百八十五
こんな場合にどっちが先へ口を利き出すだろうか、もし相手がお延だとすると、事実は考えるまでもなく明暸であった。彼女は津田に一寸の余裕も与えない女であった。その代り自分にも五分の寛ぎさえ残しておく事のできない性質に生れついていた。彼女はただ随時随所に精一杯の作用をほしいままにするだけであった。勢い津田は始終受身の働きを余儀なくされた。そうして彼女に応戦すべく緊張の苦痛と努力の窮屈さを甞めなければならなかった。ところが清子を前へ据えると、そこに全く別種の趣が出て来た。段取は急に逆になった。相撲で云えば、彼女はいつでも津田の声を受けて立った。だから彼女を向うへ廻した津田は、必ず積極的に作用した。それも十が十まで楽々とできた。二人取り残された時の彼は、取り残された後で始めてこの特色に気がついた。気がつくと昔の女に対する過去の記憶がいつの間にか蘇生していた。今まで彼の予想しつつあった手持無沙汰の感じが、ちょうどその手持無沙汰の起らなければならないと云う間際へ来て、不思議にも急に消えた。彼は伸び伸びした心持で清子の前に坐っていた。そうしてそれは彼が彼女の前で、事件の起らない過去に経験したものと大して変っていなかった。少くとも同じ性質のものに違ないという自覚が彼の胸のうちに起った。したがって談話の途切れた時積極的に動き始めたものは、昔の通り彼であった。しかも昔しの通りな気分で動けるという事自身が、彼には思いがけない満足になった。「関君はどうしました。相変らず御勉強ですか。その後御無沙汰をしていっこうお目にかかりませんが」津田は何の気もつかなかった。会話の皮切に清子の夫を問題にする事の可否は、利害関係から見ても、今日まで自分ら二人の間に起った感情の行掛り上から考えても、またそれらの纏綿した情実を傍に置いた、自然不自然の批判から云っても、実は一思案しなければならない点であった。それを平生の細心にも似ず、一顧の掛念さえなく、ただ無雑作に話頭に上せた津田は、まさに居常お延に対する時の用意を取り忘れていたに違なかった。しかし相手はすでにお延でなかった。津田がその用心を忘れても差支えなかったという証拠は、すぐ清子の挨拶ぶりで知れた。彼女は微笑して答えた。「ええありがとう。まあ相変らずです。時々二人してあなたのお噂を致しております」「ああそうですか。僕も始終忙がしいもんですから、方々へ失礼ばかりして……」「良人も同なじよ、あなた。近頃じゃ閑暇な人は、まるで生きていられないのと同なじ事ね。だから自然御互いに遠々しくなるんですわ。だけどそれは仕方がないわ、自然の成行だから」「そうですね」こう答えた津田は、「そうですね」という代りに「そうですか」と訊いて見たいような気がした。「そうですか、ただそれだけで疎遠になったんですか。それがあなたの本音ですか」という詰問はこの時すでに無言の文句となって彼の腹の中に蔵れていた。しかも彼はほとんど以前と同じように単純な、もしくは単純とより解釈のできない清子を眼前に見出した。彼女の態度には二人の間に関を話題にするだけの余裕がちゃんと具っていた。それを口にして苦にならないほどの淡泊さが現われていた。ただそれは津田の暗に予期して掛ったところのもので、同時に彼のかつて予想し得なかったところのものに違なかった。昔のままの女主人公に再び会う事ができたという満足は、彼女がその昔しのままの鷹揚な態度で、関の話を平気で津田の前にし得るという不満足といっしょに来なければならなかった。「どうしてそれが不満足なのか」津田は面と向ってこの質問に対するだけの勇気がなかった。関が現に彼女の夫である以上、彼は敬意をもって彼女のこの態度を認めなければならなかった。けれどもそれは表通りの沙汰であった。偶然往来を通る他人のする批評に過ぎなかった。裏には別な見方があった。そこには無関心な通りがかりの人と違った自分というものが頑張っていた。そうしてその自分に「私」という名を命ける事のできなかった津田は、飽くまでもそれを「特殊な人」と呼ぼうとしていた。彼のいわゆる特殊な人とはすなわち素人に対する黒人であった。無知者に対する有識者であった。もしくは俗人に対する専門家であった。だから通り一遍のものより余計に口を利く権利をもっているとしか、彼には思えなかった。表で認めて裏で首肯わなかった津田の清子に対する心持は、何かの形式で外部へ発現するのが当然であった。
