LIB READ READER

明暗・夏目漱石

41

朗読未選択 / 朗読停止中朗読未選択 / 朗読停止中

百五十七

「君のような敏感者から見たら、僕ごとき鈍物どんぶつは、あらゆる点で軽蔑けいべつあたいしているかも知れない。僕もそれは承知している、軽蔑されても仕方がないと思っている。けれども僕には僕でまた相当の云草いいぐさがあるんだ。僕のどんは必ずしも天賦てんぷの能力に原因しているとは限らない。僕に時を与えよだ、僕に金を与えよだ。しかる後、僕がどんな人間になって君らの前に出現するかを見よだ」この時小林の頭には酒がもう少し廻っていた。笑談とも真面目とも片のつかない彼の気燄きえんには、わざと酔の力をろうとする欝散うっさんかたむきが見えて来た。津田は相手の口にする言葉の価値を正面から首肯うけがうべく余儀なくされた上に、多少彼の歩き方につき合う必要を見出みいだした。「そりゃ君のいう通りだ。だから僕は君に同情しているんだ。君だってそのくらいの事は心得ていてくれるだろう。でなければ、こうやって、わざわざ会食までして君の朝鮮行ちょうせんいきを送る訳がないからね」「ありがとう」「いやうそじゃないよ。現にこの間もお延にその訳をよく云ってかせたくらいだもの」胡散臭うさんくさいなという眼が小林のまゆの下で輝やいた。「へええ。本当ほんとかい。あの細君の前で僕を弁護してくれるなんて、君にもまだ昔の親切が少しは残ってると見えるね。しかしそりゃ……。細君は何と云ったね」津田は黙ってふところへ手を入れた。小林はその所作しょさを眺めながら、わざとそれをめさせるように追加した。「ははあ。弁護の必要があったんだな。どうも変だと思ったら」津田は懐へ入れた手を、元の通り外へ出した。「お延の返事はここにある」といって、綺麗きれいに持って来た金を彼に渡すつもりでいた彼は躊躇ちゅうちょした。その代り話頭わとうを前へ押し戻した。「やはり人間は境遇次第だね」「僕は余裕次第だというつもりだ」津田はさからわなかった。「そうさ余裕次第とも云えるね」「僕は生れてから今日きょうまでぎりぎり決着の生活をして来たんだ。まるで余裕というものを知らず生きて来た僕が、贅沢三昧ぜいたくざんまいわがまま三昧に育った人とどう違うと君は思う」津田は薄笑いをした。小林は真面目まじめであった。「考えるまでもなくここにいるじゃないか。君と僕さ。二人を見較みくらべればすぐ解るだろう、余裕と切迫で代表された生活の結果は」津田は心のうちでその幾分を点頭うなずいた。けれども今さらそんな不平を聴いたって仕方がないと思っているところへ後が来た。「それでどうだ。