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明暗・夏目漱石

朗読者: VOICEVOX Nemo / ノーマルこの朗読者の公開朗読はまだない / 朗読停止中

三十七

先刻さっきから二人の様子を眺めていた下女が、いきなり来て、わざとらしく食卓テーブルの上を片づけ始めた。それを相図のように、インヴァネスを着た男がすうと立ち上った。うに酒をやめて、ただ話ばかりしていた二人も澄ましている訳に行かなかった。津田は機会をとらえてすぐ腰を上げた。小林は椅子を離れる前に、まず彼らの間に置かれたM・C・C・の箱を取った。そうしてその中からまた新らしい金口きんぐちを一本出してそれに火をけた。行きがけの駄賃だちんらしいこの所作しょさが、煙草たばこの箱を受け取ってたもとへ入れる津田の眼を、皮肉にくすぐったくした。時刻はそれほどでなかったけれども、秋のの往来は意外にけやすかった。昼は耳につかない一種の音を立てて電車が遠くの方を走っていた。別々の気分に働らきかけられている二人の黒い影が、まだ離れずに河のふちをつたって動いて行った。「朝鮮へはいつ頃行くんだね」「ことによると君の病院へいっているうちかも知れない」「そんなに急に立つのか」「いやそうとも限らない。もう一遍先生が向うの主筆に会ってくれてからでないと、判然はっきりした事は分らないんだ」「立つ日がかい、あるいは行く事がかい」「うん、まあ――」彼の返事は少し曖昧あいまいであった。津田がそれを追究ついきゅうもしないで、さっさと行き出した時、彼はまた云い直した。「実を云うと、僕は行きたくもないんだがなあ」「藤井の叔父が是非行けとでも云うのかい」「なにそうでもないんだ」「じゃしたらいいじゃないか」津田の言葉は誰にでも解り切った理窟りくつなだけに、同情にえていそうな相手の気分を残酷に射貫いぬいたと一般であった。数歩ののち小林は突然津田の方を向いた。「津田君、僕はさむしいよ」津田は返事をしなかった。二人はまた黙って歩いた。浅い河床かわどこの真中を、少しばかり流れている水が、ぼんやり見える橋杭はしぐいの下で黒く消えて行く時、かすかに音を立てて、電車の通る相間あいま相間に、ちょろちょろと鳴った。「僕はやっぱり行くよ。どうしても行った方がいいんだからね」「じゃ行くさ」「うん、行くとも。こんな所にいて、みんなに馬鹿にされるより、朝鮮か台湾に行った方がよっぽど増しだ」彼の語気は癇走かんばしっていた。津田は急に穏やかな調子を使う必要を感じた。「あんまりそう悲観しちゃいけないよ。年歯としさえ若くって身体からださえ丈夫なら、どこへ行ったって立派に成効せいこうできるじゃないか。――君が立つ前一つ送別会を開こう、君を愉快にするために」今度は小林の方がいい返事をしなかった。津田は重ねてばつを合せる態度に出た。「君が行ったらおきんさんの結婚する時困るだろう」小林は今まで頭のなかになかった妹の事を、はっと思い出した人のように津田を見た。「うん、あいつも可哀相かわいそうだけれども仕方がない。つまりこんなやくざな兄貴あにきをもったのが不仕合せだと思って、あきらめて貰うんだ」「君がいなくったって、叔父や叔母がどうかしてくれるんだろう」「まあそんな事になるよりほかに仕方がないからな。でなければこの結婚を断って、いつまでも下女代りに、先生のうちで使って貰うんだが、――そいつはまあどっちにしたって同じようなもんだろう。それより僕はまだ先生に気の毒な事があるんだ。もし行くとなると、先生から旅費を借りなければならないからね」「向うじゃくれないのか」「くれそうもないな」「どうにかして出させたら好いだろう」「さあ」一分ばかりの沈黙を破った時、彼はまたひとごとのように云った。「旅費は先生から借りる、外套がいとうは君から貰う、たった一人の妹はいてきぼりにする、世話はないや」これがその晩小林の口から出た最後の台詞せりふであった。二人はついに分れた。津田はあとをも見ずにさっさと宅の方へ急いだ。

