百四十九
遮二無二津田を突き破ろうとしたお延は立ちどまった。夫がそれほど自分をごまかしていたのでないと考える拍子に気が抜けたので、一息に進むつもりの彼女は進めなくなった。津田はそこを覘った。「お秀なんぞが何を云ったって構わないじゃないか。お秀はお秀、お前はお前なんだから」お延は答えた。「そんなら小林なんぞがあたしに何を云ったって構わないじゃありませんか。あなたはあなた、小林は小林なんだから」「そりゃ構わないよ。お前さえしっかりしていてくれれば。ただ疑ぐりだの誤解だのを起して、それをむやみに振り廻されると迷惑するから、こっちだって黙っていられなくなるだけさ」「あたしだって同じ事ですわ。いくらお秀さんが馬鹿にしようと、いくら藤井の叔母さんが疎外しようと、あなたさえしっかりしていて下されば、苦になるはずはないんです。それを肝心のあなたが……」お延は行きつまった。彼女には明暸な事実がなかった。したがって明暸な言葉が口へ出て来なかった。そこを津田がまた一掬い掬った。「おおかたお前の体面に関わるような不始末でもすると思ってるんだろう。それよりか、もう少しおれに憑りかかって安心していたらいいじゃないか」お延は急に大きな声を揚げた。「あたしは憑りかかりたいんです。安心したいんです。どのくらい憑りかかりたがっているか、あなたには想像がつかないくらい、憑りかかりたいんです」「想像がつかない?」「ええ、まるで想像がつかないんです。もしつけば、あなたも変って来なくっちゃならないんです。つかないから、そんなに澄ましていらっしゃられるんです」「澄ましてやしないよ」「気の毒だとも可哀相だとも思って下さらないんです」「気の毒だとも、可哀相だとも……」これだけ繰り返した津田はいったん塞えた。その後で継ぎ足した文句はむしろ蹣跚として揺めいていた。「思って下さらないたって。――いくら思おうと思っても。――思うだけの因縁があれば、いくらでも思うさ。しかしなけりゃ仕方がないじゃないか」お延の声は緊張のために顫えた。「あなた。あなた」津田は黙っていた。「どうぞ、あたしを安心させて下さい。助けると思って安心させて下さい。あなた以外にあたしは憑りかかり所のない女なんですから。あなたに外されると、あたしはそれぎり倒れてしまわなければならない心細い女なんですから。だからどうぞ安心しろと云って下さい。たった一口でいいから安心しろと云って下さい」津田は答えた。「大丈夫だよ。安心おしよ」「本当?」「本当に安心おしよ」お延は急に破裂するような勢で飛びかかった。「じゃ話してちょうだい。どうぞ話してちょうだい。隠さずにみんなここで話してちょうだい。そうして一思いに安心させてちょうだい」津田は面喰った。彼の心は波のように前後へ揺き始めた。彼はいっその事思い切って、何もかもお延の前に浚け出してしまおうかと思った。と共に、自分はただ疑がわれているだけで、実証を握られているのではないとも推断した。もしお延が事実を知っているなら、ここまで押して来て、それを彼の顔に叩きつけないはずはあるまいとも考えた。彼は気の毒になった。同時に逃げる余地は彼にまだ残っていた。道義心と利害心が高低を描いて彼の心を上下へ動かした。するとその片方に温泉行の重みが急に加わった。約束を断行する事は吉川夫人に対する彼の義務であった。必然から起る彼の要求でもあった。少くともそれを済ますまで打ち明けずにいるのが得策だという気が勝を制した。「そんなくだくだしい事を云ってたって、お互いに顔を赤くするだけで、際限がないから、もう止そうよ。その代りおれが受け合ったらいいだろう」「受け合うって」「受け合うのさ。お前の体面に対して、大丈夫だという証書を入れるのさ」「どうして」「どうしてって、ほかに証文の入れようもないから、ただ口で誓うのさ」お延は黙っていた。「つまりお前がおれを信用すると云いさえすれば、それでいいんだ。万一の場合が出て来た時は引き受けて下さいって云えばいいんだ。そうすればおれの方じゃ、よろしい受け合ったと、こう答えるのさ。どうだねその辺のところで妥協はできないかね」
百五十
