百五十三
津田の辛防しなければならない手術後の経過は良好であった。というよりもむしろ順当に行った。五日目が来た時、医者は予定通り彼のために全部のガーゼを取り替えてくれた後で、それを保証した。「至極好い具合です。出血も口元だけです。内部の方は何ともありません」六日目にも同じ治療法が繰り返された。けれども局部は前日よりは健全になっていた。「出血はどうです。まだ止まりませんか」「いや、もうほとんど止まりました」出血の意味を解し得ない津田は、この返事の意味をも解し得なかった。好い加減に「もう癒りました」という解釈をそれに付けて大変喜こんだ。しかし本式の事実は彼の考える通りにも行かなかった。彼と医者の間に起った一場の問答がその辺の消息を明らかにした。「これが癒り損なったらどうなるんでしょう」「また切るんです。そうして前よりも軽く穴が残るんです」「心細いですな」「なに十中八九は癒るにきまってます」「じゃ本当の意味で全癒というと、まだなかなか時間がかかるんですね」「早くて三週間遅くて四週間です」「ここを出るのは?」「出るのは明後日ぐらいで差支えありません」津田はありがたがった。そうして出たらすぐ温泉に行こうと覚悟した。なまじい医者に相談して転地を禁じられでもすると、かえって神経を悩ますだけが損だと打算した彼はわざと黙っていた。それはほとんど平生の彼に似合わない粗忽な遣口であった。彼は甘んじてこの不謹慎を断行しようと決心しながら、肚の中ですでに自分の矛盾を承知しているので、何だか不安であった。彼は訊かないでもいい質問を医者にかけてみたりした。「括約筋を切り残したとおっしゃるけれども、それでどうして下からガーゼが詰められるんですか」「括約筋はとば口にゃありません。五分ほど引っ込んでます。それを下から斜に三分ほど削り上げた所があるのです」津田はその晩から粥を食い出した。久しく麺麭だけで我慢していた彼の口には水ッぽい米の味も一種の新らしみであった。趣味として夜寒の粥を感ずる能力を持たない彼は、秋の宵の冷たさを対照に置く薄粥の暖かさを普通の俳人以上に珍重して啜る事ができた。療治の必要上、長い事止められていた便の疎通を計るために、彼はまた軽い下剤を飲まなければならなかった。さほど苦にもならなかった腹の中が軽くなるに従って、彼の気分もいつか軽くなった。身体の楽になった彼は、寝転ろんでただ退院の日を待つだけであった。その日も一晩明けるとすぐに来た。彼は車を持って迎いに来たお延の顔を見るや否や云った。「やっと帰れる事になった訳かな。まあありがたい」「あんまりありがたくもないでしょう」「いやありがたいよ」「宅の方が病院よりはまだましだとおっしゃるんでしょう」「まあその辺かも知れないがね」津田はいつもの調子でこう云った後で、急に思い出したように付け足した。「今度はお前の拵えてくれた縕袍で助かったよ。綿が新らしいせいか大変着心地が好いね」お延は笑いながら夫を冷嘲した。「どうなすったの。なんだか急にお世辞が旨くおなりね。だけど、違ってるのよ、あなたの鑑定は」お延は問題の縕袍を畳みながら、新らしい綿ばかりを入れなかった事実を夫に白状した。津田はその時着物を着換えていた。絞りの模様の入った縮緬の兵児帯をぐるぐる腰に巻く方が、彼にはむしろ大事な所作であった。それほど軽く縕袍の中味を見ていた彼の愛嬌は、正直なお延の返事を待ち受けるのでも何でもなかった。彼はただ「はあそうかい」と云ったぎりであった。「お気に召したらどうぞ温泉へも持っていらしって下さい」「そうして時々お前の親切でも思い出すかな」「しかし宿屋で貸してくれる縕袍の方がずっとよかったり何かすると、いい恥っ掻きね、あたしの方は」「そんな事はないよ」「いえあるのよ。品質が悪いとどうしても損ね、そういう時には。親切なんかすぐどこかへ飛んでっちまうんだから」無邪気なお延の言葉は、彼女の意味する通りの単純さで津田の耳へは響かなかった。そこには一種のアイロニーが顫動していた。縕袍は何かの象徴であるらしく受け取れた。多少気味の悪くなった津田は、お延に背中を向けたままで、兵児帯の先をこま結びに結んだ。やがて二人は看護婦に送られて玄関に出ると、すぐそこに待たしてある車に乗った。「さよなら」多事な一週間の病院生活は、この一語でようやく幕になった。
百五十四
