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明暗・夏目漱石

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朗読者: VOICEVOX Nemo / ノーマルこの朗読者の公開朗読はまだない / 朗読停止中

百六十四

ペンで原稿紙へ書きなぐるようにしたためられたその手紙は、長さから云っても、無論普通の倍以上あった。のみならず宛名あてなは小林に違なかったけれども、差出人は津田の見た事もいた事もない全く未知の人であった。津田は封筒の裏表を読んだ後で、それがはたして自分に何の関係があるのだろうと思った。けれども冷やかな無関心のかたわらに起った一種の好奇心は、すぐ彼の手を誘った。封筒から引き抜いた十行二十字詰の罫紙けいしの上へ眼を落した彼は一気に読み下した。「僕はここへ来た事をもう後悔しなければならなくなったのです。あなたは定めてあきっぽいと思うでしょう、しかしこれはあなたと僕の性質の差違から出るのだから仕方がないのです。またかと云わずに、まあ僕の訴えを聞いて下さい。女ばかりでよる不用心ぶようじんだから銀行の整理のつくまで泊りに来て留守番るすばんをしてくれ、小説が書きたければ自由に書くがいい、図書館へ行くなら弁当を持って行くがいい、午後はを習いに行くがいい。今に銀行を東京へ持って来ると外国語学校へ入れてやる、うちの始末は心配するな、転居の金は出してやる。――僕はこんなありがたい条件に誘惑されたのです。もっとも一から十まであてにした訳でもないんですが、その何割かは本当に違いないと思い込んだのです。ところが来て見ると、本当は一つもないんです、頭からしりまで嘘の皮なんです。叔父は東京にいる方が多いばかりか、僕は書生代りに朝から晩まで使い歩きをさせられるだけなのです。叔父は僕の事を「うちの書生」といいます、しかも客の前でです、僕のいる前でです。こんな訳で酒一合の使から縁側の拭き掃除までみんな僕の役になってしまうのです。金はまだ一銭も貰ったことがありません。僕の穿いていた一円の下駄が割れたら十二銭のやつを買って穿かせました。叔父は明日あした金をやると云って、僕の家族を姉の所へ転居させたのですが、越してしまったら、金の事はおくびにも出さないので、僕は帰る宅さえなくなりました。叔父の仕事はまるで山です。金なんか少しもないのです。そうして彼ら夫婦はきわめて冷やかな極めて吝嗇りんしょくな人達です。だから来た当座僕は空腹に堪えかねて、三日に一遍ぐらい姉のうちへ帰って飯を食わして貰いました。兵糧ひょうろうが尽きて焼芋やきいも馬鈴薯じゃがいもで間に合せていたこともあります。もっともこれは僕だけです。叔母は極めて感じの悪い女です。