妥協という漢語がこの場合いかに不釣合に聞こえようとも、その時の津田の心事を説明するには極めて穏当であった。実際この言葉によって代表される最も適切な意味が彼の肚にあった事はたしかであった。明敏なお延の眼にそれが映った時、彼女の昂奮はようやく喰いとめられた。感情の潮がまだ上りはしまいかという掛念で、暗に頭を悩ませていた津田は助かった。次の彼には喰いとめた潮の勢を、反対な方向へ逆用する手段を講ずるだけの余裕ができた。彼はお延を慰めにかかった。彼女の気に入りそうな文句を多量に使用した。沈着な態度を外部側にもっている彼は、また臨機に自分を相手なりに順応させて行く巧者も心得ていた。彼の努力ははたして空しくなかった。お延は久しぶりに結婚以前の津田を見た。婚約当時の記憶が彼女の胸に蘇えった。「夫は変ってるんじゃなかった。やっぱり昔の人だったんだ」こう思ったお延の満足は、津田を窮地から救うに充分であった。暴風雨になろうとして、なり損ねた波瀾はようやく収まった。けれども事前の夫婦は、もう事後の夫婦ではなかった。彼らはいつの間にか吾知らず相互の関係を変えていた。波瀾の収まると共に、津田は悟った。「畢竟女は慰撫しやすいものである」彼は一場の風波が彼に齎したこの自信を抱いてひそかに喜こんだ。今までの彼は、お延に対するごとに、苦手の感をどこかに起さずにいられた事がなかった。女だと見下ろしながら、底気味の悪い思いをしなければならない場合が、日ごとに現前した。それは彼女の直覚であるか、または直覚の活作用とも見傚される彼女の機略であるか、あるいはそれ以外の或物であるか、たしかな解剖は彼にもまだできていなかったが、何しろ事実は事実に違いなかった。しかも彼自身自分の胸に畳み込んでおくぎりで、いまだかつて他に洩らした事のない事実に違いなかった。だから事実と云い条、その実は一個の秘密でもあった。それならばなぜ彼がこの明白な事実をわざと秘密に附していたのだろう。簡単に云えば、彼はなるべく己れを尊く考がえたかったからである。愛の戦争という眼で眺めた彼らの夫婦生活において、いつでも敗者の位地に立った彼には、彼でまた相当の慢心があった。ところがお延のために征服される彼はやむをえず征服されるので、心から帰服するのではなかった。堂々と愛の擒になるのではなくって、常に騙し打に会っているのであった。お延が夫の慢心を挫くところに気がつかないで、ただ彼を征服する点においてのみ愛の満足を感ずる通りに、負けるのが嫌な津田も、残念だとは思いながら、力及ばず組み敷かれるたびに降参するのであった。この特殊な関係を、一夜の苦説が逆にしてくれた時、彼のお延に対する考えは変るのが至当であった。彼は今までこれほど猛烈に、また真正面に、上手を引くように見えて、実は偽りのない下手に出たお延という女を見た例がなかった。弱点を抱いて逃げまわりながら彼は始めてお延に勝つ事ができた。結果は明暸であった。彼はようやく彼女を軽蔑する事ができた。同時に以前よりは余計に、彼女に同情を寄せる事ができた。お延にはまたお延で波瀾後の変化が起りつつあった。今までかつてこういう態度で夫に向った事のない彼女は、一気に津田の弱点を衝く方に心を奪われ過ぎたため、ついぞ露わした事のない自分の弱点を、かえって夫に示してしまったのが、何より先に残念の種になった。夫に愛されたいばかりの彼女には平常からわが腕に依頼する信念があった。自分は自分の見識を立て通して見せるという覚悟があった。もちろんその見識は複雑とは云えなかった。夫の愛が自分の存在上、いかに必要であろうとも、頭を下げて憐みを乞うような見苦しい真似はできないという意地に過ぎなかった。もし夫が自分の思う通り自分を愛さないならば、腕の力で自由にして見せるという堅い決心であった。のべつにこの決心を実行して来た彼女は、つまりのべつに緊張していると同じ事であった。そうしてその緊張の極度はどこかで破裂するにきまっていた。破裂すれば、自分で自分の見識をぶち壊すのと同じ結果に陥いるのは明暸であった。不幸な彼女はこの矛盾に気がつかずに邁進した。それでとうとう破裂した。破裂した後で彼女はようやく悔いた。仕合せな事に自然は思ったより残酷でなかった。彼女は自分の弱点を浚け出すと共に一種の報酬を得た。今までどんなに勝ち誇っても物足りた例のなかった夫の様子が、少し変った。彼は自分の満足する見当に向いて一歩近づいて来た。彼は明らかに妥協という字を使った。その裏に彼女の根限り掘り返そうと力めた秘密の潜在する事を暗に自白した。自白?。彼女はよく自分に念を押して見た。そうしてそれが黙認に近い自白に違いないという事を確かめた時、彼女は口惜しがると同時に喜こんだ。彼女はそれ以上夫を押さなかった。津田が彼女に対して気の毒という念を起したように、彼女もまた津田に対して気の毒という感じを持ち得たからである。
百五十一
