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明暗・夏目漱石

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百七十七

その晩の津田はよく眠れなかった。雨戸の外でするさらさらいう音が絶えず彼の耳に付着した。それを離れる事のできない彼は疑った。雨が来たのだろうか、谿川たにがわが軒の近くを流れているのだろうか。雨としてはひさしに響がないし、谿川としてはいきおいが緩漫過ぎるとまで考えた彼の頭は、同時にそれよりはるか重大な主題のために悩まされていた。彼は室に帰ると、いつの間にか気をかせた下女の暖かそうに延べておいてくれた床を、わが座敷の真中に見出みいだしたので、すぐその中へもぐんだまま、偶然にも今自分が経過して来た冒険について思いふけったのである。彼はこのよいの自分を顧りみて、ほとんど夢中歩行者ソムナンビュリストのような気がした。彼の行為は、目的あてもなく家中うちじゅう彷徨うろつき廻ったと一般であった。ことに階子段はしごだんの下で、静中にうずを廻転させる水を見たり、突然姿見すがたみに映る気味の悪い自分の顔に出会ったりした時は、事後一時間とたない近距離から判断して見ても、たしかに常軌じょうきを逸した心理作用の支配を受けていた。常識に見捨てられたためしの少ない彼としては珍らしいこの気分は、今床の中に安臥する彼から見れば、恥ずべき状態にちがいなかった。しかし外聞が悪いという事をほかにして、なぜあんな心持になったものだろうかと、ただその原因を考えるだけでも、説明はできなかった。それはそれとして、なぜあの時清子の存在を忘れていたのだろうという疑問にし移ると、津田は我ながら不思議の感に打たれざるを得なかった。「それほど自分は彼女に対して冷淡なのだろうか」彼は無論そうでないと信じていた。彼は食事の時、すでに清子のいる方角を、下女から教えて貰ったくらいであった。「しかしお前はそれを念頭に置かなかったろう」彼は実際廊下をうろうろ歩行あるいているうちに、清子をどこかへふり落した。けれども自分のどこを歩いているか知らないものが、ひとがどこにいるか知ろうはずはなかった。「この見当けんとうだと心得てさえいたならば、ああ不意打ふいうちを食うんじゃなかったのに」こう考えた彼は、もう第一の機会を取り逃したような気がした。彼女が後を向いた様子、電気を消してあがくちの案内を閉塞へいそくした所作しょさたちまち下女を呼び寄せるために鳴らした電鈴ベルの音、これらのものを綜合そうごうして考えると、すべてが警戒であった。注意であった。そうして絶縁であった。しかし彼女は驚ろいていた。彼よりもはるか余計に驚ろいていた。それは単に女だからとも云えた。彼には不意のうちに予期があり、彼女には突然のうちにただ突然があるだけであったからとも云えた。けれども彼女の驚ろきはそれで説明し尽せているだろうか。彼女はもっと複雑な過去を覿面てきめんに感じてはいないだろうか。彼女はあおくなった。彼女は硬くなった。津田はそこに望みをつないだ。今の自分に都合つごうの好いようにそれを解釈してみた。それからまたその解釈を引繰返ひっくりかえして、反対のがわからも眺めてみた。両方を眺め尽した次にはどっちが合理的だろうという批判をしなければならなくなった。その批判は材料不足のために、容易にまとまらなかった。纏ってもすぐ打ちくずされた。一方に傾くと彼の自信が壊しに来た。他方に寄ると幻滅の半鐘が耳元に鳴り響いた。不思議にも彼の自信、卑下ひげして用いる彼自身の言葉でいうと彼の己惚おのぼれは、胸のうちにあるような気がした。それを攻めに来る幻滅の半鐘はまた反対にいつでも頭の外から来るような心持がした。両方を公平に取扱かっているつもりでいながら、彼は常に親疎しんその区別をその間に置いていた。というよりも、遠近の差等が自然天然属性として二つのものに元からそなわっているらしく見えた。結果は分明ぶんみょうであった。彼はしかりながら己惚おのぼれの頭をでた。耳を傾けながら、半鐘の音をんだ。かくして互いにおっわれつしている彼の心に、静かな眠はようとしても来られなかった。万事を明日あすに譲る覚悟をきめた彼は、幾度いくたびかそれを招き寄せようとして失敗しくじったあげく、右を向いたり、左を下にしたり、ただ寝返ねがえりの数を重ねるだけであった。彼は煙草へ火をけようとして枕元にある燐寸マッチを取った。その時袖畳そでだたみにして下女が衣桁いこうへかけて行った縕袍どてらが眼にった。気がついて見ると、お延のかばんへ入れてくれたのはそのままにして、先刻さっき宿で出したのを着たなり、自分は床の中へ入っていた。彼は病院を出る時、新調の縕袍に対してお延に使ったお世辞せじをたちまち思い出した。同時にお延の返事も記憶の舞台に呼び起された。「どっちが好いか比べて御覧なさい」縕袍ははたして宿の方が上等であった。銘仙と糸織の区別は彼の眼にも一目瞭然いちもくりょうぜんであった。縕袍どてら見較みくらべると共に、細君を前に置いて、内々心のうちで考えた当時の事が再び意識の域上いきじょうに現われた。「お延と清子」ひとりこう云った彼はたちまち吸殻を灰吹の中へ打ち込んで、その底から出るじいという音をいたなり、すぐ夜具を頭からかぶった。いて寝ようとする決心と努力は、その決心と努力が疲れ果ててどこかへ行ってしまった時に始めてむくいられた。彼はとうとう我知らず夢の中に落ち込んだ。