目的の温泉場へ立つ前の津田は、既定されたプログラムの順序として、まず小林に会わなければならなかった。約束の日が来た時、お延から入用の金を受け取った彼は笑いながら細君を顧みた。「何だか惜しいな、あいつにこれだけ取られるのは」「じゃ止した方が好いわ」「おれも止したいよ」「止したいのになぜ止せないの。あたしが代りに行って断って来て上げましょうか」「うん、頼んでもいいね」「どこであの人にお逢いになるの。場所さえおっしゃれば、あたし行って上げるわ」お延が本気かどうかは津田にも分らなかった。けれどもこういう場合に、大丈夫だと思ってつい笑談に押すと、押したこっちがかえって手古摺らせられるくらいの事は、彼に困難な想像ではなかった。お延はいざとなると口で云った通りを真面に断行する女であった。たとい違約であろうとあるまいと、津田を代表して、小林を撃退する役割なら進んで引き受けないとも限らなかった。彼は危険区域へ踏み込まない用心をして、わざと話を不真面目な方角へ流してしまった。「お前は見かけに寄らない勇気のある女だね」「これでも自分じゃあると思ってるのよ。けれどもまだ出した例がないから、実際どのくらいあるか自分にも分らないわ」「いやお前に分らなくっても、おれにはちゃんと分ってるから、それでたくさんだよ。女のくせにそうむやみに勇気なんか出された日にゃ、亭主が困るだけだからね」「ちっとも困りゃしないわ。御亭主のために出す勇気なら、男だって困るはずがないじゃないの」「そりゃありがたい場合もたまには出て来るだろうがね」と云った津田には固より本気に受け答えをするつもりもなかった。「今日までそれほど感服に値する勇気を拝見した覚もないようだね」「そりゃその通りよ。だってちっとも外へ出さずにいるんですもの。これでも内側へ入って御覧なさい。なんぼあたしだってあなたの考えていらっしゃるほど太平じゃないんだから」津田は答えなかった。しかしお延はやめなかった。「あたしがそんなに気楽そうに見えるの、あなたには」「ああ見えるよ。大いに気楽そうだよ」この好い加減な無駄口の前に、お延は微かな溜息を洩らした後で云った。「つまらないわね、女なんて。あたし何だって女に生れて来たんでしょう」「そりゃおれにかけ合ったって駄目だ。京都にいるお父さんかお母さんへ尻を持ち込むよりほかに、苦情の持ってきどころはないんだから」苦笑したお延はまだ黙らなかった。「いいから、今に見ていらっしゃい」「何を」と訊き返した津田は少し驚ろかされた。「何でもいいから、今に見ていらっしゃい」「見ているが、いったい何だよ」「そりゃ実際に問題が起って来なくっちゃ云えないわ」「云えないのはつまりお前にも解らないという意味なんじゃないか」「ええそうよ」「何だ下らない。それじゃまるで雲を掴むような予言だ」「ところがその予言が今にきっとあたるから見ていらっしゃいというのよ」津田は鼻の先でふんと云った。それと反対にお延の態度はだんだん真剣に近づいて来た。「本当よ。何だか知らないけれども、あたし近頃始終そう思ってるの、いつか一度このお肚の中にもってる勇気を、外へ出さなくっちゃならない日が来るに違ないって」「いつか一度?だからお前のは妄想と同なじ事なんだよ」「いいえ生涯のうちでいつか一度じゃないのよ。近いうちなの。もう少ししたらのいつか一度なの」「ますます悪くなるだけだ。近き将来において蛮勇なんか亭主の前で発揮された日にゃ敵わない」「いいえ、あなたのためによ。だから先刻から云ってるじゃないの、夫のために出す勇気だって」真面目なお延の顔を見ていると、津田もしだいしだいに釣り込まれるだけであった。彼の性格にはお延ほどの詩がなかった。その代り多少気味の悪い事実が遠くから彼を威圧していた。お延の詩、彼のいわゆる妄想は、だんだん活躍し始めた。今まで死んでいるとばかり思って、弄り廻していた鳥の翅が急に動き出すように見えた時、彼は変な気持がして、すぐ会話を切り上げてしまった。彼は帯の間から時計を出して見た。「もう時間だ、そろそろ出かけなくっちゃ」こう云って立ち上がった彼の後を送って玄関に出たお延は、帽子かけから茶の中折を取って彼の手に渡した。「行っていらっしゃい。小林さんによろしくってお延が云ってたと忘れずに伝えて下さい」津田は振り向かないで夕方の冷たい空気の中に出た。
百五十五
