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明暗・夏目漱石

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百七十四

その時不意にがらがらと開けられた硝子戸ガラスどの音が、周囲あたりをまるで忘れて、自分の中にばかり頭を突込つっこんでいた津田をはっと驚ろかした。彼は思わず首を上げて入口を見た。そうしてそこに半身を現わしかけた婦人の姿を湯気のうちに認めた時、彼の心臓は、合図の警鐘のように、どきんと打った。けれども瞬間に起った彼の予感は、また瞬間に消える事ができた。それは本当の意味で彼を驚ろかせに来た人ではなかった。生れてからまだ一度も顔を合せたおぼえのないその婦人は、寝掛ねがけと見えて、白昼なら人前をはばかるようなつつしみの足りない姿を津田の前にあらわした。尋常の場合では小袖こそですその先にさえ出る事を許されない、長い襦袢じゅばん派手はでな色が、惜気おしげもなく津田の眼をはなやかに照した。婦人は温泉煙ゆけむりの中に乞食こじきのごとく蹲踞うずくまる津田の裸体姿はだかすがたを一目見るや否や、いったん入りかけた身体からだをすぐあとへ引いた。「おや、失礼」津田は自分の方であやまるべき言葉を、相手に先へられたような気がした。すると階子段はしごだんを下りる上靴スリッパーの音がまた聴こえた。それが硝子戸の前でとまったかと思うと男女の会話が彼の耳に入った。「どうしたんだ」「誰か入ってるの」ふさがってるのか。好いじゃないか、こんでさえいなければ」「でも……」「じゃ小さい方へ入るさ。小さい方ならみんないてるだろう」かつさんはいないかしら」津田はこの二人づれのために早く出てやりたくなった。同時に是非彼の入っている風呂へ入らなければ承知ができないといった調子のどこかに見える婦人の態度が気にわなかった。彼はここへ入りたければ御勝手にお入んなさい、御遠慮には及びませんからという度胸をえて、また浴槽の中へ身体をけた。彼は背の高い男であった。長い足を楽に延ばして、それを温泉の中で上下うえしたへ動かしながら、とおるもののうちに、浮いたり沈んだりする肉体の下肢かしを得意に眺めた。時に突然婦人の要する勝さんらしい人の声がし出した。「今晩は。大変お早うございますね」勝さんのこの挨拶あいさつには男の答があった。「うん、あんまり退屈だから今日は早く寝ようと思ってね」「へえ、もうお稽古けいこはお済みですか」「お済みって訳でもないが」次には女の言葉が聴こえた。「勝さん、そこはふさがってるのね」「おやそうですか」「どこか新らしくこしらえたのはないの」「ございます。その代り少し熱いかも知れませんよ」二人を案内したらしい風呂場の戸のく音が、向うの方でした。かと思うと、また津田の浴槽よくそうの入口ががらりと鳴った。「今晩は」四角な顔の小作りな男が、またこう云いながら入って来た。旦那だんな流しましょう」彼はすぐ流しへ下り立って、小判なりのおけへ湯を汲んだ。津田は否応いやおうなしに彼に背中を向けた。「君が勝さんてえのかい」「ええ旦那はよく御承知ですね」「今いたばかりだ」「なるほど。そう云えば旦那も今見たばかりですね」「今来たばかりだもの」勝さんはははあと云って笑い出した。「東京からおいでですか」「そうだ」勝さんは何時なんじの下りだの、上りだのという言葉をつかって、津田に正確な答えをさせた。それから一人で来たのかとか、なぜ奥さんをれて来なかったのかとか、今の夫婦ものは浜の生糸屋きいとやさんだとか、旦那が細君に毎晩義太夫を習っているんだとか、うちのおかみさんは長唄ながうたが上手だとか、いろいろの問をかけると共に、いろいろの知識を供給した。聴かないでもいい事まで聴かされた津田には、勝さんの触れないものが、たった一つしかないように思われた。そうしてその触れないものはとりなおさず清子という名前であった。偶然から来たこの結果には、津田にとって多少の物足らなさが含まれていた。もちろん津田の方でも水を向ける用意もなかった。そんな暇のないうちに、勝さんはさっさとしゃべるだけしゃべって、洗う方を切り上げてしまった。「どうぞごゆっくり」こう云って出て行った勝さんの後影を見送った津田にも、もうゆっくりする必要がなかった。彼はすぐ身体を拭いて硝子戸ガラスどの外へ出た。しかし濡手拭ぬれてぬぐいをぶら下げて、風呂場の階子段はしごだんあがって、そこにある洗面所と姿見すがたみの前を通り越して、廊下を一曲り曲ったと思ったら、はたしてどこへ帰っていいのか解らなくなった。