百七十八

朝早く男が来て雨戸を引く音のために、いったん破りかけられたその夢は、半醒半睡の間に、かろうじて持続した。へや四角よすみが寝ていられないほど明るくなって、外部そとに朝日の影がち渡ると思う頃、始めて起き上った津田のまぶたはまだ重かった。彼は楊枝ようじを使いながら障子しょうじを開けた。そうして昨夜来の魔境から今ようやく覚醒した人のような眼を放って、そこいらを見渡した。彼の室の前にある庭は案外にも山里らしくなかった。不規則な池を人工的にこしらえて、その周囲にわかい松だの躑躅つつじだのを普通の約束通り配置した景色は平凡というよりむしろ卑俗であった。彼の室に近い築山の間から、谿水たにみずを導いて小さな滝を池の中へ落している上に、高くはないけれども、一度に五六筋の柱を花火のように吹き上げる噴水まで添えてあった。昨夜ゆうべ彼の睡眠を悩ました細工のみなもとを、苦笑しながら明らさまに見た時、彼の聯想れんそうはすぐこの水音以上に何倍か彼を苦しめた清子の方へし移った。大根おおねを洗えばそれもこの噴水同様に殺風景なものかも知れない、いやもしそれがこの噴水同様に無意味なものであったらたまらないと彼は考えた。彼がくわ楊枝ようじのまま懐手ふところでをして敷居の上にぼんやり立っていると、先刻さっきから高箒たかぼうきで庭の落葉をいていた男が、彼のそばへ寄って来て丁寧に挨拶あいさつをした。「お早う、昨夜さくやはお疲れさまで」「君だったかね、昨夕ゆうべ馬車へ乗ってここまでいっしょに来てくれたのは」「へえ、お邪魔様で」「なるほど君の云った通り閑静だね。そうしてむやみに広いうちだね」「いえ、御覧の通り平地ひらちの乏しい所でげすから、地ならしをしてはその上へ建て建てして、家が幾段にもなっておりますので、――廊下だけは仰せの通りむやみに広くって長いかも知れません」「道理で。昨夕僕は風呂場へ行った帰りに迷児まいごになって弱ったよ」「はあ、そりゃ」二人がこんな会話を取りわせている間に、庭続の小山の上から男と女がこれも二人づれで下りて来た。黄葉こうようと枯枝の隙間すきまを動いてくる彼らのみちは、稲妻形いなずまがたに林のうちを抜けられるように、また比較的急な勾配こうばいを楽にのぼられるように、作ってあるので、ついそこに見えている彼らの姿もなかなか庭先まで出るのに暇がかかった。それでも手代てだいはじっとして彼らを待っていなかった。たちまち津田をほうり出した現金な彼は、すぐ岡のすそまで駈け出して行って、下から彼らを迎いに来たような挨拶あいさつを与えた。津田はこの時始めて二人の顔をよく見た。女は昨夕ゆうべなまめかしい姿をして、彼の浴室の戸を開けた人にちがいなかった。風呂場で彼を驚ろかした大きなまげをいつの間にかくずして、尋常の束髪にえたので、彼はつい同じ人と気がつかずにいた。彼はさらに声をいただけで顔を知らなかったつれの男の方を、よそながらの初対面といった風に、女と眺め比べた。短かく刈り込んだ当世風のひげを鼻の下に生やしたその男は、なるほど風呂番の云った通り、どこかに商人らしい面影おもかげを宿していた。津田は彼の顔を見るや否や、すぐお秀の夫を憶い出した。堀庄太郎、もう少し略して堀の庄さん、もっとめて当人のしばしば用いる堀庄ほりしょうという名前が、いかにも妹婿の様子を代表しているごとく、この男の名前もきっとその髭を虐殺するように町人染ちょうにんじみていはしまいかと思われた。瞥見べっけんのついでにまとめられた津田の想像はここにとどまらなかった。彼はもう一歩皮肉なところまで切り込んで、彼らがはたして本当の夫婦であるかないかをさえ疑問のうちに置いた。したがって早起をして食前浴後の散歩に出たのだと明言する彼らは、津田にとっての違例な現象にほかならなかった。彼は楊枝で歯をこすりながらまだ元の所に立っていた。彼がよそ見をしているにもかかわらず、番頭を相手に二人のする談話はよく聴えた。女は番頭にいた。「今日は別館の奥さんはどうかなすって」番頭は答えた。「いえ、手前はちっとも存じませんが、何か――」「別に何って事もないんですけれどもね、いつでも朝風呂場でお目にかかるのに、今日はいらっしゃらなかったから」「はあさようで――ことによるとまだお休みかも知れません」「そうかも知れないわね。だけどいつでも両方の時間がちゃんときまってるのよ、朝お風呂に行く時の」「へえ、なるほど」「それに今朝けさごいっしょに裏の山へ散歩に参りましょうってお約束をしたもんですからね」「じゃちょっと伺って参りましょう」「いいえ、もういいのよ。散歩はこの通り済んじまったんだから。ただもしやどこかお加減でも悪いのじゃないかしらと思って、ちょっと番頭さんに訊いてみただけよ」「多分ただのお休みだろうと思いますが、それとも――」「それともなんて、そう真面目まじめくさらなくってもいいのよ。ただ訊いてみただけなんだから」二人はそれぎり行き過ぎた。津田は歯磨粉で口中こうちゅうをいっぱいにしながら、また昨夜ゆうべの風呂場をさがしに廊下へ出た。

