百五十七
「君のような敏感者から見たら、僕ごとき鈍物は、あらゆる点で軽蔑に値しているかも知れない。僕もそれは承知している、軽蔑されても仕方がないと思っている。けれども僕には僕でまた相当の云草があるんだ。僕の鈍は必ずしも天賦の能力に原因しているとは限らない。僕に時を与えよだ、僕に金を与えよだ。しかる後、僕がどんな人間になって君らの前に出現するかを見よだ」この時小林の頭には酒がもう少し廻っていた。笑談とも真面目とも片のつかない彼の気燄には、わざと酔の力を藉ろうとする欝散の傾きが見えて来た。津田は相手の口にする言葉の価値を正面から首肯うべく余儀なくされた上に、多少彼の歩き方につき合う必要を見出した。「そりゃ君のいう通りだ。だから僕は君に同情しているんだ。君だってそのくらいの事は心得ていてくれるだろう。でなければ、こうやって、わざわざ会食までして君の朝鮮行を送る訳がないからね」「ありがとう」「いや嘘じゃないよ。現にこの間もお延にその訳をよく云って聴かせたくらいだもの」胡散臭いなという眼が小林の眉の下で輝やいた。「へええ。本当かい。あの細君の前で僕を弁護してくれるなんて、君にもまだ昔の親切が少しは残ってると見えるね。しかしそりゃ……。細君は何と云ったね」津田は黙って懐へ手を入れた。小林はその所作を眺めながら、わざとそれを止めさせるように追加した。「ははあ。弁護の必要があったんだな。どうも変だと思ったら」津田は懐へ入れた手を、元の通り外へ出した。「お延の返事はここにある」といって、綺麗に持って来た金を彼に渡すつもりでいた彼は躊躇した。その代り話頭を前へ押し戻した。「やはり人間は境遇次第だね」「僕は余裕次第だというつもりだ」津田は逆らわなかった。「そうさ余裕次第とも云えるね」「僕は生れてから今日までぎりぎり決着の生活をして来たんだ。まるで余裕というものを知らず生きて来た僕が、贅沢三昧わがまま三昧に育った人とどう違うと君は思う」津田は薄笑いをした。小林は真面目であった。「考えるまでもなくここにいるじゃないか。君と僕さ。二人を見較べればすぐ解るだろう、余裕と切迫で代表された生活の結果は」津田は心の中でその幾分を点頭いた。けれども今さらそんな不平を聴いたって仕方がないと思っているところへ後が来た。「それでどうだ。僕は始終君に軽蔑される、君ばかりじゃない、君の細君からも、誰からも軽蔑される。――いや待ちたまえまだいう事があるんだ。――それは事実さ、君も承知、僕も承知の事実さ。すべて先刻云った通りさ。だが君にも君の細君にもまだ解らない事がここに一つあるんだ。もちろん今さらそれを君に話したってお互いの位地が変る訳でもないんだから仕方がないようなものの、これから朝鮮へ行けば、僕はもう生きて再び君に会う折がないかも知れないから……」小林はここまで来て少し昂奮したような気色を見せたが、すぐその後から「いや僕の事だから、行って見ると朝鮮も案外なので、厭になってまたすぐ帰って来ないとも限らないが」と正直なところを付け加えたので、津田は思わず笑い出してしまった。小林自身もいったん頓挫してからまた出直した。「まあ未来の生活上君の参考にならないとも限らないから聴きたまえ。実を云うと、君が僕を軽蔑している通りに、僕も君を軽蔑しているんだ」「そりゃ解ってるよ」「いや解らない。軽蔑の結果はあるいは解ってるかも知れないが、軽蔑の意味は君にも君の細君にもまだ通じていないよ。だから君の今夕の好意に対して、僕はまた留別のために、それを説明して行こうてんだ。どうだい」「よかろう」「よくないたって、僕のような一文なしじゃほかに何も置いて行くものがないんだから仕方がなかろう」「だからいいよ」「黙って聴くかい。聴くなら云うがね。僕は今君の御馳走になって、こうしてぱくぱく食ってる仏蘭西料理も、この間の晩君を御招待申して叱られたあの汚ならしい酒場の酒も、どっちも無差別に旨いくらい味覚の発達しない男なんだ。そこを君は軽蔑するだろう。しかるに僕はかえってそこを自慢にして、軽蔑する君を逆に軽蔑しているんだ。いいかね、その意味が君に解ったかね。考えて見たまえ、君と僕がこの点においてどっちが窮屈で、どっちが自由だか。どっちが幸福で、どっちが束縛を余計感じているか。どっちが太平でどっちが動揺しているか。僕から見ると、君の腰は始終ぐらついてるよ。度胸が坐ってないよ。厭なものをどこまでも避けたがって、自分の好きなものをむやみに追かけたがってるよ。そりゃなぜだ。なぜでもない、なまじいに自由が利くためさ。贅沢をいう余地があるからさ。僕のように窮地に突き落されて、どうでも勝手にしやがれという気分になれないからさ」津田はてんから相手を見縊っていた。けれども事実を認めない訳には行かなかった。小林はたしかに彼よりずうずうしく出来上っていた。