僕は始終しじゅう君に軽蔑けいべつされる、君ばかりじゃない、君の細君からも、誰からも軽蔑される。――いや待ちたまえまだいう事があるんだ。――それは事実さ、君も承知、僕も承知の事実さ。すべて先刻さっき云った通りさ。だが君にも君の細君にもまだ解らない事がここに一つあるんだ。もちろん今さらそれを君に話したってお互いの位地いちが変る訳でもないんだから仕方がないようなものの、これから朝鮮へ行けば、僕はもう生きて再び君に会う折がないかも知れないから……」小林はここまで来て少し昂奮こうふんしたような気色けしきを見せたが、すぐその後から「いや僕の事だから、行って見ると朝鮮も案外なので、いやになってまたすぐ帰って来ないとも限らないが」と正直なところを付け加えたので、津田は思わず笑い出してしまった。小林自身もいったん頓挫とんざしてからまた出直した。「まあ未来の生活上君の参考にならないとも限らないから聴きたまえ。実を云うと、君が僕を軽蔑している通りに、僕も君を軽蔑しているんだ」「そりゃ解ってるよ」「いや解らない。軽蔑けいべつの結果はあるいは解ってるかも知れないが、軽蔑の意味は君にも君の細君にもまだ通じていないよ。だから君の今夕こんゆうの好意に対して、僕はまた留別りゅうべつのために、それを説明して行こうてんだ。どうだい」「よかろう」「よくないたって、僕のような一文いちもんなしじゃほかに何も置いて行くものがないんだから仕方がなかろう」「だからいいよ」「黙って聴くかい。聴くなら云うがね。僕は今君の御馳走ごちそうになって、こうしてぱくぱく食ってる仏蘭西フランス料理も、この間の晩君を御招待申して叱られたあの汚ならしい酒場バーの酒も、どっちも無差別にうまいくらい味覚の発達しない男なんだ。そこを君は軽蔑するだろう。しかるに僕はかえってそこを自慢にして、軽蔑する君を逆に軽蔑しているんだ。いいかね、その意味が君に解ったかね。考えて見たまえ、君と僕がこの点においてどっちが窮屈で、どっちが自由だか。どっちが幸福で、どっちが束縛を余計感じているか。どっちが太平でどっちが動揺しているか。僕から見ると、君の腰は始終しじゅうぐらついてるよ。度胸がすわってないよ。いやなものをどこまでも避けたがって、自分の好きなものをむやみにおっかけたがってるよ。そりゃなぜだ。なぜでもない、なまじいに自由がくためさ。贅沢ぜいたくをいう余地があるからさ。僕のように窮地に突き落されて、どうでも勝手にしやがれという気分になれないからさ」津田はてんから相手を見縊みくびっていた。けれども事実を認めない訳には行かなかった。小林はたしかに彼よりずうずうしく出来上っていた。