百七十九

しかし探すなどという大袈裟おおげさな言葉は、今朝の彼にとって全く無用であった。みちに曲折の難はあったにせよ、一足ひとあしの無駄も踏まずに、自然昨夜ゆうべの風呂場へ下りられた時、彼の腹には、夜来の自分を我ながら馬鹿馬鹿しいと思う心がさらに新らしくいて出た。風呂場には軒下にめた高い硝子戸ガラスどを通して、秋の朝日がかんかん差し込んでいた。その硝子戸ごしに岩だか土堤どてだかの片影を、近く頭の上に見上げた彼は、全身を温泉けながら、いかに浴槽よくそうの位置が、大地の平面以下に切り下げられているかを発見した。そうしてこのがけと自分のいる場所との間には、高さから云ってずいぶんの相違があると思った。彼は目分量でその距離を一間半乃至ないし二間と鑑定した後で、もしこの下にも古い風呂場があるとすれば、段々が一つ家のうちに幾層もあるはずだという事に気がついた。崖の上には石蕗つわがあった。あいにくそこに朝日が射していないので、時々風に揺れる硬く光った葉の色が、いかにも寒そうに見えた。山茶花さざんかの花の散って行く様も湯壺ゆつぼから眺められた。けれども景色は断片的であった。硝子戸の長さの許す二尺以外は、上下とも全く津田の眼に映らなかった。不可知な世界は無論平凡にちがいなかった。けれどもそれがなぜだか彼の好奇心をそそった。すぐ崖のそばへ来て急に鳴き出したらしいひよどりも、声がきこえるだけで姿の見えないのが物足りなかった。しかしそれはほんのつけたりの物足りなさであった。実を云うと、津田は腹のうちではるかそれ以上気にかかる事件をかえしていたので、彼は風呂場へ下りた時からすでにある不足を暗々あんあんのうちに感じなければならなかった。明るい浴室に人影一つ見出みいださなかった彼は、万事君の跋扈ばっこに任せるといった風に寂寞せきばくきわめた建物の中に立って、廊下の左右に並んでいる小さい浴槽の戸を、念のため一々開けて見た。もっともこれはそのうちの一つの入口に、スリッパーが脱ぎててあったのが、彼に或暗示を与えたので、それが機縁になって、彼を動かした所作しょさに過ぎないとも云えば云えない事もなかった。だから順々に戸を開けた手の番が廻って来て、いよいよスリッパーの前にられた戸にかかった時、彼は急に躊躇ちゅうちょした。彼はもとより無心ではなかった。その上失礼という感じがどこかで手伝った。仕方なしに外部そとから耳をそばだてたけれども、中はしんとしているので、それにいきおいを得た彼の手は、思い切ってがらりと戸を開ける事ができた。そうしてほかと同じように空虚な浴室が彼の前に見出された時に、まあよかったという感じと、何だつまらないという失望が一度に彼の胸に起った。すでに裸になって、湯壺ゆつぼの中につかったあとの彼には、この引続きから来る一種の予期が絶えず働らいた。