三十八

彼の門はいつもの通りまっていた。彼はくぐへ手をかけた。ところが今夜はその潜り戸もまたかなかった。立てつけの悪いせいかと思って、二三度やり直したあげく、力任せに戸を引いた時、ごとりという重苦しいかきがねの抵抗力を裏側に聞いた彼はようやく断念した。彼はこの予想外の出来事に首を傾けて、しばらく戸の前に佇立たたずんだ。新らしい世帯を持ってから今日こんにちに至るまで、一度も外泊したおぼえのない彼は、たまに夜遅く帰る事があっても、まだこうした経験には出会わなかったのである。今日きょうの彼は灯点ひともし頃から早く宅へ帰りたがっていた。叔父の家で名ばかりの晩飯を食ったのも仕方なしに食ったのであった。進みもしない酒を少し飲んだのも小林に対する義理に過ぎなかった。夕方以後の彼は、むしろおのぶ面影おもかげを心におきながら外で暮していた。その薄ら寒い外から帰って来た彼は、ちょうど暖かい家庭の灯火ともしびを慕って、それを目標めあてに足を運んだのと一般であった。彼の身体からだ土塀どべいに行き当った馬のようにとまると共に、彼の期待も急に門前で喰いとめられなければならなかった。そうしてそれを喰いとめたものがお延であるか、偶然であるかは、今の彼にとってけっして小さな問題でなかった。彼は手をげてかないくぐをとんとんと二つたたいた。「ここを開けろ」というよりも「ここをなぜめた」といって詰問するような音が、わたりつつある往来の暗がりに響いた。すると内側ですぐ「はい」という返事がした。ほとんど反響に等しいくらい早く彼の鼓膜を打ったその声のぬしは、下女でなくてお延であった。急に静まり返った彼は戸の此方側こちらがわで耳を澄ました。用のある時だけ使う事にしてある玄関先の電灯のスウィッチをひねる音が明らかに聞こえた。格子こうしがすぐがらりと開いた。入口の開き戸がまだててない事はたしかであった。「どなた?」潜りのすぐ向う側まで来た足音がまると、お延はまずこう云って誰何すいかした。彼はなおの事き込んだ。「早く開けろ、おれだ」お延は「あらッ」と叫んだ。「あなただったの。御免遊ごめんあそばせ」ごとごと云わしてかきがねはずした後で夫を内へ入れた彼女はいつもより少しあおい顔をしていた。彼はすぐ玄関から茶の間へ通り抜けた。茶の間はいつもの通りきちんと片づいていた。鉄瓶てつびんが約束通り鳴っていた。長火鉢ながひばちの前には、例によって厚いメリンスの座蒲団ざぶとんが、彼の帰りを待ち受けるごとくに敷かれてあった。お延の坐りつけたそのむこうには、彼女の座蒲団のほかに、女持の硯箱すずりばこが出してあった。青貝で梅の花を散らした螺鈿らでんふたわきけられて、梨地なしじの中にんだ小さな硯がつやつやとれていた。持主が急いで座を立った証拠しょうこに、細い筆の穂先が、巻紙の上へ墨をにじませて、七八寸書きかけた手紙の末をけがしていた。戸締とじまりをして夫のあとから入ってきたお延は寝巻ねまきの上へ平生着ふだんぎの羽織を引っかけたままそこへぺたりと坐った。「どうもすみません」津田は眼を上げて柱時計を見た。時計は今十一時を打ったばかりのところであった。結婚後彼がこのくらいな刻限に帰ったのは、例外にしたところで、けっして始めてではなかった。「何だって締め出しなんか喰わせたんだい。もう帰らないとでも思ったのか」「いいえ、さっきから、もうお帰りか、もうお帰りかと思って待ってたの。しまいにあんまりさむしくってたまらなくなったから、とうとううちへ手紙を書き出したの」お延の両親は津田の父母と同じように京都にいた。津田は遠くからその書きかけの手紙を眺めた。けれどもまだ納得なっとくができなかった。「待ってたものがなんで門なんか締めるんだ。物騒ぶっそうだからかね」「いいえ。――あたし門なんか締めやしないわ」「だってげんに締まっていたじゃないか」とき昨夕ゆうべ締めっ放しにしたまんまなのよ、きっと。いやな人」こう云ったお延はいつもする癖の通り、ぴくぴく彼女のまゆを動かして見せた。日中用のないくぐかきがねを、はずし忘れたという弁解は、けっして不合理なものではなかった。「時はどうしたい」「もう先刻さっき寝かしてやったわ」下女を起してまで責任者を調べる必要を認めなかった津田は、くぐの事をそのままにして寝た。

