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明暗・夏目漱石

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百二十六

お秀の口を洩れた意外な文句のうちで、一番初めにお延の耳を打ったのは「愛」という言葉であった。この陳腐ちんぷなありきたりの一語が、いかにお延の前に伏兵のような新らし味をもって起ったかは、前後の連絡を欠いて単独に突発したというのがおもな原因に相違なかったが、一つにはまた、そんな言葉がまだ会話の材料として、二人の間に使われていなかったからである。お延に比べるとお秀は理窟りくつっぽい女であった。けれどもそういう結論に達するまでには、多少の説明が要った。お延は自分で自分の理窟を行為の上に運んで行く女であった。だから平生彼女の議論をしないのは、できないからではなくって、する必要がないからであった。その代りひとからまれた知識になると、大した貯蓄も何にもなかった。女学生時代に読みれた雑誌さえ近頃は滅多めったに手にしないくらいであった。それでいて彼女はいまだかつて自分を貧弱と認めた事がなかった。虚栄心の強い割に、その方面の欲望があまり刺戟しげきされずにすんでいるのは、暇が乏しいからでもなく、競争の話し相手がないからでもなく、全く自分に大した不足を感じないからであった。ところがお秀は教育からしてが第一違っていた。読書は彼女を彼女らしくするほとんどすべてであった。少なくとも、すべてでなければならないように考えさせられて来た。書物に縁の深い叔父の藤井に教育された結果は、善悪両様の意味で、彼女の上に妙な結果を生じた。彼女は自分より書物に重きをおくようになった。しかしいくら自分を書物より軽く見るにしたところで、自分は自分なりに、書物と独立したまんまで、活きて働らいて行かなければならなかった。だから勢い本と自分とは離れ離れになるだけであった。それをもっと適切な言葉で云い現わすと、彼女は折々がらにもない議論を主張するような弊におちいった。しかし自分が議論のために議論をしているのだからつまらないと気がつくまでには、彼女の反省力から見て、まだ大分だいぶん道程みちのりがあった。意地の方から行くと、あまりにが強過ぎた。平たく云えば、その我がつまり自分の本体であるのに、その本体にぐわないような理窟りくつを、わざわざ自分の尊敬する書物のうちから引張り出して来て、そこに書いてある言葉の力で、それを守護するのと同じ事に帰着した。自然弾丸たまを込めて打ち出すべき大砲を、九寸五分くすんごぶの代りに、振り廻して見るような滑稽こっけいも時々は出て来なければならなかった。問題ははたして或雑誌から始まった。月の発行にかかるその雑誌に発表された諸家の恋愛観を読んだお秀の質問は、実をいうとお延にとってそれほど興味のあるものでもなかった。しかしまだ眼を通していない事実を自白した時に、彼女の好奇心が突然起った。彼女はこの抽象的ちゅうしょうてきな問題を、どこかで自分の思い通り活かしてやろうと決心した。彼女はややともすると空論に流れやすい相手の弱点をかなりよくみ込んでいた。きわどい実際問題にこれから飛び込んで行こうとする彼女に、それほど都合つごうの悪い態度はなかった。ただ議論のために議論をされるくらいなら、最初から取り合わない方がよっぽどましだった。それで彼女にはどうしても相手を地面の上にしばりつけておく必要があった。ところが不幸にしてこの場合の相手は、最初からもう地面の上にいなかった。お秀の口にする愛は、津田の愛でも、堀の愛でも、乃至ないしお延、お秀の愛でも何でもなかった。ただ漫然まんぜんとして空裏くうり飛揚ひようする愛であった。したがってお延の努力は、風船玉のようなお秀の話を、まず下へ引きりおろさなければならなかった。子供がすでに二人もあって、万事自分より世帯染しょたいじみているお秀が、この意味において、はるかに自分より着実でない事を発見した時に、お延は口ではいはい向うのいう通りを首肯うけがいながら、腹の中では、じれったがった。「そんな言葉の先でなく、裸でいらっしゃい、実力で相撲すもうを取りますから」と云いたくなった彼女は、どうしたらこの議論家を裸にする事ができるだろうと思案した。やがてお延の胸に分別ふんべつがついた。分別とはほかでもなかった。この問題をかすためには、お秀を犠牲にするか、または自分を犠牲にするか、どっちかにしなければ、とうてい思うつぼに入って来る訳がないという事であった。相手を犠牲にするのに困難はなかった。ただどこからか向うの弱点を突ッ付きさえすれば、それで事は足りた。その弱点が事実であろうとも仮説的であろうとも、それはお延の意とするところではなかった。単に自然の反応を目的にして試みる刺戟しげきに対して、真偽の吟味ぎんみなどは、らざる斟酌しんしゃくであった。しかしそこにはまたそれ相応の危険もあった。お秀はおこるにちがいなかった。ところがお秀を怒らせるという事は、お延の目的であって、そうして目的でなかった。だからお延は迷わざるを得なかった。最後に彼女はある時機をつかんでった。そうしてその起った時には、もう自分を犠牲にする方に決心していた。

