行くに都合のいい便利を与えた。けれどもお秀の門構もんがまえは依然としてこの方面にも厳重であった。彼女は必要の起るたびに、わざわざその門の外へ出て来て、愛想よくお延に応対した。お秀がこの叔父の世話で人となった事実は、お延にもよく知れていた。彼女が精神的にその感化を受けた点もお延にわかっていた。それでお延は順序としてまずこの叔父の人格やら生活やらについて、お秀の気に入りそうな言辞ことばろうさなければならなかった。ところがお秀から見ると、それがまた一々誇張と虚偽の響きを帯びているので、彼女は真面目まじめに取り合う緒口いとくちをどこにも見出みいだす事ができないのみならず、長く同じ筋道を辿たどって行くうちには、自然気色きしょくを悪くした様子を外に現わさなければすまなくなった。敏捷びんしょうなお延は、相手を見縊みくびぎていた事に気がつくや否や、すぐ取って返した。するとお秀の方で、今度は岡本の事を喋々ちょうちょうし始めた。お秀対藤井とちょうど同じ関係にあるその叔父は、お延にとって大事な人であると共に、お秀からいうと、親しみも何にも感じられない、あかの他人であった。したがって彼女の言葉にはすべっこい皮膚があるだけで、肝心かんじんの中味に血も肉も盛られていなかった。それでもお延はお秀の手料理になるこのお世辞せじの返礼をさもうまそうに鵜呑うのみにしなければならなかった。しかし再度自分の番が廻って来た時、お延は二返目の愛嬌あいきょう手古盛てこもりに盛り返して、悪くお秀に強いるほど愚かな女ではなかった。時機を見て器用に切り上げた彼女は、次に吉川夫人からあおって行こうとした。しかし前と同じ手段を用いて、ただめそやすだけでは、同じ不成蹟ふせいせきおちいるかも知れないという恐れがあった。そこで彼女は善悪の標準を度外に置いて、ただ夫人の名前だけを二人の間に点出して見た。そうしてその影響次第であとの段取をきめようと覚悟した。彼女はお秀が自分の風呂の留守るすへ藤井の帰りがけに廻って来た事を知っていた。けれども藤井へ行く前に、彼女がもうすでに吉川夫人を訪問している事にはまるでおもいたらなかった。しかも昨日きのう病院で起った波瀾はらんの結果として、彼女がわざわざそこまで足を運んでいようとは、夢にも知らなかった。この一点にかけると、津田と同じ程度に無邪気であった彼女は、津田が小林から驚ろかされたと同じ程度に、またお秀から驚ろかされなければならなかった。しかし驚ろかせられ方は二人共まるで違っていた。小林のは明らさまな事実の報告であった。お秀のは意味のありそうな無言であった。無言と共に来た薄赤い彼女の顔色であった。最初夫人の名前がお延のくちびるかられた時、彼女は二人の間に一滴の霊薬が天から落されたような気がした。彼女はすぐその効果を眼の前に眺めた。しかし不幸にしてそれは彼女にとって何の役にも立たない効果に過ぎなかった。少くともどう利用していいか解らない効果であった。その予想外な性質は彼女をはっと思わせるだけであった。彼女は名前を口へ出すと共に、あるいはその場ですぐ失言を謝さなければならないかしらとまで考えた。すると第二の予想外がいで起った。お秀がちょっと顔をそむけた様子を見た時に、お延はどうしても最初に受けた印象を改正しなければならなくなった。血色の変化はけっして怒りのためでないという事がその時始めてわかった。年来陳腐ちんぷなくらい見飽みあきている単純なきまりの悪さだと評するよりほかに仕方のないこの表情は、お延をさらに驚ろかさざるを得なかった。彼女はこの表情の意味をはっきり確かめた。しかしその意味のってきたるところは、お秀の説明を待たなければまた確かめられるはずがなかった。お延がどうしようかと迷っているうちに、お秀はまるで木に竹をいだように、突然話題を変化した。ゆきがかりじょう全然今までと関係のないその話題は、三度目にまたお延を驚ろかせるに充分なくらい突飛とっぴであった。けれどもお延には自信があった。彼女はすぐそれを受けて立った。

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