三十九

あくる朝の津田は、顔も洗わない先から、昨夜ゆうべ寝るまで全く予想していなかった不意の観物みものによって驚ろかされた。彼の床を離れたのは九時頃であった。彼はいつもの通り玄関を抜けて茶の間から勝手へ出ようとした。すると嬋娟あでやか盛粧せいそうしたお延が澄ましてそこに坐っていた。津田ははっと思った。寝起ねおきの顔へ水をかけられたような夫の様子に満足したらしい彼女は微笑をらした。「今御眼覚おめざめ?」津田は眼をぱちつかせて、赤い手絡てがらをかけた大丸髷おおまるまげと、派出はで刺繍ぬいをした半襟はんえりの模様と、それからその真中にある化粧後けしょうごの白い顔とを、さも珍らしい物でも見るような新らしい眼つきで眺めた。「いったいどうしたんだい。朝っぱらから」お延は平気なものであった。「どうもしないわ。――だって今日はあなたがお医者様へいらっしゃる日じゃないの」昨夜遅くそこへ脱ぎ捨てて寝たはずの彼のはかまも羽織も、畳んだなり、ちゃんと取りそろえて、渋紙しぶかみの上へせてあった。「お前もいっしょに行くつもりだったのかい」「ええ無論行くつもりだわ。行っちゃ御迷惑なの」「迷惑って訳はないがね。――」津田はまた改めて細君の服装なり吟味ぎんみするように見た。「あんまりおつくりが大袈裟おおげさだからね」彼はすぐ心のうちでこの間見た薄暗い控室の光景を思い出した。そこに坐っている患者の一群ひとむれとこの着飾った若い奥様とは、とても調和すべき性質のものでなかった。「だってあなた今日は日曜よ」「日曜だって、芝居やお花見に行くのとは少し違うよ」「だってあたし……」津田に云わせれば、日曜はなおの事患者が朝から込み合うだけであった。「どうもそういうでこでこな服装なりをして、あのお医者様へ夫婦おそろいで乗り込むのは、少し――」辟易へきえき?」お延の漢語が突然津田をくすぐった。彼は笑い出した。ちょっとまゆを動かしたお延はすぐ甘垂あまったれるような口調を使った。「だってこれから着物なんか着換えるのは時間がかかって大変なんですもの。せっかく着ちまったんだから、今日はこれで堪忍かんにんしてちょうだいよ、ね」津田はとうとう敗北した。顔を洗っているとき、彼は下女にくるまを二台云いつけるお延の声を、あたかも自分がてられでもするように世話せわしなく聞いた。

普通の食事を取らない彼の朝飯あさめしはほとんど五分とかからなかった。楊枝ようじも使わないで立ち上った彼はすぐ二階へ行こうとした。「病院へ持って行くものをまとめなくっちゃ」津田の言葉と共に、お延はすぐ自分のうしろにある戸棚とだなを開けた。「ここにこしらえてあるからちょっと見てちょうだい」よそ行着ゆきぎを着た細君をいたわらなければならなかった津田は、やや重い手提鞄てさげかばんと小さな風呂敷包ふろしきづつみを、自分の手で戸棚とだなからり出した。包の中には試しにそでを通したばかりの例の褞袍どてら平絎ひらぐけ寝巻紐ねまきひも這入はいっているだけであったが、かばんの中からは、楊枝だの歯磨粉はみがきだの、使いつけたラヴェンダー色の書翰用紙しょかんようしだの、同じ色の封筒だの、万年筆だの、小さいはさみだの、毛抜だのが雑然と現われた。そのうちで一番重くて嵩張かさばった大きな洋書を取り出した時、彼はお延に云った。「これは置いて行くよ」「そう、でもいつでも机の上に乗っていて、枝折しおりはさんであるから、お読みになるのかと思って入れといたのよ」津田君は何にも云わずに、二カ月以上もかかってまだ読み切れない経済学の独逸書ドイツしょを重そうに畳の上に置いた。「寝ていて読むにゃ重くって駄目だよ」こう云った津田は、それがこの大部たいぶの書物を残して行く正当の理由であると知りながら、あまり好い心持がしなかった。「そう、本はどれがるんだか妾分らないから、あなた自分でお好きなのをってちょうだい」津田は二階から軽い小説を二三冊持って来て、経済書の代りに鞄の中へめ込んだ。