百五十八
しかし小林の説法にはまだ後があった。津田の様子を見澄ました彼は突然思いがけない所へ舞い戻って来た。それは会見の最初ちょっと二人の間に点綴されながら、前後の勢ですぐどこかへ流されてしまった問題にほかならなかった。「僕の意味はもう君に通じている。しかし君はまだなるほどという心持になれないようだ。矛盾だね。僕はその訳を知ってるよ。第一に相手が身分も地位も財産も一定の職業もない僕だという事が、聡明な君を煩わしているんだ。もしこれが吉川夫人か誰かの口から出るなら、それがもっとずっとつまらない説でも、君は襟を正して聴くに違ないんだ。いや僕の僻でも何でもない、争うべからざる事実だよ。けれども君考えなくっちゃいけないぜ。僕だからこれだけの事が云えるんだという事を。先生だって奥さんだって、そこへ行くと駄目だという事も心得ておきたまえ。なぜだ?なぜでもないよ。いくら先生が貧乏したって、僕だけの経験は甞めていないんだからね。いわんや先生以上に楽をして生きて来た彼輩においてをやだ」彼輩とは誰の事だか津田にもよく解らなかった。彼はただ腹の中で、おおかた吉川夫人だの岡本だのを指すのだろうと思ったぎりであった。実際小林は相手にそんな質問をかけさせる余地を与えないで、さっさと先へ行った。「第二にはだね。君の目下の境遇が、今僕の云ったような助言――だか忠告だか、または単なる知識の供給だか、それは何でも構わないが、とにかくそんなものに君の注意を向ける必要を感じさせないのだ。頭では解る、しかし胸では納得しない、これが現在の君なんだ。つまり君と僕とはそれだけ懸絶しているんだから仕方がないと跳ねつけられればそれまでだが、そこに君の注意を払わせたいのが、実は僕の目的だ、いいかね。人間の境遇もしくは位地の懸絶といったところで大したものじゃないよ。本式に云えば十人が十人ながらほぼ同じ経験を、違った形式で繰り返しているんだ。それをもっと判然云うとね、僕は僕で、僕に最も切実な眼でそれを見るし、君はまた君で、君に最も適当な眼でそれを見る、まあそのくらいの違だろうじゃないか。だからさ、順境にあるものがちょっと面喰うか、迷児つくか、蹴爪ずくかすると、そらすぐ眼の球の色が変って来るんだ。しかしいくら眼の球の色が変ったって、急に眼の位置を変える訳には行かないだろう。つまり君に一朝事があったとすると、君は僕のこの助言をきっと思い出さなければならなくなるというだけの事さ」「じゃよく気をつけて忘れないようにしておくよ」「うん忘れずにいたまえ、必ず思い当る事が出て来るから」「よろしい。心得たよ」「ところがいくら心得たって駄目なんだからおかしいや」小林はこう云って急に笑い出した。津田にはその意味が解らなかった。小林は訊かれない先に説明した。「その時ひょっと気がつくとするぜ、いいかね。そうしたらその時の君が、やっという掛声と共に、早変りができるかい。早変りをしてこの僕になれるかい」「そいつは解らないよ」「解らなかない、解ってるよ。なれないにきまってるんだ。憚りながらここまで来るには相当の修業が要るんだからね。いかに痴鈍な僕といえども、現在の自分に対してはこれで血の代を払ってるんだ」津田は小林の得意が癪に障った。此奴が狗のような毒血を払ってはたして何物を掴んでいる?こう思った彼はわざと軽蔑の色を面に現わして訊いて見た。「それじゃ何のためにそんな話を僕にして聴かせるんだ。たとい僕が覚えていたって、いざという場合の役にゃ立たないじゃないか」「役にゃ立つまいよ。しかし聴かないよりましじゃないか」「聴かない方がましなくらいだ」小林は嬉しそうに身体を椅子の背に靠せかけてまた笑い出した。「そこだ。そう来るところがこっちの思う壺なんだ」「何をいうんだ」「何も云やしない、ただ事実を云うのさ。しかし説明だけはしてやろう。今に君がそこへ追いつめられて、どうする事もできなくなった時に、僕の言葉を思い出すんだ。思い出すけれども、ちっとも言葉通りに実行はできないんだ。これならなまじいあんな事を聴いておかない方がよかったという気になるんだ」津田は厭な顔をした。「馬鹿、そうすりゃどこがどうするんだ」「どうしもしないさ。つまり君の軽蔑に対する僕の復讐がその時始めて実現されるというだけさ」津田は言葉を改めた。「それほど君は僕に敵意をもってるのか」「どうして、どうして、敵意どころか、好意精一杯というところだ。けれども君の僕を軽蔑しているのはいつまで行っても事実だろう。僕がその裏を指摘して、こっちから見るとその君にもまた軽蔑すべき点があると注意しても、君は乙に高くとまって平気でいるじゃないか。つまり口じゃ駄目だ、実戦で来いという事になるんだから、僕の方でもやむをえずそこまで行って勝負を決しようというだけの話だあね」「そうか、解った。――もうそれぎりかい、君のいう事は」「いやどうして。これからいよいよ本論に入ろうというんだ」津田は一気に洋盃を唇へあてがって、ぐっと麦酒を飲み干した小林の様子を、少し呆れながら眺めた。