小林と会見の場所は、東京で一番賑やかな大通りの中ほどを、ちょっと横へ切れた所にあった。向うから宅へ誘いに寄って貰う不快を避けるため、またこっちで彼の下宿を訪ねてやる面倒を省くため、津田は時間をきめてそこで彼に落ち合う手順にしたのである。その時間は彼が電車に乗っているうちに過ぎてしまった。しかし着物を着換えて、お延から金を受け取って、少しの間坐談をしていたために起ったこの遅刻は、何らの痛痒を彼に与えるに足りなかった。有体に云えば、彼は小林に対して克明に律義を守る細心の程度を示したくなかった。それとは反対に、少し時間を後らせても、放縦な彼の鼻柱を挫いてやりたかった。名前は送別会だろうが何だろうが、その実金をやるものと貰うものとが顔を合せる席にきまっている以上、津田はたしかに優者であった。だからその優者の特権をできるだけ緊張させて、主客の位地をあらかじめ作っておく方が、相手の驕慢を未前に防ぐ手段として、彼には得策であった。利害を離れた単なる意趣返しとしてもその方が面白かった。彼はごうごう鳴る電車の中で、時計を見ながら、ことによるとこれでもまだ横着な小林には早過ぎるかも知れないと考えた。もしあまり早く行き着いたら、一通り夜店でも素見して、慾の皮で硬く張った小林の予期を、もう少し焦らしてやろうとまで思案した。停留所で降りた時、彼の眼の中を通り過ぎた燭光の数は、夜の都の活動を目覚しく物語るに充分なくらい、右往左往へちらちらした。彼はその間に立って、目的の横町へ曲る前に、これらの燭光と共に十分ぐらい動いて歩こうか歩くまいかと迷った。ところが顔の先へ押し付けられた夕刊を除けて、四辺を見廻した彼は、急におやと思わざるを得なかった。もうだいぶ待ち草臥れているに違ないと仮定してかかった小林は、案外にも向う側に立っていた。位地は津田の降りた舗床と車道を一つ隔てた四つ角の一端なので、二人の視線が調子よく合わない以上、夜と人とちらちらする燭光が、相互の認識を遮ぎる便利があった。のみならず小林は真面にこっちを向いていなかった。彼は津田のまだ見知らない青年と立談をしていた。青年の顔は三分の二ほど、小林のは三分の一ほど、津田の方角から見えるだけなので、彼はほぼ露見の恐れなしに、自分の足の停まった所から、二人の模様を注意して観察する事ができた。二人はけっして余所見をしなかった。顔と顔を向き合せたまま、いつまでも同じ姿勢を崩さない彼らの体が、ありありと津田の眼に映るにつれて、真面目な用談の、互いの間に取り換わされている事は明暸に解った。二人の後には壁があった。あいにく横側に窓が付いていないので、強い光はどこからも射さなかった。ところへ南から来た自働車が、大きな音を立てて四つ角を曲ろうとした。その時二人は自働車の前側に装置してある巨大な灯光を満身に浴びて立った。津田は始めて青年の容貌を明かに認める事ができた。蒼白い血色は、帽子の下から左右に垂れている、幾カ月となく刈り込まない毿々たる髪の毛と共に、彼の視覚を冒した。彼は自働車の過ぎ去ると同時に踵を回らした。そうして二人の立っている舗道を避けるように、わざと反対の方向へ歩き出した。彼には何の目的もなかった。はなやかに電灯で照らされた店を一軒ごとに見て歩く興味は、ただ都会的で美くしいというだけに過ぎなかった。商買が違うにつれて品物が変化する以外に、何らの複雑な趣は見出されなかった。それにもかかわらず彼は到る処に視覚の満足を味わった。しまいに或唐物屋の店先に飾ってあるハイカラな襟飾を見た時に、彼はとうとうその家の中へ入って、自分の欲しいと思うものを手に取って、ひねくり廻したりなどした。もうよかろうという時分に、彼は再び取って返した。舗道の上に立っていた二人の影ははたしてどこかへ行ってしまった。彼は少し歩調を早めた。約束の家の窓からは暖かそうな光が往来へ射していた。煉瓦作りで窓が高いのと、模様のある玉子色の布に遮ぎられて、間接に夜の中へ光線が放射されるので、通り際に見上げた津田の頭に描き出されたのは、穏やかな瓦斯煖炉を供えた品の好い食堂であった。大きなブロックの片隅に、形容した言葉でいうと、むしろひっそり構えているその食堂は、大して広いものではなかった。津田がそこを知り出したのもつい近頃であった。長い間仏蘭西とかに公使をしていた人の料理番が開いた店だから旨いのだと友人に教えられたのが原で、四五遍食いに来た因縁を措くと、小林をそこへ招き寄せる理由は他に何にもなかった。彼は容赦なく扉を押して内へ入った。そうしてそこに案のごとく少し手持無沙汰ででもあるような風をして、真面目な顔を夕刊か何かの前に向けている小林を見出した。