四十

天気が好いのでほろたたました二人は、かばんと風呂敷包を、各自めいめいくるまの上に一つずつ乗せて家を出た。小路こうじの角を曲って電車通りを一二丁行くと、お延の車夫が突然津田の車夫に声をかけた。俥は前後ともすぐとまった。「大変。忘れものがあるの」車上でふり返った津田は、何にも云わずに細君の顔を見守った。念入ねんいり身仕舞みじまいをした若い女の口から出る刺戟性しげきせいに富んだ言葉のために引きつけられたものは夫ばかりではなかった。車夫も梶棒かじぼうを握ったまま、等しくおのぶの方へ好奇の視線を向けた。そばを通る往来の人さえ一瞥いちべつの注意を夫婦の上へ与えないではいられなかった。「何だい。何を忘れたんだい」お延は思案するらしい様子をした。「ちょっと待っててちょうだい。すぐだから」彼女は自分の俥だけを元へ返した。ちゅうぶらりんの心的状態でそこに取り残された津田は、黙ってその後姿を見送った。いったん小路の中に隠れた俥がやがてまた現われると、はげしい速力でまた彼の待っている所までけて来た。それが彼の眼の前でとまった時、車上のお延は帯の間から一尺ばかりの鉄製のくさりを出して長くぶら下げて見せた。その鎖のはじにはがあって、環の中には大小五六個のかぎが通してあるので、鎖を高く示そうとしたお延の所作しょさと共に、じゃらじゃらという音が津田の耳に響いた。「これ忘れたの。箪笥たんすの上に置きっ放しにしたまま」夫婦以外に下女しかいない彼らの家庭では、二人そろって外出する時の用心に、大事なものにじょうおろしておいて、どっちかが鍵だけ持って出る必要があった。「お前預かっておいで」じゃらじゃらするものを再び帯の間に押し込んだお延は、平手ひらてでぽんとその上をたたきながら、津田を見て微笑した。「大丈夫」俥は再びけ出した。彼らの医者に着いたのは予定の時刻より少しおくれていた。しかしひるまでの診察時間に間に合わないほどでもなかった。夫婦して控室に並んで坐るのが苦になるので、津田は玄関を上ると、すぐ薬局の口へ行った。「すぐ二階へ行ってもいいでしょうね」薬局にいた書生は奥から見習いの看護婦を呼んでくれた。まだ十六七にしかならないその看護婦は、何の造作ぞうさもなく笑いながら津田にお辞儀じぎをしたが、傍に立っているお延の姿を見ると、少し物々しさに打たれた気味で、いったいこの孔雀くじゃくはどこから入って来たのだろうという顔つきをした。お延がせんを越して、御厄介ごやっかいになります」とこっちから挨拶あいさつをしたので、始めて気がついたように、看護婦も頭を下げた。「君、こいつを一つ持ってくれたまえ」津田は車夫から受取ったかばんを看護婦に渡して、二階のあがくちの方へ廻った。「お延こっちだ」控室の入口に立って、患者のいる部屋の中をのぞき込んでいたお延は、すぐ津田のあといて階子段はしごだんあがった。「大変陰気なへやね、あすこは」南東みなみひがしいた二階はさいわいに明るかった。障子しょうじを開けて縁側えんがわへ出た彼女は、つい鼻の先にある西洋洗濯屋の物干ものほしを見ながら、津田をかえりみた。「下と違ってここは陽気ね。そうしてちょっといいお部屋ね。畳はよごれているけれども」もと請負師うけおいしか何かの妾宅しょうたくに手を入れて出来上ったその医院の二階には、どことなくいきな昔の面影おもかげが残っていた。「古いけれどもうちの二階よりましかも知れないね」日に照らされてきらきらする白い洗濯物の色を、秋らしい気分で眺めていた津田は、こう云って、時代のために多少くすぶった天井てんじょうだの床柱とこばしらだのを見廻した。

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