百六十七
間もなく三人は離れ離れになった。「じゃ失敬、僕は停車場へ送って行かないよ」「そうか、来たってよさそうなものだがね。君の旧友が朝鮮へ行くんだぜ」「朝鮮でも台湾でも御免だ」「情合のない事夥だしいものだ。そんなら立つ前にもう一遍こっちから暇乞に行くよ、いいかい」「もうたくさんだ、来てくれなくっても」「いや行く。でないと何だか気がすまないから」「勝手にしろ。しかし僕はいないよ、来ても。明日から旅行するんだから」「旅行?どこへ」「少し静養の必要があるんでね」「転地か、洒落てるな」「僕に云わせると、これも余裕の賜物だ。僕は君と違って飽くまでもこの余裕に感謝しなければならないんだ」「飽くまでも僕の注意を無意味にして見せるという気なんだね」「正直のところを云えば、まあそこいらだろうよ」「よろしい、どっちが勝つかまあ見ていろ。小林に啓発されるよりも、事実その物に戒飭される方が、遥かに覿面で切実でいいだろう」これが別れる時二人の間に起った問答であった。しかしそれは宵から持ち越した悪感情、津田が小林に対して日暮以来貯蔵して来た悪感情、の発現に過ぎなかった。これで幾分か溜飲が下りたような気のした津田には、相手の口から出た最後の言葉などを考える余地がなかった。彼は理非の如何に関わらず、意地にも小林ごときものの思想なり議論なりを、切って棄てなければならなかった。一人になった彼は、電車の中ですぐ温泉場の様子などを想像に描き始めた。明る朝は風が吹いた。その風が疎らな雨の糸を筋違に地面の上へ運んで来た。「厄介だな」時間通りに起きた津田は、縁鼻から空を見上げて眉を寄せた。空には雲があった。そうしてその雲は眼に見える風のように断えず動いていた。「ことによると、お午ぐらいから晴れるかも知れないわね」お延は既定の計画を遂行する方に賛成するらしい言葉つきを見せた。「だって一日後れると一日徒為になるだけですもの。早く行って早く帰って来ていただく方がいいわ」「おれもそのつもりだ」冷たい雨によって乱されなかった夫婦間の取極は、出立間際になって、始めて少しの行違を生じた。箪笥の抽斗から自分の衣裳を取り出したお延は、それを夫の洋服と並べて渋紙の上へ置いた。津田は気がついた。「お前は行かないでもいいよ」「なぜ」「なぜって訳もないが、この雨の降るのに御苦労千万じゃないか」「ちっとも」お延の言葉があまりに無邪気だったので、津田は思わず失笑した。「来て貰うのが迷惑だから断るんじゃないよ。気の毒だからだよ。たかが一日とかからない所へ行くのに、わざわざ送って貰うなんて、少し滑稽だからね。小林が朝鮮へ立つんでさえ、おれは送って行かないって、昨夜断っちまったくらいだ」「そう、でもあたし宅にいたって、何にもする事がないんですもの」「遊んでおいでよ。構わないから」お延がとうとう苦笑して、争う事をやめたので、津田は一人俥を駆って宅を出る事ができた。周囲の混雑と対照を形成る雨の停車場の佗しい中に立って、津田が今買ったばかりの中等切符を、ぼんやり眺めていると、一人の書生が突然彼の前へ来て、旧知己のような挨拶をした。「あいにくなお天気で」それはこの間始めて見た吉川の書生であった。取次に出た時玄関で会ったよそよそしさに引き換えて、今日は鳥打を脱ぐ態度からしてが丁寧であった。津田は何の意味だかいっこう気がつかなかった。「どなたかどちらへかいらっしゃるんですか」「いいえ、ちょっとお見送りに」「だからどなたを」書生は弱らせられたような様子をした。「実は奥さまが、今日は少し差支えがあるから、これを持って代りに行って来てくれとおっしゃいました」書生は手に持った果物の籃を津田に示した。「いやそりゃどうも、恐れ入りました」津田はすぐその籃を受け取ろうとした。しかし書生は渡さなかった。「いえ私が列車の中まで持って参ります」汽車が出る時、黙って丁寧に会釈をした書生に、「どうぞ宜しく」と挨拶を返した津田は、比較的込み合わない車室の一隅に、ゆっくりと腰をおろしながら、「やっぱりお延に来て貰わない方がよかったのだ」と思った。
百六十八