百二十七

「そう云われると、何と云っていいかわからなくなるわね、あたしなんか。津田に愛されているんだか、愛されていないんだか、自分じゃまるで夢中でいるんですもの。秀子さんは仕合せね、そこへ行くと。最初から御自分にちゃんとした保証がついていらっしゃるんだから」お秀の器量望きりょうのぞみでもらわれた事は、津田といっしょにならない前から、お延に知れていた。それは一般の女、ことにお延のような女にとっては、うらやましい事実にちがいなかった。始めて津田からその話をかされた時、お延はお秀を見ない先に、まず彼女に対する軽い嫉妬しっとを感じた。中味の薄っぺらな事実に過ぎなかったという意味があとで解った時には、淡い冷笑のうちに、復讐ふくしゅうをしたような快感さえ覚えた。それより以後、愛という問題について、お秀に対するお延の態度は、いつも軽蔑けいべつであった。それを表向おもてむきさもうれしい消息ででもあるように取扱かって、彼我ひがに共通するごとくに見せかけたのは、無論一片のお世辞せじに過ぎなかった。もっと悪く云えば、一種の嘲弄ちょうろうであった。幸いお秀はそこに気がつかなかった。そうして気がつかない訳であった。と云うのは、言葉の上はとにかく、実際に愛を体得する上において、お秀はとてもお延の敵でなかった。猛烈に愛した経験も、生一本きいっぽんに愛された記憶ももたない彼女は、この能力の最大限がどのくらい強く大きなものであるかという事をまだ知らずにいる女であった。それでいて夫に満足している細君であった。知らぬがほとけということわざがまさにこの場合の彼女をよく説明していた。結婚の当時、自分の未来に夫の手で押しつけられた愛の判を、普通の証文のようなつもりで、いつまでも胸のうちへしまい込んでいた彼女は、お延の言葉を、その胸の中で、真面目まじめに受けるほど無邪気だったのである。本当に愛の実体を認めた事のないお秀は、彼女のいたずらに使う胡乱うろんな言葉を通して、鋭どいお延からよく見透みすかされたのみではなかった。彼女は津田とお延の関係を、自分達夫婦から割り出して平気でいた。それはお延の言葉をいた彼女が実際驚ろいた顔をしたのでも解った。津田がお延を愛しているかいないかが今頃どうして問題になるのだろう。しかもそれが細君自身の口から出るとは何事だろう。ましてそれを夫の妹の前へ出すに至っては、どこにどんな意味があるのだろう。――これがお秀の表情であった。実際お秀から見たお延は、現在の津田の愛に満足する事を知らない横着者か、さもなければ、自分が充分津田を手の中へ丸め込んでおきながら、わざとそこに気のつかないようなふりをする、空々そらぞらしい女に過ぎなかった。彼女は「あら」と云った。「まだその上に愛されてみたいの」この挨拶あいさつは平生のお延の注文通りに来た。しかし今の場合におけるお延に満足を与えるはずはなかった。彼女はまた何とか云って、自分の意志を明らかにしなければならなかった。ところがそれを判然はっきり表現すると、「津田があたしのほかにまだ思っている人が別にあるとするなら、あたしだってとうてい今のままで満足できる訳がないじゃありませんか」という露骨な言葉になるよりほかにみちはなかった。思い切って、そう打って出れば、自分で自分の計画をぶちこわすのと一般だと感づいた彼女は、「だって」と云いかけたまま、そこで逡巡ためらったなり動けなくなった。「まだ何か不足があるの」こう云ったお秀は眼を集めてお延の手を見た。そこには例の指環ゆびわが遠慮なく輝やいていた。しかしお秀の鋭どい一瞥いちべつは何の影響もお延に与える事ができなかった。指輪に対する彼女の無邪気さは昨日きのうごうも変るところがなかった。お秀は少しもどかしくなった。「だって延子さんは仕合せじゃありませんか。欲しいものは、何でも買って貰えるし、行きたい所へは、どこへでも連れていって貰えるし――」「ええ。そこだけはまあ仕合せよ」ひとに向って自分の仕合せと幸福を主張しなければ、わが弱味を外へ現わすようになって、不都合だとばかり考えつけて来たお延は、平生から持ち合せの挨拶あいさつをついこの場合にも使ってしまった。そうしてまた行きつまった。芝居に行った翌日あくるひ岡本へ行って継子と話をした時用いた言葉を、そのまま繰り返した後で、彼女は相手のお秀であるという事に気がついた。そのお秀は「そこだけが仕合せなら、それでたくさんじゃないか」という顔つきをした。お延は自分がかりそめにも津田を疑っているという形迹けいせきをお秀に示したくなかった。そうかと云って、何事も知らない風をよそおって、見す見すお秀から馬鹿にされるのはなおいやだった。したがって応対に非常な呼吸がった。目的地へぎつけるまでにはなかなか骨が折れると思った。しかし彼女はとても見込のない無理な努力をしているという事には、ついに気がつかなかった。彼女はまた態度を一変した。