百五十九
小林は言葉を継ぐ前に、洋盃を下へ置いて、まず室内を見渡した。女伴の客のうち、一組の相手は洗指盆の中へ入れた果物を食った後の手を、袂から出した美くしい手帛で拭いていた。彼の筋向うに席を取って、先刻から時々自分達の方を偸むようにして見る二十五六の方は、咖啡茶碗を手にしながら、男の吹かす煙草の煙を眺めて、しきりに芝居の話をしていた。両方とも彼らより先に来ただけあって、彼らより先に席を立つ順序に、食事の方の都合も進行しているらしく見えた時、小林は云った。「やあちょうど好い。まだいる」津田はまたはっと思った。小林はきっと彼らの気を悪くするような事を、彼らに聴こえようがしに云うに違なかった。「おいもう好い加減に止せよ」「まだ何にも云やしないじゃないか」「だから注意するんだ。僕の攻撃はいくらでも我慢するが、縁もゆかりもない人の悪口などは、ちっと慎しんでくれ、こんな所へ来て」「厭に小心だな。おおかた場末の酒場とここといっしょにされちゃたまらないという意味なんだろう」「まあそうだ」「まあそうだなら、僕のごとき無頼漢をこんな所へ招待するのが間違だ」「じゃ勝手にしろ」「口で勝手にしろと云いながら、内心ひやひやしているんだろう」津田は黙ってしまった。小林は面白そうに笑った。「勝ったぞ、勝ったぞ。どうだ降参したろう」「それで勝ったつもりなら、勝手に勝ったつもりでいるがいい」「その代り今後ますます貴様を軽蔑してやるからそう思えだろう。僕は君の軽蔑なんか屁とも思っちゃいないよ」「思わなけりゃ思わないでもいいさ。五月蠅い男だな」小林はむっとした津田の顔を覗き込むようにして見つめながら云った。「どうだ解ったか、おい。これが実戦というものだぜ。いくら余裕があったって、金持に交際があったって、いくら気位を高く構えたって、実戦において敗北すりゃそれまでだろう。だから僕が先刻から云うんだ、実地を踏んで鍛え上げない人間は、木偶の坊と同なじ事だって」「そうだそうだ。世の中で擦れっ枯らしと酔払いに敵うものは一人もないんだ」何か云うはずの小林は、この時返事をする代りにまた女伴の方を一順見廻した後で、云った。「じゃいよいよ第三だ。あの女の立たないうちに話してしまわないと気がすまない。好いかね、君、先刻の続きだぜ」津田は黙って横を向いた。小林はいっこう構わなかった。「第三にはだね。すなわち換言すると、本論に入って云えばだね。僕は先刻あすこにいる女達を捕まえて、ありゃ芸者かって君に聴いて叱られたね。君は貴婦人に対する礼義を心得ない野人として僕を叱ったんだろう。よろしい僕は野人だ。野人だから芸者と貴婦人との区別が解らないんだ。それで僕は君に訊いたね、いったい芸者と貴婦人とはどこがどう違うんだって」小林はこう云いながら、三度目の視線をまた女伴の方に向けた。手帛で手を拭いていた人は、それを合図のように立ち上った。残る一人も給仕を呼んで勘定を払った。「とうとう立っちまった。もう少し待ってると面白いところへ来るんだがな、惜しい事に」小林は出て行く女伴の後影を見送った。「おやおやもう一人も立つのか。じゃ仕方がない、相手はやっぱり君だけだ」彼は再び津田の方へ向き直った。「問題はそこだよ、君。僕が仏蘭西料理と英吉利料理を食い分ける事ができずに、糞と味噌をいっしょにして自慢すると、君は相手にしない。たかが口腹の問題だという顔をして高を括っている。しかし内容は一つものだぜ、君。この味覚が発達しないのも、芸者と貴婦人を混同するのも」津田はそれがどうしたと云わぬばかりの眼を翻がえして小林を見た。「だから結論も一つ所へ帰着しなければならないというのさ。僕は味覚の上において、君に軽蔑されながら、君より幸福だと主張するごとく、婦人を識別する上においても、君に軽蔑されながら、君より自由な境遇に立っていると断言して憚からないのだ。つまり、あれは芸者だ、これは貴婦人だなんて鑑識があればあるほど、その男の苦痛は増して来るというんだ。なぜと云って見たまえ。しまいには、あれも厭、これも厭だろう。あるいはこれでなくっちゃいけない、あれでなくっちゃいけないだろう。窮屈千万じゃないか」「しかしその窮屈千万が好きなら仕方なかろう」「来たな、とうとう。食物だと相手にしないが、女の事になると、やっぱり黙っていられなくなると見えるね。そこだよ、そこを実際問題について、これから僕が論じようというんだ」「もうたくさんだ」「いやたくさんじゃないらしいぜ」二人は顔を見合わせて苦笑した。