彼は苦笑しながら、昨夕ゆうべ今朝けさの間に自分の経過した変化を比較した。昨夕の彼は丸髷まるまげの女に驚ろかされるまではむしろ無邪気であった。今朝の彼はまだ誰も来ないうちから一種の待ち設けのために緊張を感じていた。それはぬしのないスリッパーにそそのかされた罪かも知れなかった。けれどもスリッパーがなぜ彼を唆のかしたかというと、寝起ねおきに横浜の女と番頭のうわさにのぼった清子の消息をかされたからであった。彼女はまだ起きていなかった。少くともまだ湯に入っていなかった。もし入るとすれば今入っているか、これから入りに来るかどっちかでなければならなかった。鋭敏な彼の耳は、ふと誰か階段を下りて来るような足音を聴いた。彼はすぐじゃぶじゃぶやる手をめた。すると足音は聴えなくなった。しかし気のせいかいったんとまったその足音が今度は逆に階段をのぼって行くように思われた。彼はその源因を想像した。ひとの例にならって、自分のスリッパーを戸の前に脱ぎてておいたのが悪くはなかったろうかと考えた。なぜそれを浴室の中まで穿き込まなかったのだろうかという後悔さえきざした。しばらくして彼はまた意外な足音を今度は浴槽よくそうの外側に聞いた。それは彼が石蕗つわの花を眺めたあと鵯鳥ひよどりの声をいた前であった。彼の想像はすぐ前後の足音を結びつけた。風呂場を避けた前の足音の主が、わざと外へ出たのだという解釈が容易に彼に与えられた。するとたちまち女の声がした。しかしそれは足音と全く別な方角から来た。下から見上げた外部の様子によって考えると、がけの上は幾坪かの平地ひらちで、その平地を前に控えた一棟ひとむねの建物が、風呂場の方を向いて建てられているらしく思われた。何しろ声はそっちの見当から来た。そうしてその主は、たしかに先刻さっき散歩の帰りに番頭と清子の話をした女であった。昨夕湯気を抜くためにかされたひさしの下の硝子戸ガラスどが今日はて切られているので、彼女の言葉は明かに津田の耳に入らなかった。けれども語勢その他から推して、一事はたしかであった。彼女はがけの上から崖の下へ向けて話しかけていた。だから順序を云えば、崖の下からも是非こたえの挨拶あいさつが出なければならないはずであった。ところが意外にもその方はまるで音沙汰おとさたなしで、互い違いに起る普通の会話はけっして聴かれなかった。しゃべる方はただ崖の上に限られていた。その代り足音だけは先刻のようにとまらなかった。疑いもなく一人の女が庭下駄で不規則な石段を踏んで崖をのぼって行った。それが上り切ったと思う頃に、足を運ぶ女のすそが硝子戸の上部の方に少し現われた。そうしてすぐ消えた。津田の眼に残った瞬間の印象は、ただうつくしい模様のひるがえる様であった。彼は動き去ったその模様のうちに、昨夕階段の下から見たと同じ色を認めたような気がした。