万事が打算的で、体裁ていさいばかりで、いやにこせこせ突ッ付き廻したがるんで、僕はちくちく刺されどうしに刺されているんです。叔父は金のないくせに酒だけは飲みます。そうして田舎いなかへ行けば殿様だなどと云って威張るんです。しかし裏側へ入ってみると驚ろく事ばかりです。訴訟事件さえたくさん起っているくらいです。出発のたびに汽車賃がなくって、質屋へ駈けつけたり、姉の家へ行って、苦しいところを算段して来てやったりしていますが、叔父の方じゃ、僕の食費と差引にする気か何かで澄ましているのです。叔母は最初から僕が原稿を書いて食扶持くいぶちでも入れるものとでも思ってるんでしょう、僕がペンを持っていると、そんなにして書いたものはいったいどうなるの、なんて当擦あてこすりを云います。新聞の職業案内欄に出ている「事務員募集」の広告を突きつけてなぞをかけたりします。こういう事が繰り返されて見ると、僕は何しにここへ来たんだか、まるで訳が解らなくなるだけです。僕は変に考えさせられるのです。全く形をなさないこの家の奇怪な生活と、変幻きわまりなきこの妙な家庭の内情が、朝から晩まで恐ろしい夢でも見ているような気分になって、僕の頭にたたってくるんです。それをひとに話したって、とうてい通じっこないと思うと、世界のうちで自分だけが魔に取り巻かれているとしか考えられないので、なお心細くなるのです、そうして時々は気が狂いそうになるのです。というよりももう気が狂っているのではないかしらと疑がい出すと、たまらなくこわくなって来るのです。土の牢の中で苦しんでいる僕には、日光がないばかりか、もう手も足もないような気がします。何となれば、手を挙げても足を動かしても、四方は真黒だからです。いくら訴えても、厚い冷たい壁が僕の声をさえぎって世の中へ聴えさせないようにするからです。今の僕は天下にたった一人です。友達はないのです。あっても無いと同じ事なのです。幽霊のような僕の心境に触れてくれる事のできる頭脳をもったものは、有るべきはずがないからです。僕は苦しさの余りにこの手紙を書きました。救を求めるために書いたのではありません。僕はあなたの境遇を知っています。物質上の補助、そんなものをあなたの方角から受け取る気は毛頭ないのです。ただこの苦痛の幾分が、あなたの脈管みゃくかんの中に流れている人情の血潮に伝わって、そこに同情の波を少しでも立ててくれる事ができるなら、僕はそれで満足です。僕はそれによって、僕がまだ人間の一員として社会に存在しているという確証を握る事ができるからです。この悪魔の重囲の中から、広々した人間の中へ届く光線は一縷いちるもないのでしょうか。僕は今それさえ疑っているのです。そうして僕はあなたから返事が来るか来ないかで、その疑いを決したいのです」手紙はここで終っていた。