百二十八

彼女は思い切って一足飛びに飛んだ。情実にからまれた窮屈な云い廻し方を打ちやって、めんと向き合ったままお秀に相見しょうけんしようとした。その代り言葉はどうしても抽象的にならなければならなかった。それでも論戦の刺撃で、事実の面影おもかげを突きとめる方が、まだましだと彼女は思った。「いったい一人の男が、一人以上の女を同時に愛する事ができるものでしょうか」この質問を基点として歩を進めにかかった時、お秀はそれに対してあらかじめ準備された答を一つももっていなかった。書物と雑誌から受けた彼女の知識は、ただ一般恋愛に関するだけで、ごうもこの特殊な場合に利用するに足らなかった。腹に何のたくわえもない彼女は、考える風をした。そうして正直に答えた。「そりゃちょっと解らないわ」お延は気の毒になった。「この人は生きた研究の材料として、堀という夫をすでにもっているではないか。その夫の婦人に対する態度も、朝夕あさゆうそばにいて、見ているではないか」。お延がこう思う途端に、第二句がお秀の口から落ちた。わからないはずじゃありませんか。こっちが女なんですもの」お延はこれも愚答だと思った。もしお秀のありのままがこうだとすれば、彼女の心の働らきの鈍さ加減がおもいやられた。しかしお延はすぐこの愚答を活かしにかかった。「じゃ女の方から見たらどうでしょう。自分の夫が、自分以外の女を愛しているという事が想像できるでしょうか」「延子さんにはそれができないの?」と云われた時、お延はおやと思った。「あたしは今そんな事を想像しなければならない地位にいるんでしょうか」「そりゃ大丈夫よ」とお秀はすぐ受け合った。お延はただちに相手の言葉を繰り返した。「大丈夫⁉」疑問とも間投詞とも片のつかないその語尾は、お延にも何という意味だか解らなかった。「大丈夫よ」お秀も再び同じ言葉を繰り返した。その瞬間にお延は冷笑の影をちらりとお秀のくちびるのあたりに認めた。しかし彼女はすぐそれを切って捨てた。「そりゃ秀子さんは大丈夫にきまってるわ。もともと堀さんへいらっしゃる時の条件が条件ですもの」「じゃ延子さんはどうなの。やっぱり津田に見込まれたんじゃなかったの」うそよ。そりゃあなたの事よ」お秀は急に応じなくなった。お延も獲物のない同じ脈をそれ以上掘る徒労をはぶいた。「いったい津田は女に関してどんな考えをもっているんでしょう」「それは妹より奥さんの方がよく知ってるはずだわ」お延は叩きつけられたあとで、自分もお秀と同じような愚問をかけた事に気がついた。「だけど兄妹きょうだいとしての津田は、あたしより秀子さんの方によく解ってるでしょう」「ええ、だけど、いくら解ってたって、延子さんの参考にゃならないわ」「参考に無論なるのよ。しかしその事ならあたしだってうから知ってるわ」お延のかまきわどいところで投げかけられた。お秀ははたしてかかった。「けれども大丈夫よ。延子さんなら大丈夫よ」「大丈夫だけれども危険あぶないのよ。どうしても秀子さんから詳しい話しをかしていただかないと」「あら、あたし何にも知らないわ」こういったお秀は急にあかくなった。それが何の羞恥しゅうちのために起ったのかは、いくら緊張したお延の神経でも揣摩しまできなかった。しかも彼女はこの訪問の最初に、同じ現象から受けた初度しょどの記憶をまだ忘れずにいた。吉川夫人の名前を点じた時に見たその薄赧うすあかい顔と、今彼女の面前に再現したこの赤面の間にどんな関係があるのか、それはいくら物の異同をぎ分ける事に妙を得た彼女にも見当がつかなかった。彼女はこの場合無理にも二つのものをつないでみたくってたまらなかった。けれどもそれを繋ぎ合せる綱は、どこをどうさがしたって、金輪際こんりんざい出て来っこなかった。お延にとって最も不幸な点は、現在の自分の力に余るこの二つのものの間に、きっと或る聯絡れんらくが存在しているに相違ないという推測すいそくであった。そうしてその聯絡が、今の彼女にとって、すこぶる重大な意味をもっているに相違ないという一種の予覚であった。自然彼女はそこをもっと突ッついて見るよりほかに仕方がなかった。

