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明暗・夏目漱石

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朗読者: VOICEVOX Nemo / ノーマルこの朗読者の公開朗読はまだない / 朗読停止中

百四十一

旅費をもらって、勤向つとめむきの都合をつけて貰って、病後の身体を心持の好い温泉場で静養するのは、誰にとっても望ましい事に違なかった。ことに自己の快楽を人間の主題にして生活しようとする津田には滅多めったにないあつらきの機会であった。彼に云わせると、見す見すそれをはずすのはの極であった。しかしこの場合に附帯している一種の条件はけっして尋常のものではなかった。彼は顧慮した。彼を引きとめる心理作用の性質は一目暸然いちもくりょうぜんであった。けれども彼はその働きの顕著な力に気がついているだけで、その意味を返照へんしょうするいとまがなかった。この点においても夫人の方が、彼自身よりもかえってしっかりした心理の観察者であった。二つ返事で断行を誓うと思った津田のどこか渋っている様子を見た夫人はこう云った。「あなたは内心行きたがってるくせに、もじもじしていらっしゃるのね。それがわたしに云わせると、男らしくないあなたの一番悪いところなんですよ」男らしくないと評されても大した苦痛を感じない津田は答えた。「そうかも知れませんけれども、少し考えて見ないと……」「その考える癖があなたの人格にたたって来るんです」津田は「へえ?」と云って驚ろいた。夫人は澄ましたものであった。「女は考えやしませんよ。そんな時に」「じゃ考える私は男らしい訳じゃありませんか」この答えをいた時、夫人の態度が急にけわしくなった。「そんな生意気なまいき口応くちごたえをするもんじゃありません。言葉だけでひとをやりめればどこがどうしたというんです、馬鹿らしい。あなたは学校へ行ったり学問をしたりしたかたのくせに、まるで自分が見えないんだからお気の毒よ。だから畢竟ひっきょう清子さんに逃げられちまったんです」津田はまた「えッ?」と云った。夫人は構わなかった。「あなたに分らなければ、私が云ってかせて上げます。あなたがなぜ行きたがらないか、私にはちゃんと分ってるんです。あなたは臆病なんです。清子さんの前へ出られないんです」「そうじゃありません。私は……」「お待ちなさい。――あなたは勇気はあるという気なんでしょう。しかし出るのは見識けんしきかかわるというんでしょう。私から云えば、そう見識ばるのが取りも直さずあなたの臆病なところなんですよ、ござんすか。なぜと云って御覧なさい。そんな見識はただの見栄みえじゃありませんか。よく云ったところで、うわつら体裁ていさいじゃありませんか。世間に対する手前と気兼きがねを引いたら後に何が残るんです。花嫁さんが誰も何とも云わないのに、自分できまりを悪くして、三度の御飯を控えるのとおんなじ事よ」津田は呆気あっけに取られた。夫人の小言こごとはまだ続いた。「つまり色気が多過ぎるから、そんならざるところにを立てて見たくなるんでしょう。そうしてそれがあなたの己惚おのぼれに生れ変って変なところへ出て来るんです」津田は仕方なしに黙っていた。夫人は容赦なく一歩進んでその己惚を説明した。「あなたはいつまでもひんよく黙っていようというんです。じっと動かずにすまそうとなさるんです。それでいて内心ではあの事が始終しじゅうになるんです。そこをもう少し押して御覧なさいな。おれがこうしているうちには、今に清子の方から何か説明して来るだろう来るだろうと思って――」「そんな事を思ってるもんですか、なんぼわたくしだって」「いえ、思っているのとおんなじだというのです。実際どこにも変りがなければ、そう云われたってしようがないじゃありませんか」津田にはもう反抗する勇気がなかった。機敏な夫人はそこへつけ込んだ。「いったいあなたはずうずうしい性質たちじゃありませんか。そうしてずうずうしいのも世渡りの上じゃ一徳いっとくだぐらいに考えているんです」「まさか」「いえ、そうです。そこがまだわたしに解らないと思ったら、大間違です。好いじゃありませんか、ずうずうしいで、私はずうずうしいのが好きなんだから。だからここで持前のずうずうしいところを男らしく充分発揮なさいな。そのために私がせっかく骨を折ってこしらえて来たんだから」「ずうずうしさの活用ですか」と云った津田は言葉を改めた。「あの人は一人で行ってるんですか」「無論一人です」「関は?」「関さんはこっちよ。こっちに用があるんですもの」津田はようやく行く事に覚悟をきめた。