百七十五

最初の彼はほとんど気がつかずに歩いた。これが先刻さっき下女に案内されて通ったみちなのだろうかと疑う心さえ、淡い夢のように、彼の記憶をぼかすだけであった。しかし廊下を踏んだ長さに比較して、なかなか自分のへやらしいものの前に出られなかった時に、彼はふと立ちどまった。「はてな、もっとあとかしら。もう少し先かしら」電灯で照らされた廊下は明るかった。どっちの方角でも行こうとすれば勝手に行かれた。けれども人の足音はどこにもきこえなかった。用事で往来ゆききをする下女の姿も見えなかった。手拭と石鹸シャボンをそこへ置いた津田は、うちの書斎でお延を呼ぶ時のように手を鳴らして見た。けれども返事はどこからも響いて来なかった。不案内な彼は、第一下女のたまりのある見当を知らなかった。個人の住宅とほとんど区別のつかない、植込うえこみの突当りにある玄関から上ったので、勝手口、台所、帳場などの所在ありかは、すべて彼にとっての秘密と何のえらぶところもなかった。手を鳴らす所作しょさを一二度繰り返して見て、誰も応ずるもののないのを確かめた時、彼は苦笑しながらまた石鹸と手拭を取り上げた。これも一興だという気になった。ぐるぐる廻っているうちには、いつか自分の室の前に出られるだろうという酔興すいきょうも手伝った。彼は生れて以来旅館における始めての経験を故意に味わう人のような心になってまた歩き出した。廊下はすぐ尽きた。そこから筋違すじかいに二三度あがるとまた洗面所があった。きらきらする白い金盥かなだらいが四つほど並んでいる中へ、ニッケルのせんの口から流れる山水やまみずだか清水しみずだか、絶えずざあざあ落ちるので、金盥は四つが四つともいっぱいになっているばかりか、ふちあふれる水晶すいしょうのような薄い水の幕の綺麗きれいすべって行くさまあざやかに眺められた。金盥の中の水はあとから押されるのと、上から打たれるのとの両方で、静かなうちに微細な震盪しんとうを感ずるもののごとくに揺れた。水道ばかりを使い慣れて来た津田の眼は、すぐ自分の居場所おりばしょを彼に忘れさせた。彼はただもったいないと思った。手を出してせんを締めておいてやろうかと考えた時、ようやく自分の迂濶うかつさに気がついた。それと同時に、白い瀬戸張せとばりのなかで、大きくなったり小さくなったりする不定なうずが、妙に彼を刺戟しげきした。あたりは静かであった。ぜんに向った時下女の云った通りであった。というよりも事実は彼女の言葉を一々首肯うけがって、おおかたこのくらいだろうとあんに想像したよりもはるかに静かであった。客がどこにいるのかと怪しむどころではなく、人がどこにいるのかと疑いたくなるくらいであった。