百五十八

しかし小林の説法にはまだ後があった。津田の様子を見澄ました彼は突然思いがけない所へ舞い戻って来た。それは会見の最初ちょっと二人の間に点綴てんてつされながら、前後のいきおいですぐどこかへ流されてしまった問題にほかならなかった。「僕の意味はもう君に通じている。しかし君はまだなるほどという心持になれないようだ。矛盾だね。僕はその訳を知ってるよ。第一に相手が身分も地位も財産も一定の職業もない僕だという事が、聡明そうめいな君をわずらわしているんだ。もしこれが吉川夫人か誰かの口から出るなら、それがもっとずっとつまらない説でも、君はえりを正して聴くに違ないんだ。いや僕のひがみでも何でもない、争うべからざる事実だよ。けれども君考えなくっちゃいけないぜ。僕だからこれだけの事が云えるんだという事を。先生だって奥さんだって、そこへ行くと駄目だという事も心得ておきたまえ。なぜだ?なぜでもないよ。いくら先生が貧乏したって、僕だけの経験はめていないんだからね。いわんや先生以上に楽をして生きて来た彼輩かのはいにおいてをやだ」彼輩とは誰の事だか津田にもよく解らなかった。彼はただ腹の中で、おおかた吉川夫人だの岡本だのをすのだろうと思ったぎりであった。実際小林は相手にそんな質問をかけさせる余地を与えないで、さっさと先へ行った。「第二にはだね。君の目下の境遇が、今僕の云ったような助言じょごん――だか忠告だか、または単なる知識の供給だか、それは何でも構わないが、とにかくそんなものに君の注意を向ける必要を感じさせないのだ。頭では解る、しかし胸では納得なっとくしない、これが現在の君なんだ。つまり君と僕とはそれだけ懸絶しているんだから仕方がないとねつけられればそれまでだが、そこに君の注意を払わせたいのが、実は僕の目的だ、いいかね。人間の境遇もしくは位地いちの懸絶といったところで大したものじゃないよ。本式に云えば十人が十人ながらほぼ同じ経験を、違った形式で繰り返しているんだ。それをもっと判然はっきり云うとね、僕は僕で、僕に最も切実な眼でそれを見るし、君はまた君で、君に最も適当な眼でそれを見る、まあそのくらいのちがいだろうじゃないか。だからさ、順境にあるものがちょっと面喰めんくらうか、迷児まごつくか、蹴爪けつまずくかすると、そらすぐ眼の球の色が変って来るんだ。しかしいくら眼の球の色が変ったって、急に眼の位置を変える訳には行かないだろう。つまり君に一朝いっちょう事があったとすると、君は僕のこの助言をきっと思い出さなければならなくなるというだけの事さ」「じゃよく気をつけて忘れないようにしておくよ」「うん忘れずにいたまえ、必ず思い当る事が出て来るから」「よろしい。心得たよ」「ところがいくら心得たって駄目だめなんだからおかしいや」小林はこう云って急に笑い出した。津田にはその意味が解らなかった。小林はかれない先に説明した。「その時ひょっと気がつくとするぜ、いいかね。そうしたらその時の君が、やっという掛声かけごえと共に、早変りができるかい。早変りをしてこの僕になれるかい」「そいつは解らないよ」「解らなかない、解ってるよ。なれないにきまってるんだ。はばかりながらここまで来るには相当の修業がるんだからね。いかに痴鈍ちどんな僕といえども、現在の自分に対してはこれでしろを払ってるんだ」津田は小林の得意がしゃくさわった。此奴こいついぬのような毒血を払ってはたして何物をつかんでいる?こう思った彼はわざと軽蔑けいべつの色をおもてに現わしていて見た。「それじゃ何のためにそんな話を僕にして聴かせるんだ。たとい僕が覚えていたって、いざという場合の役にゃ立たないじゃないか」「役にゃ立つまいよ。しかし聴かないよりましじゃないか」「聴かない方がましなくらいだ」小林はうれしそうに身体からだ椅子いすの背にもたせかけてまた笑い出した。「そこだ。そう来るところがこっちの思うつぼなんだ」「何をいうんだ」「何も云やしない、ただ事実を云うのさ。しかし説明だけはしてやろう。今に君がそこへ追いつめられて、どうする事もできなくなった時に、僕の言葉を思い出すんだ。思い出すけれども、ちっとも言葉通りに実行はできないんだ。これならなまじいあんな事を聴いておかない方がよかったという気になるんだ」津田はいやな顔をした。「馬鹿、そうすりゃどこがどうするんだ」「どうしもしないさ。つまり君の軽蔑けいべつに対する僕の復讐ふくしゅうがその時始めて実現されるというだけさ」津田は言葉を改めた。「それほど君は僕に敵意をもってるのか」「どうして、どうして、敵意どころか、好意精一杯というところだ。けれども君の僕を軽蔑しているのはいつまで行っても事実だろう。僕がその裏を指摘して、こっちから見るとその君にもまた軽蔑すべき点があると注意しても、君はおつに高くとまって平気でいるじゃないか。つまり口じゃ駄目だ、実戦で来いという事になるんだから、僕の方でもやむをえずそこまで行って勝負を決しようというだけの話だあね」「そうか、解った。――もうそれぎりかい、君のいう事は」「いやどうして。これからいよいよ本論に入ろうというんだ」津田は一気に洋盃コップくちびるへあてがって、ぐっと麦酒ビールを飲み干した小林の様子を、少しあきれながら眺めた。