百八十六
「昨夕は失礼しました」津田は突然こう云って見た。それがどんな風に相手を動かすだろうかというのが、彼の覘いどころであった。「私こそ」清子の返事はすらすらと出た。そこに何の苦痛も認められなかった時に津田は疑った。「この女は今朝になってもう夜の驚ろきを繰り返す事ができないのかしら」もしそれを憶い起す能力すら失っているとすると、彼の使命は善にもあれ悪にもあれ、はかないものであった。「実はあなたを驚ろかした後で、すまない事をしたと思ったのです」「じゃ止して下さればよかったのに」「止せばよかったのです。けれども知らなければ仕方がないじゃありませんか。あなたがここにいらっしゃろうとは夢にも思いがけなかったのですもの」「でも私への御土産を持って、わざわざ東京から来て下すったんでしょう」「それはそうです。けれども知らなかった事も事実です。昨夕は偶然お眼にかかっただけです」「そうですか知ら」故意を昨夕の津田に認めているらしい清子の口吻が、彼を驚ろかした。「だって、わざとあんな真似をする訳がないじゃありませんか、なんぼ僕が酔興だって」「だけどあなたはだいぶあすこに立っていらしったらしいのね」津田は水盤に溢れる水を眺めていたに違なかった。姿見に映るわが影を見つめていたに違なかった。最後にそこにある櫛を取って頭まで梳いてぐずぐずしていたに違なかった。「迷児になって、行先が分らなくなりゃ仕方がないじゃありませんか」「そう。そりゃそうね。けれども私にはそう思えなかったんですもの」「僕が待ち伏せをしていたとでも思ってるんですか、冗談じゃない。いくら僕の鼻が万能だって、あなたの湯泉に入る時間まで分りゃしませんよ」「なるほど、そりゃそうね」清子の口にしたなるほどという言葉が、いかにもなるほどと合点したらしい調子を帯びているので、津田は思わず吹き出した。「いったい何だって、そんな事を疑っていらっしゃるんです」「そりゃ申し上げないだって、お解りになってるはずですわ」「解りっこないじゃありませんか」「じゃ解らないでも構わないわ。説明する必要のない事だから」津田は仕方なしに側面から向った。「それでは、僕が何のためにあなたを廊下の隅で待ち伏せていたんです。それを話して下さい」「そりゃ話せないわ」「そう遠慮しないでもいいから、是非話して下さい」「遠慮じゃないのよ、話せないから話せないのよ」「しかし自分の胸にある事じゃありませんか。話そうと思いさえすれば、誰にでも話せるはずだと思いますがね」「私の胸に何にもありゃしないわ」単純なこの一言は急に津田の機鋒を挫いた。同時に、彼の語勢を飛躍させた。「なければどこからその疑いが出て来たんです」「もし疑ぐるのが悪ければ、謝まります。そうして止します」「だけど、もう疑ったんじゃありませんか」「だってそりゃ仕方がないわ。疑ったのは事実ですもの。その事実を白状したのも事実ですもの。いくら謝まったってどうしたって事実を取り消す訳には行かないんですもの」「だからその事実を聴かせて下さればいいんです」「事実はすでに申し上げたじゃないの」「それは事実の半分か、三分一です。僕はその全部が聴きたいんです」「困るわね。何といってお返事をしたらいいんでしょう」「訳ないじゃありませんか、こういう理由があるから、そういう疑いを起したんだって云いさえすれば、たった一口で済んじまう事です」今まで困っていたらしい清子は、この時急に腑に落ちたという顔つきをした。「ああ、それがお聴きになりたいの」「無論です。先刻からそれが伺いたければこそ、こうしてしつこくあなたを煩わせているんじゃありませんか。それをあなたが隠そうとなさるから――」「そんならそうと早くおっしゃればいいのに、私隠しも何にもしませんわ、そんな事。理由は何でもないのよ。ただあなたはそういう事をなさる方なのよ」「待伏せをですか」「ええ」「馬鹿にしちゃいけません」「でも私の見たあなたはそういう方なんだから仕方がないわ。嘘でも偽りでもないんですもの」「なるほど」津田は腕を拱いて下を向いた。
百八十七