けれども自然は思ったより頑愚であった。二人はこれだけで別れる事ができなかった。妙な機みからいったん収まりかけた風波がもう少しで盛り返されそうになった。それは昂奮したお延の心持がやや平静に復した時の事であった。今切り抜けて来た波瀾の結果はすでに彼女の気分に働らきかけていた。酔を感ずる人が、その酔を利用するような態度で彼女は津田に向った。「じゃいつごろその温泉へいらっしゃるの」「ここを出たらすぐ行こうよ。身体のためにもその方が都合がよさそうだから」「そうね。なるべく早くいらしった方がいいわ。行くと事がきまった以上」津田はこれでまずよしと安心した。ところへお延は不意に出た。「あたしもいっしょに行っていいんでしょう」気の緩んだ津田は急にひやりとした。彼は答える前にまず考えなければならなかった。連れて行く事は最初から問題にしていなかった。と云って、断る事はなおむずかしかった。断り方一つで、相手はどう変化するかも分らなかった。彼が何と返事をしたものだろうと思って分別するうちに大切の機は過ぎた。お延は催促した。「ね、行ってもいいんでしょう」「そうだね」「いけないの」「いけない訳もないがね……」津田は連れて行きたくない心の内を、しだいしだいに外へ押し出されそうになった。もし猜疑の眸が一度お延の眼の中に動いたら事はそれぎりであると見てとった彼は、実を云うと、お延と同じ心理状態の支配を受けていた。先刻の波瀾から来た影響は彼にもう憑り移っていた。彼は彼でそれを利用するよりほかに仕方がなかった。彼はすぐ「慰撫」の二字を思い出した。「慰撫に限る。女は慰撫さえすればどうにかなる」。彼は今得たばかりのこの新らしい断案を提さげて、お延に向った。「行ってもいいんだよ。いいどころじゃない、実は行って貰いたいんだ。第一一人じゃ不自由だからね。世話をして貰うだけでも、その方が都合がいいにきまってるからね」「ああ嬉しい、じゃ行くわ」「ところがだね。」お延は厭な顔をした。「ところがどうしたの」「ところがさ。宅はどうする気かね」「宅は時がいるから好いわ」「好いわって、そんな子供見たいな呑気な事を云っちゃ困るよ」「なぜ。どこが呑気なの。もし時だけで不用心なら誰か頼んで来るわ」お延は続けざまに留守居として適当な人の名を二三挙げた。津田は拒めるだけそれを拒んだ。「若い男は駄目だよ。時と二人ぎり置く訳にゃ行かないからね」お延は笑い出した。「まさか。――間違なんか起りっこないわ、わずかの間ですもの」「そうは行かないよ。けっしてそうは行かないよ」津田は断乎たる態度を示すと共に、考える風もして見せた。「誰か適当な人はないもんかね。手頃なお婆さんか何かあるとちょうど持って来いだがな」藤井にも岡本にもその他の方面にも、そんな都合の好い手の空いた人は一人もなかった。「まあよく考えて見るさ」この辺で話を切り上げようとした津田は的が外れた。お延は掴んだ袖をなかなか放さなかった。「考えてない時には、どうするの。もしお婆さんがいなければ、あたしはどうしても行っちゃ悪いの」「悪いとは云やしないよ」「だってお婆さんなんかいる訳がないじゃありませんか。考えないだってそのくらいな事は解ってますわ。それより行って悪いなら悪いと判然云ってちょうだいよ」せっぱつまった津田はこの時不思議にまた好い云訳を思いついた。「そりゃいざとなれば留守番なんかどうでも構わないさ。しかし時一人を置いて行くにしたところで、まだ困る事があるんだ。おれは吉川の奥さんから旅費を貰うんだからね。他の金を貰って夫婦連れで遊んで歩くように思われても、あんまりよくないじゃないか」「そんなら吉川の奥さんからいただかないでも構わないわ。あの小切手があるから」「そうすると今月分の払の方が差支えるよ」「それは秀子さんの置いて行ったのがあるのよ」津田はまた行きつまった。そうしてまた危い血路を開いた。「少し小林に貸してやらなくっちゃならないんだぜ」「あんな人に」「お前はあんな人にと云うがね、あれでも今度遠い朝鮮へ行くんだからね。可哀想だよ。それにもう約束してしまったんだから、どうする訳にも行かないんだ」お延は固より満足な顔をするはずがなかった。しかし津田はこれでどうかこうかその場だけを切り抜ける事ができた。
百五十二