百五十九

小林は言葉をぐ前に、洋盃を下へ置いて、まず室内を見渡した。女伴おんなづれの客のうち、一組の相手は洗指盆フィンガーボールの中へ入れた果物を食った後の手を、たもとから出した美くしい手帛ハンケチで拭いていた。彼の筋向うに席を取って、先刻さっきから時々自分達の方をぬすむようにして見る二十五六の方は、咖啡茶碗コーヒーぢゃわんを手にしながら、男の吹かす煙草たばこの煙を眺めて、しきりに芝居の話をしていた。両方とも彼らより先に来ただけあって、彼らより先に席を立つ順序に、食事の方の都合も進行しているらしく見えた時、小林は云った。「やあちょうど好い。まだいる」津田はまたはっと思った。小林はきっと彼らの気を悪くするような事を、彼らに聴こえようがしに云うに違なかった。「おいもう好い加減にせよ」「まだ何にも云やしないじゃないか」「だから注意するんだ。僕の攻撃はいくらでも我慢するが、縁もゆかりもない人の悪口などは、ちっとつつしんでくれ、こんな所へ来て」いやに小心だな。おおかた場末の酒場バーとここといっしょにされちゃたまらないという意味なんだろう」「まあそうだ」「まあそうだなら、僕のごとき無頼漢ぶらいかんをこんな所へ招待するのが間違だ」「じゃ勝手にしろ」「口で勝手にしろと云いながら、内心ひやひやしているんだろう」津田は黙ってしまった。小林は面白そうに笑った。「勝ったぞ、勝ったぞ。どうだ降参したろう」「それで勝ったつもりなら、勝手に勝ったつもりでいるがいい」「その代り今後ますます貴様を軽蔑けいべつしてやるからそう思えだろう。僕は君の軽蔑なんかとも思っちゃいないよ」「思わなけりゃ思わないでもいいさ。五月蠅うるさい男だな」小林はむっとした津田の顔をのぞき込むようにして見つめながら云った。「どうだ解ったか、おい。これが実戦というものだぜ。いくら余裕があったって、金持に交際があったって、いくら気位を高く構えたって、実戦において敗北すりゃそれまでだろう。だから僕が先刻さっきから云うんだ、実地を踏んできたえ上げない人間は、木偶でくぼうおんなじ事だって」「そうだそうだ。世の中でれっらしと酔払いにかなうものは一人もないんだ」何か云うはずの小林は、この時返事をする代りにまた女伴おんなづれの方を一順いちじゅん見廻した後で、云った。「じゃいよいよ第三だ。あの女の立たないうちに話してしまわないと気がすまない。好いかね、君、先刻の続きだぜ」津田は黙って横を向いた。小林はいっこう構わなかった。「第三にはだね。すなわち換言すると、本論に入って云えばだね。僕は先刻あすこにいる女達をつらまえて、ありゃ芸者かって君に聴いてしかられたね。君は貴婦人に対する礼義を心得ない野人として僕を叱ったんだろう。よろしい僕は野人だ。野人だから芸者と貴婦人との区別が解らないんだ。それで僕は君にいたね、いったい芸者と貴婦人とはどこがどう違うんだって」小林はこう云いながら、三度目の視線をまた女伴の方に向けた。手帛ハンケチで手を拭いていた人は、それを合図のように立ち上った。残る一人いちにんも給仕を呼んで勘定を払った。「とうとう立っちまった。もう少し待ってると面白いところへ来るんだがな、惜しい事に」小林は出て行く女伴の後影うしろかげを見送った。「おやおやもう一人も立つのか。じゃ仕方がない、相手はやっぱり君だけだ」彼は再び津田の方へ向き直った。「問題はそこだよ、君。僕が仏蘭西フランス料理と英吉利イギリス料理を食い分ける事ができずに、くそ味噌みそをいっしょにして自慢すると、君は相手にしない。たかが口腹こうふくの問題だという顔をして高をくくっている。しかし内容は一つものだぜ、君。この味覚が発達しないのも、芸者と貴婦人を混同するのも」津田はそれがどうしたと云わぬばかりの眼をひるがえして小林を見た。「だから結論も一つ所へ帰着しなければならないというのさ。僕は味覚の上において、君に軽蔑けいべつされながら、君より幸福だと主張するごとく、婦人を識別する上においても、君に軽蔑されながら、君より自由な境遇に立っていると断言してはばからないのだ。つまり、あれは芸者だ、これは貴婦人だなんて鑑識があればあるほど、その男の苦痛は増して来るというんだ。なぜと云って見たまえ。しまいには、あれもいやこれも厭だろう。あるいはこれでなくっちゃいけない、あれでなくっちゃいけないだろう。窮屈千万じゃないか」「しかしその窮屈千万が好きなら仕方なかろう」「来たな、とうとう。食物くいものだと相手にしないが、女の事になると、やっぱり黙っていられなくなると見えるね。そこだよ、そこを実際問題について、これから僕が論じようというんだ」「もうたくさんだ」「いやたくさんじゃないらしいぜ」二人は顔を見合わせて苦笑した。

EPISODE COMMENTS

この話の感想

感想 0

41話感想一覧

感想一覧を読み込み中...