その静かさのうちに電灯はくまなく照り渡った。けれどもこれはただ光るだけで、音もしなければ、動きもしなかった。ただ彼の眼の前にある水だけが動いた。うずらしい形を描いた。そうしてその渦は伸びたり縮んだりした。彼はすぐ水から視線をそらした。すると同じ視線が突然人の姿に行き当ったので、彼ははっとして、眼をえた。しかしそれは洗面所の横にけられた大きな鏡に映る自分の影像イメジに過ぎなかった。鏡は等身と云えないまでも大きかった。少くとも普通床屋にそなえつけてあるものぐらいの尺はあった。そうして位地いち都合上つごうじょうやはり床屋のそれのごとくに直立していた。したがって彼の顔、顔ばかりでなく彼の肩も胴も腰も、彼と同じ平面に足を置いて、彼と向き合ったままで映った。彼は相手の自分である事に気がついた後でも、なお鏡から眼を放す事ができなかった。湯上りの彼の血色はむしろあおかった。彼にはその意味がせなかった。久しく刈込かりこみを怠った髪は乱れたままで頭にかぶさっていた。風呂でらしたばかりの色がうるしのように光った。なぜだかそれが彼の眼には暴風雨に荒らされた後の庭先らしく思えた。彼は眼鼻立の整った好男子であった。顔の肌理きめも男としてはもったいないくらいこまやかに出来上っていた。彼はいつでもそこに自信をもっていた。鏡に対する結果としてはこの自信を確かめる場合ばかりが彼の記憶に残っていた。だからいつもと違った不満足な印象が鏡の中に現われた時に、彼は少し驚ろいた。これが自分だと認定する前に、これは自分の幽霊だという気がまず彼の心を襲った。すごくなった彼には、抵抗力があった。彼は眼を大きくして、なおの事自分の姿を見つめた。すぐ二足ばかり前へ出て鏡の前にあるくしを取上げた。それからわざと落ちついて綺麗に自分の髪を分けた。しかし彼の所作しょさは櫛を投げ出すと共に尽きてしまった。彼は再び自分のへやを探すもとの我に立ち返った。彼は洗面所と向い合せに付けられた階子段はしごだんを見上げた。そうしてその階子段には一種の特徴のある事を発見した。第一に、それは普通のものより幅が約三分一ほど広かった。第二に象が乗っても音がしまいと思われるくらい巌丈がんじょうにできていた。第三に尋常のものと違って、まがいの西洋館らしく、一面に仮漆ニスかかっていた。胡乱うろんなうちにも、この階子段だけはけっして先刻さっき下りなかったというたしかな記憶が彼にあった。そこをのぼっても自分の室へは帰れないと気がついた彼は、もう一遍後戻あともどりをする覚悟で、鏡から離れた身体からだを横へ向け直した。