百六十五

その時先刻さっき火をけて吸い始めた巻煙草まきたばこの灰が、いつの間にか一寸近くの長さになって、ぽたりと罫紙けいしの上に落ちた。津田は竪横たてよこに走る藍色あいいろわくの上にくずれ散ったこの粉末に視覚を刺撃されて、ふと気がついて見ると、彼は煙草を持った手をそれまで動かさずにいた。というより彼の口と手がいつか煙草の存在を忘れていた。その上手紙を読み終ったのと煙草の灰を落したのとは同時でないのだから、二つの間にはさまるぼんやりしたただの時間を認めなければならなかった。その空虚な時間ははたして何のために起ったのだろう。元来をいうと、この手紙ほど津田に縁の遠いものはなかった。第一に彼はそれを書いた人を知らなかった。第二にそれを書いた人と小林との関係がどうなっているのか皆目かいもく解らなかった。中に述べ立ててある事柄に至ると、まるで別世界の出来事としか受け取れないくらい、彼の位置及び境遇とはかけ離れたものであった。しかし彼の感想はそこで尽きる訳に行かなかった。彼はどこかでおやと思った。今まで前の方ばかり眺めて、ここに世の中があるのだときめてかかった彼は、急にうしろをふり返らせられた。そうして自分と反対な存在を注視すべく立ちどまった。するとああああこれも人間だという心持が、今日こんにちまでまだ会った事もない幽霊のようなものを見つめているうちに起った。きわめて縁の遠いものはかえって縁の近いものだったという事実が彼の眼前に現われた。彼はそこでとまった。そうして彽徊ていかいした。けれどもそれより先へは一歩も進まなかった。彼は彼相応の意味で、この気味の悪い手紙を了解したというまでであった。彼が原稿紙から煙草の灰を払い落した時、原を相手に何か話し続けていた小林はすぐ彼の方を向いた。用談を切り上げるためらしい言葉がただ一句彼の耳に響いた。「なに大丈夫だ。そのうちどうにかなるよ、心配しないでもいいや」津田は黙って手紙を小林の方へ出した。小林はそれを受け取る前に訊いた。「読んだか」「うん」「どうだ」津田は何とも答えなかった。しかし一応相手の主意を確かめて見る必要を感じた。「いったい何のためにそれを僕に読ませたんだ」小林は反問した。「いったい何のために読ませたと思う」「僕の知らない人じゃないか、それを書いた人は」「無論知らない人さ」「知らなくってもいいとして、僕に何か関係があるのか」「この男がか、この手紙がか」「どっちでも構わないが」「君はどう思う」津田はまた躊躇ちゅうちょした。実を云うと、それは手紙の意味が彼に通じた証拠であった。もっと明暸めいりょうにいうと、自分は自分なりにその手紙を解釈する事ができたという自覚が彼の返事をにぶらせたのと同様であった。彼はしばらくして云った。「君のいう意味なら、僕には全く無関係だろう」「僕のいう意味とは何だ?」「解らないか」「解らない。云って見ろ」「いや、――まあそう」津田は先刻さっきの絵と同じ意味で、小林がこの手紙を自分の前に突きつけるのではなかろうかと疑った。なんでもかでも彼を物質上の犠牲者にしおおせた上で、あとからざまを見ろ、とうとう降参したじゃないかという態度に出られるのは、彼にとって忍ぶべからざる侮辱であった。いくら貧乏の幽霊で威嚇おどかしたってその手に乗るものかという彼の気慨が、自然小林の上に働らきかけた。「それより君の方でその主意を男らしく僕に説明したらいいじゃないか」「男らしく?ふん」と云っていったん言葉を句切った小林は、後から付け足した。「じゃ説明してやろう。この人もこの手紙も、乃至ないしこの手紙の中味も、すべて君には無関係だ。ただし世間的に云えばだぜ、いいかね。世間的という意味をまた誤解するといけないから、ついでにそれも説明しておこう。君はこの手紙の内容に対して、俗社会にいわゆる義務というものを帯びていないのだ」「当り前じゃないか」「だから世間的には無関係だと僕の方でも云うんだ。しかし君の道徳観をもう少し大きくして眺めたらどうだい」「いくら大きくしたって、金をやらなければならないという義務なんか感じやしないよ」「そうだろう、君の事だから。しかし同情心はいくらか起るだろう」「そりゃ起るにきまってるじゃないか」「それでたくさんなんだ、僕の方は。同情心が起るというのはつまり金がやりたいという意味なんだから。それでいて実際は金がやりたくないんだから、そこに良心の闘いから来る不安が起るんだ。僕の目的はそれでもう充分達せられているんだ」こう云った小林は、手紙を隠袋ポケットへしまい込むと同時に、同じ場所から先刻の紙幣を三枚とも出して、それを食卓の上へ並べた。「さあ取りたまえ。要るだけ取りたまえ」彼はこう云って原の方を見た。