百五十六
小林は眼を上げてちょっと入口の方を見たが、すぐその眼を新聞の上に落してしまった。津田は仕方なしに無言のまま、彼の坐っている食卓の傍まで近寄って行ってこっちから声をかけた。「失敬。少し遅くなった。よっぽど待たしたかね」小林はようやく新聞を畳んだ。「君時計をもってるだろう」津田はわざと時計を出さなかった。小林は振り返って正面の壁の上に掛っている大きな柱時計を見た。針は指定の時間より四十分ほど先へ出ていた。「実は僕も今来たばかりのところなんだ」二人は向い合って席についた。周囲には二組ばかりの客がいるだけなので、そうしてその二組は双方ともに相当の扮装をした婦人づれなので、室内は存外静かであった。ことに一間ほど隔てて、二人の横に置かれた瓦斯煖炉の火の色が、白いものの目立つ清楚な室の空気に、恰好な温もりを与えた。津田の心には、変な対照が描き出された。この間の晩小林のお蔭で無理に引っ張り込まれた怪しげな酒場の光景がありありと彼の眼に浮んだ。その時の相手を今度は自分の方でここへ案内したという事が、彼には一種の意味で得意であった。「どうだね、ここの宅は。ちょっと綺麗で心持が好いじゃないか」小林は気がついたように四辺を見廻した。「うん。ここには探偵はいないようだね」「その代り美くしい人がいるだろう」小林は急に大きな声を出した。「ありゃみんな芸者なんか君」ちょっときまりの悪い思いをさせられた津田は叱るように云った。「馬鹿云うな」「いや何とも限らないからね。どこにどんなものがいるか分らない世の中だから」津田はますます声を低くした。「だって芸者はあんな服装をしやしないよ」「そうか。君がそう云うなら確だろう。僕のような田舎ものには第一その区別が分らないんだから仕方がないよ。何でも綺麗な着物さえ着ていればすぐ芸者だと思っちまうんだからね」「相変らず皮肉るな」津田は少し悪い気色を外へ出した。小林は平気であった。「いや皮肉るんじゃないよ。実際僕は貧乏の結果そっちの方の眼がまだ開いていないんだ。ただ正直にそう思うだけなんだ」「そんならそれでいいさ」「よくなくっても仕方がない訳だがね。しかし事実どうだろう君」「何が」「事実当世にいわゆるレデーなるものと芸者との間に、それほど区別があるのかね」津田は空っ惚ける事の得意なこの相手の前に、真面目な返事を与える子供らしさを超越して見せなければならなかった。同時に何とかして、ゴツンと喰わしてやりたいような気もした。けれども彼は遠慮した。というよりも、ゴツンとやるだけの言葉が口へ出て来なかった。「笑談じゃない」「本当に笑談じゃない」と云った小林はひょいと眼を上げて津田の顔を見た。津田はふと気がついた。しかし相手に何か考えがあるんだなと悟った彼は、あまりに怜俐過ぎた。彼には澄ましてそこを通り抜けるだけの腹がなかった。それでいて当らず障らず話を傍へ流すくらいの技巧は心得ていた。彼は小林に捕まらなければならなかった。彼は云った。「どうだ君ここの料理は」「ここの料理もどこの料理もたいてい似たもんだね。僕のような味覚の発達しないものには」「不味いかい」「不味かない、旨いよ」「そりゃ好い案配だ。亭主が自分でクッキングをやるんだから、ほかよりゃ少しはましかも知れない」「亭主がいくら腕を見せたって、僕のような口に合っちゃ敵わないよ。泣くだけだあね」「だけど旨けりゃそれでいいんだ」「うん旨けりゃそれでいい訳だ。しかしその旨さが十銭均一の一品料理と同なじ事だと云って聞かせたら亭主も泣くだろうじゃないか」津田は苦笑するよりほかに仕方がなかった。小林は一人でしゃべった。「いったい今の僕にゃ、仏蘭西料理だから旨いの、英吉利料理だから不味いのって、そんな通をふり廻す余裕なんかまるでないんだ。ただ口へ入るから旨いだけの事なんだ」「だってそれじゃなぜ旨いんだか、理由が解らなくなるじゃないか」「解り切ってるよ。ただ飢じいから旨いのさ。その他に理窟も糸瓜もあるもんかね」津田はまた黙らせられた。しかし二人の間に続く無言が重く胸に応えるようになった時、彼はやむをえずまた口を開こうとして、たちまち小林のために機先を制せられた。