お延の気を利かして外套の隠袋へ入れてくれた新聞を津田が取り出して、いつもより念入りに眼を通している頃に、窓外の空模様はだんだん悪くなって来た。先刻まで疎らに眺められた雨の糸が急に数を揃えて、見渡す限の空間を一度に充たして来る様子が、比較的展望に便利な汽車の窓から見ると、一層凄まじく感ぜられた。雨の上には濃い雲があった。雨の横にも限界の遮ぎられない限りは雲があった。雲と雨との隙間なく連続した広い空間が、津田の視覚をいっぱいに冒した時、彼は荒涼なる車外の景色と、その反対に心持よく設備の行き届いた車内の愉快とを思い較べた。身体を安逸の境に置くという事を文明人の特権のように考えている彼は、この雨を衝いて外部へ出なければならない午後の心持を想像しながら、独り肩を竦めた。すると隣りに腰をかけて、ぽつりぽつりと窓硝子を打つたびに、点滴の珠を表面に残して砕けて行く雨の糸を、ぼんやり眺めていた四十恰好の男が少し上半身を前へ屈めて、向側に胡坐を掻いている伴侶に話しかけた。しかし雨の音と汽車の音が重なり合うので、彼の言葉は一度で相手に通じなかった。「ひどく降って来たね。この様子じゃまた軽便の路が壊れやしないかね」彼は仕方なしに津田の耳へも入るような大きな声を出してこう云った。「なに大丈夫だよ。なんぼ名前が軽便だって、そう軽便に壊れられた日にゃ乗るものが災難だあね」これが相手の答であった。相手というのは羅紗の道行を着た六十恰好の爺さんであった。頭には唐物屋を探しても見当りそうもない変な鍔なしの帽子を被っていた。煙草入だの、唐桟の小片だの、古代更紗だの、そんなものを器用にきちんと並べ立てて見世を張る袋物屋へでも行って、わざわざ注文しなければ、とうてい頭へ載せる事のできそうもないその帽子の主人は、彼の言葉遣いで東京生れの証拠を充分に挙げていた。津田は服装に似合わない思いのほか濶達なこの爺さんの元気に驚ろくと同時に、どっちかというと、ベランメーに接近した彼の口の利き方にも意外を呼んだ。この挨拶のうちに偶然使用された軽便という語は、津田にとってたしかに一種の暗示であった。彼は午後の何時間かをその軽便に揺られる転地者であった。ことによると同じ方角へ遊びに行く連中かも知れないと思った津田の耳は、彼らの談話に対して急に鋭敏になった。転席の余地がないので、不便な姿勢と図抜けた大声を忍ばなければならなかった二人の云う事は一々津田に聴こえた。「こんな天気になろうとは思わなかったね。これならもう一日延ばした方が楽だった」中折に駱駝の外套を着た落ちつきのある男の方がこういうと、爺さんはすぐ答えた。「何たかが雨だあね。濡れると思やあ、何でもねえ」「だが荷物が厄介だよ。あの軽便へ雨曝しのまま載せられる事を考えると、少し心細くなるから」「じゃおいらの方が雨曝しになって、荷物だけを室の中へ入れて貰う事にしよう」二人は大きな声を出して笑った。その後で爺さんがまた云った。「もっともこの前のあの騒ぎがあるからね。途中で汽缶へ穴が開いて動けなくなる汽車なんだから、全くのところ心細いにゃ違ない」「あの時ゃどうして向うへ着いたっけ」「なにあっちから来る奴を山の中ほどで待ち合せてさ。その方の汽缶で引っ張り上げて貰ったじゃないか」「なるほどね、だが汽缶を取り上げられた方の車はどうしたっけね」「違えねえ、こっちで取り上げりゃ、向うは困らあ」「だからさ、取り残された方の車はどうしたろうっていうのさ。まさか他を救って、自分は立往生って訳もなかろう」「今になって考えりゃ、それもそうだがね、あの時ゃ、てんで向うの車の事なんか考えちゃいられなかったからね。日は暮れかかるしさ、寒さは身に染みるしさ。顫えちまわあね」津田の推測はだんだんたしかになって来た。二人はその軽便の通じている線路の左右にある三カ所の温泉場のうち、どこかへ行くに違ないという鑑定さえついた。それにしてもこれから自分の身を二時間なり三時間なり委せようとするその軽便が、彼らのいう通り乱暴至極のものならば、この雨中どんな災難に会わないとも限らなかった。けれどもそこには東京ものの持って生れた誇張というものがあった。そんなに不完全なものですかと訊いてみようとしてそこに気のついた津田は、腹の中で苦笑しながら、質問をかける手数を省いた。そうして今度は清子とその軽便とを聯結して「女一人でさえ楽々往来ができる所だのに」と思いながら、面白半分にする興味本位の談話には、それぎり耳を貸さなかった。
百六十九