後は話が存外楽に進行したので、ほどなく第二の妥協が成立した。小林に対する友誼を満足させるため、かつはいったん約束した言責を果すため、津田はお延の貰って来た小切手の中から、その幾分を割いて朝鮮行の贐として小林に贈る事にした。名義は固より貸すのであったが、相手に返す腹のない以上、それを予算に組み込んで今後の的にする訳には行かないので、結果はつまりやる事になったのである。もちろんそこへ行き着くまでにはお延にも多少の難色があった。小林のような横着な男に金銭を恵むのはおろか、ちゃんとした証書を入れさせて、一時の用を足してやる好意すら、彼女の胸のどの隅からも出るはずはなかった。のみならず彼女はややともすると、強いてそれを断行しようとする夫の裏側を覗き込むので、津田はそのたびに少なからず冷々した。「あんな人に何だってそんな親切を尽しておやりになるんだか、あたしにはまるで解らないわ」こういう意味の言葉が二度も三度も彼女によって繰り返された。津田が人情一点張でそれを相手にする気色を見せないと、彼女はもう一歩先の事まで云った。「だから訳をおっしゃいよ。こういう訳があるから、こうしなければ義理が悪いんだという事情さえ明暸になれば、あの小切手をみんな上げても構わないんだから」津田にはここが何より大事な関所なので、どうしてもお延を通させる訳に行かなかった。彼は小林を弁護する代りに、二人の過去にある旧い交際と、その交際から出る懐かしい記憶とを挙げた。懐かしいという字を使って非難された時には、仕方なしに、昔の小林と今の小林の相違にまで、説明の手を拡げた。それでも腑に落ちないお延の顔を見た時には、急に談話の調子を高尚にして、人道まで云々した。しかし彼の口にする人道はついに一個の功利説に帰着するので、彼は吾知らず自分の拵えた陥穽に向って進んでいながら気がつかず、危うくお延から足を取られて、突き落されそうになる場合も出て来た。それを代表的な言葉でごく簡単に例で現わすと下のようになった。「とにかく困ってるんだからね、内地にいたたまれずに、朝鮮まで落ちて行こうてんだから、少しは同情してやってもよかろうじゃないか。それにお前はあいつの人格をむやみに攻撃するが、そこに少し無理があるよ。なるほどあいつはしようのない奴さ。しようのない奴には違ないけれども、あいつがこうなった因りをよく考えて見ると、何でもないんだ。ただ不平だからだ。じゃなぜ不平だというと、金が取れないからだ。ところがあいつは愚図でもなし、馬鹿でもなし、相当な頭を持ってるんだからね。不幸にして正則の教育を受けなかったために、ああなったと思うと、そりゃ気の毒になるよ。つまりあいつが悪いんじゃない境遇が悪いんだと考えさえすればそれまでさ。要するに不幸な人なんだ」これだけなら口先だけとしてもまず立派なのであるが、彼はついにそこで止まる事ができないのである。「それにまだこういう事も考えなければならないよ。ああ自暴糞になってる人間に逆らうと何をするか解らないんだ。誰とでも喧嘩がしたい、誰と喧嘩をしても自分の得になるだけだって、現にここへ来て公言して威張ってるんだからね、実際始末に了えないよ。だから今もしおれがあいつの要求を跳ねつけるとすると、あいつは怒るよ。ただ怒るだけならいいが、きっと何かするよ。復讐をやるにきまってるよ。ところがこっちには世間体があり、向うにゃそんなものがまるでないんだから、いざとなると敵いっこないんだ。解ったかね」ここまで来ると最初の人道主義はもうだいぶ崩れてしまう。しかしそれにしても、ここで切り上げさえすれば、お延は黙って点頭くよりほかに仕方がないのである。ところが彼はまだ先へ出るのである。「それもあいつが主義としてただ上流社会を攻撃したり、または一般の金持を悪口するだけならいいがね。あいつのは、そうじゃないんだ、もっと実際的なんだ。まず最初に自分の手の届く所からだんだんに食い込んで行こうというんだ。だから一番災難なのはこのおれだよ。どう考えてもここでおれ相当の親切を見せて、あいつの感情を美くして、そうして一日も早く朝鮮へ立って貰うのが上策なんだ。でないといつどんな目に逢うか解ったもんじゃない」こうなるとお延はどうしてもまた云いたくなるのである。「いくら小林が乱暴だって、あなたの方にも何かなくっちゃ、そんなに怖がる因縁がないじゃありませんか」二人がこんな押問答をして、小切手の片をつけるだけでも、ものの十分はかかった。しかし小林の方がきまると共に、残りの所置はすぐついた。それを自分の小遣として、任意に自分の嗜慾を満足するという彼女の条件は直ちに成立した。その代り彼女は津田といっしょに温泉へ行かない事になった。そうして温泉行の費用は吉川夫人の好意を受けるという案に同意させられた。うそ寒の宵に、若い夫婦間に起った波瀾の消長はこれでようやく尽きた。二人はひとまず別れた。