百八十

へやに帰って朝食あさめしの膳に着いた時、彼は給仕の下女と話した。「浜のお客さんのいる所は、新らしい風呂場から見える崖の上だろう」「ええ。あちらへ行って御覧になりましたか」「いいや、おおかたそうだろうと思っただけさ」「よく当りましたね。ちとお遊びにいらっしゃいまし、旦那も奥さんも面白い方です。退屈だ退屈だって毎日困ってらっしゃるんです」「よっぽど長くいるのかい」「ええもう十日ばかりになるでしょう」「あれだね、義太夫をやるってえのは」「ええ、よく御存じですね、もうおきになりましたか」「まだだよ。ただ勝さんに教わっただけだ」彼が聴くがままに、二人についての知識を惜気おしげもなく供給した下女は、それでも分も心得ていた。急所へ来るとわざと津田の問をはずした。「時にあの女の人はいったい何だね」「奥さんですよ」「本当の奥さんかね」「ええ、本当の奥さんでしょう」と云った彼女は笑い出した。「まさかうその奥さんてのもないでしょう、なぜですか」「なぜって、素人しろうとにしちゃあんまり粋過いきすぎるじゃないか」下女は答える代りに、突然清子を引合ひきあいに出した。「もう一人奥にいらっしゃる奥さんの方がお人柄ひとがらです」間取まどりの関係から云って、清子のへやは津田のうしろ二人づれの座敷は津田の前に当った。両方の中間に自分を見出みいだした彼はようやく首肯うなずいた。「するとちょうど真中辺まんなかへんだね、ここは」真中でも室が少し折れ込んでいるので、両方の通路にはなっていなかった。「その奥さんとあの二人のお客とは友達なのかい」「ええ御懇意です」「元から?」「さあどうですか、そこはよく存じませんが、――おおかたここへいらしってからお知合におなんなすったんでしょう。始終しじゅう行ったり来たりしていらっしゃいます、両方ともおひまなもんですから。昨日きのうも公園へいっしょにお出かけでした」津田は問題を取り逃がさないようにした。「その奥さんはなぜ一人でいるんだね」「少し身体からだがお悪いんです」旦那だんなさんは」「いらっしゃる時は旦那さまもごいっしょでしたが、すぐお帰りになりました」いてきぼりか、そりゃひどいな。それっきり来ないのかい」「何でも近いうちにまたいらっしゃるとかいう事でしたが、どうなりましたか」「退屈だろうね、奥さんは」「ちと話しに行って、お上げになったらいかがです」「話しに行ってもいいかね、後で聴いといてくれたまえ」「へえ」と答えた下女はにやにや笑うだけで本気にしなかった。津田はまたいた。「何をして暮しているのかね、その奥さんは」「まあお湯に入ったり、散歩をしたり、義太夫を聴かされたり、――時々は花なんかおけになります、それから夜よく手習をしていらっしゃいます」「そうかい。本は?」「本もお読みになるでしょう」と中途半端に答えた彼女は、津田の質問があまり煩瑣はんさにわたるので、とうとうあははと笑い出した。津田はようやく気がついて、少し狼狽あわてたように話をらせた。「今朝風呂場へスリッパーを忘れていったものがあるね、ふさがってるのかと思ってはじめは遠慮していたが、開けて見たら誰もいなかったよ」「おやそうですか、じゃまたあの先生でしょう」先生というのは書の専門家であった。方々にかかっている額や看板でその落欵らっかんを覚えていた津田は「へええ」と云った。「もう年寄だろうね」「ええおじいさんです。こんなに白いひげを生やして」下女は胸のあたりへ自分の手をやって書家に相応ふさわしい髯の長さを形容して見せた。「なるほど。やっぱり字を書いてるのかい」「ええ何だかお墓に彫りつけるんだって、大変大きなものを毎日少しずつ書いていらっしゃいます」書家はその墓碑銘を書くのが目的で、わざわざここへ来たのだと下女からかされた時、津田は驚ろいて感心した。「あんなものを書くのにも、そんなに骨が折れるのかなあ。素人しろうとは半日ぐらいで、すぐ出来上りそうに考えてるんだが」この感想は全く下女に響かなかった。しかし津田の胸には口へ出して云わないそれ以上の或物さえあった。彼はあんにこの老先生の用向ようむきと自分の用向とを見較みくらべた。無事に苦しんで義太夫の稽古けいこをするという浜の二人をさらにそのかたわらに並べて見た。それから何の意味とも知れず花を活けたり手習をしたりするらしい清子も同列に置いて考えた。最後に、残る一人の客、その客は話もしなければ運動もせず、ただぽかんと座敷にすわって山を眺めているという下女の観察を聴いた時、彼は云った。「いろんな人がいるんだね。五六人寄ってさえこうなんだから。夏や正月になったら大変だろう」「いっぱいになるとどうしても百三四十人は入りますからね」津田の意味をよく了解しなかったらしい下女は、ただ自分達の最も多忙をきわめなければならない季節に、このうちんでくる客の人数にんずを挙げた。

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