しばらくして津田はまた顔を上げた。「何だか話が議論のようになってしまいましたね。僕はあなたと問答をするために来たんじゃなかったのに」清子は答えた。「私にもそんな気はちっともなかったの。つい自然そこへ持って行かれてしまったんだから故意じゃないのよ」「故意でない事は僕も認めます。つまり僕があんまりあなたを問いつめたからなんでしょう」「まあそうね」清子はまた微笑した。津田はその微笑のうちに、例の通りの余裕を認めた時、我慢しきれなくなった。「じゃ問答ついでに、もう一つ答えてくれませんか」「ええ何なりと」清子はあらゆる津田の質問に応ずる準備を整えている人のような答えぶりをした。それが質問をかけない前に、少なからず彼を失望させた。「何もかももう忘れているんだ、この人は」こう思った彼は、同時にそれがまた清子の本来の特色である事にも気がついた。彼は駄目を押すような心持になって訊いた。「しかし昨夕階子段の上で、あなたは蒼くなったじゃありませんか」「なったでしょう。自分の顔は見えないから分りませんけれども、あなたが蒼くなったとおっしゃれば、それに違ないわ」「へえ、するとあなたの眼に映ずる僕はまだ全くの嘘吐でもなかったんですね、ありがたい。僕の認めた事実をあなたも承認して下さるんですね」「承認しなくっても、実際蒼くなったら仕方がないわ、あなた」「そう。――それから硬くなりましたね」「ええ、硬くなったのは自分にも分っていましたわ。もう少しあのままで我慢していたら倒れたかも知れないと思ったくらいですもの」「つまり驚ろいたんでしょう」「ええずいぶん吃驚したわ」「それで」と云いかけた津田は、俯向加減になって鄭寧に林檎の皮を剥いている清子の手先を眺めた。滴るように色づいた皮が、ナイフの刃を洩れながら、ぐるぐると剥けて落ちる後に、水気の多そうな薄蒼い肉がしだいに現われて来る変化は彼に一年以上経った昔を憶い起させた。「あの時この人は、ちょうどこういう姿勢で、こういう林檎を剥いてくれたんだっけ」ナイフの持ち方、指の運び方、両肘を膝とすれすれにして、長い袂を外へ開いている具合、ことごとくその時の模写であったうちに、ただ一つ違うところのある点に津田は気がついた。それは彼女の指を飾る美くしい二個の宝石であった。もしそれが彼女の結婚を永久に記念するならば、そのぎらぎらした小さい光ほど、津田と彼女の間を鋭どく遮ぎるものはなかった。柔婉に動く彼女の手先を見つめている彼の眼は、当時を回想するうっとりとした夢の消息のうちに、燦然たる警戒の閃めきを認めなければならなかった。彼はすぐ清子の手から眼を放して、その髪を見た。しかし今朝下女が結ってやったというその髪は通例の庇であった。何の奇も認められない黒い光沢が、櫛の歯を入れた痕を、行儀正しく竪に残しているだけであった。津田は思い切って、いったん捨てようとした言葉をまた取り上げた。「それで僕の訊きたいのはですね――」清子は顔を上げなかった。津田はそれでも構わずに後を続けた。「昨夕そんなに驚ろいたあなたが、今朝はまたどうしてそんなに平気でいられるんでしょう」清子は俯向いたまま答えた。「なぜ」「僕にゃその心理作用が解らないから伺うんです」清子はやっぱり津田を見ずに答えた。「心理作用なんてむずかしいものは私にも解らないわ。ただ昨夕はああで、今朝はこうなの。それだけよ」「説明はそれだけなんですか」「ええそれだけよ」もし芝居をする気なら、津田はここで一つ溜息を吐くところであった。けれども彼には押し切ってそれをやる勇気がなかった。この女の前にそんな真似をしても始まらないという気が、技巧に走ろうとする彼をどことなく抑えつけた。「しかしあなたは今朝いつもの時間に起きなかったじゃありませんか」清子はこの問をかけるや否や顔を上げた。「あらどうしてそんな事を御承知なの」「ちゃんと知ってるんです」清子はちょっと津田を見た眼をすぐ下へ落した。そうして綺麗に剥いた林檎に刃を入れながら答えた。「なるほどあなたは天眼通でなくって天鼻通ね。実際よく利くのね」冗談とも諷刺とも真面目とも片のつかないこの一言の前に、津田は退避いだ。清子はようやく剥き終った林檎を津田の前へ押しやった。「あなたいかが」
百八十八