汽車が目的の停車場に着く少し前から、三人によって気遣われた天候がしだいに穏かになり始めた時、津田は雨の収まり際の空を眺めて、そこに忙がしそうな雲の影を認めた。その雲は汽車の走る方角と反対の側に向って、ずんずん飛んで行った。そうして後から後からと、あたかも前に行くものを追かけるように、隙間なく詰め寄せた。そのうち動く空の中に、やや明るい所ができてきた。ほかの部分より比較的薄く見える箇所がしだいに多くなった。就中一角はもう少しすると風に吹き破られて、破れた穴から青い輝きを洩らしそうな気配を示した。思ったより自分に好意をもってくれた天候の前に感謝して、汽車を下りた津田は、そこからすぐ乗り換えた電車の中で、また先刻会った二人伴の男を見出した。はたして彼の思わく通り、自分と同じ見当へ向いて、同じ交通機関を利用する連中だと知れた時、津田は気をつけて彼らの手荷物を注意した。けれども彼らの雨曝しになるのを苦に病んだほどの大嵩なものはどこにも見当らなかった。のみならず、爺さんは自分が先刻云った事さえもう忘れているらしかった。「ありがたい、大当りだ。だからやっぱり行こうと思った時に立っちまうに限るよ。これでぐずぐずして東京にいて御覧な。ああつまらねえ、こうと知ったら、思い切って今朝立っちまえばよかったと後悔するだけだからね」「そうさ。だが東京も今頃はこのくらい好い天気になってるんだろうか」「そいつあ行って見なけりゃ、ちょいと分らねえ。何なら電話で訊いてみるんだ。だが大体間違はないよ。空は日本中どこへ行ったって続いてるんだから」津田は少しおかしくなった。すると爺さんがすぐ話しかけた。「あなたも湯治場へいらっしゃるんでしょう。どうもおおかたそうだろうと思いましたよ、先刻から」「なぜですか」「なぜって、そういう所へ遊びに行く人は、様子を見ると、すぐ分りますよ。ねえ」彼はこう云って隣りにいる自分の伴侶を顧みた。中折の人は仕方なしに「ああ」と答えた。この天眼通に苦笑を禁じ得なかった津田は、それぎり会話を切り上げようとしたところ、快豁な爺さんの方でなかなか彼を放さなかった。「だが旅行も近頃は便利になりましたね。どこへ行くにも身体一つ動かせばたくさんなんですから、ありがたい訳さ。ことにこちとら見たいな気の早いものにはお誂向だあね。今度だって荷物なんか何にも持って来やしませんや、この合切袋とこの大将のあの鞄を差し引くと、残るのは命ばかりといいたいくらいのものだ。ねえ大将」大将の名をもって呼ばれた人はまた「ああ」と答えたぎりであった。これだけの手荷物を車室内へ持ち込めないとすれば、彼らのいわゆる「軽便」なるものは、よほど込み合うのか、さもなければ、常識をもって測るべからざる程度において不完全でなければならなかった。そこを確かめて見ようかと思った津田は、すぐ確かめても仕方がないという気を起して黙ってしまった。電車を下りた時、津田は二人の影を見失った。彼は停留所の前にある茶店で、写真版だの石版だのと、思い思いに意匠を凝らした温泉場の広告絵を眺めながら、昼食を認ためた。時間から云って、平常より一時間以上も後れていたその昼食は、膳を貪ぼる人としての彼を思う存分に発揮させた。けれども発車は目前に逼っていた。彼は箸を投げると共にすぐまた軽便に乗り移らなければならなかった。基点に当る停車場は、彼の休んだ茶店のすぐ前にあった。彼は電車よりも狭いその車を眼の前に見つつ、下女から支度料の剰銭を受取ってすぐ表へ出た。切符に鋏を入れて貰う所と、プラットフォームとの間には距離というものがほとんどなかった。五六歩動くとすぐ足をかける階段へ届いてしまった。彼は車室のなかで、また先刻の二人連れと顔を合せた。「やあお早うがす。こっちへおかけなさい」爺さんは腰をずらして津田のために、彼の腕に抱えて来た膝かけを敷く余地を拵えてくれた。「今日は空いてて結構です」爺さんは避寒避暑二様の意味で、暮から正月へかけて、それから七八二月に渉って、この線路に集ってくる湯治客の、どんなに雑沓するかをさも面白そうに例の調子で話して聴かせた後で、自分の同伴者を顧みた。「あんな時に女なんか伴れてくるのは実際罪だよ。尻が大きいから第一乗り切れねえやね。そうしてすぐ酔うから困らあ。鮨のように押しつめられてる中で、吐いたり戻したりさ。見っともねえ事ったら」彼は自分の傍に腰をかけている婦人の存在をまるで忘れているらしい口の利き方をした。
百七十