百四十二

しかし夫人と津田の間には結末のつかないまだ一つの問題が残っていた。二人はそこをふり返らないで話を切り上げる訳に行かなかった。夫人がきびすめぐらさないうちに、津田は帰った。「それで私が行くとしたら、どうなるんです、先刻さっきおっしゃった事は」「そこです。そこを今云おうと思っていたのよ。私に云わせると、これほど好い療治はないんですがね。どうでしょう、あなたのお考えは」津田は答えなかった。夫人は念を押した。「解ったでしょう。後は云わなくっても」夫人の意味は説明を待たないでもほぼ津田にみ込めた。しかしそれをどんな風にして、お延の上に影響させるつもりなのか、そこへ行くと彼にはしかとした観念がなかった。夫人は笑い出した。「あなたは知らん顔をしていればいいんですよ。後は私の方でやるから」「そうですか」と答えた津田の頭には疑惑があった。あとげて夫人に一任するとなると、お延の運命を他人にゆだねると同じ事であった。多少夫人の手腕を恐れている彼は危ぶんだ。何をされるか解らないという掛念けねんに制せられた。「お任せしてもいいんですが、手段や方法が解っているなら伺っておく方が便利かと思います」「そんな事はあなたが知らないでもいいのよ。まあ見ていらっしゃい、わたしがお延さんをもっと奥さんらしい奥さんにきっと育て上げて見せるから」津田の眼に映るお延は無論不完全であった。けれども彼の気に入らない欠点が、必ずしも夫人の難の打ち所とは限らなかった。それをちゃんぽんに混同しているらしい夫人は、少くとも自分に都合のいいお延をきたえ上げる事が、すなわち津田のために最も適当な細君を作り出す所以ゆえんだと誤解しているらしかった。それのみか、もう一歩夫人の胸中に立ち入って、その真底しんそこさぐると、とんでもない結論になるかも知れなかった。彼女はただお延を好かないために、ある手段をこしらえて、相手をいじめにかかるのかも分らなかった。気に喰わないだけの根拠で、敵を打ちらす方法を講じているのかも分らなかった。さいわいに自分でそこを認めなければならないほどに、世間からもおのれからも反省をいられていない境遇にある彼女は、気楽であった。お延の教育。――こういう言葉が臆面おくめんなく彼女の口を洩れた。夫人とお延の間柄を、内面から看破みやぶる機会に出会った事のない津田にはまたその言葉を疑う資格がなかった。彼は大体の上で夫人の実意を信じてかかった。しかし実意の作用に至ると、勢い危惧きぐの念が伴なわざるを得なかった。「心配する事があるもんですか。細工はりゅうりゅう仕上しあげ御覧ごろうじろって云うじゃありませんか」いくら津田がいても詳しい話しをしなかった夫人は、こんな高をくくった挨拶あいさつをした後で、教えるように津田に云った。「あのかたは少し己惚おのぼれ過ぎてるところがあるのよ。それから内側と外側がまだ一致しないのね。上部うわべは大変鄭寧ていねいで、なかの中はしっかりし過ぎるくらいしっかりしているんだから。それに利巧りこうだから外へは出さないけれども、あれでなかなか慢気まんきが多いのよ。だからそんなものをんな取っちまわなくっちゃ……」夫人が無遠慮な評をお延に加えている最中に、階子段はしごだんの中途で足をめた看護婦の声が二人の耳に入った。「吉川の奥さんへ堀さんとおっしゃる方から電話でございます」夫人は「はい」と応じてすぐ立ったが、敷居の所で津田を顧みた。「何の用でしょう」津田にも解らなかったその用を足すために下へ降りて行った夫人は、すぐまた上って来ていきなり云った。「大変大変」「何が?どうかしたんですか」夫人は笑いながら落ちついて答えた。「秀子さんがわざわざ注意してくれたの」「何をです」「今まで延子さんが秀子さんの所へ来て話していたんですって。帰りに病院の方へ廻るかも知れないから、ちょっとお知らせするって云うのよ。今秀子さんの門を出たばかりのところだって。――まあ好かった。悪口でも云ってるところへ来られようもんなら、大恥おおはじかなくっちゃならない」いったんすわった夫人は、間もなくまた立った。「じゃわたしはもうおいとまにしますからね」こんな打ち合せをした後でお延の顔を見るのは、彼女にとってもきまりが好くないらしかった。「いらっしゃらないうちに、早く退却しましょう。どうぞよろしく」一言ひとこと挨拶あいさつを彼女に残したまま、夫人はついに病室を出た。