津田は清子の剥いてくれた林檎に手を触れなかった。「あなたいかがです、せっかく吉川の奥さんがあなたのためにといって贈ってくれたんですよ」「そうね、そうしてあなたがまたわざわざそれをここまで持って来て下すったんですね。その御親切に対してもいただかなくっちゃ悪いわね」清子はこう云いながら、二人の間にある林檎の一片を手に取った。しかしそれを口へ持って行く前にまた訊いた。「しかし考えるとおかしいわね、いったいどうしたんでしょう」「何がどうしたんです」「私吉川の奥さんにお見舞をいただこうとは思わなかったのよ。それからそのお見舞をまたあなたが持って来て下さろうとはなおさら思わなかったのよ」津田は口のうちで「そうでしょう、僕でさえそんな事は思わなかったんだから」と云った。その顔をじっと見守った清子の眼に、判然した答を津田から待ち受けるような予期の光が射した。彼はその光に対する特殊な記憶を呼び起した。「ああこの眼だっけ」二人の間に何度も繰り返された過去の光景が、ありありと津田の前に浮き上った。その時分の清子は津田と名のつく一人の男を信じていた。だからすべての知識を彼から仰いだ。あらゆる疑問の解決を彼に求めた。自分に解らない未来を挙げて、彼の上に投げかけるように見えた。したがって彼女の眼は動いても静であった。何か訊こうとするうちに、信と平和の輝きがあった。彼はその輝きを一人で専有する特権をもって生れて来たような気がした。自分があればこそこの眼も存在するのだとさえ思った。二人はついに離れた。そうしてまた会った。自分を離れた以後の清子に、昔のままの眼が、昔と違った意味で、やっぱり存在しているのだと注意されたような心持のした時、津田は一種の感慨に打たれた。「それはあなたの美くしいところです。けれどももう私を失望させる美しさに過ぎなくなったのですか。判然教えて下さい」津田の疑問と清子の疑問が暫時視線の上で行き合った後、最初に眼を引いたものは清子であった。津田はその退き方を見た。そうしてそこにも二人の間にある意気込の相違を認めた。彼女はどこまでも逼らなかった。どうでも構わないという風に、眼をよそへ持って行った彼女は、それを床の間に活けてある寒菊の花の上に落した。眼で逃げられた津田は、口で追かけなければならなかった。「なんぼ僕だってただ吉川の奥さんの使に来ただけじゃありません」「でしょう、だから変なのよ」「ちっとも変な事はありませんよ。僕は僕で独立してここへ来ようと思ってるところへ、奥さんに会って、始めてあなたのここにいらっしゃる事を聴かされた上に、ついお土産まで頼まれちまったんです」「そうでしょう。そうでもなければ、どう考えたって変ですからね」「いくら変だって偶然という事も世の中にはありますよ。そうあなたのように……」「だからもう変じゃないのよ。訳さえ伺えば、何でも当り前になっちまうのね」津田はつい「こっちでもその訳を訊きに来たんだ」と云いたくなった。しかし何にもそこに頓着していないらしい清子の質問は正直であった。「それであなたもどこかお悪いの」津田は言葉少なに病気の顛末を説明した。清子は云った。「でも結構ね、あなたは。そういう時に会社の方の御都合がつくんだから。そこへ行くと良人なんか気の毒なものよ、朝から晩まで忙がしそうにして」「関君こそ酔興なんだから仕方がない」「可哀想に、まさか」「いや僕のいうのは善い意味での酔興ですよ。つまり勉強家という事です」「まあ、お上手だ事」この時下から急ぎ足で階子段を上って来る草履の音が聴えたので、何か云おうとした津田は黙って様子を見た。すると先刻とは違った下女がそこへ顔を出した。「あの浜のお客さまが、奥さまにお午から滝の方へ散歩においでになりませんか、伺って来いとおっしゃいました」「お供しましょう」清子の返事を聴いた下女は、立ち際に津田の方を見ながら「旦那様もいっしょにいらっしゃいまし」と云った。「ありがとう。時にもうお午なのかい」「ええただいま御飯を持って参ります」「驚ろいたな」津田はようやく立ち上った。「奥さん」と云おうとして、云い損なった彼はつい「清子さん」と呼び掛けた。「あなたはいつごろまでおいでです」「予定なんかまるでないのよ。宅から電報が来れば、今日にでも帰らなくっちゃならないわ」津田は驚ろいた。「そんなものが来るんですか」「そりゃ何とも云えないわ」清子はこう云って微笑した。津田はその微笑の意味を一人で説明しようと試みながら自分の室に帰った。――未完――