軽便の中でも、津田の平和はややともすると年を取ったこの楽天家のために乱されそうになった。これから目的地へ着いた時の様子、その様子しだいで取るべき自分の態度、そんなものが想像に描き出された旅館だの山だの渓流だのの光景のうちに、取りとめもなくちらちら動いている際などに、老人は急に彼を夢の裡から叩き起した。「まだ仮橋のままでやってるんだから、呑気なものさね。御覧なさい、土方があんなに働らいてるから」本式の橋が去年の出水で押し流されたまままだ出来上らないのを、老人はさも会社の怠慢ででもあるように罵った後で、海へ注ぐ河の出口に、新らしく作られた一構の家を指して、また津田の注意を誘い出そうとした。「あの家も去年波で浚われちまったんでさあ。でもすぐあんなに建てやがったから、軽便より少しゃ感心だ」「この夏の避暑客を取り逃さないためでしょう」「ここいらで一夏休むと、だいぶ応えるからね。やっぱり慾がなくっちゃ、何でも手っ取り早く仕事は片づかないものさね。この軽便だってそうでしょう、あなた、なまじいあの仮橋で用が足りてるもんだから、会社の方で、いつまでも横着をきめ込みやがって、掛けかえねえんでさあ」津田は老人の人世観に一も二もなく調子を合すべく余儀なくされながら、談話の途切れ目には、眼を眠るように構えて、自分自身に勝手な事を考えた。彼の頭の中は纏まらない断片的な映像のために絶えず往来された。その中には今朝見たお延の顔もあった。停車場まで来てくれた吉川の書生の姿も動いた。彼の車室内へ運んでくれた果物の籃もあった。その葢を開けて、二人の伴侶に夫人の贈物を配とうかという意志も働いた。その所作から起る手数だの煩わしさだの、こっちの好意を受け取る時、相手のやりかねない仰山な挨拶も鮮やかに描き出された。すると爺さんも中折も急に消えて、その代り肥った吉川夫人の影法師が頭の闥を排してつかつか這入って来た。連想はすぐこれから行こうとする湯治場の中心点になっている清子に飛び移った。彼の心は車と共に前後へ揺れ出した。汽車という名をつけるのはもったいないくらいな車は、すぐ海に続いている勾配の急な山の中途を、危なかしくがたがた云わして駆けるかと思うと、いつの間にか山と山の間に割り込んで、幾度も上ったり下ったりした。その山の多くは隙間なく植付けられた蜜柑の色で、暖かい南国の秋を、美くしい空の下に累々と点綴していた。「あいつは旨そうだね」「なに根っから旨くないんだ、ここから見ている方がよっぽど綺麗だよ」比較的嶮しい曲りくねった坂を一つ上った時、車はたちまちとまった。停車場でもないそこに見えるものは、多少の霜に彩どられた雑木だけであった。「どうしたんだ」爺さんがこう云って窓から首を出していると、車掌だの運転手だのが急に車から降りて、しきりに何か云い合った。「脱線です」この言葉を聞いた時、爺さんはすぐ津田と自分の前にいる中折を見た。「だから云わねえこっちゃねえ。きっと何かあるに違ねえと思ってたんだ」急に予言者らしい口吻を洩らした彼は、いよいよ自分の駄弁を弄する時機が来たと云わぬばかりにはしゃぎ出した。「どうせ家を出る時に、水盃は済まして来たんだから、覚悟はとうからきめてるようなものの、いざとなって見ると、こんな所で弁慶の立往生は御免蒙りたいからね。といっていつまでこうやって待ってたって、なかなか元へ戻してくれそうもなしと。何しろ日の短かい上へ持って来て、気が短かいと来てるんだから、安閑としちゃいられねえ。――どうです皆さん一つ降りて車を押してやろうじゃありませんか」爺さんはこう云いながら元気よく真先に飛び降りた。残るものは苦笑しながら立ち上った。津田も独り室内に坐っている訳に行かなくなったので、みんなといっしょに地面の上へ降り立った。そうして黄色に染められた芝草の上に、あっけらかんと立っている婦人を後にして、うんうん車を押した。「や、いけねえ、行き過ぎちゃった」車はまた引き戻された。それからまた前へ押し出された。押し出したり引き戻したり二三度するうちに、脱線はようやく片づいた。「また後れちまったよ、大将、お蔭で」「誰のお蔭でさ」「軽便のお蔭でさ。だがこんな事でもなくっちゃ眠くっていけねえや」「せっかく遊びに来た甲斐がないだろう」「全くだ」津田は後れた時間を案じながら、教えられた停車場で、この元気の好い老人と別れて、一人薄暮の空気の中に出た。