百四十三

この時お延の足はすでに病院に向って動いていた。堀のうちから医者の所へ行くには、門を出て一二丁町東へ歩いて、そこに丁字形ていじけいを描いている大きな往来をまた一つ向うへ越さなければならなかった。彼女がこの曲り角へかかった時、北から来た一台の電車がちょうど彼女の前、方角から云えば少し筋違すじかいの所でとまった。何気なく首を上げた彼女は見るともなしにこちらがわの窓を見た。すると窓硝子まどガラスを通して映る乗客の中に一人の女がいた。位地いちの関係から、お延はただその女の横顔の半分もしくは三分の一を見ただけであったが、見ただけですぐはっと思った。吉川夫人じゃないかという気がたちまち彼女の頭を刺戟しげきしたからである。電車はじきに動き出した。お延は自分の物色に満足な時間を与えずに走り去ったその後影うしろかげをしばらく見送ったあとで、通りを東側へ横切った。彼女の歩く往来はもう横町だけであった。その辺の地理に詳しい彼女は、いくつかの小路こうじを右へ折れたり左へ曲ったりして、一番近い道をはやく病院へ行き着くつもりであった。けれども電車に会ったあとの彼女の足は急に重くなった。距離にすればもう二三丁という所まで来た時、彼女は病院へ寄らずに、いったんうちへ帰ろうかと思い出した。彼女の心は堀の門を出た折からすでに重かった。彼女はむやみにお秀を突ッ付いて、かえってやりそくなった不快を胸に包んでいた。そこには大事を明らさまに握る事ができずに、裏からわざわざにおわせられた羽痒はがゆさがあった。なまじいそれをぎつけた不安の色も、前よりは一層濃く染めつけられただけであった。何よりも先だつのは、こっちの弱点を見抜かれて、さかさまに相手から翻弄ほんろうされはしなかったかという疑惑であった。お延はそれ以上にまださとい気を遠くの方まで廻していた。彼女は自分に対して仕組まれた謀計はかりごとが、内密にどこかで進行しているらしいとまでかんづいた。首謀者は誰にしろ、お秀がその一人である事はたしかであった。吉川夫人が関係しているのも明かに推測された。――こう考えた彼女は急に心細くなった。知らないうちに重囲じゅういのうちに自分を見出みいだした孤軍こぐんのような心境が、遠くから彼女を襲って来た。彼女は周囲あたりを見廻した。しかしそこには夫を除いてたよりになるものは一人もいなかった。彼女は何をおいてもまず津田に走らなければならなかった。その津田を疑ぐっている彼女にも、まだ信力は残っていた。どんな事があろうとも、夫だけは共謀者の仲間入はよもしまいと念じた彼女の足は、堀の門を出るや否や、ひとりでにすぐ病院の方へ向いたのである。その心理作用が今いとめられなければならなくなった時、通りで会った電車の影をお延は腹の底からのろった。もし車中の人が吉川夫人であったとすれば、もし吉川夫人が津田の所へ見舞に行ったとすれば、もし見舞に行ったついでに、――。いかに怜俐りこうなお延にも考える自由の与えられていないそのあとは容易に出て来なかった。けれども結果は一つであった。彼女の頭は急にお秀から、吉川夫人、吉川夫人から津田へと飛び移った。彼女は何がなしに、この三人をともえのように眺め始めた。「ことによると三人は自分に感じさせない一種の電気を通わせ合っているかも知れない」今まで避難場のつもりで夫の所へ駈け込もうとばかり思っていた彼女は考えざるを得なかった。「この分じゃ、ただ行ったっていけない。行ってどうしよう」彼女はどうしようという分別なしに歩いて来た事に気がついた。するとどんな態度で、どんな風に津田に会うのが、この場合最も有効だろうという問題が、さも重要らしく彼女に見え出して来た。夫婦のくせに、そんなよそいきの支度なんぞして何になるという非難をどこにもかなかったので、いったんうちへ帰って、よく気を落ちつけて、それからまた出直すのが一番の上策だと思いきわめた彼女は、ついにもう五六分で病院へ行き着こうという小路こうじの中ほどから取って返した。そうして柳の木のうわっている大通りからにぎやかな往来まで歩いてすぐ電車へ乗った。