百二十九

とっさの衝動に支配されたお延は、自分の口をいて出るうそおさえる事ができなかった。「吉川の奥さんからも伺った事があるのよ」こう云った時、お延は始めて自分の大胆さに気がついた。彼女はそこへとまって、冒険の結果を眺めなければならなかった。するとお秀が今までの赤面とは打って変った不思議そうな顔をしながらき返した。「あら何を」「その事よ」「その事って、どんな事なの」お延にはもうあとがなかった。お秀には先があった。「嘘でしょう」「嘘じゃないのよ。津田の事よ」お秀は急に応じなくなった。その代り冷笑の影を締りの好い口元にわざと寄せて見せた。それが先刻さっきより著るしく目立って外へ現われた時、お延は路を誤まって一歩深田ふかだの中へ踏み込んだような気がした。彼女に特有な負け嫌いな精神が強く働らかなかったなら、彼女はお秀の前に頭を下げて、もうすくいを求めていたかも知れなかった。お秀は云った。「変ね。津田の事なんか、吉川の奥さんがお話しになる訳がないのにね。どうしたんでしょう」「でも本当よ、秀子さん」お秀は始めて声を出して笑った。「そりゃ本当でしょうよ。誰も嘘だと思うものなんかありゃしないわ。だけどどんな事なの、いったい」「津田の事よ」「だから兄の何よ」「そりゃ云えないわ。あなたの方から云って下さらなくっちゃ」「ずいぶん無理な御注文ね。云えったって、見当けんとうがつかないんですもの」お秀はどこからでもいらっしゃいという落ちつきを見せた。お延のわきの下から膏汗あぶらあせが流れた。彼女は突然飛びかかった。「秀子さん、あなたは基督教信者キリストきょうしんじゃじゃありませんか」お秀は驚ろいた様子を現わした。「いいえ」「でなければ、昨日きのうのような事をおっしゃる訳がないと思いますわ」昨日と今日の二人は、まるで地位をえたような形勢におちいった。お秀はどこまでも優者の余裕を示した。「そう。じゃそれでもいいわ。延子さんはおおかた基督教がおきらいなんでしょう」「いいえ好きなのよ。だからお願いするのよ。だから昨日のような気高けだかい心持になって、この小さいお延をあわれんでいただきたいのよ。もし昨日のあたしが悪かったら、こうしてあなたの前に手を突いてあやまるから」お延は光る宝石入の指輪を穿めた手を、お秀の前に突いて、口で云った通り、実際に頭を下げた。「秀子さん、どうぞ隠さずに正直にして下さい。そうしてみんな打ち明けて下さい。お延はこの通り正直にしています。この通り後悔しています」持前の癖を見せて、まゆを寄せた時、お延の細い眼から涙がひざの上へ落ちた。「津田はあたしの夫です。あなたは津田の妹です。あなたに津田が大事なように、津田はあたしにも大事です。ただ津田のためです。津田のために、みんな打ち明けて話して下さい。津田はあたしを愛しています。津田が妹としてあなたを愛しているように、妻としてあたしを愛しているのです。だから津田から愛されているあたしは津田のためにすべてを知らなければならないのです。津田から愛されているあなたもまた、津田のためによろずをあたしに打ち明けて下さるでしょう。それが妹としてのあなたの親切です。あなたがあたしに対する親切を、この場合お感じにならないでも、あたしはいっこううらみとは思いません。けれども兄さんとしての津田には、まだ尽して下さる親切をもっていらっしゃるでしょう。あなたがそれを充分もっていらっしゃるのは、あなたの顔つきでよくわかります。あなたはそんな冷刻な人ではけっしてないのです。あなたはあなたが昨日御自分でおっしゃった通り親切な方に違いないのです」お延がこれだけ云って、お秀の顔を見た時、彼女はそこに特別な変化を認めた。お秀はあかくなる代りに少し蒼白あおじろくなった。そうして度外どはずれにんだ調子で、お延の言葉を一刻も早く否定しなければならないという意味に取れる言葉づかいをした。「あたしはまだ何にも悪い事をしたおぼえはないんです。兄さんに対してもねえさんに対しても、もっているのは好意だけです。悪意はちっとも有りません。どうぞ誤解のないようにして下さい」

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