百六十六

小林の所作しょさは津田にとって全くの意外であった。突然毒気を抜かれたところに十分以上の皮肉を味わわせられた彼の心は、相手に向っておどった。憎悪ぞうおの電流とでも云わなければ形容のできないものが、とっさの間に彼の身体からだを通過した。同時に聡明な彼の頭に一種のうたがいひらめいた。此奴こいつら二人は共謀ぐるになって先刻さっきからおれを馬鹿にしているんじゃないかしら」こう思うのと、大通りの角で立談たちばなしをしていた二人の姿と、ここへ来てからの小林の挙動と、途中から入って来た原の様子と、その三人の間に起った談話の遣取やりとりとが、どれが原因ともどれが結果とも分らないような迅速の度合で、津田の頭の中を仕懸花火しかけはなびのようにくるくると廻転した。彼は白い食卓布テーブルクロースの上に、行儀よく順次に並べられた新らしい三枚の十円紙幣を見て、思わず腹の中で叫んだ。「これがこのれッらしのこしらえ上げた狂言の落所おちだったのか。馬鹿奴ばかめそう貴様の思わく通りにさせてたまるものか」彼はきずつけられた自分のプライドに対しても、この不名誉な幕切まくぎれに一転化を与えた上で、二人と別れなければならないと考えた。けれどもどうしたらこう最後まで押しつめられて来た不利な局面を、今になって、うまくどさりと引繰ひっくり返す事ができるかの問題になると、あらかじめその辺の準備をしておかなかった彼は、全くの無能力者であった。外観上の落ちつきを比較的平気そうに保っていた彼の裏側には、役にも立たない機智の作用が、はげしく往来した。けれどもその混雑はただの混雑に終るだけで、何らの帰着点を彼に示してくれないので、むらむらとしたあとの彼の心は、いたずらにわくわくするだけであった。そのわくわくがいつのにか狼狽ろうばいの姿に進化しつつある事さえ、残念ながら彼には意識された。この危機一髪という間際に、彼はまた思いがけない現象に逢着ほうちゃくした。それは小林の並べた十円紙幣が青年芸術家に及ぼした影響であった。紙幣の上に落された彼の眼から出る異様の光であった。そこには驚ろきと喜びがあった。一種の飢渇きかつがあった。つかみかかろうとする慾望の力があった。そうしてその驚ろきも喜びも、飢渇も慾望も、一々しんその物の発現であった。作りもの、こしらえ事、いの狂言とは、どうしても受け取れなかった。少くとも津田にはそうとしか思えなかった。その上津田のこの判断を確めるに足る事実があとからいで起った。原はそれほど欲しそうな紙幣さつへ手を出さなかった。と云って断然小林の親切をしりぞける勇気も示さなかった。出したそうな手を遠慮して出さずにいる苦痛の色が、ありありと彼の顔つきで読まれた。もしこの蒼白あおじろい青年が、ついに紙幣さつの方へ手を出さないとすると、小林のこしらえたせっかくの狂言も半分はぶちこわしになる訳であった。もしまた小林がいったん隠袋ポケットから出した紙幣を、当初の宣告通り、幾分でも原の手へ渡さずに、再びもとへ収めたなら、結果は一層の喜劇に変化する訳であった。どっちにしても自分の体面をつくろうのには便宜べんぎな方向へ発展して行きそうなので、そこに一縷いちるの望をいだいた津田は、もう少し黙って事の成行を見る事にきめた。やがて二人の間に問答が起った。「なぜ取らないんだ、原君」「でもあんまり御気の毒ですから」「僕は僕でまた君の方を気の毒だと思ってるんだ」「ええ、どうもありがとう」「君の前にすわってるその男は男でまた僕の方を気の毒だと思ってるんだ」「はあ」原はさっぱり通じないらしい顔をして津田を見た。小林はすぐ説明した。「その紙幣は三枚共、僕が今その男からもらったんだ。貰い立てのほやほやなんだ」「じゃなおどうも……」「なおどうもじゃない。だからだ。だから僕も安々と君にやれるんだ。僕が安々と君にやれるんだから、君も安々と取れるんだ」「そういう論理ロジックになるかしら」「当り前さ。もしこれが徹夜して書き上げた一枚三十五銭の原稿から生れて来た金なら、何ぼ僕だって、少しは執着が出るだろうじゃないか。額からぽたぽた垂れる膏汗あぶらあせに対しても済まないよ。しかしこれは何でもないんだ。余裕が空間に吹き散らしてくれる浄財じょうざいだ。拾ったものが功徳くどくを受ければ受けるほど余裕は喜こぶだけなんだ。ねえ津田君そうだろう」忌々いまいましい関所をもう通り越していた津田は、かえって好いところで相談をかけられたと同じ事であった。鷹揚おうような彼の一諾は、今夜ここに落ち合った不調和な三人の会合に、少くとも形式上体裁ていさいの好い結末をつけるのに充分であった。彼は醜陋しゅうろうに見える自分の退却を避けるために眼前の機会を捕えた。「そうだね。それが一番いいだろう」小林は押問答の末、とうとう三枚のうち一枚を原の手に渡した。残る二枚を再びもとの隠袋ポケットへ収める時、彼は津田に云った。「珍らしく余裕が下から上へ流れた。けれどもここから上へはもう逆戻りをしないそうだ。だからやっぱり君に対してサンクスだ」表へ出た三人は濠端ほりばたへ来て、電車を待ち合せる間大きな星月夜ほしづきよを仰いだ。

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