百四十四

お延は日のとぼとぼ頃に宅へ帰った。電車から降りて一丁ほどの所を、身にみるような夕暮のもやに包まれた後の彼女には、何よりも火鉢ひばちはたが恋しかった。彼女はコートを脱ぐなりまずそこへすわって手をかざした。しかし彼女にはほとんど一分の休憩時間も与えられなかった。坐るや否や彼女はお時の手から津田の手紙を受け取った。手紙の文句はもとより簡単であった。彼女は封を切る手数とほとんど同じ時間で、それを読み下す事ができた。けれども読んだ後の彼女は、もう読む前の彼女ではなかった。わずか三行ばかりの言葉は一冊の書物より強く彼女を動かした。一度に外から持って帰った気分に火をけたその書翰しょかんの前に彼女の心はおどった。「今日病院へ来ていけないという意味はどこにあるだろう」それでなくっても、もう一遍出直すはずであった彼女は、時間にかまう余裕さえなかった。彼女は台所からぜんを運んで来たお時を驚ろかして、すぐ立ち上がった。「御飯は帰ってからにするよ」彼女は今脱いだばかりのコートをまた羽織って、門を出た。しかし電車通りまで歩いて来た時、彼女の足は、また小路こうじの角でとまった。彼女はなぜだか病院へ行くにえないような気がした。この様子では行ったところで、役に立たないという思慮が不意に彼女に働らきかけた。「夫の性質では、とても卒直にこの手紙の意味さえ説明してはくれまい」彼女は心細くなって、自分の前を右へ行ったり左へ行ったりする電車を眺めていた。その電車を右へ利用すれば病院で、左へ乗れば岡本のうちであった。いっそ当初の計画をやめて、叔父おじの所へでも行こうかと考えついた彼女は、考えつくや否や、すぐその方面によこたわる困難をも想像した。岡本へ行って相談する以上、彼女は打ち明け話をしなければならなかった。今まで隠していた夫婦関係の奥底を、さらけ出さなければ、一歩も前へ出る訳には行かなかった。叔父と叔母の前に、自分の眼がかなかった自白を綺麗きれいにしなければならなかった。お延はまだそれほどの恥を忍ぶまでに事件はせまっていないと考えた。復活の見込が充分立たないのに、酔興すいきょうで自分の虚栄心を打ち殺すような正直は、彼女の最も軽蔑けいべつするところであった。彼女は決しかねて右と左へ少しずつ揺れた。彼女がこんなに迷っているとはまるで気のつかない津田は、この時とこの上に起き上って、平気で看護婦の持って来た膳に向いつつあった。先刻さっきお秀から電話のかかった時、すでにお延の来訪を予想した彼は、吉川夫人と入れ代りに細君の姿を病室に見るべくあんに心の調子を整えていたところが、その細君は途中から引き返してしまったので、軽い失望の間に、夕食ゆうめしの時間が来るまで、待ち草臥くたびれたせいか、看護婦の顔を見るや否や、すぐ話しかけた。「ようやく飯か。どうも一人でいると日が長くって困るな」看護婦はなりさい血色の好くない女であった。しかし年頃はどうしても津田に鑑定のつかない妙な顔をしていた。いつでも白い服を着けているのが、なおさら彼女を普通の女のむれから遠ざけた。津田はつねに疑った。――この人が通常の着物を着る時に、まだ肩上かたあげを付けているだろうか、またはっているだろうか。彼はいつか真面目まじめにこんな質問を彼女にかけて見た事があった。その時彼女はにやりと笑って、「私はまだ見習です」と答えたので、津田はおおよその見当を立てたくらいであった。膳を彼の枕元へ置いた彼女はすぐ下へ降りなかった。「御退屈さま」と云って、にやにや笑った彼女は、すぐあとを付け足した。「今日は奥さんはお見えになりませんね」「うん、来ないよ」津田の口の中にはもうげた麺麭パンがいっぱい入っていた。彼はそれ以上何も云う事ができなかった。しかし看護婦の方は自由であった。「その代りほかのお客さまがいらっしゃいましたね」「うん。あのお婆さんだろう。ずいぶんふとってるね、あの奥さんは」看護婦が悪口わるくち相槌あいづちを打つ気色けしきを見せないので、津田は一人でしゃべらなければならなかった。「もっと若い綺麗きれいな人が、どんどん見舞に来てくれると病気も早くなおるんだがな」と云って看護婦を笑わせた彼は、すぐ彼女から冷嘲ひやかし返された。「でも毎日女の方ばかりいらっしゃいますね。よっぽどがいいと見えて」彼女は小林の来た事を知らないらしかった。昨日きのういらしった奥さんは大変お綺麗ですね」「あんまり綺麗でもないよ。あいつは僕の妹だからね。どこか似ているかね、僕と」看護婦は似ているとも似ていないとも答えずに、やっぱりにやにやしていた。

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