百七十六

するとその二階にある一室の障子しょうじを開けて、開けたあとをまたる音がきこえた。階子段の構えから見ても、上にある室の数は一つや二つではないらしく思われるほど広い建物だのに、今津田の耳に入った音は、手に取るように判切はっきりしているので、彼はすぐその確的たしかさの度合から押して、室の距離を定める事ができた。下から見上げた階子段の上は、普通料理屋の建築などで、人のしばしば目撃するところと何のことなるところもなかった。そこには広い板の間があった。目の届かない幅は問題外として、突き当りをさえぎる壁を目標めやすに置いて、大凡おおよその見当をつけると、畳一枚をたてに敷くだけの長さは充分あるらしく見えた。この板の間から、廊下が三方へ分れているか、あるいは二方に折れ曲っているか、そこは階段をのぼらない津田の想像で判断するよりほかにみちはないとして、今聴えた障子の音の出所でどころは、一番階段に近い室、すなわちたから見える壁のすぐうしろに違なかった。ひっそりした中に、突然この音を聞いた津田は、始めて階上にも客のいる事を悟った。というより、彼はようやく人間の存在に気がついた。今までまるで方角違いの刺戟しげきに気をられていた彼は驚ろいた。もちろんその驚きは微弱なものであった。けれども性質からいうと、すでに死んだと思ったものが急によみがえった時に感ずる驚ろきと同じであった。彼はすぐ逃げ出そうとした。それは部屋へ帰れずに迷児まごついている今の自分に付着する間抜まぬけ加減かげんひとに見せるのがいやだったからでもあるが、実を云うと、この驚ろきによって、多少なりとも度を失なったおのれの醜くさを人前にさらすのが恥ずかしかったからでもある。けれども自然の成行はもう少し複雑であった。いったんめぐらそうとした刹那せつなに彼は気がついた。「ことによると下女かも知れない」こう思い直した彼の度胸はたちまち回復した。すでに驚ろきの上をえる事のできた彼の心には、続いて、なに客でも構わないという余裕が生れた。「誰でもいい、来たら方角を教えてもらおう」彼は決心して姿見すがたみの横に立ったまま、階子段はしごだんの上を見つめた。すると静かな足音が彼の予期通り壁の後で聴え出した。その足音は実際静かであった。かかとね上る上靴スリッパーの薄い尾がなかったなら、彼はついにそれを聴き逃してしまわなければならないほど静かであった。その時彼の心を卒然として襲って来たものがあった。「これは女だ。しかし下女ではない。ことによると……」不意にこう感づいた彼の前に、もしやと思ったその本人が容赦なく現われた時、今しがた受けたより何十倍か強烈な驚ろきにとらわれた津田の足はたちまちすくんだ。眼は動かなかった。同じ作用が、それ以上強烈に清子をその場に抑えつけたらしかった。階上の板の間まで来てそこでぴたりととまった時の彼女は、津田にとって一種の絵であった。彼は忘れる事のできない印象の一つとして、それを後々のちのちまで自分の心に伝えた。彼女が何気なく上から眼を落したのと、そこに津田を認めたのとは、同時に似て実は同時でないように見えた。少くとも津田にはそう思われた。無心むしん有心ゆうしんに変るまでにはある時がかかった。驚ろきの時、不可思議の時、疑いの時、それらを経過したあとで、彼女は始めて棒立になった。横から肩を突けば、指一本の力でも、土で作った人形を倒すよりたやすく倒せそうな姿勢で、硬くなったまま棒立に立った。彼女は普通の湯治客とうじきゃくのする通り、寝しなに一風呂入ってあたたまるつもりと見えて、手に小型のタウエルをげていた。それから津田と同じようにニッケル製の石鹸入シャボンいれはだかのまま持っていた。棒のように硬く立った彼女が、なぜそれを床の上へ落さなかったかは、後からその刹那せつなの光景を辿たどるたびに、いつでも彼の記憶中に顔を出したがる疑問であった。彼女の姿は先刻さっき風呂場で会った婦人ほどほしいままではなかった。けれどもこういう場所で、客同志が互いに黙認しあうだけの自由はすでに利用されていた。彼女は正式に幅の広い帯を結んでいなかった。赤だの青だの黄だの、いろいろのしま綺麗きれいに通っている派手はで伊達巻だてまきを、むしろずるずるに巻きつけたままであった。寝巻ねまきの下に重ねた長襦袢ながじゅばんの色が、薄い羅紗製らしゃせい上靴スリッパーつっかけた素足すあしの甲をおおっていた。清子の身体からだが硬くなると共に、顔の筋肉も硬くなった。そうして両方の頬と額の色が見る見るうちに蒼白あおじろく変って行った。その変化がありありと分って来た中頃で、自分を忘れていた津田は気がついた。「どうかしなければいけない。どこまで蒼くなるか分らない」津田は思い切って声をかけようとした。するとその途端に清子の方が動いた。くるりとうしろを向いた彼女は止まらなかった。津田を階下に残したまま、廊下を元へ引き返したと思うと、今まで明らかに彼女を照らしていた二階のあがくちの電灯がぱっと消えた。津田は暗闇くらやみの中で開けるらしい障子しょうじの音をまた聴いた。同時に彼の気のつかなかった、自分の立っているすぐそばの小さな部屋で呼鈴よびりんの返しの音がけたたましく鳴った。やがて遠い廊下をぱたぱたけて来る足音がこえた。彼はその足音のぬしを途中で喰いとめて、清子の用を聴きに行く下女から自分のへや在所ありどころを教えてもらった。

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